上
目覚めると、わずかな光さえなかった。
目を開いているのか、閉じているのかさえわからない。
全身にかかる重みをかき分けながら、もがく、もがく、もがく。
冷たく、湿った土の中でもがく。
あ、そうだ、これは土だ。
私は土の中に埋められているのだ。
もがく、もがく、もがく。
右腕がふっと軽くなる。
地上に達したのだ。
もう少しだ。
必死にもがきながら、土の中から這い出ようとする。
右腕を誰かに掴まれた。
強い力で引かれ、一気に地上の様子が目に入る。
外は雨だった。
息をするのも難しいほどの豪雨。
稲光で空が白く染まり、ぐわんぐわんと雷鳴が轟く。
「お目覚めですね、お嬢様」
私の右手を握っていたのは、いつもの執事服を身にまとったアレックスだった。
* * *
雨は、私の体の泥を洗い流すと用は済んだとばかりに降り止んでいた。
――メリス、貴様との婚約は破棄だ! またこれらの罪をもってお前を王都から追放する!
アレックスが淹れた紅茶を飲みながら、私はあの日の出来事を思い返す。
婚約者であり、王位継承権1位であるイログールイ王子から唐突に婚約破棄を言い渡されたのだ。
それも、学園の卒業記念パーティーという晴れの場で。
一体何に影響されたのか知らないが……いや、本当は知っている。
殿下にしなだれかかっている卑しい女のせいだ。
男と見ればすぐに色目を使い、女子生徒たちからは蛇蝎のごとく嫌われている。
――お前がネトリーにした悪行の数々はもうわかっているんだ。嫌味を言う程度ならば許そう。教科書を隠したり、持ち物を汚したりするのもなんとか目をつぶろう。だが、男子生徒をけしかけてネトリーを襲わせようとしたことは断じて許せない!
殿下は私に指を突きつけてそう続けた。
はっきり言って、まったく身に覚えがない。
百歩譲って、ネトリーに側室の心得を説いたのは嫌味に聞こえたのかもしれない。
だが、残りは貴族の子弟が集まるこの学園ではありえない低次元の嫌がらせだ。
明らかに虚偽、あるいは自作自演だろう。
ネトリーは男子生徒たちから異様な人気がある。
おそらく、ネトリーの色香に惑わされて工作に協力したのだ。
あまりにもくだらない茶番劇に私は思わずため息をついていた。
私と殿下との婚約は誰かの一存で覆せるような簡単なものではない。
近年勢力を強めている議会派の貴族たちを牽制し、王党派の結束を強めるための象徴のようなものなのだ。
有り体に言えば、貴族、王族にありがちな政略結婚なのである。
イログールイ王子はその程度のこともわからないほどにネトリーに毒されてしまったのだろうか。
そもそも、私だって殿下と好んで結婚したいわけではなかった。
身分違いで到底かなうことはない願いだけれど、本当に恋い焦がれる相手は他にいるのだ。
それはともかく、その場で反論をしてもみっともないだけだ。
正式な証書もなく、法務官の立ち会いすらない場での口頭での婚約破棄などそもそも無効だ。
そう思って、私は黙ってパーティー会場を後にした。
その夜のことだ。
唐突な胸の痛みが私を襲った。
原因は何だ? 病気? いや、私に持病なんかない。
毒……そうだ、毒だ。
だがどこで盛られた?
パーティーで口にしたものを思い返す。
立食式だったが、料理はすべて宮廷から派遣された料理人が作り、毒見が済んだものしか提供されていないはずだ。
だが、そうでないものがひとつあった。
騒動の前、殿下から差し出された菓子をうかつにも口にしていたのだ。
仮にも婚約者であり、王族から賜ったものを毒見するような無礼はできない。
あのクソ王子は婚約破棄が無効であることを知っていて、はじめから私を毒殺するつもりだったのだ。
わざわざ婚約破棄などという茶番を演出した理由ははっきりしない。
だが、毒殺の主犯があのクソ王子であることは間違いがなかった。
「お嬢様、気分は落ち着きましたか?」
「ええ、少しは」
それは何より、と微笑みながらアレックスは紅茶のおかわりを注いでくれる。
白い手袋をした細く長い指が優雅に茶器を操る。
「助けてくれてありがとう、なのかしら?」
「助けたことになるかどうかはお嬢様のお気持ち次第でございます」
アレックスが胸に手を当て、ゆっくりと一礼する。
「誠に勝手ながら、我が一族に伝わる秘術によって蘇らせていただきました」
「秘術……?」
「死霊術にてございます」
死霊術!
それは王国では禁断とされる外道の技だ。
死する者の魂をこの世に縛り付け、神の御許に還すことを許さない邪法だった。
「どうして、アレックスがそんな術を……?」
「少々長いお話になりますが、よろしいですか?」
やや低い声に黙ってうなずき返す。
アレックスの説明によれば、アレックスの先祖は十数代も前に当家に救われたのだそうだ。
生死の境を研究する死霊術は正しく使えば高度な医療魔術に応用できる。
それを邪悪だと断じて一律に禁じ、死霊術に関わる者を全員処刑しようとした当時の王家の方針に反対し、密かに匿ったのだ。
そしてそれ以来、アレックスの一族はヴラドクロウ公爵家――つまり、私の家だ――に忠誠を誓い、密かに死霊術の研究を続けていたらしい。
「そんなこと、まったく知りませんでしたわ」
「本来ならばお嬢様が成人の儀を迎える際にご当主様がお伝えするはずでした」
そう言うと、アレックスは一瞬歯ぎしりをする。
端正な顔立ちがわずかに歪み、怒気を孕んだ。
「あろうことか、イログールイ殿下……いや、イログールイはお嬢様を毒殺しただけでは飽き足らず、ヴラドクロウ公爵家まで毒牙にかけたのです」
「どういうことですの……?」
「お嬢様の葬儀の後……お嬢様を毒殺した嫌疑をご当主様にかけ、公爵位を剥奪し、王都から追放したのでございます」
「そんな無法が通るわけが!?」
「それが通ってしまったのでございます。どうやらイログールイは議会派と通じており、大法院をも買収していたようで……」
イログールイは劣勢の王党派を見限っており、議会派に鞍替えしたというのだ。
なんという短絡、なんという短慮。
次期王たるイログールイが議会派となれば、王族そのものがいずれ無用の長物となると気がつけなかったのか。
そしてそんなことになれば、王族に裏切られたと知った王党派の反発は免れない。
下手をすれば内戦になるだろう。
そうなれば、諸外国の干渉や魔物の侵入をも許し、王国全土が戦禍に脅かされかねない。
せめて反乱だけでもすぐに止めなければ!
「さすがのご慧眼でございます。しかし、それはもう間に合いません」
ご覧ください、とアレックスはまるで舞台役者のように両腕を左右に広げる。
それにつられて周囲を見渡せば、あちこちから立ち上る黒煙。
崩れ落ち、焼け焦げた廃墟の群れが目に入る。
感じられる生気はそこらじゅうを走り回るドブネズミと、無残に転がった死骸に群がる羽虫と甲虫のみ。
ああ、ああ、なんて恐ろしいことが!
私はめまいを覚え、カップを真っ白なティーテーブルに置く。
ああ、改めて考えればここは墓地の中ではないか。
戦火に焼けた街の墓所で紅茶を味わうとは、よほどの通人でも経験した者はいないだろう。
「わたくしはどれくらい眠っていたのかしら?」
「今日でちょうど2年でございます」
「このティーセットはそのために用意してくれたの?」
「お目覚めの紅茶を欠かさないのは執事の嗜みでございますよ、お嬢様」
アレックスが胸に手を当て、浅く一礼した。