巨刃、そして嗤う泥濘
倒れ伏すザギの亡骸を一瞥し、ジンはその異様な光景に僅かに眉をひそめた。その時、ゆっくりとした足取りで、玉座から降りてきた沼嗤う顎がジンの前まで歩み寄り、ザギが圧し潰された場所を汚物でも見るかのように見下ろした。
「……雑魚が。手間かけさせやがって、使えねえ奴だったぜ」
アギトは吐き捨てるように言うと、玉座の横に立てかけてあった巨大なチョップナイフを、ズシリと重い音を立てて持ち上げた。刃渡りだけでジンの身長ほどもある、禍々しい鉄塊。使い込まれた刀身には、おびただしい傷と、黒ずんだ血痕が無数にこびり付いている。
「テメェの部下への手向けが、それかよ」
ジンの声には、抑えきれない怒りと軽蔑が滲む。彼は創造魔法で漆黒の大剣を生成し、構えた。
次の瞬間、ジンは床を蹴り、爆発的な速度でアギトとの間合いを詰めた! 渾身の力を込めた斬撃が、アギトの首筋を狙う!
だが、アギトは容易くそれを躱した。巨体からは想像もできないほど素早いバックステップ。刃は空を切り、ジンはわずかに体勢を崩す。
「短気だな、小僧。まあいい。だが……そこ、気をつけろよ? ずっとそこに立ってると、右から矢が飛んでくるぜ」
アギトの言葉に、ジンは一瞬、罠かと警戒し、軽く右方の周囲を一瞥した。ほんのコンマ数秒、意識が目の前の敵から逸れる。その僅かな隙を見逃さず、アギトが動いた! 先程までの余裕の態度とは一変、研ぎ澄まされた殺意と共に、巨大なチョップナイフが信じられない速度でジンの首筋を刈り取るべく迫る!
辛うじて、ジンは大剣で受け止めた。
ガギィィィィンッ!!
耳をつんざくような金属音と共に、凄まじい衝撃がジンの全身を襲う! 腕が痺れ、骨がきしむ。体ごと後方へ数メートルも吹き飛ばされ、どうにか踏みとどまった。
「……っ!」
アギトは、体勢を立て直したジンを見て、ニヤリと口の端を吊り上げた。
「ハッ、宴会場に罠なんか置くわけねえだろ。単純なガキだぜ」
(……危ねえっ……! 今のは……僥倖だ……!)
冷や汗が滝のように背中を伝う。大剣の幅が広かったから、偶然にも首への一撃を防げただけだ。完全に相手の術中にはまっていた。心理的な揺さぶりと、それを利用した奇襲。こいつは、ただデカいだけのゴブリンじゃない。
(油断すれば、一瞬で殺られる……!)
アギトは、その巨体と巨大なチョップナイフを武器に、信じられないほどの膂力と、見た目に反する速度でジンを追い詰める。チョップナイフを振り回すたびに、ゴウン!と重い風切り音が響き、床や壁がバターのように砕け散る。大振りな攻撃の合間にも、まるで重心の位置を自在に操っているかのような、卓越した平衡感覚でパンチやキックを繰り出し、ジンを翻弄する。バランスを崩しているはずの無理な体勢から、正確無比な攻撃が飛んでくるのだ。
(なんだ、この動き……!? 体の軸が全くブレてない! デカい図体で、なんであんな無茶な動きができるんだ!?)
ジンは、アギトの動きに合わせるのがやっとで、反撃の糸口すら掴めない。大剣で受け流しても、その衝撃は全身を揺さぶり、腕が痺れる。回避に専念しても、すぐに次の攻撃が迫り、ジリジリと追い詰められていく感覚があった。
(クソッ、このままじゃジリ貧だ! 何か……打開策は!)
ジンは激しい攻防の最中、活路を探る。そして、アギトがチョップナイフを振り下ろし、わずかな隙が生まれる瞬間を見極めた。
(今だ!)
ジンは防御一辺倒から一転、攻勢に出る! 大剣の峰――刀身の背の部分に意識を集中させる。
「『創造加速』!」
大剣の峰に、蒼白い光を放つ小型の噴射口が瞬時に生成される!
ゴォッ!と推進剤が噴射され、大剣を持つジンの右腕が、爆発的な加速を得て振り抜かれる!
迫りくるアギトのチョップナイフに対し、ジンは加速した大剣を側面から叩きつけた!
ガギィィィン!!!
火花と甲高い金属音が激しく散る! アギトのチョップナイフが、その重い軌道から大きく逸れて弾かれる!
(よし!)
ジンは、ブースターの推進力とナイフを弾いた反動を利用し、その場で高速回転! 遠心力を最大限に乗せた漆黒の大剣が、がら空きになったアギトの右腕を、根元から深々と切り裂いた!
「グ……!?」
アギトが、初めて明確な苦悶の声を上げる。
「はっ! まずは腕一本、いただきだ!」
ジンは、確かな手応えに、してやったという表情で叫ぶ。今度こそ、大ダメージを与えたはずだ!
……だが。
アギトは一瞬顔を顰めたものの、すぐにまた、あの不気味な嗤いを浮かべた。
「……それだけか、小僧」
切り裂かれた右腕の傷口から、茶色い粘液のようなものがぶちゅり、と音を立てて溢れ出す。そして、それはまるで生き物のように蠢きながら傷口を覆い始め、みるみるうちに裂けた肉が繋がり、再生していく。
ほんの数秒後、アギトの腕にあったはずの深い傷は、完全に塞がっていた。わずかな血の跡すら残さずに。
「……!?」
ジンは、信じられない光景に言葉を失った。致命傷を与えたはずの一撃が、まるで何事もなかったかのように修復されてしまったのだ。
(なんだ今の再生能力……!? まるで傷なんてなかったみたいだ……! あの茶色いグニュグニュは何なんだ……? こいつをどうにかしない限り、キリがないぞ……!)
アギトの持つ能力の異様さ、その一端を垣間見たジンは、背筋に冷たいものが走るのを感じた。目の前の敵は、ただデカくて硬いだけのゴブリンではない。未知の、そして厄介極まりない能力を持っている。
「クカカ……どうした小僧? ワシの体に傷をつけた程度で、勝ったつもりか?」
アギトは、完全に再生した腕をぶらりと揺らしながら、その裂けた顎をさらに歪めて嗤い、再びジンへと歩み寄る。その体からは、先程よりもさらに濃密な、沼の底から湧き上がるようなおぞましいプレッシャーが放たれていた。
ここからが、本当の戦いだ。ジンは、大剣を構え直し、未知の能力を持つ強敵に、改めて立ち向かう覚悟を決めた。洞窟の奥から響く戦闘音も、今はもう気にならない。ただ、目の前の巨悪を打ち倒すことだけに、全神経を集中させる。
***
一方、その広間の最も奥。粗末な木と鉄格子で作られた檻の中――それは、アギトたちに従わない人間が、嬲り殺されるか、あるいは次の「ご馳走」になるまで閉じ込めておくための場所だった。
檻の隅で、他の囚われた女性たちを庇うように横たわっていた一人の女性が、ゆっくりと身を起こした。年の頃は、ジンたちより少し上、二十代前半だろうか。その瞳には、過酷な状況にありながらもまだ絶望だけではない、意志の強さを示す鋭い光が宿っていた。身に纏うのは、かつては清廉な色だったのかもしれない、しかし今は見る影もなく汚れ、破れたローブの残骸。その手つきには、傷ついた者を癒してきたであろう、柔らかな気配が微かに残っている。
彼女は、先程から続く異様な静けさに気づいていた。あれほど騒々しかったゴブリンたちの宴の声が、ピタリと止んでいる。代わりに聞こえるのは、少し離れた場所から響く激しい戦闘音――金属音や衝撃音、そして時折洞窟全体を揺るがすような轟音。明らかに、尋常ではない何かが起こっている。檻の外では、ついさっきまで騒いでいたゴブリンたちが、折り重なるようにして眠りこけている。
(……何? この静けさは……。ゴブリンたちの声がしない……。それに、この戦いの音……まさか、誰かが助けに……?)
女性――かつて人々を癒すことを生業としていたであろうヒーラーは、鉄格子越しに広間の様子を窺う。千載一遇の好機かもしれなかった。この地獄のような場所から、自分だけでなく、他の囚われた者たちと共に脱する機会が。
彼女は、衰弱した体に鞭打ち、静かに、しかし確かな意志を持って、檻の扉の鍵や構造を調べ始めた。