第四話「植物園のお姉さんとオタクと」
日曜日の午後。
俺は市立植物園に向かいながら、昨日のことを思い出していた。
廃病院の除霊バイト。
正直、地獄だった。
「廃病院」と聞いていたから、誰もいない廃墟を想像していたのに——着いてみたら、めちゃくちゃ人がいた。待合室には順番待ちの人たち、受付には白衣のおばさん、廊下にはナース服の女性。
どこが廃病院だ。普通に営業してるじゃないか。
そう神龍寺に言ったら、深いため息をつかれた。なんで?
結局、神龍寺に連れられて病院中を三時間も歩き回った。神龍寺が「消えて」と呟くたびに、なぜか近くの人が姿を消していく。閉院時間なのかと思ったけど、廃病院に閉院時間ってあるのか?
途中、全力疾走で逃げていく患者がいて、なぜか追いかけさせられた。あれは何だったんだろう。運動会?
最終的に病院は俺と神龍寺だけになり、帰りの電車では足が棒のようになっていた。神龍寺は涼しい顔をしていた。体力おばけか。
——そんなわけで、俺は今、癒しを求めている。
植物園のバイト。週に二回、温室の管理を手伝う仕事だ。時給は普通だけど、仕事内容は楽だし、何より——
優しいお姉さんがいる。
一色風香さん。二十六歳。植物園の管理人。
いつも穏やかで、俺のことを気にかけてくれて、たまにお菓子をくれる。
疲れた体に、風香さんの癒しが必要だ。
◆
日曜日の午後。
俺は市立植物園の温室にいた。
ガラス張りの天井から陽光が降り注ぎ、熱帯植物たちが生い茂っている。湿度が高くて少し蒸し暑いが、緑に囲まれていると不思議と心が落ち着く。
「田口くん、お疲れ様」
柔らかい声が聞こえた。
振り返ると、風香さんが立っていた。
ゆるくウェーブのかかった茶髪。穏やかな目元。白いブラウスにベージュのエプロン。いかにも「植物園のお姉さん」という雰囲気だ。
「あ、風香さん。お疲れ様です」
「今日も来てくれてありがとうね。はい、これ」
風香さんが小さな紙袋を差し出してきた。
中を覗くと、クッキーが入っている。
「手作りなの。良かったら食べて」
「いいんですか? ありがとうございます」
天使か。
この人は天使なのか。
疲れた体に、風香さんの優しさが染み渡る。昨日の廃病院の疲労が浄化されていくようだ。
「どうしたの? なんだか疲れてる顔してるわね」
「いや、ちょっと昨日……」
廃病院の除霊バイト、とは言えない。言ったら変な人だと思われる。
「昨日、友達と遠出して」
「あら、楽しそう」
「楽しくはなかったです……」
風香さんがくすくすと笑った。
「大変だったのね。今日はゆっくりしていいわよ。急ぎの仕事もないし」
「ありがとうございます……」
女神か。
この人は女神なのか。
俺は風香さんに感謝しながら、温室の見回りを始めた。
◆
植物園のバイトは、基本的に温室の管理だ。
植物に水をやり、枯れた葉を取り除き、温度と湿度をチェックする。単純作業だが、緑に囲まれていると心が安らぐ。
——ただ、一つだけ問題がある。
「ふ、風香さぁぁぁん!!」
叫び声が聞こえた。
振り返ると、メガネにチェックシャツの男が走ってきた。リュックを背負い、何かのキャラクターがプリントされたTシャツを着ている。
見るからにオタクだ。
「風香さん! 今日も可愛いでござるぅぅ!!」
男が風香さんに駆け寄っていく。
風香さんは——にっこりと微笑んだ。
「あら、こんにちは」
「ひゃあぁぁ! 風香さんが俺に微笑んでくれたでござる!! 今日は良い日でござる!!」
男が悶絶している。
……なんだこれ。
俺は遠くからその光景を眺めていた。
風香さん、知り合いなのか? にしては距離感がおかしい。というか、あの男の様子がおかしい。完全に恋する乙女の目をしている。いや、乙女じゃないな。恋するオタクの目だ。
「風香さん、今日もその服似合ってるでござるね! まるで『花咲く乙女のセレナーデ』の風花ちゃんみたいでござる!!」
花咲く乙女のセレナーデ。
聞いたことがある。確か去年流行ったアニメだ。ヒロインの名前が「風花」で、花屋の看板娘という設定だったはず。
……ああ、なるほど。
風香さん、そのアニメのヒロインに似てるのか。名前も「風香」と「風花」で似てるし、植物に囲まれて働いているところも。
それでオタクに人気なのか。災難だな。
「ありがとう。嬉しいわ」
風香さんが穏やかに答えている。
すごい。あの対応。大人だ。俺だったら絶対に引いてる。
「風香さん! 今度一緒に写真撮ってほしいでござる!!」
「ごめんなさいね、仕事中だから」
「そ、そうでござるか……」
男がしょんぼりする。
「でも、植物園は毎日開いてるから、いつでも遊びに来てね」
「風香さぁぁぁん!! 優しいでござる!! やっぱり風香さんは天使でござる!!」
男が感涙している。
風香さん、すごいな。完璧なあしらい方だ。相手を傷つけず、でも一線は守る。これがプロの接客というやつか。
男はしばらく風香さんの周りをうろうろしていたが、やがて満足したのか、温室の奥へと消えていった。
「……大丈夫でしたか?」
俺が近づいて声をかけると、風香さんは苦笑した。
「ああいう人、たまにいるのよ」
「大変ですね」
「慣れたわ。悪い人じゃないしね」
風香さんが肩をすくめる。
大人だ。本当に大人だ。俺も二十六歳になったら、ああいう余裕が持てるのだろうか。無理な気がする。
「でもね」
風香さんが少し声を低くした。
「あんまりしつこい人は、ちょっと困るのよね」
「そうですよね」
「そういう時は——」
風香さんがウインクした。
「——お姉さんに任せて」
なんだろう、その言い方。妙に意味深だ。
でも深く考える前に、また別の方向から声が聞こえてきた。
「風香さぁぁぁん!! 俺だよ、俺!!」
今度は別の男だ。
こっちはハチマキを巻いて、何かの応援グッズを持っている。うちわに「風香」と書いてある。いや、それアイドルの応援グッズじゃないのか。
「今日も会いに来たよぉぉ!! 風香さんに会うために、電車で二時間かけて来たんだぁぁ!!」
電車で二時間。
熱狂的すぎないか。
「あら、遠くからありがとう」
風香さんが微笑む。
「せっかく来たんだから、ゆっくり植物を見ていってね」
「植物なんかどうでもいいよぉぉ!! 俺は風香さんを見に来たんだぁぁ!!」
植物園に来て植物どうでもいいとか言うな。
「うふふ、嬉しいわ。でも、ここは植物園だから、植物も見てあげてね」
「風香さんがそう言うなら見るぅぅ!!」
男がハイテンションで温室の中を走り回り始めた。
植物を見てるというより、走り回ってるだけだ。大丈夫かあいつ。
「……ああいう人も、常連さんなんですか?」
「そうねえ。週に三回くらい来るかしら」
週に三回。
電車で二時間かけて、週に三回。
それはもう常連というか、ストーカーの域ではないだろうか。
「大丈夫なんですか?」
「大丈夫よ。見てるだけだし、悪さはしないから」
風香さんが余裕の笑みを浮かべる。
本当に大丈夫なのか。俺は少し心配になった。
◆
それからしばらく、俺は温室の見回りを続けた。
しかし、見回るたびにオタクっぽい人たちとすれ違う。
メガネの男。ハチマキの男。アニメTシャツの男。リュックを背負った男。何かのフィギュアを持っている男。
全員、風香さんの方をチラチラ見ている。
「……なんか今日、オタクっぽい人多くないですか?」
俺が風香さんに聞くと、風香さんは首を傾げた。
「そうかしら? いつも通りだと思うけど」
「いつも通り……」
いつもこんなにいるのか。知らなかった。俺がバイトに来る時間帯には、あまり見かけなかったけど。
「日曜日は特に多いのよ。平日はお仕事があるでしょうし」
なるほど。日曜日だからオタクが集まっているのか。
風香さん人気すぎないか。アイドルかよ。
「風香さん、モテますね」
「あら、そうかしら」
風香さんがくすくす笑う。
「嬉しいけど、ちょっと困ることもあるのよね」
「困ること?」
「ほら、ああいう——」
風香さんが温室の奥を指差した。
見ると、さっきのハチマキの男が、風香さんの方に向かってスマホを構えていた。
——盗撮?
「あ、あいつ——」
「大丈夫よ」
風香さんが俺を制した。
そして、にっこりと微笑みながら——小さく指を振った。
パシッ。
音がした。
男のスマホが——手から滑り落ちた。
「あっ」
男が慌ててスマホを拾おうとする。でも、スマホは地面を滑るように転がっていき——温室の排水溝に吸い込まれていった。
「あああああ!! 俺のスマホがぁぁぁ!!」
男が絶叫している。
……え?
今、何が起きた?
俺は目をこすった。
スマホが勝手に滑り落ちて、排水溝に落ちた。偶然? いや、でも——
「あらあら、大変ね」
風香さんが心配そうな顔で言った。
「スマホ、大丈夫かしら」
「うわぁぁぁん!! データがぁぁぁ!!」
男が排水溝を覗き込んで泣いている。
自業自得だ。盗撮しようとしたんだから。でも、それにしても——
「風香さん、今……」
「ん?」
「いえ、なんでもないです」
気のせいか。きっと気のせいだ。スマホが勝手に落ちることなんて、よくある。よくあるよな?
俺は深く考えないことにした。
◆
その後も、似たようなことが何度かあった。
風香さんに近づきすぎたオタクが、急に足を滑らせて転んだり。
しつこく話しかけていたオタクが、急にお腹を押さえてトイレに駆け込んだり。
風香さんの写真を撮ろうとしていたオタクのカメラが、急にバッテリー切れになったり。
全部、偶然だろう。偶然に違いない。
でも、その「偶然」が起きる直前、風香さんがほんの少し——指を動かしているような気がした。
気のせいだ。きっと気のせいだ。
俺は自分にそう言い聞かせた。
◆
「田口くん、この花知ってる?」
温室の奥で、風香さんが赤い花を指差した。
「いや、わからないです」
「アンスリウム。『情熱』って花言葉があるのよ」
「へえ、情熱……」
「似合わない?」
「いや、風香さんには似合うと思います。なんか、内に秘めた情熱がありそうっていうか」
「あら、嬉しいこと言ってくれるわね」
風香さんがくすくす笑う。
俺も思わず笑った。こうやって風香さんと話していると、自然と楽しくなる。優しいし、話も面白いし、何より居心地がいい。
「田口くんは、好きな花ある?」
「うーん……サボテンとか?」
「サボテン?」
「水やり忘れても枯れないじゃないですか」
「ふふ、田口くんらしいわね」
風香さんが目を細めて笑う。
そのとき——
「——許せないでござる」
低い声が聞こえた。
振り返ると、さっきのメガネのオタクが、血走った目でこちらを睨んでいた。
「風香さんが……他の男と楽しそうに……許せないでござる……!」
オタクが棚の方へじりじりと移動していく。
その手が——棚の上の植木鉢に触れた。
「あの男さえいなければ……風香さんは俺だけのものでござる……!」
カタン。
棚が揺れた。
——え?
見上げた瞬間、植木鉢が落ちてきた。
俺の頭めがけて。
結構でかい。当たったら普通に痛いやつだ。
反応できなかった。
——瞬間。
「——ダメよ」
風香さんの声が聞こえた。
いつもの穏やかな声じゃない。低くて、冷たい声。
パキン。
乾いた音がした。
植木鉢が——空中で砕け散った。
土と破片が、俺の手前でぱらぱらと落ちていく。
「…………え?」
何が起きた?
俺は呆然と立ち尽くした。
風香さんを見ると——
——目が、怖かった。
いつも穏やかに細められている目が、すっと開いて、オタクを射抜いている。
優しいお姉さんの面影はどこにもない。そこにいたのは——なんというか——怒っている女の人だった。
「田口くんを傷つける人は、好きじゃないわ」
風香さんが静かに言った。
オタクが——震えている。
「ひ、ひぃぃぃ……!」
「帰って」
風香さんが小さく指を振った。
オタクの体が——ふわっと浮いた。
そして——温室の出口に向かって、すごい勢いで吹っ飛んでいった。
「ぎゃあぁぁぁぁ!!」
悲鳴が遠ざかっていく。
……何が起きた?
俺は目をこすった。
今、オタクが吹っ飛んでいった。風に煽られた? いや、温室の中に風なんてない。
「田口くん」
風香さんの声がした。
振り返ると、風香さんがいつもの穏やかな表情に戻っていた。
「大丈夫? 怪我ない?」
「あ、はい……大丈夫です」
「よかった」
風香さんが安堵したように微笑んだ。
その笑顔に——ドキッとした。
さっきの怖い表情と、今の優しい表情。そのギャップに、心臓が跳ねた。
「あの、風香さん、今——」
「ん?」
「いえ、なんでもないです」
聞いていいのかわからなかった。
植木鉢が空中で砕けたこと。オタクが吹っ飛んだこと。風香さんの目が怖かったこと。
全部、説明がつかない。
でも——風香さんが俺を守ってくれた。それだけは、なんとなくわかった。
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
風香さんがにっこり笑った。
「田口くんに何かあったら、お姉さん困るもの」
その言葉が、妙に心に残った。
◆
「田口くん、休憩にしましょうか」
夕方近くになって、風香さんがそう言った。
「はい」
俺たちは温室を出て、管理棟の休憩室に移動した。
風香さんがお茶を淹れてくれる。緑茶の香りが心地いい。
「今日もお疲れ様。大変だったでしょう」
「いえ、そんな……」
大変だったのは風香さんの方だ。あれだけオタクに囲まれて、よく平気でいられる。
「慣れてるから大丈夫よ」
俺の考えを読んだかのように、風香さんが言った。
「最初は戸惑ったけど、今はもう——対処法もわかったし」
「対処法?」
「ええ」
風香さんが意味深に微笑んだ。
「お姉さんには、ちょっとした特技があるのよ」
「特技……」
なんだろう。護身術とか? それとも——
いや、深く考えるのはやめよう。
「田口くんは優しいわね」
風香さんが急に言った。
「え?」
「さっきも、私のこと心配してくれてたでしょう」
「いや、まあ、普通に心配になるじゃないですか。あんなに囲まれてたら」
「ふふ、ありがとう」
風香さんが嬉しそうに笑う。
なんだか照れくさくなって、俺は目を逸らした。
「神龍寺さんとは、最近どう?」
「神龍寺? まあ、いつも通りですけど」
「そう。仲良くしてるのね」
「仲良く……まあ、そうですかね」
友達、だと思う。たぶん。
「田口くん、モテるわね」
「え? いや、全然——」
「神龍寺さんに、空手の子に、私でしょう?」
「いや、風香さんは違うじゃないですか」
「あら、そう?」
風香さんがいたずらっぽく笑った。
「お姉さんも、田口くんのこと気に入ってるのよ?」
「——は?」
「ふふ、冗談よ」
風香さんがくすくす笑う。
冗談か。そうだよな。風香さんみたいな人が、俺なんかを——
「半分くらいは、ね」
「半分?」
「さあ、どうかしら」
風香さんが立ち上がった。
「そろそろ閉園時間よ。戸締りしましょうか」
「あ、はい」
俺も慌てて立ち上がる。
半分くらい冗談って、どういう意味だ。残りの半分は本気なのか。いや、そんなわけないよな。
俺は混乱する頭を抱えながら、風香さんの後について温室に戻った。
◆
閉園作業を終えて、俺は植物園を後にした。
夕焼けの中、帰り道を歩きながら、今日一日を振り返る。
昨日は廃病院で疲弊して、今日は植物園で癒された。
風香さんは相変わらず優しかった。オタクに囲まれても動じない、大人の余裕。
……ただ、あの「偶然」はなんだったんだろう。
スマホが勝手に落ちたり、オタクが急に転んだり。
風香さんが指を動かすたびに、何かが起きていたような——
いや、気のせいだ。きっと気のせいだ。
俺は首を振って、考えを振り払った。
世の中には、説明できないことがたくさんある。深く考えても仕方がない。
スマホが震えた。
LINEの通知。神龍寺からだった。
『今日のバイト、どうだった?』
『癒された』
『そう。よかったね』
なんとなく、文面が素っ気ない気がする。
『神龍寺は? 今日何してた?』
『別に。普通に過ごしてたよ』
『そっか』
『……ねえ』
『ん?』
『その植物園の人って、どんな人?』
どんな人。
風香さんのことを聞いているのか。
『優しいお姉さん。二十六歳。美人』
既読がついた。
しばらく返信がない。
あれ、なんか変なこと言ったか?
五分後、ようやく返信が来た。
『……そう』
短い。
そして、なんとなく不機嫌そうな気がする。
神龍寺、また機嫌悪くなった? 綾乃ちゃんの時と同じだ。
『神龍寺?』
『何でもない。また明日ね』
それきり、返信は来なかった。
俺はスマホをポケットにしまい、ため息をついた。
女心はよくわからない。
でもまあ、神龍寺のことだ。本当に怒っていたら言ってくるだろう。「何でもない」と言ったんだから、何でもないんだろう。
俺は夕焼けの中、家路を急いだ。
明日からまた大学だ。レポートもあるし、講義もある。
でも——なんだか、最近は毎日が騒がしい。
神龍寺に、綾乃ちゃんに、風香さん。
気づけば、周りに女の子が増えている。
……俺、なんかフラグ立ってない?
いや、そんなわけないか。俺みたいな陰キャが、ハーレム展開なんてあるわけがない。
あるわけがないよな?
俺は自分に言い聞かせながら、帰路についた。




