鳴る音
深夜に一人、読書をしている時。
隣の部屋で。
誰もいない筈の場所で。
微かな音がすることはないだろうか。
津村佑介は、読みかけの本を置き、ベッドを抜けた。
ひんやりと冷たい床の上を探り、スリッパに足を収める。
目線と意識は奥の部屋に向けられていた。
パキ……パキ……。
微かな音が聞こえている。
比較的築浅の津村の住むマンションは、家鳴りが一切ない訳ではないが、そう起きることはない。それなのに、最近その頻度が増えた気がしていた。
家鳴りが増えたら欠陥を疑うべきなのだろうが、その線は薄いと津村は思っている。それに、何らかの欠陥が発覚したなら引っ越してしまえば済む話だった。
深夜、そう起きている人間は居ない時刻に。
音が鳴る。
パキ……パキ……。
開けっ放しの扉から隣の部屋を覗くと、先程まで鳴っていた音がピタリと止んだ。
シン、と静寂だけが残る。
──また、これだ。
ただの家鳴りであれば、覗いたくらいで止まる筈はない。そう、津村は考えていた。
音の出所を探ると、ふと止む音。
そこに何者かの意思があると感じている。
暫く、暗闇に沈む部屋を見つめていた津村は、ベッドに戻ると読みかけの本を再び手に取った。
日に日に気温が下がり、たった数分ベッドを抜けただけで体は冷えていた。
再び手にした本に目を落としながら、意識だけ部屋の様子に向ける。
音は、無かった。
深夜に何者かの意思を探るような生活を送っていた津村は、ある時悪夢を見て目を覚ました。
白い服を着た髪の長い女が、口の中にその髪を詰めてくる夢だった。
口の中に厭な感覚の残っていた津村は、水でも飲もうと体を起こそうとして、ある音に耳を取られた。
ヒ、タ……ヒタ……。
ぼんやりとまだ半分眠っていた体が一瞬で覚醒し、総毛立つ。
ドキリと心臓が跳ね、じわじわとした痛みが広がっていく。
確かに捉えた筈の音は、続かなかった。
気のせいだったのか。いや、違う。
意識は、何者かが立てる音を探している。
音を捉えたいという想いと、聞きたくないという想いが混ざり合って、不安に揺れる。
ヒタ、ヒタ──。
津村の不安とは関係なしに、突然戻った音は、廊下の方へと向かっていった。
ビクリと体を揺らした津村は、ゆっくりと息を吐いた。
──足音、だよな。
音を立てる何者かを想像し、それは夢で見た髪の長い女と結びついた。
白い服を着た髪の長い女が、廊下を歩いて行く……。
津村は、ゆっくりと体を起こし、床のスリッパを探った。
汗で足が滑り、スリッパを小突く。
何処か体が重かった。いや、重いのは気か。
スリッパを履き、のろのろとした足取りで部屋を横切る。
ずっと〝何者〟かの正体を探っていた。恐れよりも、興味の方が強かった。
だが、今はじわじわと這い上る恐怖の方が勝っている。そんな自分が情けなくも感じていた。どちらにしろ、厭な気分だった。
音はもう聞こえていなかった。
それでも、覗かずには、確かめずには、いられない。
ゆっくりと、扉の陰から隣の部屋を覗き、そこから更に廊下へと目を向ける。
扉は開け放したままだから、廊下の先に玄関扉が見えた。
──誰も、居ない。居る筈が、ない。
何者かの意思を感じるのだ、と考えながらも、いざ明確にそのような状況に対面すると、その可能性を否定するものを探してしまう。
津村は、まるでたまたま起きただけだ、というようにゆっくりとキッチンまで歩いて行った。
浄水器から水を汲み、喉を潤す。
顔を上向けたその拍子に、視界の端に何かを捉えた。
白い、何か……。
ゴクリ、と喉が鳴る。
足音はない。
何か重い空気が、廊下の方から漂ってくる。
コップをシンクに置き、津村はゆっくりと廊下に目を向けた。
そこには、何も居なかった。居る筈がなかった。
念の為に玄関の施錠を確認してからトイレに入る。洗面所で手を洗うついでに、なんとなく風呂場を確認する。視界が過る鏡を出来るだけ見ないようにしながら洗面所を出て、寝室として使っている部屋へと戻る。
寝室に入り、あれ、と思った。
枕元に置いていた文庫本が床に落ちている。
──さっき、足音に集中していて、落としたのに気が付かなかったのだろうか。
閉め切った筈のカーテンの端が、めくれている。
──確かに、きっちりと閉めた筈だ。
カーテンの端を引っ張り整える。
遮光性の高いカーテンは、その裾から僅かな月光を取り込んでいた。
津村はベッドに横たわり、目を閉じた。
何者かの意思を感じる物音。しかし、何を想像したとしても、それはきっとただの物音に違いない。
それに勝手に恐怖を感じているだけ。
恐怖とは、自身の中に在るものだから。
それからも、微かな音は深夜に鳴り続けた。
津村の居る部屋で鳴ることはない。それでも無視するような音でもない。だから、確認せざるを得ない、そんな音。
あれ以来、悪夢は見ていなかった。
あの時はたまたま寝苦しく、そうした夢を見てしまったのだろう。
何も、関係はない。
それなのに、何故か部屋の隅で長い髪の毛を見つけることがあった。たった一本の長い髪の毛が、部屋の隅や、広げたタオルに折り込まれている。
何処からか紛れ込んだのか。
──そんなことが、あるのだろうか。
シン、と静まる部屋に、コツンと硬い音が響く。
津村は読みかけの本から目を上げ、ベッドに置いた。
音は、部屋の中から聞こえていた。
初めてのことだった。
じっと耳を澄ませてみたが、それ以上音はなかった。
部屋のどの辺りから聞こえた音なのかを考える。
音は、ベッドの足元から聞こえた……気がした。
ベッドの上でそろそろと足元に移動し、覗き込む。
何も居ない。音もない。しかし──白いボタンが、ひとつ落ちていた。
ボタンを拾って掌に乗せる。何の変哲もないボタン。クローゼットを探せば、よく似たボタンのついた服があるだろう。
だが、しかし、何故、今……。
津村は、読書をしていた。手元以外動かしていない。そして、部屋には他に誰もおらず、窓も開けていない。何より、ベッドの足元には何も物を置いていない。
それなのに、突然現れた白いボタン。
掌の上でボタンを弄びながら、いくつかの可能性を考える。
衣類の整理をした際にボタンが取れ、それに気が付かずに今となってベッドの隙間などから転がり出て来たという可能性。
宙からボタンが出現したという滑稽な可能性。
そして──。
津村は、手元の読みかけの本に目を落とした。
ただ一部の間だけで囁かれる噂を持つ一冊の本。
冒頭は、こう始まる。
深夜に一人、読書をしている時。
隣の部屋で。
誰もいない筈の場所で。
微かな音がすることはないだろうか。
読んでいると、不思議なことが起きるという本。
不思議なこととは。
手元のボタンに目を落とす。
パキ……パキ……。
音が、聞こえてくる。
明らかに何者かの意思を感じる──音。
それは、自身の中に作り出した恐怖なのか。
貴方にも、聞こえませんか?




