2 アニー・ブラウン
◆ ◆ ◆
9歳の少女アニー・ブラウンは孤児だった。海辺の小さな漁村で生まれたアニーは、両親と幼い弟の家族4人で、貧しくも幸せな生活をしていた。脚が速くかくれんぼが大好きなアニーは、赤い髪を揺らして友人や弟と村中を駆け回る活発で明るい少女だった。そんなアニーを家族はとても愛していたし、アニーも家族が大好きだった。そんなアニーのささやかな幸せが壊れたのは、一年前のことだった。
「魔物だ! 逃げろ!」
「きゃああああっ!」
魔王軍が迫ってきていたのは知っていたが、アニーの村が危険に晒されるまでにはもう少し余裕があると思っていた。ほど近いトレパソの町に、アニーの父が伝手を伝って新しい仕事を探している最中だった。仕事が決まれば、一家で疎開する予定になっていたのだ。その矢先のできごとだった。
「アニー、カナン! お母さんといっしょに逃げろ!」
アニーの父は、迫り来る魔物の群れからアニーと弟を庇って死んだ。
「アニー!」
多くの村人たちと逃げる途中で魔物に襲われて崖から落ちたアニーは、トレパソ近くの浜辺に打ち上げられた。
母親と弟カナンの変わり果てた姿を見たのは、それから3日後のことだった。避難した村人は魔王軍によって皆殺しにされていたのだ。崖から落ちたアニーは、村で唯一の生存者だった。トレパソの警備隊と南の冒険者の都“ランダル”から冒険者ギルドの派遣した冒険者集団によって、アニーの村を襲った魔王軍は押し返された。それが3日後だったのだ。
孤児となったアニーの身柄はトレパソにある聖火教の教会が引き受けてくれて、アニーは教会の花畑で栽培している花を売る仕事を任された。アニーはそれから一年、トレパソの街角で花を売って生活していた。
「花はいりませんか? 綺麗な花です」
夏が近づいているせいか日差しは強く、外で売っていると花はすぐに萎れてしまう。市場や酒場など屋根のある場所で許可をもらえたところでは、屋内でも売り歩いてよかった。
「花はいりませんか?」
その夜もアニーは、酒場で花を売っていた。その日はまだ一本も売れず、そのまま教会に戻るわけにはいかなかった。
「ん?」
黒ずくめの格好をした精悍な顔つきの青年が、アニーをじろりと見下ろした。
「花なんか食ったって美味くねぇだろ」
「ロイ様、花は食べ物ではありません」
アニーが背伸びをして見ると、テーブルの向こう側に白い女性が座っていた。透き通るように肌が白く、なんと瞳は金色をしていた。黄金の瞳など、アニーは今まで見たこともなかった。
女性は目から上だけをテーブルから出しているアニーを無表情に見ていたが、やがて懐から銅貨を出してテーブルに置いた。
「これで足りますか?」
儚げで消え入りそうな細い声だが、とても澄んでいて美しい声だった。そしてその声は、酒場の喧噪の中でも不思議とはっきりとアニーの耳に届いた。
「は、はい」
アニーは大きな青い花を美しい女性に差し出した。
「これは?」
「ネモフィラです。今の時期はアジサイが有名なんですが、ネモフィラもすごく綺麗なんですよ」
「そう」
女性はネモフィラを手に取ると、ロイと呼ばれた男へ差し出した。
「あなたも花の美しさや可憐さに気づけると、人間性が増すと思われるのですが」
ロイは「けっ!」と吐き捨てると、ネモフィラを一瞥してそっぽを向いた。
「んなもん、必要ねぇよ」
◆ ◆ ◆
不思議なもので、白い女性がネモフィラを買ってくれると、その酒場では花が飛ぶように売れた。乱暴な口調の黒い男に“しー”と呼ばれていた白い女性は、無表情ではあったが小柄な全身から感じられる雰囲気は優しく、若い女性に対して失礼かとも思ったが母親のような安心感を覚えた。
「ただいま帰りました」
教会の通用口のドアを開けると、シスター・ローズが夕ご飯の準備をしているところだった。シスター・ローズは60歳を超えた老シスターだが、この教会で預かる身寄りのない子ども達の面倒を一手に引き受けている。白髪をシスターローブのフードに収め、ゆったりとした裾には白い聖火教の紋章が刺繍されていた。
「アニー、お帰りなさい。手を洗って夕食の支度を手伝って」
「はい。あの、シスター・ローズ」
「なあに?」
シスター・ローズは柔和な笑顔をアニーへ向けた。
「花が全部売れたんです」
「まあ」
シスター・ローズは嬉しそうに微笑んだ。
「それは素晴らしいことですね。聖火神様に感謝申し上げねば」
「はい。あの、それで……」
「なに?」
「シモンさんの酒場で、最初にお花を買ってくれた方なんですが…… もしかして司祭さまかもしれません」
「えっ!?」
シスター・ローズの動きが止まった。
〝司祭〟とは、この大陸で8名しかいない聖火教の幹部だ。北・北東・東・南東・南・南西・西・北西の八方向それぞれの地域を担当する、教会の実力者だ。地方の領主より権力があり、平民は顔を見ることさえまれだ。ちなみにトレパソの町は南東の司祭の管轄になる。
司祭は普通の信者には着ることのできないローブを着ている。アニーが見た白い女性は、明らかに高位の聖火教修道女だとわかるローブを着ていたのだ。
「そんな…… なにも連絡など受けていないのですが……」
「シスター・ローズ、あたしの見間違いかもしれません」
「いえ」
シスター・ローズは首を横に振った。
「あなたが言うなら間違いはないでしょう」
シスター・ローズは固い表情で外灯を羽織り、シモンの酒場へ出かけていった。アニーは動揺しながらも、夕食の準備を代わりに進めていった。
「おいアニー、シスター・ローズはどこ行ったんだよ」
「ちょっと大事な用事で出かけたのよ。すぐ戻られると思うから、イージスはゴードンをお風呂に入れてあげて」
「ちぇ、今日は早めに休みたかったんだけどなぁ。おれ、すっげぇがんばったんだぜ」
「はいはい。ニコル、食べ終わった食器を片付けてくれる?」
「わかったわ。サーレン、食べ終わったなら手伝って」
「待って。ヨクレイ、それ食べないなら僕にちょうだい」
「イヤ、これから食べるんだから」
トレパソ教会では、6人の孤児を預かっていた。9歳のアニーは最年長で、8歳の男の子のイージス。7歳の男の子、サーレン。6歳の女の子のヨクレイと、5歳の女の子のニコル。そしてつい最近教会の前に置き去りにされていた、生後1歳くらいと思われるゴードンだ。ゴードンという名前は、アニーたちで話し合って決めた。まだ乳離れしていないゴードンの離乳食作りやお風呂など、アニーたちで協力して行っている。
賑やかで騒々しくも楽しい夕食が一段落つくと、アニーはシスター・ローズがまだ戻って来ないことが気になり始めた。アニーが花を売ったシモンの酒場は、ここから十数分の距離だ。司祭様の訪問を確認するだけで、こんなに時間がかかるはずがない。
「イージス、あたしちょっとシスター・ローズをお迎えに行って来るね」
イージスはゴードンの身体を、柔らかいタオルで拭きながら「ああ」と気のない返事をした。
「ニコル、洗濯物をお願いね」
「はーい」
アニーはランプを手に持つと、外套を羽織って教会を出た。
街はまだ昼間の熱気を残していて、人通りは多い。食事処や連れ込み宿などの呼び込みの、威勢の良い声がそこかしこから聞こえる。アニーはふらつく酔客の間をすり抜けながら、シモンの酒場へ辿り着いた。
「シモンさん」
店主のシモンは、店に置いてあるビア樽と同じように大きな腹をした中年男性だ。人好きのするちょび髭の丸い顔が、アニーを見つけて微笑を作った。
「おお、アニーじゃないか。こんな時間にどうしたんだい?」
「シスター・ローズを迎えに来たの」
「シスター・ローズ? もうずいぶん前に出て行ったのだがね」
「え? どこへですか?」
目を丸くするアニーに、シモンはカウンター越しに顔を寄せた。
「あの奇妙な2人がいる宿屋だよ」
「え? シモンさん、どこかわかるんですか?」
「ああ、あんな変わった2人だからね。この辺じゃ噂になってるよ」
「あたし、行ってみます」
アニーはシモンにその宿屋を聞き、急いで向かった。その宿屋は町では中程度の宿屋で〝厩亭〟と言った。入ったことはないが、宿屋の前で花を売ったことはある。中程度とはいえ、孤児のアニーには入るのが気後れしてしまう。それでもシスター・ローズが心配だったので、「えい」と気合いを入れてドアを開けた。
中は酒場の半分くらいの広さのエントランスになっており、奥のカウンターでは青年が一人立ち上がった。アニーを見ると眉間にしわを寄せた。おそらく受付役なのだろう。
「あ? なんだ? 教会の子どもじゃねぇか。なんの用だ?」
アニーは初対面であったが、花売りをしているため顔は知られているのだろう。アニーは前掛けをぎゅっと握りしめながらカウンターの前に立ち、声を絞り出した。
「あ、あのシ、シスター・ローズがここに来ませんでしたか?」
「シスター? んなもん来ねぇよ」
「え?」
酒場とここは数分の距離だ。ずいぶん前に酒場を出たシスター・ローズが、まだ来ていないのはおかしい。
「で、でもシモンさんは、ずいぶん前にここへ行ったって……」
受付の男は面倒臭そうに手を振った。
「知らねぇっつってんだろ! 仕事の邪魔だ、さっさと出てけ!」
「で、でも……」
「どうしましたか?」
受付の男が再度怒鳴ろうと身構えた時、奥の階段から声がした。見ると、アニーから花を買ってくれたあの白い女性が下りて来るところだった。
「ああ、なんでもねぇです。こいつが」
「あら、あなたは」
「あ、あの!」
アニーはすがるようにその女性に近づいた。
「シスター・ローズが帰って来ないんです!」
「シスター・ローズ?」
「こらっ!」
「あっ!」
アニーは首根っこを掴まれ、持ち上げられた。
「お客様に失礼すんじゃねぇ!」
「放して! シスター・ローズが」
アニーは足をバタバタさせるが、男はすごい力で吊り下げて放さない。アニーの目に涙が浮かんだ。
「やめなさい」
アニーの首根っこを掴んだまま外へ放り出そうとした男へ、静かな声が掛けられた。
「え?」
男が振り向くと、白い女性―― シルヴィアが立っていた。
「その子を下ろしてください」
「い、いや、こいつお客様に失礼を」
「下ろしなさい」
「ひえっ!」
アニーは目に見えない炎が、白い女性から立ち上ったような気がした。手を放されたアニーは床へ落ちて尻餅をついた。
「痛っ」
「ひええっ」
男は青い顔をして、奥の事務所へと逃げ込んでしまった。
「大丈夫?」
「あ、はい」
白い女性が覗き込んでた。透き通るように白い肌。寸分の狂いもなく左右対称の目鼻立ち。アニーが抱いた印象は「お人形さんみたい」だった。美しさはもちろん、その存在自体が同じ人間だとは思えなかったのだ。まさに人外の美しさを纏った不思議な女性だった。
「あ、あの司祭さま」
「司祭?」
白い女性はアニーの手を引いて助け起こしながら首を傾けた。
「あ、あなたは司祭さまではないのですか? 聖火教の……」
「いえ、わたしは司祭ではありませんよ」
白い女性は男が逃げ去った事務所の方をちらりと見て、エントランス奥の応接スペースを指さした。
「どうやら事情がありそうですね。あそこでお話を聞きましょう」
「は、はい」
白い女性はシルヴィアと名乗った。司祭などではなく、ただの聖火教信徒であるとも言いながら。
「なるほど。わたしが司祭だと勘違いしてお伺いに出たシスターが、途中で行方知れずになってしまったのですね」
「はい」
アニーは座ると両脚が浮くくらい大きなソファに座り、こくりと頷いた。
「シスターの行く先に心当たりは?」
「市場にはよく買い物に行かれますが、この時間にはやっていないし、なにも言わずにどこかへ行ってしまうってちょっと考えられません」
「わかりました」
シルヴィアは、すっと音もなく立ち上がった。
「シスター・ローズの物はありませんか? できるだけ繋がりの深いものがいいです」
「は、はい」
二人は厩亭を出て、アニーは教会へシルヴィアを案内した。
「これではどうでしょうか」
アニーはシスター・ローズが普段から使っているカップをシルヴィアへ差し出した。ここは教会の厨房で、イージスたちはもう眠っている。シルヴィアは静かに頷くと、カップを持ったまま目を閉じた。そして、すぐに目を開けた。
「アニーさん、シスター・ローズは生きています」
「え?」
「ここから遠くないところに、存在が感知できました」
アニーは驚いて声が出なかった。聖火教の信徒は聖火神の御力を使えるというが、そういう力なのだろうか。
「アニーさん、あなたはここで待っていてください。わたしが行ってみます」
「でも……」
シルヴィアはこの件に関係ない。シスター・ローズの居所がわかっただけでも十分なのだ。にも関わらず捜索までしてもらっては、申し訳なさ過ぎる。
「心配しないでください。これはわたしのためでもあるのです。いえ……」
シルヴィアは強い視線でアニーを見た。
「わたしの使命でもあるのです」
シルヴィアは決然と言い放った。