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第八話「古い映画館と迷惑な評論家」

 水曜日の昼。


 俺——田口拓実は、大学の学食で神龍寺と向かい合っていた。


 テーブルの上には、二人分のカツカレー。先日の約束通り、一緒に食べに来たのだ。


「今日のカツ、柔らかいね」


 神龍寺がカツを一口食べて言った。


「だろ。普通に噛み切れる。歯が無事だ。顎も無事だ。俺の咀嚼器官が全て正常に機能している」


「大げさだね」


「いや、この前は本当にヤバかったんだって。オリハルコン級だった。伝説の金属。RPGの最強装備の素材」


「……いつものことでしょ」


 いつものことじゃない。あの日は特別だった。変なコスプレイヤーの金髪美女と、ハンマー持った小柄な女が乱入してきて、大学中を走り回って、カツで剣を作って、黒ローブの変態を撃退したんだ。カレーの匂いで。


 まあ、言っても信じてもらえないだろうけど。


「ねえ」


 神龍寺がカレーを食べながら言った。


「この前話してた、妹さんのこと」


「茜?」


「うん。今度会わせてくれるって言ってたでしょ」


 言ったな、確かに。


「まだ機会がなくてな」


「ふうん」


 神龍寺がじっと俺を見た。


 相変わらず無表情だが、なんとなく——何か言いたげな雰囲気がある。


「……何?」


「別に」


 また「別に」だ。この女の「別に」は「別に」じゃない。絶対何かある。


「お前、たまに意味深なこと言うよな」


「そうかい?」


「そうだよ。この前も『大事なものは守れ』とか言ってたし」


 神龍寺が少し黙った。


「……君の妹さん、高校生なんだよね」


「ああ、高二」


「学校は楽しそう?」


「さあ。楽しいんじゃないか? 成績良いし、生徒会やってるし」


「そう」


 神龍寺が頷いた。


「友達は多いのかい?」


「……どうだろ。あいつ、あんまりそういう話しないからな」


「兄さんにべったりだから、友達いらないんじゃないの」


 冗談で言った。


 神龍寺は笑わなかった。


「……かもね」


 その言い方が、なんだか引っかかった。


「神龍寺、お前——」


「そうだ」


 神龍寺が話を切り替えた。相変わらず核心に触れそうになると逃げる。


「今週末のバイト、行けるかい?」


「除霊バイト?」


「うん」


「行く。時給五千円だろ」


「相変わらず金に弱いね」


「結局、金には勝てない。俺は金の亡者だ」


「自覚はあるんだ」


「ある。で、どこ?」


「古い映画館」


 映画館。


「何が出るんだ?」


「声が聞こえるらしいの。上映中に」


「声?」


「映画の解説を始める声が」


 映画の解説。


 上映中に解説。


 ……それ、ただの迷惑な観客じゃないのか?


「オーナーさんが困ってるの。お客さんが減っちゃって」


「そりゃそうだろうな……映画館で解説始められたら最悪だ」


「でしょ?」


「で、どんな解説なの?」


「『このシーンの照明は黒澤明へのオマージュだ』とか、『この演出は監督の幼少期のトラウマを反映している』とか」


 うわぁ。


 面倒くさい。


 圧倒的に面倒くさい。


「……どこかに隠れて喋ってる変な奴がいるのか」


「まあ、そんな感じかな」


 神龍寺が曖昧に答えた。


 こいつはいつも「霊だ」とか言うけど、どうせ変人が居座ってるだけだろう。世の中、変な人は意外と多い。チ〇ポジ紳士とか、ムキムキマッチョとか、オタクとか。


「そいつを追い出せばいいのか?」


「まあ、そうなるね」


「了解。話術で何とかするか」


「任せた」


 任された。


 まあ、変な人の相手は慣れてる。



 ◆



 土曜日。


 俺と神龍寺は、駅から少し離れた場所にある古い映画館の前に立っていた。


 「シネマパレス」という名前の、昭和の香りが漂う建物だ。赤いカーペット、金色のフレーム、天井のシャンデリア。かつては華やかだったのだろうが、今は少し色褪せている。


 いや、「少し」どころじゃない。だいぶ色褪せている。


 看板の電球が三つ切れている。入口のマットがほつれている。ポスターが日焼けで白くなっている。


 大丈夫かここ。変人より先に経営が心配だ。


「いらっしゃい」


 オーナーらしき老人が出迎えてくれた。


 七十代くらいだろうか。白髪で、丸い眼鏡をかけている。背筋はピンと伸びていて、昔は相当ダンディだったんだろうなという雰囲気がある。


「神龍寺さんですね? ご紹介いただいた」


「ええ。今日はよろしくお願いします」


「こちらは?」


「助手の田口です」


「助手!」


 オーナーが目を輝かせた。


「霊媒師に助手がいるとは! 本格的ですな!」


 本格的かどうかは知らないが、時給五千円である。


「さっそくですが、状況を教えていただけますか」


「三か月ほど前からなんですが……上映中に、声が聞こえるようになりましてな」


「どんな声ですか?」


「映画の内容について、解説する声です」


「具体的には?」


「『この演出は監督の幼少期の体験を反映している』とか、『このカメラワークは黒澤明へのオマージュだ』とか、『ヒロインの瞳の動きに注目、ここで彼女の心理が——』とか」


 うわぁ。


 聞いてるだけで面倒くさい。


「一本の映画で、何回くらい解説が入るんですか?」


「多い時は……三十回くらいですな」


「三十回!?」


 俺は思わず叫んだ。


「映画一本で三十回!? 二分に一回ペースじゃん!」


「ええ……特に名作の時は、解説が長くなりまして……」


「それもう映画じゃなくて解説を聞きに来てるようなもんでしょ」


「まあ、そうなりますな……」


 オーナーが遠い目をした。


「姿は見えないんですけど、声だけが……」


「姿が見えない?」


「ええ。どこかに隠れているのかもしれませんが……探しても見つからないんです」


 なるほど。天井裏とか、壁の中とか、そういうところに隠れてるのか。変人にもほどがある。映画の解説をするためだけにそこまでするか。執念がすごい。


「お客さんは?」


「ゼロになりました」


「ゼロ!?」


「今日の『ローマの休日』も、予約はゼロです」


 ゼロ。


 完全なるゼロ。


 客がいない映画館。それはもう映画館なのか? ただの箱では?


「でも上映はするんですか?」


「ええ。毎日、誰もいなくても上映しております」


「……なんで?」


「映画は、上映されることで初めて完成しますから」


 オーナーが微笑んだ。


 かっこいいことを言っているが、電気代は大丈夫なのか。


「わかりました。では、今日の上映を見させていただきます」


「お願いします! このままでは……この映画館が……」


 オーナーの目が潤んでいる。


 俺はなんだか申し訳ない気持ちになった。


 頑張ろう。時給五千円分は働こう。隠れてる変人を見つけて追い出すだけだ。



 ◆



 上映開始まで少し時間があったので、俺と神龍寺はロビーのベンチに座っていた。


 ポップコーンの匂いが漂っている。誰も買わないのに、ちゃんと用意してあるらしい。泣ける。


「ねえ、田口」


「ん?」


「妹さんは、映画は好きなのかい?」


 また茜の話だ。


「さあ……一緒に見たことないな」


「そう」


「なんでそんなに茜のこと気になるんだよ」


「……女の勘」


「その勘、何を感じてるんだ」


「さあね」


 神龍寺が肩をすくめた。


「今度、本当に会わせてほしいな。妹さんに」


「……まあ、機会があれば」


「約束だよ」


 念を押された。


 なんでそこまで茜に会いたがるのかわからないが——


「そろそろ時間だね」


 神龍寺が立ち上がった。


「行こうか」



 ◆



 上映が始まった。


 俺と神龍寺は、一番後ろの席に座っている。というか、他に客がいないから、どこに座っても一番後ろだ。貸切状態。


 スクリーンに「ローマの休日」のタイトルが映し出される。


 1953年。古い映画だ。白黒——じゃなくてモノクロというらしい。


 オードリー・ヘプバーンが登場する。


 お、美人だ。昔の女優ってすごいな。今見ても全然通用する。というか、めちゃくちゃ可愛い。


 グレゴリー・ペックが登場する。渋い。かっこいい。男から見てもイケメンだ。


 俺は普通に映画を楽しみ始めた——


「——このオープニングシークエンスは、ワイラー監督の緻密な計算によって構成されている」


 声がした。


 俺の左斜め前の席から。


 そこには——


 男が座っていた。


 ベレー帽。丸眼鏡。黒いタートルネック。スカーフ。


 いかにも「俺は芸術わかってます」という格好の、五十代くらいの男。


 ……いつの間に入ってきたんだ? さっきまで誰もいなかったのに。


 オーナーが「姿が見えない」と言っていたが、普通に見えるじゃん。暗くて見逃してただけか。


「——アン王女の表情の微妙な変化に注目してほしい。彼女の内面の葛藤が、ここですでに暗示されているのだ。ヘプバーンの演技力は、この冒頭三十秒で既に証明されていると言っても過言ではない」


 始まって三十秒で解説だ。


 早い。早すぎる。


 映画のタイトルが出た瞬間に解説が始まるとは思わなかった。


「——さらに注目すべきは、この照明の使い方だ。ハリウッド黄金期の技術の粋が——」


 止まらない。


 解説が止まらない。


 スクリーンでは王女が退屈そうに公務をこなしているのに、解説男は熱く語り続けている。映画の音声が聞こえない。


「——ヘプバーンは当初この役のオファーを躊躇していたという話がある。なぜなら——」


 映画始まって二分。解説、五回目。


 ペースが早い。


 このままだと本当に三十回いく。


「いたね」


 神龍寺が小声で言った。


「いたな。普通に見えるじゃん」


「……うん、そうだね」


 神龍寺が何か言いたげな顔をしているが、まあいい。


「ちょっと話しかけてくる」


「任せた」


 俺は立ち上がり、解説男の席に近づいた。


「——このシーンで使われているBGMは、実は監督の故郷の——」


「あの、すみません」


「——民謡をアレンジしたもので——ん?」


 解説男がこちらを向いた。


 驚いた顔をしている。


「……私が見えるのかね?」


「見えますけど。普通に」


 何を言ってるんだこの人。見えるも何も、目の前にいるじゃん。


「おお……!」


 解説男が立ち上がった。


 妙に感動している。


「久しぶりだ……! 私を認識してくれる人がいるとは……!」


「いや、普通に座ってますよね? 見えますよね?」


「三か月ぶりだ……! 話しかけてもらえたのは……!」


 三か月。


 三か月間、誰にも話しかけてもらえなかったのか。


 ……まあ、こんな格好で映画館に居座ってたら、そりゃ避けられるだろうな。


「あの、すみませんけど」


「何だね?」


「解説、やめてもらえませんか?」


「やめる? なぜだ?」


「いや、映画が聞こえないんで」


「私の解説を聞いていれば、映画の内容は理解できる!」


「いや、自分で見て理解したいんですけど」


「甘い!」


 解説男が俺を指差した。


「映画は一人で見ても三割しか理解できない! 私の解説を聞けば、残りの七割が見えてくるのだ!」


「三割で十分です」


「十分だと!? 君は映画の七割を捨てるというのか!?」


「捨てます」


「なんと愚かな……!」


 解説男が頭を抱えた。


 大げさだ。リアクションが大げさすぎる。


「いいか、若者よ。映画とは——」


「あ、すみません」


 俺は解説男の言葉を遮った。


「ちょっと聞きたいんですけど」


「何だ?」


「何者なんですか? なんでここに住んでるんですか?」


「住んでいる?」


「いや、三か月も映画館にいるんでしょ? 住んでますよね?」


「……まあ、住んでいると言えば住んでいるな」


「ホームレス?」


「違う! 私は映画評論家だ!」


 解説男が胸を張った。


「雑誌『シネマ・アイ』で三十年間、映画評論を書いてきた男だ!」


「あー、やっぱり評論家か」


「『やっぱり』とは何だ!」


「いや、見た目がもう評論家だったんで。ベレー帽とか、黒タートルとか」


「これは映画人の正装だ!」


「正装」


「そうだ! 映画を語るにふさわしい服装というものがある!」


「へえ」


 俺は解説男をじろじろ見た。


 なんか薄いな。体が。光の加減か? 映画館は暗いからな。


「そのスカーフ、何巻き?」


「……は?」


「いや、スカーフの巻き方。おしゃれだなと思って」


「……アスコットタイ風の巻き方だ」


「へえ、アスコット。かっこいいですね」


「だろう! 映画『マイ・フェア・レディ』でオードリー・ヘプバーンが——」


「あ、それ今見てる映画と同じ人?」


「そうだ! ヘプバーンは『ローマの休日』でデビューし——」


「へえ。じゃあ結構出てるんですね、映画」


「結構どころではない! 『ティファニーで朝食を』『麗しのサブリナ』『シャレード』——」


「あ、『シャレード』って聞いたことあるかも」


「おお! 『シャレード』を知っているのか!」


 解説男の目が輝いた。


「あれは1963年の作品で、監督はスタンリー・ドーネン、共演はケイリー・グラントだ! 実はこの映画、製作過程で——」


 しまった。


 スイッチを入れてしまった。


「——脚本が三回書き直されており、当初のエンディングは——」


 解説が止まらない。


 映画は進んでいる。アン王女が逃げ出そうとしている。でも解説男は『シャレード』の話をしている。今上映してるの『ローマの休日』なんですけど。


「——さらに興味深いのは、グラントとヘプバーンの年齢差で——」


「あの」


「——二十五歳も離れているのだが、それを感じさせない演技力が——」


「あの!」


「——何だ?」


「今、『ローマの休日』見てるんですけど」


「ああ、そうだったな」


 解説男が我に返った。


「すまない。つい熱くなってしまった」


「いや、いいんですけど……」


「では、『ローマの休日』の解説に戻ろう」


 戻るんかい。


「——このシーンは、アン王女の内面の——」


「ちょっと待って」


「何だ?」


「オーナーが困ってるんですよ」


「オーナー?」


「この映画館のオーナー。あなたの解説のせいで、お客さんがゼロになったんです」


「…………」


 解説男が黙った。


「知ってました?」


「……知って、いた」


「知ってたんですか」


「だが、それは映画を理解できない愚か者が去っていっただけだ!」


「全員去ったんですけど」


「…………」


 痛いところを突いてしまった。


 解説男が俯いている。


「いや、あなたの映画愛はわかりますよ。三十年も評論書いてきたんでしょ? すごいと思います」


「……本当か?」


「本当ですよ。でも、上映中に喋るのはマナー違反でしょ」


「マナー……」


「映画を愛してるなら、他の人にも静かに見せてあげてくださいよ」


「…………」


 解説男が黙り込んだ。


 スクリーンでは、アン王女がローマの街を歩いている。美しい街並み。自由を謳歌する王女。


「私は……」


 解説男がぽつりと言った。


「……映画を、愛しすぎたのかもしれない」


「愛しすぎた?」


「生前から……いや、何でもない」


 生前?


 何を言ってるんだこの人。


「三十年間、映画評論を書いてきた。誰よりも映画を見た。誰よりも映画を語った。でも……」


「でも?」


「……誰も、聞いてくれなかった」


 解説男が顔を上げた。


 目が潤んでいる。


「同僚からは『長すぎる』と言われ、編集者からは『もっと短く』と言われ……私の評論を最後まで読んでくれる人は、ほとんどいなかった」


「あー……」


 なんとなくわかってきた。


「でも私は曲げなかった! 映画の素晴らしさを伝えるには、これだけの言葉が必要なのだ! 省略など許されない!」


「いや、省略は必要でしょ」


「必要ない!」


「いや、ある。今の話だけで五分経ってますよ」


「五分で何がわかる! 映画を語るには最低三時間必要だ!」


「映画より長いじゃん」


「当然だ! 映画の背景、監督の意図、俳優のキャリア、撮影技術、音楽、脚本——全てを語るには三時間でも足りない!」


「いや、二時間の映画の解説が三時間って……」


「だから私は五時間語る!」


「倍以上じゃん!」


「それでも足りない! 本当は十時間語りたい!」


「十時間!?」


「一週間でもいい!」


「いや、一週間は無理でしょ。聞く方が死ぬ」


「死ぬ価値がある!」


「ないです」


「ある!」


「ないですって」


「ある!」


 押し問答になってきた。


 神龍寺が近づいてくる。


「どう?」


「話が通じない」


「だろうね」


 神龍寺が解説男を見た。


「ねえ、おじさん」


「おじさん? 私は映画評論家だ!」


「映画評論家のおじさん」


「…………まあ、いい」


「ここにいつまでいるつもり?」


「いつまでも! この映画館が続く限り!」


「でも、お客さんゼロだよ。このままじゃ映画館潰れるよ」


「…………」


 解説男が固まった。


「……潰れる?」


「そう。あなたの解説のせいで」


「私の……せいで……?」


「オーナーさん、泣きそうだったよ」


「…………」


 解説男の顔が歪んだ。


 苦悩している。


「私は……この映画館を愛していたのに……」


「愛してるなら、静かにしてあげて」


「…………」


 沈黙が流れた。


 スクリーンでは、アン王女とグレゴリー・ペックがジェラートを食べている。楽しそうだ。


「……わかった」


 解説男がぽつりと言った。


「もう……解説はしない」


「本当ですか?」


「ああ。私は……間違っていた」


 解説男が深くため息をついた。


「映画を愛するあまり、押しつけていた。聞きたくない人にまで、語り続けていた」


「気づいてくれたか」


「……すまなかった」


 解説男が頭を下げた。


 俺は少し気まずくなった。


「いや、謝らなくても……」


「いや、謝る。三か月間、迷惑をかけた」


「まあ、これからやめてくれれば……」


「ああ。もう黙る。静かに映画を見守る」


 解説男が微笑んだ。


 なんだか寂しそうな笑顔だった。


「——ただ、最後に一つだけ」


「何ですか?」


「ラストシーンを、ちゃんと見てくれ」


「ラスト?」


「この映画の、一番大事なところだ。何も言わない。ただ——見ろ」


「……わかりました」


「ありがとう」


 解説男が——


 薄れていった。


 いや、席を立って後ろに歩いていったのか。暗くてよく見えなかった。


 振り返ると、もう誰もいない。


 どこかに行ったらしい。


 ……出口、あっちだったか? いや、暗いからわからないな。


「行ったね」


 神龍寺が言った。


「行ったな。どこ行ったんだ?」


「さあ。帰ったんじゃない?」


「帰った? ホームレスっぽかったけど、家あるのか?」


「……さあね」


 神龍寺が肩をすくめた。


 まあ、いいか。解説が止まったならそれでいい。



 ◆



 俺と神龍寺は、席に戻った。


 映画は中盤に差し掛かっていた。


 アン王女と新聞記者が、ローマの街をバイクで駆け抜けている。


 楽しそうだ。自由だ。


 解説はない。


 ただ、映画がある。


 俺は黙って見ていた。


 やがて、ラストシーンが訪れた。


 記者会見。


 アン王女が、各国の記者たちと握手を交わす。


 グレゴリー・ペック演じる新聞記者と、目が合う。


 二人とも、何も言わない。


 ただ、視線だけが交わされる。


 そこには——言葉にできない何かがあった。


 出会い。一日だけの冒険。そして別れ。


 二人は二度と会えない。それをお互いにわかっている。


 でも——あの一日があった。


 それだけで、十分だった。


「……」


 俺は息を飲んでいた。


 いい映画だな、と思った。


 解説なんかなくても、ちゃんと伝わる。


 むしろ、何も言わないから伝わる。


 あの解説男、こういう映画を語りたかったんだな。でも、語れば語るほど、大事なものが逃げていく。


 皮肉なもんだ。


 神龍寺を見ると、神龍寺は静かにスクリーンを見つめていた。


 その目が、なぜか少し潤んでいるように見えた。


 気のせいかもしれない。


 映画館は暗いから。



 ◆



 上映が終わり、俺たちは映画館のロビーにいた。


 オーナーが駆け寄ってくる。


「どうでした!? 声は!?」


「もう大丈夫だと思いますよ」


「本当ですか!?」


「ええ。彼は——もう行きました」


「行った……?」


「はい。もう解説はしないって。静かに見守るって言ってました」


「そ、そうですか……」


 オーナーがほっとした顔をした。


 でも、どこか寂しそうでもある。


「あの声……実は私、嫌いじゃなかったんです」


「え?」


「うるさいとは思いましたが……映画への愛は、伝わってきましたから」


 オーナーが遠い目をした。


「昔、常連さんがいましてね。ベレー帽を被った、熱心な方が。いつも映画が終わると、私に感想を語ってくれたんです。三時間くらい」


「三時間」


「ええ。長かったですが、楽しかったです。あの方が亡くなってから、この映画館も寂しくなりまして……」


 亡くなった。


 ……ん?


「亡くなった?」


「ええ。半年ほど前に。心臓発作で……この映画館の座席で、映画を見ながら……」


 俺は固まった。


 半年前に死んだ?


 じゃあ、さっきの人は——


 いや、待て。


 別人だろう。ベレー帽被った映画オタクなんて、世の中にたくさんいる。偶然似ていただけだ。


 そうだ。そうに違いない。


「まあ、とにかく」


 神龍寺が話を切った。


「もう解説は聞こえないと思いますよ。彼、成仏しましたから」


「成仏……?」


「ええ。安心してください」


 オーナーが深々と頭を下げた。


「ありがとうございます。本当に……ありがとうございます」


 俺は黙ってその光景を見ていた。


 成仏、ねえ。


 神龍寺の冗談はよくわからない。あの人、普通に歩いて出て行ったじゃん。


 まあ、いいか。


 解説が止まったならそれでいい。



 ◆



 帰り道。


 俺と神龍寺は、夕暮れの街を歩いていた。


「映画、面白かったね」


 神龍寺が言った。


「ああ。ラストが良かった」


「彼のおすすめだったね」


「……ああ」


 ポケットの中に、バイト代の封筒がある。五千円。


 それ以上に、今日は収穫があった気がする。


「ねえ、田口」


「ん?」


「映画のこと、妹さんにも教えてあげたら?」


 また茜の話だ。


「なんで?」


「なんとなく。一緒に映画とか見たら、楽しいかもしれないよ」


「……そうかもな」


 確かに、茜と映画を見たことはない。


 今度誘ってみるか。


「神龍寺も一緒に来るか?」


「……いいの?」


「三人で見たら、それはそれで面白いだろ」


 神龍寺が少し驚いた顔をした。


 そして——小さく笑った。


「じゃあ、その時は呼んでね」


「おう」


 夕日が沈んでいく。


 オレンジ色の空が綺麗だ。


 ——あの解説男も、こんな夕焼けを見ながら映画のことを考えていたのだろうか。


 愛するものについて語りたい気持ちは、わからなくもない。


 俺だって、茜の話を神龍寺にしてしまう。


 ……いや、それは違うか。


「田口」


「ん?」


「何か考えてた?」


「いや、別に」


「嘘。顔に出てる」


「……」


 この女、たまに鋭い。


「妹さんのこと、考えてたでしょ」


「なんでわかるんだよ」


「顔が緩んでたから」


 マジか。無意識に顔が緩んでいたのか。


「……シスコンとか言うなよ」


「言わないよ。妹を大事にするのは、いいことだ」


 神龍寺が真っ直ぐ前を見て言った。


「——大事なものは、失ってからじゃ遅いからね」


「……」


 また、意味深なことを言う。


「神龍寺、お前——」


「あ、そろそろ電車来るね。走ろう」


 神龍寺が駆け出した。


 俺は慌ててその後を追った。


 聞きたいことがあったのに。


 いつもそうだ。核心に触れそうになると、神龍寺は話を切り替える。


 何を知っているんだ、こいつは。


 俺について。茜について。


 ——まあ、いいか。


 いずれわかる。たぶん。


 電車に乗り込みながら、俺は今日の映画を思い出していた。


 ラストシーンの、二人の目。


 言葉にならない何か。


 あれは——きっと、後悔だ。


 もっと一緒にいたかった。もっと話したかった。もっと——


 でも、時間は戻らない。


 だから、二人は笑って別れた。


 たった一日の思い出を、胸に刻んで。


 俺は窓の外を見た。


 夕日がもうすぐ沈む。


 茜に、連絡しようかな。


 別に用事はないけど。


 ただ、声が聞きたくなった。


 ——気のせいだろうな。


 映画の余韻に浸っているだけだ。


 俺はそう自分に言い聞かせながら、スマホを取り出した。

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