愛に満ちた子
これは私が大阪市立総合医療センターの産科医として働いていた時の出来事だ。
当時私は三十三歳、研修期間を終え、専門分野として産科を選んで五年目になる。
五年などあっという間だった。数多くの症例を経験し、お母さん達と共に喜びも悲しみも共にしてきた。
私は出産後のお母さんに「元気な赤ちゃんですよ」と言うのがたまらなく愛おしく好きな時間だったのだ。
しかし、その年の冬、私は自分の医師としての価値観を根底から揺さぶられる症例に出会った。
その妊婦さんは、初診のときからどこか静かな雰囲気をまとっていた。
年齢は三十五歳で初産、細身で、声は小さいが芯の強さを感じさせる女性だった。
夫は海外出張が多く、この日も一緒ではなかった。
エコーを当てた瞬間、私は違和感を覚えた。
羊水が極端に少ない。胎児の腎臓がほとんど形成されていない。肺も十分に発達していない。
経験上、嫌な予感はすぐに確信へと変わった。
――ポッター症候群。
胎児の腎形成不全により羊水が減少し、肺が発達しない。
出生後は呼吸ができず、数分から数十分で亡くなることがほとんどだ。
私は説明を終えると、彼女はしばらく黙っていた。
涙も出さず、ただ静かに、深く息を吸い込んだ。
「……この子を産みたいです」
その言葉は、私の予想を完全に裏切った。
「しかし……生まれても、呼吸が……」
「分かっています。でも、産みたいんです」
私は言葉を失った。
医学的には、中絶を勧めるのが当然のケースだ。
高度医療の専門医に相談しても、同じ結論になるだろう。
だが彼女は、揺るがなかった。
カンファレンスでも、この症例は議論を呼んだ。
「母体のリスクもある。中絶を勧めるべきだ」
「出生後の救命は不可能だ。延命処置も意味がない」
「本人が希望しているなら、尊重すべきでは?」
私は自分の意見を述べられずにいた。
医師としての合理性と、人としての感情が衝突していた。
彼女は毎回の健診で穏やかに笑い、胎動を嬉しそうに語った。
その姿を見るたび、私は胸の奥がざわついた。
――なぜだ。
――なぜ、ここまでして産もうとする?
答えは分からなかった。
予定日より少し早く、陣痛が始まった。
夜勤明けの私はそのまま分娩室に向かった。
彼女は痛みに顔を歪めながらも、どこか落ち着いていた。
夫は海外におり、間に合わないという。
「大丈夫です。先生がいてくれますから」
その言葉に、私は胸が締めつけられた。
分娩は順調だった。
しかし、私は知っていた。
この子は生まれた瞬間から、死へ向かっていくのだと。
そして――
小さな、小さな産声とも言えない息が漏れ、赤ちゃんはこの世に姿を現した。
肺は動かない。
皮膚は薄く、体温はすぐに下がっていく。
私は赤ちゃんをタオルで包み、母親の胸にそっと置いた。
「……こんにちは。会えたね」
彼女は震える声でそう言い、赤ちゃんの頬に触れた。
その指先は優しく、しかし必死に温もりを伝えようとしていた。
赤ちゃんは、かすかに口を開いた。
呼吸ではない。ただの反射だ。
それでも彼女は微笑んだ。
「ありがとう……来てくれて……」
赤ちゃんの体は青くなり、動かなくなるまでの間、彼女は自らの子に甘く優しく愛を囁いた。
私はついに、死亡を宣告した。
分娩室には奇跡もドラマもなく、静かな悲劇だけがあった。
その夜、私は家に帰っても眠れなかった。
医師としては珍しく、感情が処理できなかった。
翌朝、病院に着くと、移植コーディネーターから連絡が入っていた。
「昨夜の赤ちゃんの件で……名古屋地域の移植チームが動きました」
「移植……?」
「はい。肝臓、心臓の一部、角膜……複数の臓器が適合し、7~8人の新生児の命が救われました」
私は言葉を失った。あの母親はわが子の遺体をドナーとして提供したのだ。
昨日まで“悲劇”としか思えなかった出来事が、一夜にして“誰かの未来をつなぐ橋”になっていた。
私は普段から赤ん坊の死は多く見ているため、感情的にならないタイプだが、それでもこの件については心に深く残った。
あの子は短い命だったが亡くなるまでずっと母親の愛を受け、別の子の命となった。
きっと愛に満ちた子に育つに違いない。




