第九話・裏「一色風香との買い物」
土曜日の朝。
私は鏡の前で、三度目の着替えをしていた。
白のブラウスに、紺のロングスカート。シンプルだけど、上品に見える組み合わせ。
——いえ、違うわね。
これじゃあ地味すぎるかしら。もう少し華やかな方がいい? でも、派手すぎると引かれるかもしれない。田口くん、そういうの苦手そうだし。
私は結局、最初に選んだ服に戻した。
三十分も悩んで、最初の服。我ながら滑稽だわ。
でも——今日は特別な日なのよ。
田口くんと、二人きりで買い物。
仕事の一環という名目だけど、実質デートみたいなものでしょう?
私がそう思っているだけかもしれないけど。
香水を少しだけつけて、髪を整える。
——大丈夫。落ち着いて。私は二十六歳の大人の女なんだから。
七歳も年下の男の子との買い物で、こんなに緊張するなんて。
自分でも呆れるわ。
◆
駅前に着くと、田口くんはもう待っていた。
ベンチに座って、きょろきょろと周りを見回している。
あの素朴な感じ。飾り気のない服装。緊張しているのか、少しそわそわしている様子。
私は思わず頬が緩むのを感じた。
「田口くん」
声をかけると、田口くんが振り返った。
そして——一瞬、息を飲んだような顔をした。
私の服装を見て、驚いているのかしら。
それとも——綺麗だと、思ってくれた?
だといいな。
「おはよう。待った?」
「いえ、今来たところです」
嘘ね。さっき見たとき、もうベンチに座ってたもの。
でも、その嘘が嬉しい。待たせたと思わせたくない、という気遣い。
田口くんは、そういうところがあるのよ。
◆
駅前から歩き出した。
田口くんが隣にいる。
私の心臓が、少しだけ速く鳴っている。
——落ち着きなさい、風香。あなたは大人でしょう?
自分に言い聞かせながら、世間話をする。
天気の話。一人暮らしの話。自炊の話。
田口くんは少し緊張しているみたいだけど、ちゃんと受け答えしてくれる。
その横顔を、ちらりと見た。
——本当に、いい子。
植物園でも、いつも真面目に働いてくれる。文句も言わないし、黙々と作業をこなす。
優しくて、素直で、ちょっと鈍感で。
そういうところが——。
年下の、大学生の男の子のことが。
我ながら、どうかしてると思う。
でも——今日くらいは、いいでしょう?
二人きりの時間を、楽しませてもらうわ。
——その時だった。
視界の端に、チャラそうな男が映った。
茶髪のイケメン風。友達と二人連れ。
こっちを見ている。
私を、見ている。
——あら。
嫌な予感がした。
男たちがこちらに向かって歩き始める。明らかにナンパ目的の歩き方。軽薄な笑みを浮かべて、私と田口くんの間に割り込もうとしている。
——ダメよ。
今日は、邪魔させない。
私は右手の人差し指を、ほんの少しだけ動かした。
パキッ。
男の一人が履いていたスニーカーの靴紐が、突然切れた。
「え、マジ?」
男が足元を見下ろす。靴紐がぷっつりと切れて、スニーカーが脱げかけている。
「ちょっと待って、靴紐——」
「マジかよ、今かよ」
男たちが立ち止まる。
私と田口くんは、その横を素通りした。
「どうかしましたか?」
田口くんが不思議そうに聞いてくる。
「ううん、何でもないわ」
私はにっこり笑った。
——一人目、撃退。
◆
ホームセンターへの道中。
商店街を抜けると、また別の男が近づいてきた。
今度はスーツ姿。キャッチセールスか何かかしら。
私を見て、にやりと笑う。
「お嬢さん、ちょっといい——」
私は指を動かした。
ブーッ!
男のポケットからスマホの音が鳴った。
「——あ、すみません、電話」
男がスマホを取り出す。
電話なんてかかってきていない。私が強制的にバイブレーションを作動させただけ。
でも、男は画面を見て首を傾げながら、こちらから離れていった。
——二人目、撃退。
「今の人、何か用だったんですかね」
「さあ、道でも聞きたかったんじゃない?」
私は涼しい顔で答えた。
◆
ホームセンターに到着。
脚立を選び、園芸用品を選び、田口くんに荷物を持ってもらう。
両腕に脚立、背中に大きな袋。
重そう。でも、田口くんは弱音を吐かない。
「重くない? 大丈夫?」
「大丈夫です」
——嘘ね。
でもここで手伝うというと、逆に気をつかわせてしまう。だから私はこっそりと補助をする、私のーーで。
「無理しないでね。お昼、奢るから」
こんなに純粋な反応をされると、もっといろいろしてあげたくなる。
——いけない、いけない。
私は大人なんだから。ちゃんと理性を保たないと。
◆
会計を済ませて、店の外に出た。
駐車場に向かう途中——また、男が近づいてきた。
今度は三人組。大学生くらいに見える。
私と田口くんを見て、何かひそひそ話している。
「あの人、めっちゃ綺麗じゃね?」
「連れの男、弟っぽくね?」
「いけるっしょ」
——聞こえてるわよ。
私は指を動かした。
ガタン。
近くに停めてあった自転車が、ドミノ倒しのように連鎖して倒れ始めた。
「うわっ!?」
「自転車! 俺の自転車!!」
男たちが慌てて自転車を起こしに走る。
私と田口くんは、その隙に駐車場へ向かった。
——三人目、撃退。
◆
荷物を車に積み込んで、イタリアンレストランへ。
田口くんが助手席に座っている。
狭い車内。二人きり。
田口くんの緊張が伝わってくる。
こんなに緊張してくれるなんて、嬉しいじゃない。
「田口くん、静かね」
「いえ、別に——」
「緊張してる?」
「してないです」
——嘘ばっかり。
でも、その嘘が愛おしい。
私はくすくす笑った。
「可愛いわね、田口くんって」
田口くんが耳を赤くした。
——ああ、もう。
反則よ、その反応。
私の心臓が、また少し速く鳴った。
◆
レストランに到着。
駐車場から店に向かう途中——また、ナンパが接近してきた。
今度は二人組。さっきより体格がいい。
明らかに私を狙っている目。
——しつこいわね。
今日は何人目?
私はため息をつきそうになった。
でも、田口くんの前でため息をつくわけにはいかない。お姉さんらしく、優雅に対処しないと。
男たちが近づいてくる。
「ねえ、お姉さん——」
私は指を動かした。
ガタン。
店の看板が倒れて、男の一人が足を取られた。
パシャン。
上から水が落ちてきて、二人ともびしょ濡れに。
——完璧。
二段構えで撃退。
「災難だったわね、あの人たち」
私は涼しい顔で言った。
田口くんが不思議そうな顔をしている。
——ごめんね、田口くん。
あなたには言えない魔法なの。
でも、あなたとの時間を邪魔する人には——容赦しないわ。
◆
レストランで、向かい合って座る。
ボンゴレビアンコを注文して、おしゃべりをする。
田口くんの妹さんの話を聞いた。
優等生で、辛辣で、でも毎週アパートに来てくれる妹さん。
——素敵な子ね。
田口くんのことを、本当に大事に思っているのがわかる。
私は——少しだけ嫉妬した。
毎週家で一緒なんて、羨ましい。
私は週に二回のバイトの時しか、田口くんに会えないのに。
「今度、妹さんに会ってみたいわ」
気がついたら、そう言っていた。
田口くんが驚いた顔をする。
「茜に?」
「ええ。田口くんのこと、いつもお世話してくれてるんでしょう? お礼を言いたいの」
——嘘じゃないわ。
でも、本当の理由は別にある。
田口くんの家族に会いたい。田口くんのことを、もっと知りたい。
そして——できれば、気に入られたい。
外堀から埋めていく作戦。
二十六歳の女が、そんな計算をしているなんて。
我ながら、必死すぎて笑える。
でも——仕方ないじゃない。
◆
食事を終えて、植物園へ向かう。
荷物を運び込んで、バイト代を渡す。
「また来週ね」
「はい」
田口くんが帰っていく。
その背中を見送りながら——私はため息をついた。
——今日のナンパ撃退、合計五回。
田口くんが気づいたのは一回だけ。
残りの四回は、全部未然に防いだ。
靴紐を切ったり、スマホを鳴らしたり、自転車を倒したり。
我ながら、よくやったと思う。
でも——疲れたわ。
魔法を使うのは、そんなに大変じゃない。問題は、田口くんに気づかれないようにすること。
彼は鈍感だけど、さすがに何度も不思議なことが起きたら怪しむでしょう?
だから、自然な「偶然」に見せかけないといけない。
それが、意外と神経を使うの。
——でも。
私は微笑んだ。
今日は、楽しかった。
田口くんと二人きりで買い物して、お昼を食べて、車で送って。
まるで——本当のデートみたいだった。
次は、もっと自然に誘えるといいな。
バイトの手伝いじゃなくて、純粋にデートとして。
——気長に行きましょう。
私は二十六歳の大人なんだから。
焦る必要はないわ。
ゆっくり、確実に、距離を縮めていけばいい。
妹さんにも会って、仲良くなって。
外堀から、一つずつ埋めていく。
——待っててね、田口くん。
お姉さん、本気だから。




