1 アンブラ―家の少女
新年早々から連載スタートさせていただきます。
魔法が出てきますが、一般的に使われているわけではないというそんな世界のお話です。
1 アンブラ―家の少女
ゆっくりと春の日差しを感じられるようになってきたある日、ジュディスは両手をいっぱいに広げて祖母の作った刺繍絵の作品を運んでいた。今日はとある貴族からの依頼品の納品日なのだ。
「やっぱり、エリクについてきてもらえば良かったわね。あなた一人では、大変でしょ?」
「いいえ、おばあ様。体力だけは自信がありますから。」
長く伸ばした銀髪をきゅっと後ろで結び、少年のような服装のジュディスは15歳になったばかりの女の子だ。貴族令嬢なら着飾って日々を過ごすのが通常だが、彼女はその範疇に入ることをよしとしない。ニカッと白い歯を見せて笑う。「まぁ。」と苦笑しながら、祖母クレアが玄関のベルを鳴らすが、返事がなかった。
「あら、どうしたのかしらね。今日の納品は、先方からのご依頼だったのよ。」
祖母の困ってる様子もない表情に、ジュディスはちょっと耳を澄ませてみた。微かに誰かの笑い声が聞こえる。若い女の子たちの声だ。ジュディスはキュッと眉を顰める。それでも家の中からは返事がなかった。
「あのぉー!すみません!」
「これ!そんな大きな声を出すものではありません。」
すぐに祖母に窘められたが、奥で聞こえていた笑い声が止まって、パタパタと誰かが走ってくるのが分かった。
「失礼いたしました。刺繍爵のクレア様ですね。どうぞお入りください。」
この国では、公・候・伯・子・男の爵位以外に、国宝級に優秀とされた人々に爵位が与えられる。騎士爵や工芸・芸術に関する爵位などだが、クレアはその刺繍絵の腕前で国王陛下より刺繍爵を賜っているのだ。そして、それらの工芸・芸術関係の爵位は、侯爵と同等とされることが決まっているが、高位貴族以外にはまだ浸透していないという。
申し訳なさそうな侍女は、さっきまで何をしていたのか、汗だくでフラフラだった。クレアは商品を奥に運ぶようにジュディスに言うと、その後をのんびりと付いて行った。
「あらあらあら、娘たちに構っていて気が付きませんでしたわ。ごめんあそばせ。それでは早速、見せていただきますわよ。」
のんびりと後からやってきた女性はこの館に住むジェマーソン子爵夫人だ。すっとジュディスに目をやると、それを合図に急いで荷ほどきをする様子に満足げに頷いた。
「まあ、なんて素敵なんでしょう。さすがはクレア様ですわ。」
「あら、お母さま。何をご覧になってらっしゃるの?」
先ほどから聞こえていた笑い声の主が、中庭からやってきて、ジュディスの手元を覗き込む。そして、大げさなほど喜んで、いっしょにお茶をしていたらしいご令嬢たちを呼び寄せた。
「ねえ、皆さんもご覧になって。」
「まぁ、刺繍絵ですの? 素敵ですわ。」
「本当に!絵そのものが輝いて見えますのね。ルビー様の雰囲気にぴったりですわ。」
「あ~、さすがはジェマーソン子爵家。羨ましいですわ。」
ご令嬢たちが口々に褒め称えると、夫人は満足げに微笑んで、侍女に焼き菓子の追加と紅茶を娘たちに出すように言いつけ、クレアをソファへと案内した。ジュディスがそれに続こうとすると、夫人は手にしていた扇子を彼女の胸に差し出した。
「ここでお待ちなさい。」
「ジュディ、すぐに戻るから待って居て頂戴。」
「はい。」
そんなやりとりに満足した様子の夫人は、この刺繍絵は新たに建てた屋敷に飾るのだと、延々とその自慢話を語り、ご令嬢たちは、ちらちらと立たされたままのジュディスを見て、こそこそと話をしては笑い声を立てている。
「ジェマーソン子爵夫人、作品を気に入っていただけて光栄ですわ。今日はまだ仕事を残しているので帰らせていただきます。お代は後日私の屋敷にどなたかに持たせてくだされば結構よ。」
「あら、王家御用達のスイーツをご用意いたしておりますのに、残念ですわ。クレア様、またぜひいらしてくださいね。」
クレアはなんでもない顔でジェマーソンの屋敷を出ると、ジュディスを連れてさっさと馬車を走らせた。にこりともせず口を一文字に閉じて、こういう時は、クレアが機嫌を悪くしているのだ。ジュディスは幼いころに両親と兄を事故で無くして以来、祖母であるクレアと暮らしているので、ピンと来た。
「おばあ様、お手を。だいぶ暖かくなってきましたが、手先は冷えますので。」
体温が高めのジュディスは、祖母の手を取って両手で温め始めた。それを機に、ほっと肩の力を抜いたクレアは、ぽろりとこぼす。
「まったく、人との付き合い方を知らない人が増えたわね。傲慢で、失礼で、うちの子を出すのをやめたくなったわ。ジュディス、次にジェマーソン家から注文が来たら、今は忙しと断ってちょうだいね。」
「分かりました。」
「私は古い人間かもしれないけれど、礼を欠く人は信用したくないの。客人が来ているのに、ずかずかと押し寄せて、しゃべりたい放題しゃべって、挨拶もなし。あのような人達に流されてはいけませんよ。」
「はい。」
流行りのドレスによく手入れされた髪をカールして、穢れを知らないような淡いピンクの爪、美しく整えられた眉。ご令嬢たちはそこにいるだけで華やかだった。そして、そのどれもがジュディスの持ち合わせていない物だ。それでも、ジュディスはそのことを悲しいと思ったことはない。彼女には、どれだけやっても満足しないほど、夢中になれるものがあったからだ。
「おばあ様。家族を失って、何も出来ないでいた私に、染色を教えてくださった事、感謝しています。ご令嬢たちには申し訳ありませんが、あんな格好では、きれいな色を出すことはできませんから。私、誰にも出せないようなきれいな色を作り出すのが目標なんです!」
自分の指先を見ると、微かに明るい緑に染まっている。これは朝のうちに染色していた刺繍糸の色だ。そのあでやかな染まり具合に、小躍りしたぐらいだった。祖母のしわの入った手を暖めながら、ふっと笑みがこぼれた。そんな孫の顔を見て取ったクレアは、誇らしげに頷いて馬車の窓から外を眺める。どんな世の中になっても、この子ならちゃんとやっていけるだろう。そう思えたのだ。
クレアの家は子爵の爵位を持っている。夫に先立たれ、領地経営は爵位を継いだ長男のバートに任せている。ジュディスはバートの娘ではなく、次男フィリップの娘だ。フィリップは優秀な文官だった。首相の補佐官を務めるまでになって、子爵の爵位を賜っていた。ところが、平民の娘と恋に落ち、クレア達とは交流を絶ってしまったのだ。息子ジェフリーと娘ジュディスが生まれたと聞いたクレアから、一度、顔を見せに来てほしいと手紙が届き、実家に向かう途中で急に降りだした雨に会い、不幸な馬車の事故にあってしまったのだ。フィリップ夫妻とジェフリー、そして御者も亡くなってしまった。その日、たまたま熱を出して自宅に残っていた幼いジュディスだけが残されてしまったのだ。知らせを受けてフィリップの家を訪れたクレアは、侍女によって喪服に着替えさせられて、涙も見せずに立ち尽くしている幼い女の子を目撃した。それが、ジュディスとの出会いだった。葬儀を終えると、クレアはジュディスに声を掛けた。
「貴方がここで、一人で生きていくことはできないわ。貴方のお母さまのご実家に行くか、私と一緒に行くか、今ここで選びなさい。」
幼い少女には、冷たい言葉だったかもしれない。ジュディスは、葬儀が終わって屋敷でお茶を飲んでいる母方の親戚の様子を伺った。彼女の両親は駆け落ち同然の結婚で、どちらの実家とも関りはない。それでも、葬儀が終わった途端、家や土地のことを相談する親戚たちに助けを求めようとは思わなかった。
「おばあ様に付いて行きます。」
「そう、貴方は賢い子だわ。それじゃあ、大切な思い出の品をいくつかカバンに詰めてきなさい。貴方付きの侍女には、あなたの身の回りの物をまとめてもらいましょう。」
初めて会った祖母の瞳をじっと見つめて頷くと、ジュディスは愛らしいクマの形のカバンに、小さな宝石箱と貝殻を一つ詰めた。屋敷の中には高価な物が他にもいろいろあったが、そんな物には目もくれなかった。
侍女が荷物の準備を終えると、早速馬車に積み込んだ。
「お嬢様、どうかお気を落とされませんように。お元気で。」
「マーヤ、今まで、ありがとうございました。どうか、お元気で。」
それは幼い子どもに言える言葉ではなかったが、見つめ合う二人にはしっかりとした信頼関係があったのだと、クレアは感心していた。
クレアの家に養子として招き入れられたジュディスは、子供用の部屋を与えられ、少しずつ屋敷内を歩き回っては、いろんなものに興味を示した。特にクレアの仕事に使う刺繍糸やその色を作る染色作業には興味津々で、日雇いの職人が黙々と作業するのを、飽きることなく眺めていた。そして、10歳を過ぎた頃には、すっかり作業工程を覚えて、いつのまにか彼女が任されるようになっていた。
クレアはその作業場に、小さなイスとテーブルを置いて、仕事の合間を縫ってジュディスをお茶に誘った。時折沈んだ表情を見せていたジュディスだったが、好奇心旺盛な彼女は次第に自分に出来ることを見つけ出し、染料の置き場や工程の合理化などを進め、作業場の裏手の空き地に染料の原料に使う植物を育てるようにまでなってクレアを驚かせた。
あの時は、私も気が動転していたのね。あんな幼い子に、大きな決断をさせるだなんて。そんな風に思いながらも、しっかりと成長した今のジュディスを誇らしく思うのだった。
「おばあ様、今朝染め上げた若草色の糸が、出来上がっている頃です。深緑からのグラデーションに使えるように数種の色味に分けたので、帰ったら確認してくださいね。」
「分かったわ。次の展示会までにあと数点仕上げてしまわなくてはね。」
毎日更新を目標にがんばります。
愉しんでもらえたら嬉しいです。