第九話「一色風香との買い物」
水曜日の放課後。
俺が講義を終えて帰ろうとしていたところ、スマホが震えた。
風香さんからのLINEだった。
『田口くん、今週末空いてる?』
空いてる。空いてるけど——
年上の美人からこんなLINEが来たら、普通ドキドキするやつだ。
『空いてますけど、どうかしましたか?』
『温室のガラスを拭く脚立が壊れちゃって。新しいの買いに行きたいんだけど、一人だと重くて持てないのよね』
なるほど。荷物持ちか。
いや待て。これは——デートでは?
買い物デートでは?
いやいや落ち着け。これはバイトだ。仕事の一環だ。デートなんかじゃない。
『バイト代出すから、手伝ってくれない?』
バイト代まで出るらしい。
バイトだ。完全にバイトだ。デートじゃない。
『もちろん行きます』
『ありがとう。じゃあ土曜日の十時に、駅前で待ち合わせね』
『わかりました』
『あ、あと』
『?』
『私服で来てね。作業着だと浮いちゃうから』
私服。
私服で駅前待ち合わせ。
……これ、デートじゃないのか?
◆
土曜日、午前十時。
俺は駅前のベンチに座っていた。
時間の十分前に着いてしまった。早すぎたか。
いつもの適当な服装——ジーンズに白のTシャツ、上に薄手のパーカー。特別なことは何もない。だって、バイトだから。
周りを見渡す。土曜の午前中ということもあって、人通りはそこそこ多い。
「田口くん」
柔らかい声が聞こえて、振り返った。
——息が止まった。
風香さんが立っていた。
白のブラウスに、ふわりと揺れる紺のロングスカート。ゆるくウェーブのかかった茶髪が風に揺れて、柔らかい香水の匂いがした。
植物園で見る「お姉さん」じゃない。
完全に「街を歩いてる美女」だ。
「おはよう。待った?」
「いえ、今来たところです」
嘘だ。1時間前から座ってた。でもこういう時は「今来たところ」と言うのがマナーだと、何かで読んだ気がする。
「そう? 良かった」
風香さんがにっこり笑う。
破壊力がすごい。
普段のエプロン姿でも十分綺麗なのに、私服姿は殺傷能力が跳ね上がっている。
「じゃあ、行きましょうか」
風香さんが俺の隣に並んだ。
近い。
距離が近い。
香水の匂いがする。甘すぎず、でも確かに「女性の匂い」だ。
俺の心臓がドクドクと鳴り始めた。
◆
ホームセンターまでは、歩いて10分ほどだった。
その間、風香さんはずっと隣を歩いていた。
「今日はいい天気ね」
「そうですね」
「買い物、久しぶりなの。一人暮らしだと、大きい物を買う機会がなくて」
「一人暮らしなんですか?」
「そうよ。もう四年くらいになるかしら」
四年。二十六歳で四年ということは、二十二歳から一人暮らしか。大学卒業と同時に、ということだろうか。
「田口くんは?」
「俺も一人暮らしです。大学入学と同時に」
「そうなの。じゃあお互い、自炊してるのね」
「いや、俺は——」
茜が作ってくれる、とは言いにくい。「妹が毎週来て作ってくれる」というのも変な話だ。
「俺は、まあ、適当にやってます」
「ふふ、男の子らしいわね」
風香さんがくすくす笑う。
その横顔が綺麗で、俺は思わず見惚れた。
「どうしたの?」
「いえ、なんでも——」
見惚れてたとか言えるか。恥ずかしすぎる。
「じっと見てたわよ?」
「いや、あの、髪に——」
何かついてた、と言おうとした。
「髪に?」
「……葉っぱが」
苦しい。苦しすぎる言い訳だ。
「あら、本当?」
風香さんが自分の髪を触る。
「もう取れちゃったみたい。ありがとう、教えてくれて」
取れてない。最初からついてない。でも風香さんは優しいから、俺の嘘に乗ってくれた。
この人、優しすぎる。
天使か?
本当に天使なのか?
◆
ホームセンターに到着した。
園芸コーナー、工具コーナー、日用品コーナー。広い店内を、風香さんと二人で歩く。
なんだろう、この状況。
普通にデートっぽい。
ホームセンターという場所がデートらしくないだけで、二人で買い物している事実は変わらない。
「脚立はこっちね」
風香さんが案内してくれる。
脚立コーナーには、様々なサイズの脚立が並んでいた。
「これくらいの高さがあれば、温室の天井も届くかしら」
風香さんが一・八メートルくらいの脚立を指差した。
「結構大きいですね」
「ガラス張りの天井を拭くから、高さが必要なのよ」
なるほど。確かに温室の天井は高かった。
「これでいいかしら。田口くん、持てる?」
「大丈夫です」
俺は脚立を持ち上げた。思ったより重い。でも、持てなくはない。
「頼もしいわね」
風香さんがにっこり笑う。
——よし。
今日の俺は、風香さんの役に立つ男だ。
「あと、剪定バサミも買いたいの。ついてきて」
「はい」
俺は脚立を抱えて、風香さんの後をついていった。
◆
園芸コーナー。
剪定バサミ、園芸用手袋、肥料、土。
風香さんは慣れた様子で商品を選んでいく。
「これと、これと……あ、じょうろも新しいのが欲しいわね」
どんどんカゴに入っていく。
俺の両腕には脚立。背中にはリュック代わりの大きな袋。
荷物持ちの本領発揮だ。
「重くない? 大丈夫?」
「大丈夫です」
嘘だ。結構重い。でも、ここで「重い」とか言ったら男がすたる。
しかし急に重さが少しなくなった。この短時間で俺の筋肉が超回復したというのか?ふと風香さんを見ると、荷物をじっと見つめていた。
「無理しないでね。お昼、奢るから」
お昼?
奢り?
「いえ、そんな——」
「バイト代とは別よ。お礼」
風香さんがウインクした。
心臓が跳ねた。
お昼を奢ってくれるらしい。つまり、買い物の後に一緒にご飯を食べるということだ。
これ、デートでは?
やっぱりデートなのでは?
◆
会計を済ませ、ホームセンターを出た。
俺は脚立と大量の園芸用品を抱えている。重い。めちゃくちゃ重い。でも、顔には出さない。
「お昼、何が食べたい?」
風香さんが聞いてきた。
「なんでもいいです」
「じゃあ、私が決めていい?」
「はい」
「イタリアンにしましょう。この近くに美味しいお店があるの」
イタリアン。
おしゃれだ。
俺みたいな陰キャが行っていい店なのだろうか。
「あ、荷物は車に置いてからね。うちの車、近くに停めてあるの」
車。風香さんは車を持っているらしい。そりゃそうか。二十六歳の社会人だ。
駅前の道路は混んでいるから、合流する前に事前に停めておいてくれたのだろう。
風香さんに案内されて、駐車場に向かう。
白のコンパクトカー。清潔感があって、風香さんらしい。
「トランク開けるわね」
荷物をトランクに積み込んだ。ようやく両腕が自由になった。肩が軽い。
「ありがとう。助かったわ」
「いえ、これくらい」
これくらいのことで感謝してもらえるなんて、こっちこそありがたい。
「じゃあ、お店に行きましょうか」
風香さんと並んで歩く。
駐車場から通りに出ると、人通りが増えた。土曜の昼前、繁華街は賑わっている。
——その時だった。
「お姉さん」
チャラい声がした。
茶髪のイケメン風の男が二人、こちらに近づいてきていた。
「うわ…近くで見ると、ヤバ綺麗じゃん。ねえ暇? よかったらご飯でもどう?」
ナンパだ。
風香さんは——にっこりと微笑んだ。
「ごめんなさいね。これから用事があるの」
完璧な断り方だ。大人だ。
でも、男たちは引き下がらなかった。
「えー、マジで? そんなこと言わないでさ」
「連れ? 弟? 弟なら待っててもらえばいいじゃん」
弟。
俺、弟に見えるのか。
いや確かに風香さんより年下だけど。
「彼氏じゃないの? ならいいじゃん」
男が俺を見て、へらへら笑った。
俺は何と言っていいかわからなかった。
風香さんを守りたい気持ちはある。でも、喧嘩になったらたぶん負ける。あいつら、俺より体格がいい。
——その時。
「あら、困ったわね」
風香さんが小さく呟いた。
その声は、いつもの穏やかなものだった。でも、どこか——冷たい。
次の瞬間——
ガタン。
通りに置いてあった看板が、突然倒れた。
「うわっ!?」
男の一人が看板に足を取られ、派手に転んだ。
「おい、大丈夫か!?」
もう一人の男が駆け寄る。
——パシャン。
上から水が降ってきた。
見上げると、二階のベランダから水が落ちている。誰かが植木に水をやっていたらしく、そのじょうろの水が——男たちの頭に直撃した。
「うわぁぁ!! 何だよ!!」
「最悪だ!! 髪がびしょびしょじゃん!!」
さすがに恥ずかしいのか、男たちが慌てて逃げていく。
……偶然だろうか。
俺は風香さんを見た。
風香さんは——にっこりと微笑んでいた。
「災難だったわね、あの人たち」
「そう……ですね」
看板が倒れたこと。水が落ちてきたこと。
全部、偶然のはずだ。偶然に違いない。
でも——風香さんの右手の人差し指が、ほんの少しだけ動いていたような気がした。
気のせいだ。きっと気のせいだ。
「さ、行きましょうか」
風香さんが歩き出す。
俺は深く考えないことにして、その後についていった。
◆
イタリアンレストラン。
想像していたより落ち着いた雰囲気の店だった。煉瓦調の壁、間接照明、観葉植物。
俺のような陰キャでも、なんとかいられる雰囲気だ。
「ここ、ランチがお得なのよ」
風香さんが席に座りながら言った。
窓際の席。向かい合って座っている。
デートだ。
完全にデートの構図だ。
いや待て。これはバイトだ。バイトの一環だ。風香さんはバイト代を払ってくれると言っていた。つまりこれは業務だ。
でも、お昼を奢ってくれるとも言っていた。
業務なのか? デートなのか?
俺の頭は混乱している。
「田口くん?」
「はい!」
思わず声が上ずった。
「何にする?」
メニューを差し出された。パスタ、ピザ、リゾット。色々ある。
「えっと……」
正直、何でもいい。風香さんと向かい合って座っているだけで、頭がまともに働いていない。
「迷ってる? じゃあ、私と同じでいい?」
「はい、それで」
即答した。
風香さんがくすくす笑う。
「即答ね。私の趣味、信用してくれてるのね」
「もちろんです」
風香さんが選ぶものなら、間違いないだろう。そういう信頼がある。
「じゃあ、ボンゴレビアンコを二つ」
店員さんに注文した後、風香さんは水を一口飲んで、俺を見た。
「今日は本当にありがとうね。一人だったら、あれ全部持てなかったわ」
「いえ、こちらこそ。バイト代まで出してもらって」
「バイト代は当然よ。重労働だもの」
風香さんがにっこり笑う。
この笑顔だ。この笑顔が、俺の心臓を殺しにかかる。
「田口くんって、本当に優しいわね」
「いえ、そんな——」
「謙遜しなくていいのよ。私、ちゃんと見てるから」
ちゃんと見てる。
その言葉に、ドキリとした。
「植物園でも、いつも頑張ってくれてるでしょう? 黙々と作業して、愚痴も言わないで」
「仕事ですから」
「そうね。でも、そういう姿勢が素敵だと思うの」
素敵。
俺が、素敵。
風香さんにそう言われると、なんだかむず痒い。嬉しいけど、恥ずかしい。
「風香さんこそ、いつもお菓子くれたり、優しくしてくれて——」
「お菓子は趣味よ。作るのが好きなの」
「そうなんですか」
「うん。一人暮らしだと、作っても食べてくれる人がいないでしょう? だから田口くんが食べてくれると嬉しいの」
そう言われると、もっとたくさん食べたくなる。
「来週も作っていこうかしら」
「ぜひ」
「何がいい? クッキー? マドレーヌ? シフォンケーキも作れるわよ」
選択肢が多い。
「なんでも好きです」
「ふふ、また即答ね」
風香さんが楽しそうに笑う。
この人と話していると、なんだか心が温かくなる。
◆
ボンゴレビアンコが運ばれてきた。
あさりの白ワイン蒸しをパスタに絡めた一品。美味そうだ。
「いただきます」
二人で手を合わせて、食べ始める。
美味い。
あさりの出汁がパスタに染み込んでいて、オリーブオイルの風味と相まって——美味い。
「どう?」
「美味いです」
「よかった」
風香さんも嬉しそうに笑って、パスタをすする。
その姿が——なんだか新鮮だった。
植物園で見る「お姉さん」とは違う。友達と食事を楽しんでいる「普通の女性」という感じ。
いや、友達じゃない。バイト先の先輩だ。
でも、今日は——そうじゃないような気もする。
「ねえ、田口くん」
「はい」
「田口くんって、妹さんがいるのよね?」
茜のことか。
「はい。高校二年生です」
「仲いいの?」
「まあ、たぶん」
仲がいいかどうか。茜は俺にダメ出しばかりするけど、毎週末にアパートに来てくれる。料理を作ってくれるし、掃除もしてくれる。それは仲がいいということだと思う。
「いいわね、兄妹」
「風香さんは、兄弟いないんですか?」
「一人っ子なの。だから、兄弟がいる人が羨ましいわ」
そう言って、風香さんは少し寂しそうに笑った。
「妹さん、どんな子?」
「えーっと……」
茜をどう説明すればいいだろう。
「優等生です。成績は学年トップで、生徒会副会長で」
「すごいわね」
「でも、俺には辛辣で」
風香さんが目を丸くした。
「辛辣?」
「毎週アパートに来て、ダメ出しばっかりするんです。『兄さんは一人じゃまともな生活ができませんから』とか」
「あらあら」
風香さんがくすくす笑う。
「それって、愛されてる証拠じゃない?」
「そうですかね……」
「心配してるから来るのよ。興味がなかったら、わざわざ来ないでしょう?」
言われてみれば、そうかもしれない。
茜が俺のアパートに来るのは、心配だからだ。放っておいたらカップ麺ばかり食べて不健康になると思っているから、わざわざ料理を作りに来てくれている。
「素敵な妹さんね」
「そうですかね」
「うん。大事にしなきゃダメよ」
風香さんが真剣な目で言った。
「兄弟って、いるのが当たり前になっちゃうでしょう? でも、当たり前じゃないの。いつまでもそばにいてくれるとは限らないから」
その言葉が、なぜか心に引っかかった。
いつまでもそばにいてくれるとは限らない。
当たり前のことだ。でも——なんだか、重みのある言葉に聞こえた。
「——ねえ、今度」
風香さんが明るい声に戻って言った。
「妹さんに会ってみたいわ」
「茜に?」
「ええ。田口くんのこと、いつもお世話してくれてるんでしょう? お礼を言いたいの」
お礼?
「いや、お礼なんて——」
「だって、妹さんのおかげで田口くんが元気でいてくれてるんでしょう? それって、私にとってもありがたいことだもの」
俺が元気でいることが、風香さんにとってありがたい?
どういう意味だろう。
「私、田口くんがいないと困るのよ」
風香さんが真剣な目で言った。
「植物園の仕事、田口くんがいないと回らないもの。今日みたいに重い物を運んでくれる人も必要だし」
なるほど。仕事の話か。
「——半分くらいは、ね」
「半分?」
風香さんがいたずらっぽく笑った。
この笑顔、前にも見たことがある。
「残りの半分は?」
「さあ、どうかしら」
はぐらかされた。
また、この展開だ。風香さんは時々、意味深なことを言う。本気なのか冗談なのかわからない。
「とにかく、今度妹さんに会わせてね。仲良くなりたいわ」
「はあ……」
なんだか押し切られた気がする。
茜と風香さん。二人が会ったら、どうなるだろう。
……あまり想像したくない。
茜は俺の女性関係に敏感だ。前に綾乃ちゃんの話をしただけで、脛をつねられた。風香さんの話をしたら——
考えるだけで怖い。
◆
食事を終えて、店を出た。
「じゃあ、荷物を植物園に運びましょうか」
風香さんの車に乗り込み、植物園へ向かう。
助手席に座っていると、なんだかドキドキする。
狭い車内。隣には風香さん。香水の匂いがする。
俺の心臓が、またドクドクと鳴り始めた。
「田口くん、静かね」
「いえ、別に——」
「緊張してる?」
「してないです」
嘘だ。めちゃくちゃ緊張している。
風香さんがくすくす笑った。
「私は緊張してるな…」
え!?それは、まさか、いや、だが、しかし、でも
「もうすぐ着くわよ。荷物、また持ってもらうわね」
「はい」
俺は深呼吸して、気持ちを落ち着かせた。
今日は本当に、心臓に悪い一日だった。
でも——楽しかった。
それだけは、間違いない。
◆
植物園に到着し、荷物を管理棟に運び込んだ。
「ありがとう、田口くん。本当に助かったわ」
「いえ、これくらい」
「はい、これ。今日のバイト代」
封筒を渡された。
中を確認すると——一万円。
「え、こんなに——」
「重労働だったでしょう? お昼代も含めて」
「でも、お昼は風香さんが——」
「いいのよ。受け取って」
押し切られた。
風香さんは本当に優しい。優しすぎる。
「また来週ね」
「はい」
俺は植物園を後にした。
歩きながら、今日のことを振り返る。
買い物して、ナンパを撃退されて、イタリアン食べて、荷物を運んで。
盛りだくさんな一日だった。
そして——風香さんが「妹に会いたい」と言っていたこと。
『私、田口くんがいないと困るのよ』
『半分くらいは、ね』
残りの半分は、なんなんだろう。
……考えてもわからない。
女心は難しい。
でも、一つだけ確かなことがある。
風香さんと過ごす時間は、楽しい。
それは——間違いない。
◆
帰宅後、スマホを確認すると、神龍寺からLINEが来ていた。
『今日、何してた?』
正直に答えるべきか迷った。
前回、風香さんの話をしたら不機嫌になった。また同じことになるかもしれない。
でも、嘘をつくのも変だ。
『植物園のバイトで、買い物の手伝い』
『……植物園の人と?』
『うん』
既読がついた。
返信が来ない。
また不機嫌になったか。
五分後——
『来週の除霊バイト、一緒に行くからね、植物園のバイトはなし』
なぜか強調された文面だった。
『わかった』
『絶対だよ。約束だよ』
『約束するって』
なんだか必死だ。
神龍寺がどうしてこんなに必死なのか、俺にはわからない。
でもまあ、来週の除霊バイトは一緒に行くことになった。
それはそれで、楽しみだ。
神龍寺と一緒だと、退屈しないから。




