第六話「異世界勇者とオリハルコンカツ」前編
水曜日の昼休み。
俺は学食でいつものカツカレーを注文した。
トレイを持って席に向かおうとしたその時——周囲がざわついていることに気づいた。
「硬い……なにこれ、硬すぎる……」
「噛み切れないんだけど……」
「顎が痛い……マジで痛い……」
学食中が騒然としている。
見ると、カツカレーを注文した学生たちが一様に困惑した表情を浮かべていた。カツを噛もうとして、歯が負けている。いや、負けるとかいうレベルじゃない。完全敗北だ。
嫌な予感がする。
俺は席に座り、恐る恐るカツにフォークを刺した。
——刺さらない。
「…………」
マジか。
力を込めてフォークを押し込む。ギリギリと音を立てて、フォークの方が悲鳴を上げている。金属疲労を起こしそうだ。
これ、本当にカツか? カツって、こんなに硬かったか? 俺の知ってるカツは、もうちょっとこう、サクサクしてて、ジューシーで、人間の歯で噛み切れるものだったはずなんだけど。
ナイフで切ろうとする。刃が滑る。まるでダイヤモンドでも切ろうとしているかのような手応え。いや、ダイヤモンドは硬度10だけど、これはもっと上だ。硬度11、いや12くらいある。そんな鉱物存在しないけど。
これはもう、神話に登場する伝説の金属オリハルコンだ。RPGの最強装備を作る素材。
周りを見渡すと、絶望的な光景が広がっていた。
ある男子学生は、カツにフォークを刺そうとして、フォークが曲がっている。
ある女子学生は、カツをナイフで切ろうとして、ナイフの刃が欠けている。
ある体育会系の男は、カツを素手で割ろうとして、手のひらが赤くなっている。
ある空手系女子は瓦割の要領でカツを割ろうとしたが、机と地面が割れただけでカツにには傷一つつかず。
もはや学食ではなく、カツとの死闘を繰り広げる闘技場と化していた。
「おい、これ食えないだろ……」
隣の席の男が呟いた。
「マジで食えない……歯が折れる……」
「俺もう諦めた。カレーだけ食べる」
「俺も……」
学食全体に諦めムードが漂う。
カツカレーを注文した学生たち全員が、カツを残してカレーだけを食べている。まるで学食全体が「カツを避けるゲーム」をしているかのようだった。いや、ゲームじゃない。サバイバルだ。
俺も諦めて、カレーだけをスプーンで掬った。
カレーは普通に美味い。いつものカレー。問題はカツだ。このカツ、一体どうやって調理したんだ。揚げる前の段階で既に硬かったのか、それとも揚げる過程で何か化学反応が起きたのか。核融合でも起きたのか。
いや、核融合したら学食が吹っ飛んでるか。
周りを見ると、他の学生たちも同じようにカレーだけを食べている。カツは全員、手つかずだ。皿の上で鎮座している。まるで王様のように。いや、暴君のように。
「今日のカツ、どうなってんだよ……」
俺はため息をつきながら、カレーを口に運んだ。
まあ、カツは諦めよう。カレーだけでも十分美味い。というか、カツを食べようとして歯を折るよりマシだ。俺の歯は貴重だ。虫歯もないし、親知らずも抜いてないし。大事にしないと。
俺は黙々とスプーンを動かし続けた。
カツを横目で見ながら、俺は思った。
このカツ、何かに使えないかな。
いや、何に使うんだよ。硬いだけだぞ。
でも、この硬さ、もったいない気がする。伝説の金属レベルの硬さだ。何かの武器とか、防具とか——
いや、カツだし。
俺は馬鹿なことを考えるのをやめて、カレーを食べ続けた。
◆
昼食を終え(カツは残した)、強力な便意を感じてトイレへ向かった。
この大学のトイレは無駄に広い。個室も多いし、なぜか人気がない。おかげで落ち着いて用を足せるので、俺のお気に入りスポットだ。まあ、お気に入りと言っていいのかわからないけど。トイレだし。
内側に秘めた力を全て開放し、すっきりした俺は個室から出た。
手を洗いながら、鏡に映る自分の顔を見る。
疲れてるな。最近レポートが多くて、睡眠不足だ。目の下にクマができている。
やれやれ。大学生活、思ったより大変だ。
水を止めようとしたその時——
廊下から何やら騒がしい音が聞こえてきた。
足音。それも複数。走っている。
何だ? 体育会系の連中が廊下を走ってるのか? この大学、廊下を走るの禁止のはずなんだけど。まあ、守ってる奴いないけど。
俺は手を拭きながら、ドアの方を見た。
その瞬間——
バァン!
トイレのドアが勢いよく開いた。
いや、開いたというレベルじゃない。吹っ飛んだ。ドアが壁に激突して、ゴンッと音を立てた。
「逃げろ、ドワーナ!」
「ああ! もう少しだけ時間を稼げ、エリシア!」
二人の女性が転がり込んできた。
転がり込む、という表現が正しいかわからない。なぜなら、一人は華麗に着地し、もう一人は受け身を取りながら転がってきたからだ。アクション映画か。
一人は銀色の鎧に赤いマント、腰に剣を下げた金髪の美女。
もう一人は革のエプロンにゴーグル、巨大なハンマーを背負った小柄な女性。
……コスプレイヤー?
いや、それにしては装備がやたらリアルだ。鎧の質感、剣の輝き、ハンマーの重厚感。本物っぽい。というか、本物にしか見えない。コスプレでここまでのクオリティ出せるのか? 予算いくらかかってるんだ?
「なんだお前ら……」
俺が呆然としていると、金髪の女性が俺を見た。
その瞬間、彼女の表情が変わった。驚愕、後悔、申し訳なさ、そういった感情が一瞬で顔に浮かんだ。
「すまない、巻き込んでしまった!」
「巻き込むって、何を——」
言い終わる前に、またドアが開いた。
いや、開いたというより、吹き飛んだ。
さっき直したばかりのドアが、再び壁に激突した。ドアが悲鳴を上げている。もう二度と開かないかもしれない。
「——見つけたぞ、エリシアァァァ!」
低く、重く、禍々しい声が響いた。
今度は黒いモヤのようなものが流れ込んできた。
モヤ……?
いや、違う。あれは——
黒いローブを纏った、人型の何か。顔は見えない。フードの奥が暗闇になっている。いや、暗闇というより、虚無。何もない。光すら吸い込まれているような、そんな暗さ。
手には黒い杖のようなものを持っている。杖の先端には、紫色の宝石のようなものが埋め込まれている。それが不気味に光っている。
周囲の温度が下がった気がした。
いや、気のせいじゃない。本当に寒い。息が白い。トイレの中が一気に冬になった。
「……は?」
俺の理解が追いつかない。
何だこれ。何が起きてるんだ。コスプレイベント? 撮影? ドッキリ?
いや、でも——
この寒さ。この空気。この、何とも言えない恐怖感。
これ、演技じゃない。
「悪霊だ!」
金髪の女性——エリシアが叫んだ。
「この世界にも出現したか……!」
「エリシア、どうする!?」
小柄な女性——ドワーナが叫ぶ。
「まだ剣が完成していない! 逃げるしかない!」
「了解だ!」
エリシアとドワーナが再び走り出す。
——あ、俺を置いていく気だな。
そう思った瞬間、エリシアが振り返った。
その目が、俺を捉える。
青い瞳。綺麗だ、とか思ってる場合じゃない。
「そこの者! 君も逃げろ! 巻き込んでしまった! 本当にすまない!」
エリシアが必死の形相で叫ぶ。
「え、いや、俺は——」
言い終わる前に——
「——呪怨の波動ォォォ!」
黒いローブの何かが、杖を振った。
杖の先端から、黒い波のようなものが放たれる。
それが、俺に向かってくる。
黒い波。波というより、津波。いや、それ以上。まるで世界を飲み込む闇のような——
「うおっ!」
俺は咄嗟に横に飛んだ。
本能が叫んでいた。あれに当たったら死ぬ、と。
黒い波が壁に激突した。
ゴォォォン!
轟音が響く。
そして——壁が崩れた。
いや、崩れたというレベルじゃない。消滅した。壁があった場所に、穴が開いている。トイレの壁に、直径2メートルくらいの穴が。
「……マジかよ」
俺は呆然と呟いた。
これ、本物だ。
コスプレじゃない。撮影じゃない。ドッキリでもない。
何か、本当にヤバいやつだ。
俺の体が震えた。怖い。マジで怖い。あの黒い波に当たってたら、俺も壁と同じように消滅してたかもしれない。
「ほら、早く!」
エリシアが俺の腕を掴んだ。
力強い。女性とは思えない力だ。
「逃げるぞ! ここにいたら死ぬ!」
「ちょ、待て——」
俺は無理やり引っ張られ、トイレから廊下へと引きずり出された。
後ろから、黒いローブの何かが追ってくる。
「——逃がさんぞォォォ! 貴様らを、この世界ごと消し去ってくれる!」
「うわあああ!」
俺は必死に走った。
なんだこれ。なんで俺がこんな目に。ただトイレに行っただけなのに。ただ、内側に秘めた力を開放しただけなのに。
人生ってこんなに理不尽だったか?
いや、理不尽だった。小学生の時に妹が——
そんなことを考えている場合じゃない。今は逃げることだけを考えろ。
俺は必死に足を動かした。
◆
図書館、階段、中庭、教室棟。
俺たちは大学中を逃げ回った。
いや、逃げ回らされた、と言った方が正しい。俺の意思は完全に無視されている。エリシアが俺の腕を掴んで走る。ドワーナがその横を走る。俺は引きずられながら必死に足を動かす。
息が切れる。普段運動してないから、もう限界だ。
肺が痛い。足が痛い。というか全身が痛い。
「はあ、はあ……もう、無理……」
「頑張れ! もう少しだ!」
エリシアが俺を引っ張る。
力強い。この女、絶対筋力俺より上だ。というか、俺の倍くらいありそう。鎧着てるのに、全然疲れてない。化け物か。
いや、化け物は後ろから追ってくるやつだ。
「——呪怨の槍ァァァ!」
悪霊の声が響く。
振り返ると、黒い槍が飛んできた。
本物の槍だ。ゲームとかアニメで見るような、禍々しいデザインの黒い槍。先端が尖っている。あれに刺さったら死ぬ。確実に死ぬ。
「うおっ!」
俺は咄嗟に屈んだ。
エリシアが俺を庇うように前に出て、剣で槍を弾く。
ガキィン!
金属音が響く。槍が地面に刺さる。
「大丈夫か!?」
エリシアが心配そうに俺を見る。
「だ、大丈夫……」
大丈夫じゃない。マジで怖い。槍が飛んでくるとか、ゲームの世界かよ。
「すまない……君を巻き込んでしまって……」
エリシアの表情が曇る。
罪悪感を感じているようだ。申し訳なさそうな顔をしている。
その顔を見て——俺は、なぜか腹が立たなかった。
いや、普通なら怒るべきだろう。巻き込まれて、命の危険に晒されて、なのに謝られて。
でも——
エリシアの表情を見ていたら、怒る気が失せた。
彼女も、望んでこうなったわけじゃない。悪霊に追われて、たまたま俺がいた場所に逃げ込んだだけだ。
それに——
彼女、俺を庇ってくれた。さっきの槍、エリシアが弾いてくれなかったら、俺に刺さってた。
「いや、まあ、運が悪かっただけだし……」
俺は苦笑いしながら答えた。
「……君、優しいな」
「え?」
「普通なら、怒るはずだ。なのに……」
エリシアが少し驚いたように俺を見る。
その目が——綺麗だった。
青い瞳。透き通るような青。まるで空のような、海のような。
ドキッとする。
やばい。こんな状況で何考えてるんだ俺は。
「いや、怒る余裕がないだけだから……」
俺は目を逸らした。
恥ずかしい。なんで今、ドキドキしてるんだ。命の危険に晒されてるのに。
「とにかく、逃げよう! エリシア、ぼさっとするな!」
ドワーナが叫ぶ。
「あ、ああ! すまない!」
エリシアが我に返って、再び走り出す。
俺も引っ張られながら走る。
後ろから、悪霊が追ってくる。
「——逃がさんぞォォォ! 貴様ら、この世界ごと消し去ってくれる!」
「この世界ごとって、どういう意味だよ!」
俺が叫ぶ。
「文字通りの意味だ! あの悪霊、この世界を滅ぼそうとしている!」
エリシアが答える。
「世界を滅ぼす!?」
「ああ! だから私たちは、それを阻止するためにこの世界に来た!」
世界を滅ぼす。
スケールがでかすぎる。俺の理解を超えている。
「なあ、そもそもお前ら何者なんだよ!」
「私は異世界から来た勇者、エリシア・フォン・アルトリウス!」
「俺は鍛冶師のドワーナだ! よろしくな!」
勇者。鍛冶師。
何を言ってるんだこの人たち。
でも、さっきの悪霊の攻撃は本物だった。壁が崩れた。槍が飛んできた。あれは本物だ。
ということは——この人たちも本物?
いや、そんなわけない。異世界なんてあるわけ——
「——呪怨の刃ァァァ!」
悪霊が杖を振る。
今度は無数の黒い刃が飛んできた。
まるでナイフの雨。いや、ナイフじゃない。もっと禍々しい、黒い刃。
「うわっ!」
俺たちは廊下を曲がって回避する。
黒い刃が壁に突き刺さる。壁が崩れる。
やばい。マジでやばい。
「階段だ! 上に逃げるぞ!」
エリシアが叫ぶ。
俺たちは階段を駆け上がった。
二階、三階、四階。
息が切れる。もう限界だ。肺が破裂しそう。
「はあ、はあ、はあ……もう、ダメ……」
「あと少しだ! 頑張れ!」
エリシアが俺を励ます。
その声が——優しかった。
力強くて、でも優しくて。
なんだこの女。こんな状況なのに、俺を気遣ってくれるのか。
普通、見捨てるだろう。足手まといだし。
でも——
エリシアは俺の腕を離さない。
屋上に出た。
開けた空間。青い空。
「ここまでか……」
エリシアが息を整えながら言った。
「悪霊が来る前に、何か策を——」
「——遅いわァァァ!」
悪霊が屋上に現れた。
黒いモヤを纏って、ゆっくりと近づいてくる。
「くっ……」
エリシアが剣を構える。
ドワーナもハンマーを構える。
俺は——何もできない。
武器もない。戦う術もない。
俺、ここで死ぬのか?
まだ大学生なのに。まだやりたいことあったのに。神龍寺との水族館デート、また行きたかったな。綾乃ちゃんとも、もっと話したかった。風香さんにも、お礼言いたかった。茜にも——
いや待て。
こんなところで死ねるか。
俺はまだ、カツカレーのカツを食べていない。今日のあのカツ、硬すぎて食べられなかったけど、いつか食べられるカツに出会いたい。
それに——
この美人を見捨てるのは、なんか嫌だ。
いや、別に惚れてるとかじゃないぞ。ただ、こう、人として。人として見捨てられないだろう。美人だし。
待て、美人だからって理由はおかしいだろ。
でも美人だし。
俺の思考が迷走している。
「——君!」
エリシアの声で我に返った。
「私が悪霊を食い止める! その隙に逃げろ!」
「え?」
「早く! 君まで巻き込むわけにはいかない!」
エリシアが真剣な顔で言う。
その顔を見て——
俺は、走れなかった。
「……嫌だ」
「何?」
「逃げるの、嫌だ」
俺は自分でも驚いた。
何言ってるんだ俺は。逃げるべきだろう。生き延びるべきだろう。
でも——
いや、正直に言おう。
美人を見捨てて逃げるとか、男として最低だろう。
それに、もし逃げて、後で「あの時助けてたら美人とフラグ立ってたかも」とか後悔するのも嫌だ。
「美人とのフラグを立てるんだ!(ここで逃げたらきっと後悔する!)」
かっこつけた。
我ながらかっこつけた。
あれ、心の声と逆だったか?
「……君」
エリシアが驚いたように俺を見た。
その目が——少し潤んでいる気がした。
おお、これはポイント高いのでは?
いや、そんなこと考えてる場合じゃない。
「——ほう、面白い」
悪霊が俺を見た。
フードの奥の暗闇が、俺を見ている気がする。
「貴様、この状況で逃げないとは……愚かだな」
「愚かで結構」
俺は悪霊の前に立った。
怖い。めちゃくちゃ怖い。足が震えている。
でも——
ここで逃げたら、一生後悔する気がする。
「……何をする気だ?」
ドワーナが聞く。
「わからない」
俺は正直に答えた。
「でも、何かする」
何をするんだ俺は。
武器もない。力もない。
でも——
俺にできることは——
「なあ、悪霊」
「何だ?」
「お前、その格好、暑くない?」
「……は?」
悪霊が固まった。
エリシアとドワーナも固まった。
俺も内心固まっていた。
何を言ってるんだ俺は。
「いや、だってさ、黒いローブでしょ? この季節、暑くない? 中、蒸れてない?」
「…………」
「それに、フード被ってるし。頭、蒸れるでしょ。ハゲない?」
「——ハゲてない!」
悪霊が反応した。
お、効いてる?
「いや、でもさ、蒸れるとハゲるって言うし」
「ハゲてないと言っている!」
悪霊が怒っている。
よし、このまま——
「それに、その杖。重くない? 腕、疲れない?」
「……疲れるが、それがどうした」
「肩こりとかしない? 悪霊って肩こるの?」
「……こる」
「マジで? じゃあマッサージとか行くの?」
「行かない」
「なんで?」
「悪霊だからだ!」
悪霊が叫んだ。
完全に会話のペースを掴んだ。
「それって差別じゃない? 悪霊だってマッサージ受けていいでしょ」
「そういう問題ではない!」
「いや、問題だよ。悪霊にも人権——いや、霊権? があるでしょ」
「貴様、何が言いたい!」
悪霊がイライラしている。
よし、もっと——
「あと、そのフード。中、見えないけど、顔どうなってるの?てか男なの?女なの?」
「……女だ」
「かわいいの?それともブサイク?」
「……そこそこだ」
「マジで? じゃあなんで隠してるの? もったいなくない?」
「それは……雰囲気を出すためだ」
「ああ、なるほど。演出ってやつ?」
「そうだ」
「でもさ、可愛いなら顔出した方がモテない?」
「モテる必要はない」
「え、なんで? 彼氏いないの?」
「……いない」
「マジで? なんで? ほんとに可愛いの?」
「うるさい!」
悪霊が杖を振りかざした。
やばい。怒らせすぎた。
「——呪怨の——」
「待って! 最後に一個だけ!」
「何だ!」
「その黒いローブ、洗濯してる?」
「……してない」
「え、マジで? 臭くない?」
「臭くない!」
「いや、でも洗ってないんでしょ? 絶対臭いでしょ」
「臭くないと言っている!」
「じゃあ嗅がせて」
「何!?」
俺は悪霊に近づいた。
エリシアが「何をしてるんだ!」という顔をしている。
俺もわからない。
でも——
このまま会話を続けて、時間を稼ぐしかない。
「ほら、ちょっと嗅がせて」
俺は悪霊のローブに顔を近づけた。
その瞬間——
悪霊が後ずさった。
「——き、近寄るな!」
「なんで? 臭くないんでしょ?」
「臭くないが、近寄るな!」
「いや、臭くないなら問題ないでしょ」
「問題ある!」
「どんな問題?」
「……距離感の問題だ」
「え、悪霊も距離感気にするの?」
「当然だ! いきなり顔近づけられたら、誰だって嫌だろう!」
「ああ、なるほど。悪霊もパーソナルスペースあるんだ」
「ある!」
悪霊が叫んだ。
完全に会話に引き込まれている。
エリシアとドワーナが呆然としている。
俺も呆然としている。
何やってるんだ俺は。
「——もういい! 貴様、ふざけすぎだ! 呪怨の——」
「ちょっと待った!」
俺は叫んだ。
「最後の最後! 本当に最後!」
「何だ!」
「お前、好きな男のタイプは?」
「…………」
悪霊が固まった。
完全に固まった。
「……なんでそれを聞く」
「いや、気になって」
「…………清潔感のあるタイプだ」
「マジで? 意外!」
「何が意外だ!」
「いや、悪霊だからもっとこう、ホストとか好きかと」
「偏見だ!」
「ごめん」
「……許す」
悪霊が許してくれた。
優しい悪霊だ。
「でもさ、具体的にはどんな感じ?」
「……黒髪で、短髪で清潔感があって、優しいけどでも芯が強くて——」
悪霊が語り始めた。
完全にガードが緩んでいる。
「——今だ! エリシア、ドワーナ、逃げるぞ!」
俺は叫んだ。
エリシアとドワーナがハッとする。
「——え? あ、ああ!」
俺たちは一斉に走り出した。
屋上の扉に向かって、全力疾走。
「——待て! 貴様、今のは卑怯だぞ!」
悪霊が叫ぶ。
「ごめん! でもありがとう! いい人だった!」
「いい人と言われても嬉しくない! 私は悪霊だ!」
悪霊(仮)の叫びを背に、俺たちは階段を駆け下りた。
◆
体育館の裏手に逃げ込んだ。
人気がない。隠れるには丁度いい。
俺は壁に背を預けて、荒い息を整えた。
「はあ、はあ、はあ……」
疲れた。マジで疲れた。
全身が痛い。足が棒になっている。肺が悲鳴を上げている。
「……君」
エリシアが俺を見た。
「今の、何だったんだ?」
「さあ? 俺もわからない」
俺は正直に答えた。
「でも、時間稼ぎにはなったでしょ」
「……ああ」
エリシアが小さく笑った。
「君、本当に……変わってるな」
「よく言われる」
ドワーナも笑っている。
「悪霊をセクハラで撃退するとは……初めて見たぜ」
「セクハラじゃないだろ!」
「いや、セクハラだ」
「どこが!」
「距離感の問題」
ドワーナがニヤニヤしている。
くそ、図星だ。
「……ありがとう」
エリシアが言った。
「君のおかげで、逃げられた」
「いや、俺は別に……」
「ううん。ありがとう」
エリシアが微笑んだ。
その笑顔を見て——
俺の胸が、熱くなった。
やばい。この女、笑うと本当に綺麗だ。
罪だ。
「大丈夫か?」
エリシアが俺の肩に手を置いた。
その手が——温かかった。
「ああ……なんとか……」
「すまない。本当に……」
エリシアが申し訳なさそうに言う。
見ると、彼女も汗をかいている。鎧の隙間から、額の汗が流れ落ちている。
それでも、俺よりは余裕がありそうだ。さすが勇者。体力が違う。
「……なあ」
「何だ?」
「あの悪霊って、どうやったら倒せるんだ?」
俺は息を整えながら聞いた。
逃げないと決めた。なら、倒す方法を考えないと。
「伝説の金属で作った剣があれば、倒せる」
ドワーナが答えた。
「伝説の金属……オリハルコンそれさえあれば…」
「でも、この世界にそんなものあるのか?」
「それを探しに来たんだ」
ドワーナが悔しそうに言う。
「我々の世界では、もうオリハルコンが枯渇してしまった。だから、この世界に賭けたんだが……まだ見つかっていない」
「そうか……」
俺は考えた。
伝説の金属オリハルコン。
この世界にあるのか? 普通に考えたら、あるわけない。ファンタジーの話だ。
でも——
俺の脳裏に、あるものが浮かんだ。
学食のカツ。
あの異常な硬度。フォークが刺さらない、ナイフで切れない、人類の歯では噛み切れない。学食中の学生が困惑していた、あのカツ。
あれなら、もしかして——
「……あるかもしれない」
「何?」
エリシアとドワーナが俺を見た。
「伝説の金属オリハルコンに匹敵するものが。学食にある」
「本当か!?」
ドワーナの目が輝いた。
「たぶん。俺の歯では噛み切れなかったから」
「それは……何だ?」
「カツ」
「カツ?」
「カツカレーのカツ。肉を揚げた料理なんだけど、今日のやつは異常に硬い」
俺は真剣に説明した。
「ナイフで切れない、フォークが刺さらない、学食中の人間が困惑してた。あれ、絶対普通じゃない」
「……カツ」
ドワーナが呟いた。
「肉……揚げた料理……しかし、それが伝説の金属に匹敵するだと?」
「わからない。でも、あの硬さは尋常じゃなかった」
俺は自分の言っていることが馬鹿げているのはわかっている。
カツが伝説の金属。
そんなわけない。
でも——
他に思いつかない。
この世界に、伝説の金属なんてあるわけない。ファンタジーの世界じゃないんだから。
でも、もしあるとしたら——
あのカツしかない。
「……行ってみる価値はあるな」
ドワーナがエリシアを見た。
「エリシア、どうする?」
エリシアは少し考えて——頷いた。
「……行こう」
「本当か?」
「ああ。他に手段がない。賭けてみる価値はある」
そして、エリシアが俺を見た。
「案内してくれるか?」
「ああ」
俺は頷いた。
なんだか知らないけど、ここまで巻き込まれたなら、最後まで付き合うしかない。
それに——
エリシアの真剣な表情を見ていたら、断れなかった。
あの青い瞳。真剣で、でもどこか不安そうで。
俺、この女の子を助けたい。
そう思った。
「……ありがとう」
エリシアが微笑んだ。
その笑顔は——とても綺麗だった。
ドキッとする。
やばい。また心臓が跳ねた。
「……ほら、早く行こう」
俺は照れ隠しに立ち上がった。
エリシアが小さく笑う声が聞こえた。
◆
俺たちは慎重に学食へと向かった。
悪霊に見つからないよう、裏道を通る。
人気のない廊下を、忍び足で進む。
途中、エリシアが何度も後ろを気にしていた。
「……大丈夫そうだな」
「ああ。まだ気配はない」
エリシアがホッとした表情を見せる。
その時、ふと俺と目が合った。
「……何だ?」
「いや……君、本当に優しいな」
「え?」
「普通なら、こんな状況、見捨てて逃げるはずだ。なのに、君は一緒に逃げてくれて、こうして協力してくれている」
エリシアが少し照れくさそうに言う。
「……私、君みたいな人、初めて会った」
「そ、そうか?」
俺は目を逸らした。
なんだこの空気。ちょっと恥ずかしい。
照れくさい。
「私の世界では、みんな自分のことで精一杯だ。他人を助ける余裕なんてない」
エリシアが少し寂しそうに言う。
「魔王が現れてから、世界は荒れた。人々は疑心暗鬼になって、誰も信じられなくなった」
「……そうか」
「でも、君は違う。見ず知らずの私たちを、助けてくれている」
エリシアが俺を見る。
その目が——少し潤んでいる気がした。
「ありがとう」
「いや、俺は別に……」
「ううん。ありがとう」
エリシアが微笑んだ。
その笑顔を見て——
俺の胸が、また熱くなった。
なんだこの感じ。ドキドキする。心臓がうるさい。
まずい。この女、本当に綺麗だ。
美人すぎる。罪だ。
「……ほら、早く行こう」
俺は照れ隠しに歩き出した。
後ろから、エリシアが小さく笑う声が聞こえた。
それから——小さく呟く声も。
「……本当に、いい人だな」
その声が、なぜか嬉しかった。
◆
学食に着いた。
幸い、昼休みはもう終わっていて、人はまばらだ。
数人の学生が、遅い昼食を食べている。
「あれだ」
俺は自分の席を指差した。
カツカレーの皿が、まだそのまま残っている。カツだけが、皿の上で鎮座していた。
周りの席を見ると、他の学生たちのカツカレーも同じ状態だ。カツだけが残されている。
学食全体に、カツの残骸が散乱している。
まるで戦場のようだ。いや、戦場だったのかもしれない。カツとの戦いに敗れた学生たちの、痕跡。
「……これか」
ドワーナがカツに近づいた。
じっと見つめる。
そして——触れようとする。
その瞬間——
ドワーナの顔が変わった。
「……これは」
「どうした?」
エリシアが聞く。
「重い。普通の肉ではない」
ドワーナがカツを両手で持ち上げる。
その顔が——真剣だ。
「この重量……この硬度……この、金属的な光沢……」
ドワーナがカツを様々な角度から見る。
まるで宝石鑑定士のような目つきだ。
「間違いない。これは……オリハルコンだ!」
は?
「本当か!?」
エリシアが驚く。
「ああ! オリハルコン級の硬度と重量を持っている! いや、それ以上かもしれない!」
ドワーナが興奮している。
その目が輝いている。まるで子供のような、純粋な喜びの目。
「すごい……こんなものが、この世界にあったなんて……」
「マジで!?」
いや、それただの豚肉ぅ!勧めといてなんだが。
信じられない。でも、ドワーナの反応を見ると、本物らしい。
「よし、これで剣を鍛える!」
ドワーナがカツをテーブルの上に置いた。
「ここで!?」
「ああ! 時間がない! 悪霊がいつ来るかわからない!」
ドワーナがハンマーを構える。
「ちょ、待て、周りに人——」
「世界を救うためだ! 許せ!」
ドワーナがハンマーを振り下ろした——




