『和歌山県のある場所で』
「ゼミの夏期フィールドワークの報告書、明日までだぞ」
先輩からのLINEに、俺はため息をついた。
大学四年の夏。単位のためと割り切って参加した和歌山県での民俗学調査は、正直、退屈だった。
写真整理のためにスマホのフォルダを開いた。
ありふれた山道。古びた石碑。仲間とふざけ合うスナップ。
その中に──見覚えのない一枚が紛れ込んでいた。
木々に囲まれた小川のほとり。
苔むした石の鳥居と、澱んだ水を湛えた古い井戸。
そこに、俺を含む“5人”の姿が写っていた。
だが俺たちは、民俗学ゼミの調査で、確かに“4人”で現地に行った。
報告書、音声ログ、行動記録、全てにその人数が記されている。
なのに、写真の中には見知らぬ“5人目”がいる。
しかもその中心で祠に手を合わせているのは──紛れもなく、俺だった。
調査対象は、和歌山県の山間部にかつて存在した“〇〇村”という集落跡。
戦前の地図にだけ名前が残る、水神信仰の土地だった。
古文書にはこうあった。
「この地の水は、人の記憶を呑む。穢れを流し、清めるために、井戸の水底に“形代”を沈めるべし。形代は、最も新しい記憶を持つ者が望ましい」
“形代”が何を指すのか、当時のゼミでは議論になった。
藁人形か、神事の札か、それとも──人か。
だが今ならわかる。
俺は“望ましい者”だったのだ。
あれから数日が経ったが、どうしても調査当日の記憶だけが抜け落ちている。
写真を見ても、5人目の顔はいつもぼやけている。
そして昨日、調査チームのひとり──橋本が、突然姿を消した。
「思い出したらアカン」
それだけを残して、既読がつかなくなった。
気がつけば、俺はまた和歌山県の山奥へと向かっていた。
電車の窓に映る山並みが、妙に懐かしい。
記憶と風景が、静かに重なっていく感覚があった。
小川に着いた。
流れは澄んでいた。
手を入れると、まるで水底から無数の指が伸びてきて、俺の体温を奪っていくようだった。
心臓の奥がじわりときしむ。
ただ冷たいだけじゃない。
生命力を吸われていく感覚。
反射的に手を引いた。
見上げた空に雲はないのに、水面はゆらゆらと、不自然に揺れていた。
誰かが水中で身じろぎでもしているように。
祠の前に立つ。
鳥居は崩れかけ、祠は苔に沈み、井戸だけが澄んでいた。
その底に、何かの“気配”がある。
スマホが震えた。
画面には、俺が井戸の前に膝をつき、祠に祈っている姿が映っていた。
──違う。祈ってなんかいない。
俺は、井戸の中を覗き込む“誰か”に、必死に語りかけていた。
そのとき、
写真フォルダに、さらに1枚──写真が増えていた。
井戸の中からこちらを見上げる“俺”の顔。
その額に、白い紙が貼られている。
よく見ると、そこには文字があった。
「穢れ祓い──供物済」
画面が真っ暗になった。
水面だけが、ゆらゆらと揺れていた。
それは風でも波でもない。
誰かが、井戸の底から──俺を見上げて揺らしている。
思い出した。
あの日、俺たちは祓いに来たんじゃない。
誰かひとり、水に返すために来たんだ。
形代とは、「最も新しい記憶を持つ者」。
それは、“初めてこの村の存在を知った者”──俺だ。
俺は“選ばれた”。
いや、次は誰かを選ばなければならない。
スマホのカメラが勝手に起動する。
その画面に映った俺の肩に、誰かの手が静かに置かれていた。