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第五話「妹と日常」

日曜日の朝。


 俺は自室のベッドで、スマホのアラームと格闘していた。


 格闘といっても別にアラームが止まらないとか音量が大きすぎるとかではない。ただ単純に、止めたはずのアラームが五分後にまた鳴るのだ。スヌーズ機能というやつである。


「兄さん、いつまで寝ているんですか」


 ドア越しに声が聞こえた。


 妹——田口茜(たぐちあかね)の声だ。


「……あと五分五十秒」


「それ三回目ですよ。いい加減起きてください」


 俺は観念してベッドから起き上がった。日曜の朝っぱらから何でこんなに厳しいんだ、あいつは。


 部屋を出てリビングに向かうと、エプロン姿の茜がキッチンに立っていた。


 茜は俺の二つ下の妹で、高校二年生。栗色のショートボブに、切れ長の目。成績は常に学年トップで、生徒会の副会長も務めている。いわゆる優等生というやつだ。


 口調も丁寧で、誰に対しても敬語を使う。俺に対しても。


 ただし、俺に対してだけやたら厳しい。


 茜は実家暮らしだが、休日になると必ず俺のアパートにやってくる。「兄さんは一人じゃまともな生活ができませんから」というのが本人の弁だ。余計なお世話である。でも飯が美味いから文句は言えない。


「おはようございます、兄さん」


「おう、おはよ」


「顔、洗いましたか?」


「……これから」


「先に洗ってきてください。寝起きの顔で食卓につくのはマナー違反です」


 朝から説教である。


 俺は素直に洗面所に向かった。逆らうと面倒なのだ、この妹は。


 顔を洗ってリビングに戻ると、テーブルには完璧な和朝食が並んでいた。焼き鮭、味噌汁、白米、卵焼き、漬物。


「……相変わらず料理上手いな」


「当然です。兄さんと違って、私はきちんと家事ができますから」


 辛辣。


 茜はそう言いながらも、俺の前に味噌汁を置く手つきは丁寧だった。


「いただきます」


「どうぞ」


 茜が向かいの席に座る。


 俺が味噌汁を啜ると、出汁がしっかり効いていて美味い。


「美味い、これは嫁にしたいな」


「……そうですか」


 茜が少しだけ目を逸らした。


 気のせいか、耳が赤い。


 褒められると照れるくせに、普段は偉そうなのだ。面倒くさい妹である。



 ◆



 朝食を終え、俺はソファに寝転がってスマホをいじっていた。


「兄さん、だらしないですよ」


「日曜くらい許してくれ」


「邪魔です、座る場所がありません」


 茜が俺の足を持ち上げて、自分がソファに座った。


 結果、俺の足が茜の膝の上に乗る形になる。


「……お前、それでいいのか」


「別に構いません。邪魔だったので動かしただけです」


 動かした結果がこれか。


 まあ、いいけど。


 LINEの通知が来た。綾乃ちゃんからだ。


『田口さん!! 空手の大会で優勝しました!! 一緒にお祝いしたいです!!』


 相変わらず感嘆符が多い。まああの強さなら優勝は間違いないが、対戦相手がケガを負っていないか心配である。


 返信を打とうとしたら、茜が俺のスマホを覗き込んできた。


「誰からですか?」


「……後輩」


「女性ですか?」


「まあ」


「…………」


 茜が俺の脛を軽くつねった。


「痛い」


「すみません、手が滑りました」


 それは無理がある。


「兄さん、最近やたら女性と連絡を取っていますよね」


「そうか?」


「神龍寺さん、空手の方、植物園のお姉さん。で、今度は後輩ですか?」


 なんで知ってるんだこいつ。


 いや、俺が話したのか。たぶん。


「別にそんな——」


「モテ期ですか?」


「違う」


「ですよね。兄さんにモテ期なんて来るはずありませんし」


 辛辣すぎる。


 でも茜はそう言いながら、俺の足をさすっている。さっきつねったところを。


 ……謝ってるつもりなのか? 素直に謝ればいいのに。



 ◆



 昼過ぎ。


 俺と茜は近所のスーパーに買い物に来ていた。


「今日の晩ご飯、何がいいですか?」


「カレー」


「却下です」


「なんで」


「先週も先々週もカレーでした。栄養バランスを考えてください」


 正論で殴ってくる。


「じゃあ何がいいんだよ」


「……ではプロテインとサプリメントにしましょうか」


「それごはんちゃう」


 というかそれは栄養バランスが良いと言っていいのか。


「しかたないですね、間を取ってプロテインサプリメントカレーを作って差し上げます」


 何それ新ジャンル。


 俺たちは野菜コーナーを歩きながら、じゃがいもや人参をカゴに入れていった。


「ねえ兄さん」


「ん?」


「神龍寺さんって、どんな方ですか?」


 唐突な質問だ。


「どんなって……無表情で、無愛想で、でも優しいところもある」


「ふうん」


 明らかに不機嫌な顔だ。だが可愛い、この顔が見たいがためにだらしない行動をとっているといっても過言ではない。


「あと、霊媒師を自称してる」


「……霊媒師?」


 茜が眉をひそめた。


「怪しくないですか? そういう方と関わって大丈夫なんですか?」


「大丈夫だろ。一年以上の付き合いだし」


「兄さんは人を疑わなさすぎです。もっと警戒心を持ってください」


 また説教だ。


 でも、心配してくれてるんだろうな、とは思う。言い方がきついだけで。


「あれ、田口さん?」


 聞き覚えのある声。


 振り返ると、ポニーテールの少女が立っていた。


「綾乃ちゃん」


「やっぱり田口さんだ! こんなところで会えるなんて!」


 綾乃ちゃんが嬉しそうに駆け寄ってくる。


 今日は私服で、白いTシャツにデニムのショートパンツ。健康的で眩しい。


「買い物ですか?」


「まあ、うん」


「私もです! お父さんに頼まれて、お肉を買いに来たんです!」


 相変わらず元気だ。感嘆符が口調からも伝わってくる。


「あ、隣の方は——」


 綾乃ちゃんが茜を見た。


「妹さんですか!?」


「ああ、うん。茜」


「わあ、可愛いですね!!」


 綾乃ちゃんが目を輝かせる。


 茜は少し戸惑ったように俺を見た。


「……兄さん、この方は?」


「ああ、風間綾乃ちゃん。大学の後輩で、空手やってる」


「初めまして! 風間綾乃です!!」


 綾乃ちゃんが元気よく手を差し出した。


 茜が一瞬躊躇してから、その手を取る。


「……田口茜です。兄がいつもお世話になっております」


「いえいえ! 私の方こそお世話になってます!! 田口さんには道場で助けていただいて!!」


「道場?」


 茜が俺を見た。説明を求める目だ。


「あー、まあ、色々あって」


「色々、ですか」


 茜の目が細くなった。


 まずい。後で詮索される流れだ。


「田口さんのおかげで不審者を退治できたんですよ!!」


「不審者……?」


「すごく強くて! 田口さんが気を逸らしてくれたから、私が倒せたんです!!」


 綾乃ちゃんが熱く語る。


 茜の視線がさらに厳しくなった。


「兄さん。帰ったら詳しく説明していただきますからね」


「……はい」


 逃げられそうにない。


「あ、お邪魔しちゃいましたね!」


 綾乃ちゃんが空気を読んだのか、一歩下がった。


「ごゆっくり買い物してください! 茜さん、お会いできて嬉しかったです!!」


「……こちらこそ」


「また大学で会いましょう、田口さん!!」


 綾乃ちゃんは手を振りながら、精肉コーナーの方へ走っていった。


 嵐のような子だ。


「……行ってしまいましたね」


 茜がぽつりと呟いた。


「元気な子だろ」


「ええ。兄さんとは正反対ですね」


「うるさい」


「それで、不審者とは何ですか? 詳しく説明してください」


 茜がじっと俺を見る。


 やっぱり逃げられなかった。


「……買い物終わってからな」


「約束ですよ」


 茜が俺の袖を引っ張る。


 俺たちは再び野菜コーナーを歩き始めた。



 ◆



 買い物を終え、アパートに戻る。


 道中、俺は茜に道場でのことを説明した。もちろん、霊とかマッチョとかは省いて、「不審者が出て、綾乃ちゃんが空手で撃退した」という部分だけ。


「……つまり、兄さんは見ていただけですか」


「まあ、そうなる」


「役に立たないですね、兄さんらしいです」


「うるさい」


「でも、怪我がなくてよかったです」


 茜が小さな声で付け足した。


 素直じゃないやつ。


 アパートに着くと、茜がキッチンでカレーを作り始めた。俺はソファに座って、スマホをいじる。


 神龍寺からLINEが来ていた。


『今度の土曜、また除霊バイトあるんだけど。来れる?』


『行く。どこ?』


『まだ未定。決まったら連絡する』


『了解』


 また除霊バイトか。


 前回の植物園バイトで体力を消耗したから、そろそろ金が欲しい。時給五千円は魅力的だ。


「兄さん、玉ねぎを切ってください」


「えー」


「えー、じゃありません。手伝うのは当然でしょう」


 茜に呼ばれて、俺は重い腰を上げた。


 キッチンに立つと、茜が包丁を差し出してきた。


「はい、どうぞ」


「……エプロンは?」


「要りません。もうすでに汚れているようなものでしょう?」


 どうやら俺を汚れと認識しているようだ。


 俺は包丁を受け取り、玉ねぎと向き合った。


 切り始めると、すぐに目が染みてきた。


「うっ……」


「自分の不甲斐なさに泣いているんですか?情けないですね」


「泣いてない。玉ねぎのせいだ」


「責任転嫁ですか?」


 茜がそう言いながら、ティッシュを差し出してきた。


 口は悪いが、やることは優しい。


「ねえ兄さん」


「ん?」


「さっきの方、元気な方でしたね」


「……そうだな」


「兄さんとは正反対です」


「二回目だぞそれ」


「大事なことなので」


 茜が俺の横に並んで、人参を切り始めた。


「でも、いい方みたいですね。礼儀正しくて」


「まあ、いい子だよ。ちょっと元気すぎるけど」


「兄さんの視界に入れるにはもったいないです」


 視界に入ることすら俺はできないというのか…


「昔から思っていたんですけど、兄さんってお友達を作るのが下手ですよね」


「…強者は群れないのさ」


「では中学も高校も常に強者だったようですね」


 茜の声が、少しだけ柔らかくなった。


「私、少し心配だったんですよ。兄さんが一人暮らしを始めた時」


「……そうか」


「でも最近、楽しそうにしていらっしゃいます」


 茜が俺を見た。


 いつもの厳しい目じゃなく、どこか安心したような目。


「ですから……まあ、いいんじゃないですか。お友達がいるの」


 照れくさそうに目を逸らす。


 素直じゃないやつ。


「お前がいるから、一人には永遠にならないさ」


「……そうですね、可哀そうなのでそうしてあげます」


 茜がぶっきらぼうに言った。


「不本意ですが、家族なので。勘違いしないでください」


 俺は黙って玉ねぎを切り続けた。


 目が染みる。涙が出る。


 玉ねぎのせいだ。それ以外の理由はない。



 ◆



 夕食のカレーは最高に美味かった。


 茜の作るカレーは、市販のルーを使っているはずなのに、なぜか特別な味がする。


「おかわり」


「ご自分でよそってください」


「頼むよマイスイートシスター茜ちゃん」


「……仕方ありませんね」


 茜が立ち上がり、鍋からカレーをよそってくる。


 口では嫌がるくせに、ちゃんとやってくれる。


「はい、どうぞ」


「サンキュ」


「どういたしまして」


 二杯目のカレーを食べながら、俺はふと思った。


 茜は、いつからこんなに料理が上手くなったんだろう。


 昔は——そう、小学生の頃は、卵焼きすら焦がしていた気がする。


 でも今は、プロ顔負けの腕前だ。


「何を見ているんですか?」


「いや、美味いなと思って」


「……当然です」


 本当に、素直じゃないやつ。



 ◆



 食後、茜は食器を洗い、俺は風呂に入った。


 湯船に浸かりながら、今日一日を振り返る。


 朝起きて、茜に起こされて。


 朝食を食べて、説教されて。


 スーパーで買い物して、綾乃ちゃんに会って。


 カレーを作って、食べて。


 普通の日曜日だ。


 特別なことは何もない。


「——兄さん、長いですよ」


 ドア越しに茜の声。


「あと五分」


「もう40分経っています。お湯が冷めます」


 正論だ。


 俺は風呂から上がり、リビングに戻った。


 茜はソファに座って、テレビを見ていた。何かのバラエティ番組だ。


「隣、座っていい?」


「ご自由にどうぞ」


 俺がソファに座ると、茜が少しだけこちらに寄ってきた。


 ……近くないか?


 指摘しようとしたが、やめた。たぶん自覚してないのだ。


 俺たちは並んでテレビを見た。


 くだらないバラエティ番組。芸人がリアクション芸で笑いを取っている。


「兄さん」


「ん?」


「私、ずっと兄さんのことを見ていたんですよ」


「……何の話?」


「昔からです。ずっと」


 茜がテレビを見たまま、ぽつりと言った。


「兄さんが辛そうな時も、お一人で頑張っている時も、全部見ていました」


「……」


「ですから、最近の兄さんを見ていると——」


 茜が言葉を切った。


「見てると?」


「……虫唾が走ります」


 お兄ちゃんの幸せを祝ってよぉ…


 茜が俺の腕を軽く叩いた。


 全然痛くない。手加減されている。


「別に構いませんけど。兄さんにお友達がいるのは」


「何だその言い方」


「何でもありません」


 茜が俺を見上げた。


 切れ長の目が、俺を真っ直ぐ見つめている。


「でも、私のことも忘れないでくださいね」


「……忘れるわけないだろ」


「そうですか。ならいいですけど」


 茜が視線を逸らした。


 その横顔が、なぜか少しだけ寂しそうに見えた。


 気のせいか。


 きっと気のせいだ。



 ◆



 夜も更けて、茜が帰る時間になった。


「それでは、失礼します」


「ああ。気をつけて帰れよ」


「当然です。私は兄さんと違って、きちんとしていますから」


 最後まで偉そうだ。


 玄関で茜を見送る。


 茜は靴を履きながら、ふと顔を上げた。


「ねえ、兄さん」


「ん?」


「ちゃんとご飯を食べていますか? 野菜も摂っていますか?」


「……お前が作ってくれてるだろ」


「私がいない時の話です。カップ麺ばかり食べていませんか?」


「……食べてない」


「嘘ですね。目が泳いでいます」


 バレてた。


「仕方ありませんね。来週も来て差し上げます」


「……来て差し上げます、じゃなくて来たいんだろ」


「違います」


 茜が俺を睨む。


「また来週です」


「おう」


 茜が出ていく。


 俺はドアを閉めて、一人になったリビングを見渡した。


 さっきまで茜がいた場所。


 もう誰もいない。


 静かだ。


 俺は冷蔵庫から麦茶を取り出して、一口飲んだ。


 ……忘れないでくださいね、か。


 何を言ってるんだ、あいつは。


 忘れるわけないだろ。俺の妹なんだから。


 俺はそう思いながら、ソファに寝転がった。


 天井を見上げる。


 今日は、普通の日曜日だった。


 妹と過ごす、普通の休日。


 明日からまた大学だ。神龍寺と学食で飯を食って、講義を受けて、バイトに行って。


 そして週末には、また除霊バイトがある。


 忙しくなりそうだ。


 でも——


 悪くない。


 俺は、今の生活が嫌いじゃない。


 神龍寺がいて、綾乃ちゃんがいて、風香さんがいて。


 そして、茜がいる。


 俺の、生意気な妹。


 口は悪いけど、いつも俺のことを気にかけてくれる——



 ◆



 翌日。


 大学の学食で、俺は神龍寺と向かい合っていた。


「——で、昨日は妹と過ごしてたわけ」


「まあ、うん。説教されながら」


「説教?」


「茜は俺に厳しいんだよ。朝起きろとか、ちゃんと食べろとか」


「へえ」


 神龍寺が醤油ラーメンをすすりながら、俺を見た。


 相変わらず無表情だ。


「妹、ね」


「何その言い方」


「別に。何でもないよ」


 神龍寺が視線を逸らした。


 また「何でもない」だ。この女、よくそれで会話を打ち切る。


「妹さん、何歳なの?」


「高二。成績優秀で、生徒会副会長やってる」


「優秀なんだね」


「俺と違って、な」


「自覚はあるんだ」


 神龍寺が小さく笑った。


 珍しい。


「今度紹介しようか?」


 冗談で言ったつもりだった。


 でも神龍寺は、真剣な顔で俺を見た。


「……いいの?」


「え、まあ、機会があれば」


「そう。じゃあ、今度会わせて」


「……おう」


 何だ、その反応。妹に会いたいのか?まさか神龍寺はそっちなのか…。


 まあ、神龍寺と茜が会ったら、それはそれで面白いかもしれない。


 二人とも口数少ないし、案外気が合うかも——いや、茜は神龍寺に「兄さんに近づかないでいただけますか」とか言いそうだな。丁寧に。


「何考えてるの」


「いや、別に」


「嘘。何か面白いこと考えてたでしょ」


「……バレた?」


「顔に出てる」


 神龍寺が小さく笑った。


 珍しい。この女が笑うのは、本当に珍しい。


「妹さんのこと、大事にしてるんだね」


「……マイスイートシスターだからな」


「…」


 呆れ顔だ。


 神龍寺が俺を真っ直ぐ見た。


「——大事なものは、ちゃんと守りなよ」


「……?」


 どういう意味だ。


 聞こうとしたら、神龍寺はもうラーメンをすすっていた。


 会話終了のサインだ。


 俺は首を傾げながら、カツカレーを口に運んだ。


 今日のカツは、普通の硬さだった。オリハルコンではない。


 よかった。


 ……でも、神龍寺の言葉が、なぜか頭から離れなかった。


 大事なものは、ちゃんと守りなよ。


 何を守れというのだろう。


 俺には、守るべきものなんて——


 いや、ある。


 神龍寺。綾乃ちゃん。風香さん。


 そして、茜。


 俺の、大切な人たち。


 でも——


 何から守るんだ?


 俺は考えても答えが出ず、結局カツカレーを食べ終えた。


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