第1話 焔花の誓い
───十年前───
あの日までは、確かに“いつも通り”だった。
夕暮れ時。
母は台所で夕食の準備をし、父は手塩にかけて育ててきた観葉植物に水を与えていた。
姉は静かに本を読み、二番目と三番目の兄は並んでテレビを見ている。
そして、一番目の兄と私は、家から徒歩十分ほどの川で遊んでいた。
ただ、いつもと少しだけ違ったことがある。
帰り際、川の中に魚を見つけたのだ。かなりの大物で、夕食のおかずにできそうだと思い、捕まえようとした。
一番目の兄は「手伝おうか」と言ってくれたが、これくらい一人で大丈夫だと答え、先に家へ帰ってもらった。
どれくらい経っただろう。
思いのほか手こずり、十分ほどその場に留まっていた。
――たった、それだけの時間。
結局取れず、諦めて帰ろうと歩き始め、五分ほど進んだところで、自分の家が視界に入る。
その瞬間、違和感を覚えた。
家が、何かに包まれている。
……なんだろう。
ひか……り?
家の目の前に立って、ようやく理解した。
――これは、炎だ。
とても静かで、炎特有の焦げた匂いは一切しなかった。
赤でも、緑でも、黄色でも、紫でもない。
それは、思わず見惚れてしまうほど美しい、真っ白な炎だった。
燃えているのに、熱さを感じない。
吸い込まれそうな感覚。
そう思った瞬間、現実に引き戻された。
「……なに、これ……」
悲鳴を上げた。
母の名を、兄の名を、姉の名を呼ぶ。
無事でいて。
ただ、それだけを願って。
私は炎を操り、玄関のドアを壊した。
叫びながら、名を呼びながら、無我夢中でリビングへ向かう。
父が大切に育てていた観葉植物は、炎に焼かれ、緑を失い、無惨に黒くなっていた。
リビングで目にしたのは、
いつも笑顔で「おかえり」と迎えてくれる家族ではなかった。
崩れ落ちる母。
テレビを見ていた兄たちは寄り添うように倒れ、姉は咄嗟に兄たちを守ろうとしたのだろう、途中で力尽きていた。
手を伸ばした、その瞬間。
私の腕の先が、白炎に触れた。
熱い。
痛い。
それは、今まで感じたことのないほど、焼けるような痛みだった。
――涙が、溢れた。
そのとき、父の姿が見えないことに気づく。
「お父さん……!」
必死に呼ぶ。
「焔花ァァーーー!!」
声が、聞こえた。
書斎の扉が開き、父が現れる。
全身を焼かれ、呼吸も荒い。それでも、その目だけははっきりと私を捉えていた。
必死に伸ばされた腕が、私を掴み、抱き寄せる。
父の手には、血に濡れ、破れた紙切れが握られていた。
「この炎について書かれている……古い本の……切れ端だ……」
震える声。
息をするたび、血が零れる。
「……え? なに……これ……」
なぜ父がこんなものを持っているのか、その時は気にも留めなかった。
紙には、走り書きの文字が残されていた。
――あの夜、白炎を見た。
――見えぬはずの魂さえ、燃えるように見えた。
「これを…国の最高…司令官に…渡しなさい…ガハッ……この炎は……きっと、国を揺るがす……」
父はもう一方の手で、小さな封筒を私に押し付けた。
中には、街外れの住所が一つだけ書かれている。
「……もしもの時の……ために……家を用意していた……使わないと……思ってたが……役に……立ったな……」
父は弱く笑った
私は、首を振った。
「やだ……一緒に行こう……!」
父が軽く首を振る
「……行け……焔花……」
力を振り絞るように、強く手を握られる。
「無理だよ…一人なんて……これからどうやって生きていけばいいの?」
私は涙ながらに必死に訴えた
「…大丈夫だ…焔花…お前は優しいから…これから先……友達が沢山出来る……大切な場所も出来るだろう……この国をもっと知りなさい……お前の生きたいのように生きなさい……焔花ならきっと大丈夫……俺たちの娘なんだから」
父が真剣な眼差しで言った。
白炎が、すぐそこまで迫っていた。
「焔花…アインを背負わなくていい」
父は、最後の力で私を突き飛ばした。
それが、父の最後の言葉だった。
突き飛ばされたと同時に走った。
私は、振り返らなかった。
振り返れなかった。
背後で、父が死んでいく姿など、見たくなかった。
ただ、走った。
涙で前が見えなくても、足がもつれても、止まればすべてが終わると、本能が叫んでいた。
――父は、理解していたのだ。
この白い炎が、ただの炎ではないことを。
この世界そのものを脅かす存在だということを。
これは、国の問題になる。アインよりも強い謎の炎があると分かったんだから。
父は優しい人だ、それは最後の言葉で全てが分かる。
背負わなくていい。これは自由にアインにとらわれなくていいという意味だと思う。
けれど、私があの紙を最高司令官に渡すことはなかった。幼い私の胸に残ったのは、父の願いではなかった。
崩れ落ちる家族の姿。
すべてを奪った、あの炎。
瞳の奥で、アインの血が揺れる。
何かが、歪む。
――許さない。
心の奥で、何かが音を立てて歪んだ。
息が震える
「復讐する」
それだけが、焔花に残された言葉だった。




