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転生と混乱の日々

朝の陽光が窓辺に踊る中、私は今日も鏡の前で立ち尽くしていた。


映し出されるのは、栗色の髪をした16歳の少女。翠色の瞳が微かに揺れ、華奢な肩に朝の光が踊っている。この顔を見るたび、胸の奥で何かがねじれるような感覚に襲われる。


「僕は…いや、私は一体…」


言葉が喉の奥で引っかかった。田中健太の記憶が鮮明すぎるのだ。


25歳、中堅商社の営業部に勤めるサラリーマンだった男が、今は異世界の貴族令嬢として鏡を見つめている。この矛盾した現実を、16年経った今でも身体が受け入れきれずにいた。


あの日のことは今でも鮮明に覚えている——昇進発表の掲示板の前で、また2番だった自分の名前を見つめていた時の絶望感。帰宅時、駅の階段でふらつき、足を踏み外してそのまま——。頭部を強打した時の鈍い痛みの後、意識は途切れた。


気がつくと、この異世界で生まれたばかりの赤子になっていた。しかも、男性から女性への完全なる転換。


「リーナ様、朝食の準備ができております」


部屋の扉がノックされ、メイドのマリアの声が響く。私は鏡から目を逸らし、深く息を吐いた。


「すぐに行きます」


振り返ると、身体が一瞬ふらついた。まだ時々起こる、田中健太の感覚との微妙なズレ。16年かけて慣れたはずなのに、朝一番の身体はどこか重い。


食堂に向かう廊下を歩きながら、私は無意識に大股で歩こうとして、スカートの裾を踏みそうになった。慌ててバランスを取り直す。


「また…」


動作自体は慣れて正確にできるようになったが、田中健太の記憶に残る運動感覚が、ふとした瞬間に身体を迷わせることがある。特に急いでいる時や考え事をしている時は、前世の感覚で動こうとしてしまう。


食堂では、父のエドワード・フォレスト男爵が朝刊を読んでいた。立派な髭を蓄えた厳格そうな外見だが、実は家族思いの優しい人だ。母のイザベラは既に庭の手入れに出ているらしく、席にはいない。


「おはよう、リーナ」父が新聞から顔を上げた。「王立魔法学院の入学試験まで、いよいよあと1週間だな」


「はい、父上」


フォレスト男爵家は代々「支える者」を輩出してきた名門だった。騎士団の副団長、宮廷魔法師の補佐、大臣の参謀——歴代当主はいずれも重要な地位にありながら、決して頂点に立つことはなかった。家訓は「一番星の輝きを支える二番星たれ」。


田中健太だった頃の声が、心の奥で囁いている。


「なぜ君が脇役で満足する?」


「我が家の伝統だが」父が続ける。「お前には自分の道を選んでほしい。メイン科でもサポート科でも、お前が望む方を選びなさい」


父の言葉は温かかったが、私の心は既に決まっていた。今度こそ、今度こそ1番になる。田中健太で果たせなかった夢を、この世界で実現するのだ。


入学試験までの1週間、私は猛烈に勉強した。田中健太の記憶のおかげで、この世界の魔法理論や歴史は理解していたが、それでも念入りに復習を重ねた。


魔法学院の試験は筆記と実技の2部構成。筆記では魔法理論、歴史、魔法薬学、魔法生物学などが出題される。実技では基本的な魔法の詠唱と発動が求められる。


試験当日、王都にある王立魔法学院の門をくぐった時、心臓が小さな太鼓を叩くような音を立てていた。立派な石造りの建物群に囲まれた中庭には、全国から集まった受験生たちがいる。


筆記試験の会場に案内された時、周囲を見渡した。同年代の少年少女たちが皆、真剣な表情で席についている。中でも、前の席に座った金髪の少女が目を引いた。背筋がぴんと伸び、まるで貴族の中の貴族といった気品が漂っている。


「始め!」


監督官の声と共に、試験が開始された。


問題用紙を開くと、予想通りの内容だった。魔法理論の基礎、各属性魔法の特性、魔法薬の調合法、魔法生物の生態系——すべて田中健太の記憶で学習済みの範囲だった。


私はペンを走らせた。前世の大学受験で培った集中力と、この世界で16年間蓄積した知識が融合する。完璧だ、という確信があった。


だが、筆記試験を終えて会場を出た時、奇妙な違和感を覚えた。あまりにもスムーズすぎたのだ。田中健太の経験では、どんなに準備をしても必ず1つや2つは分からない問題があった。それなのに今回は、すべての問題に迷いなく答えることができた。


胸の奥で小さな期待が羽ばたいている。「まさか…今度こそ1番に?」


翌日の実技試験。受験生は5人ずつのグループに分けられ、順番に基本魔法の詠唱を行う。私のグループには、昨日の筆記試験で前の席にいた金髪の少女も含まれていた。


「それでは、基礎火魔法『フレイムボール』から始めます。1番、アリス・ハートウィン」


金髪の少女——アリスの名前が呼ばれた。彼女は優雅な動作で前に出ると、杖を構えた。


「炎よ、我が意思に従い給え。『フレイムボール』」


美しい詠唱と共に、彼女の杖先に完璧な火球が現れた。大きさ、形、炎の勢い——すべてが教科書通りの理想的な魔法だった。


「素晴らしい。満点です」


試験官の声に、会場がどよめいた。実技で満点を取ることは滅多にないことだった。


次々と受験生が呼ばれ、それぞれに魔法を披露していく。皆それなりの出来栄えだったが、アリスの完璧な魔法には誰も及ばなかった。


「5番、リーナ・フォレスト」


ついに私の番が来た。前に出る時、足が微かに震えているのを感じた。田中健太の記憶では大勢の前で発表することなど日常茶飯事だったのに、この身体では緊張してしまう。


杖を構える。田中健太の記憶にある魔法理論と、この世界で身につけた技術を総動員する。


「炎よ、我が意思に従い給え。『フレイムボール』」


詠唱は完璧だった。発音、イントネーション、魔力の込め方——すべてが理論通りに実行された。そして杖先に現れた火球は、アリスのものに全く劣らない完成度を誇っていた。


「これは…」試験官が目を見開いた。「非常に優秀ですね。こちらも満点です」


会場がざわついた。同じ日に満点が2つも出ることは異例のことだった。


私は安堵と期待で胸がいっぱいになった。アリスと同点なら、筆記試験の結果次第では1番になれるかもしれない。田中健太の記憶を活かした筆記試験では、絶対的な自信があった。


試験終了後、結果発表は3日後と告知された。その3日間、私は落ち着かなかった。フォレスト家の屋敷で待機していても、読書に集中することもできず、庭を散歩してもそわそわと歩き回るばかり。


「リーナ様、何かご心配事でも?」マリアが心配そうに尋ねてきた。


「いえ、ただ結果が気になって」


「きっと大丈夫ですよ。リーナ様はとても優秀でいらっしゃいますから」


マリアの言葉は嬉しかったが、田中健太の記憶が不安を掻き立てる。いつも「今度こそ」と思いながら、結局は2番に終わってしまう。その繰り返しだった。


結果発表の日。王立魔法学院の掲示板前には、大勢の受験生と保護者が集まっていた。私は父と一緒に掲示板に近づいた。


合格者の名前が成績順に張り出されている。私は上から順番に名前を追っていった。


1番:アリス・ハートウィン

2番:リーナ・フォレスト

3番:マーカス・ブレイクウッド


視界の端で文字が滲んだ。またしても、あと一歩で1番を逃していた。後で知ったことだが、私とアリスの総合点は全く同じだった。しかし、実技試験の「魔力の美しさ」という細かな採点項目で、わずか0.5点の差で2番となったのだ。


「リーナ、おめでとう!2番とは素晴らしい成績じゃないか」


父が嬉しそうに私の肩を叩いた。だが、私の心は石のように重かった。


田中健太の悪罵が喉まで上がってきて、慌てて唇を噛む。周囲には他の合格者家族がいる。16歳の貴族令嬢が下品な言葉遣いをするわけにはいかない。


「おめでとうございます、リーナさん」


振り返ると、アリス・ハートウィンが上品な笑顔を浮かべて立っていた。近くで見ると、彼女は想像以上に美しかった。金髪碧眼、陶磁器のような肌、そして何より、その笑顔には嫌味な感じが全くない。純粋に私の合格を喜んでくれているようだった。


「あ、はい…おめでとうございます」


私は慌てて挨拶を返した。田中健太の感覚では、もっと堂々と応対できたはずなのに、この身体では何故か緊張してしまう。


「学院でお会いできるのを楽しみにしています」


アリスはそう言って、優雅に去っていった。残された私は、彼女の後ろ姿を見つめながら、胸の奥で相反する感情が渦を巻いているのを感じていた。


彼女に負けた悔しさと、彼女への憧れのような感情が入り混じっている。田中健太の記憶には存在しなかった、新しい感情だった。


入学式の日が来た。王立魔法学院の大講堂には、全国から集まった新入生約200名が集まっていた。皆、新しい制服に身を包み、希望に満ちた表情を浮かべている。


学院長の挨拶の後、学科選択の時間が設けられた。新入生はメイン科とサポート科のどちらかを選択する必要がある。メイン科は攻撃魔法や防御魔法を中心とした実戦的な魔法を学び、サポート科は補助魔法や回復魔法を専門とする。


私は迷わず手を上げた。


「メイン科を希望します」


田中健太の夢を果たすため、今度こそ1番を目指すため。私にとって選択の余地はなかった。


アリスも当然のようにメイン科を選択していた。他にも成績上位者の多くがメイン科を希望し、結果的にメイン科は競争の激しいクラスとなった。


最初の授業は「基礎攻撃魔法」だった。担当のグレイソン教授は、元王立騎士団の魔法戦士だった初老の男性で、厳格な指導で有名だった。


「魔法とは意志の力である。強い意志を持つ者のみが、真の魔法使いになれる」


教授の言葉に、教室の空気が引き締まった。


最初の課題は「エアボール」——空気圧縮魔法の基礎だった。風属性の初歩的な攻撃魔法で、空気を球状に圧縮して目標に飛ばす技術だ。


学生たちが次々と挑戦する中、やはりアリスが最も優秀な成績を収めた。彼女のエアボールは完璧な球形を保ち、的の中心を正確に射抜いた。


私の番が来た。杖を構え、魔力を集中させる。理論は完璧に頭に入っている。


「風よ、我が意志に集え。『エアボール』」


魔力が杖に集まり、空気が圧縮されていく感覚がある。しかし——放たれたエアボールは的の中心から逸れ、外側のリングに当たった。


「惜しいな、フォレスト。技術は申し分ないが、魔力の出力に制限がかかっているようだ」


グレイソン教授の評価は的確だった。私の魔法には根本的な問題がある。技術的には完璧なのに、どうしても最大威力を発揮できない。まるで身体が無意識に魔力にブレーキをかけているようだった。


授業が進むにつれて、その差はより明確になった。どの魔法でも、私は「かなり優秀」なレベルには達するが、アリスの「完璧」には届かない。まるで見えない壁に阻まれているようだった。


1ヶ月が経った頃、私は完全に打ちのめされていた。どれほど努力しても、どれほど完璧に理論を理解しても、必ず誰かが私を上回る。アリスだけでなく、他の学生たちの中にも私以上の才能を見せる者が現れた。


寮の自室で、私は一人呟いていた。ベッドに倒れ込むと、枕が妙に重く感じられた。


田中健太の記憶という絶対的なアドバンテージがあるはずなのに、結果は前世と同じ。いつも2番止まり。


その時、部屋の扉がノックされた。


「フォレスト、いるか?」


男性の声だった。扉を開けると、同じクラスのマーカス・ブレイクウッドが立っていた。入学試験で3番だった少年で、明るい茶髪と人懐っこい笑顔が特徴的だった。


「グレイソン教授が君を呼んでいる。教授室に来るようにとのことだ」


私は嫌な予感を覚えながら、マーカスと一緒に教授室に向かった。


グレイソン教授は机に向かって書類を整理していたが、私が入室すると顔を上げた。


「フォレスト、座りなさい」


重い口調だった。私は教授の机の前の椅子に腰を下ろした。


「君の成績について話がある」教授が書類を手に取った。

「入学以来の成績を見返してみたが、君は確かに優秀だ。しかし…」


教授が言葉を区切った。その瞬間、心臓が激しく鼓動を始めた。


「君にはメイン科は向いていない。サポート科への転科を勧める」


雷に打たれたような衝撃だった。田中健太での数々の失敗が、一気に蘇ってきた。


「で、でも私は…」


「君の魔法には致命的な問題がある」教授が続けた。「技術的には完璧に近いが、攻撃魔法使用時に無意識に魔力出力を制限してしまう特異体質のようだ。これは訓練では改善できない根本的な問題だ。これ以上メイン科にいても、君にとっても、クラスにとっても良いことはない」


私は必死に反論しようとしたが、言葉が出てこなかった。教授の指摘は的確すぎて、反駁の余地がなかった。


「サポート科なら、君の能力を活かせるはずだ。明日から転科の手続きを始めなさい」


教授の言葉は、最終通告だった。


教授室を出た時、私の足はふらついていた。マーカスが心配そうに声をかけてきたが、私には答える気力もなかった。


寮に戻り、ベッドに倒れ込む。田中健太の記憶が次々と蘇ってきた。大学受験の失敗、就職活動での挫折、昇進試験での屈辱——そのすべてが、この瞬間に集約されているような気がした。


涙が頬を伝った。田中健太では流さなかった涙が、この女性の身体では自然と溢れてくる。


窓の外に夜空が広がっていた。一番星が煌々と輝き、その隣で二番星が静かに光っている。


フォレスト家の家訓が頭の中で響いた。「一番星の輝きを支える二番星たれ」


私は、この運命から逃れることはできないのだろうか。


完結まで投稿していきます。

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