第68話【帰るべき日常-raison d'être-】
暗示装置を通じて記憶を戻す目途が立った鋭時は、
最後の戦いを前にドクから新たな力を継承した。
「おっはよーございますっ! 教授っ!」
「ああ、おはよう……いよいよ今夜だな」
店舗スペースで待ち構えていたシアラが声を弾ませて挨拶し、軽く挨拶を返した鋭時は真剣な顔付きで頷く。
「おはようございます、旦那様。今夜はウラホ様の仇討ち……でございますね」
「心配掛けて済まないと思ってる、でも放っておけない」
丁寧な仕草でお辞儀したチセリが複雑な笑みを浮かべ、鋭時は気まずそうに頭を掻いてから静かに首を横に振った。
「出逢えた方が教授じゃなかったら、わたしも……って思うと」
「俺も一歩間違えたら、ジゅう人を騙す駒に利用されてた……」
小さく身震いしたシアラが不安を振り払うように首を振り、鋭時も怒りに震えた声で呟く。
「お二方の決意は分かりました。ミサヲお嬢様達の事をよろしくお願いします」
「ああ、出来る限り……いや、絶対に守ってみせる」
複雑なため息をついたチセリが深々とお辞儀し、小さく頷いた鋭時は改めて固く頷いた。
「実に頼もしいお言葉ですが、無理だけはなさらないでくださいませ」
「チセりんの言う通りですよっ、教授っ!」
胸に手を当てて頷いたチセリがやんわり釘を刺し、大きく頷いたシアラも満面の笑みを浮かべる。
「分かってるよ……何か締まらねえな……」
「では朝食にいたしましょう、用意は出来ていますので」
ぎこちなく頷いた鋭時が居心地悪そうに頭を掻き、周囲の空気を和ませるように微笑んだチセリはテーブルへと手を差し伸べた。
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「「いっただきまーす」」
同時に手を合わせた鋭時とシアラは、皿の上のサンドイッチに手を伸ばす。
「そういえば、ここに来て最初の朝食もサンドイッチだったな……」
「チセりんが持って来てくれたんですよねっ!」
口の中のサンドイッチをコーヒーで流し込んだ鋭時が懐かしむように目を細め、シアラも目を輝かせて頷いた。
「覚えていてくださったのですね」
「記憶を失ってから初めてなのもあるけど、久々のまともな朝食だったからね」
2人のやり取りを聞いていたチセリが狼のような尻尾を振りながら顔を綻ばせ、鋭時は頭を掻いて照れ笑いを浮かべる。
「何か思い出したんですかっ、教授っ!?」
「漠然とした記憶だよ。朝食を取る暇も無い……慌ただしいだけの……」
目を輝かせたシアラが身を乗り出し、軽く首を横に振った鋭時は手にした紺色のマグカップを眺めながら呟いた。
「ロジネル型居住区でそのような仕打ちを……ご安心ください旦那様、凍鴉楼では決してご不便などさせません」
「ありがとう、チセリさん。初めて会った時も、同じ事を言ってくれたよね」
暗い顔で俯いたチセリが決心した様子でお辞儀し、軽く頭を下げた鋭時は優しく微笑みを返す。
「はい! 出逢った時の喜びは今でも忘れません」
「俺も嬉しかった。これでシアラを……」
大きく頷いたチセリが千切らんばかりに尻尾を振り、恥ずかしそうに頭を掻いた鋭時は途中で言葉を詰まらせた。
「教授?」
「いや、何でもないんだ。これからもよろしくね、チセリさん」
小首を傾げるシアラに手のひらを向けて誤魔化した鋭時は、チセリに愛想笑いを浮かべる。
「はい、若奥様あっての旦那様ですから」
「あははっ……中々慣れないもんだな……」
意図を察してお辞儀をしたチセリが満面の笑みを返し、鋭時は声を震わせながら頭を掻いた。
「ところで旦那様、本日のご予定はいかがしますか? 夜に向けて仮眠を取るのでしたら、今すぐ掃除しますが」
「今日は何をするんですかっ、教授っ?」
気を取り直すようにお辞儀したチセリが居住スペースに手を差し向け、シアラも目を輝かせて鋭時を見詰める。
「病院に行こうと思ってる」
「ほえ? 今日は定期健診の日ではありませんよっ?」
軽く息を整えた鋭時が短く答え、シアラは小首を傾げて聞き返した。
「今朝、スズナさんから連絡が来たんだ。午前中に来て欲しいってね」
「スズにゃんからですかっ!? でもいったい何の用でしょうか?」
軽く頷いた鋭時が携帯端末を取り出し、興奮気味に身を乗り出したシアラは再度小首を傾げる。
「メッセージには特に何も書いてなかったな……行けば分かるだろ」
「かしこまりました。では私も準備を……」
携帯端末を操作した鋭時が静かに首を横に振り、チセリは丁寧な仕草でお辞儀を返した。
「急な予定を入れちゃって申し訳ないし、今日はシアラと2人で行くよ」
「かしこまりました。旦那様の寝室を念入りに掃除させていただきますね」
手のひらを向けた鋭時が複雑な表情で頭を掻き、密かに微笑んだチセリは尻尾を振りながら柔らかい物腰でお辞儀する。
「いいんですか、チセりんっ?」
「はい、若奥様。おふたりで逢瀬を楽しんで来てくださいませ」
複雑な表情を浮かべたシアラに優しい微笑みを返したチセリは、悪戯を仕掛けるような大袈裟な仕草でお辞儀をする。
「わかりましたっ! ありがとうっ、チセりんっ!」
「あのな……まあいい、あと少しで本当になるんだから」
力強く頷いたシアラが満面の笑みを浮かべ、額に手を当てて俯いた鋭時は密かに笑みを浮かべた。
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「いらっしゃい、鋭時お兄ちゃん、シアラお姉ちゃん」
「何でヒカルさんがここに!?……以前も同じ事があったような」
診察室に入ると同時にナース姿のヒカルに出迎えられた鋭時は、戸惑いながらも息を整えて聞き返す。
「スズナお姉ちゃんの様子を見に来たら、そのまま手伝う事になってね」
「手伝い? いったい何をしてたんだい?」
頭の後ろで手を組んだヒカルが照れ笑いを浮かべ、鋭時は慎重に聞き返した。
「えーじしゃまに術式を受け取って欲しいんです、普段身に付けてるものに……」
「分かった。そうだな……臨界スーツに頼むよ」
小さく息を整えたスズナが聴診器型の術具を手に取り、しばし考えた鋭時は身に付けているスーツを指差す。
「では、転送しますね」
「この術式は!……」
静かに頷いたスズナが聴診器型の術具に意識を集中し、スーツを確認した鋭時は小さく驚きの声を上げた。
「ウラホ姉様を司法解剖した事でデータが揃いました……」
「スズにゃんが今まで病院にこもってたのは……」
明らかに涙を堪えたスズナが俯き、心配そうに声を掛けたシアラは途中で言葉を詰まらせる。
「この術式を組み上げるためです。もっと早く完成させたかったのですが……」
「心強い術式だよ、ありがとう」
「ふみゃぁ……えーじしゃまの声を聞くだけで、ほとばしりそうに体が熱くにゃるにゃんて……」
俯いたまま小声で答えたスズナに鋭時が優しく微笑みを返し、顔に生気が戻ったスズナは嬉しそうに耳を押さえた。
「よかったね、スズナお姉ちゃん。鋭時お兄ちゃん、指輪を貸してくれるかい?」
「ヒカルさん、これは……」
密かに安堵しながら微笑むヒカルが手を差し出し、鋭時はリッドリングを嵌めた右手を左手で覆いながら言葉を濁す。
「分かってるよ、出発前に返すから。ぼくも贈りたいものがあるんだ」
「そういう事なら、まあいいかな……」
腕組みして頷いたヒカルが再度手を差し出し、静かに頷いた鋭時は外したリッドリングをヒカルの手のひらに落とした。
「ちょっとヒカル! えーじしゃまに変なものを渡したら承知しにゃいからね」
「安心してよ、スズナお姉ちゃん。きっと鋭時お兄ちゃんの助けになるから」
鋭時を庇うように立ち上がったスズナが険しい顔を向け、頭の後ろで手を組んだヒカルは自信に満ちた笑みを返す。
「それにゃら、わたくしが監視しますね」
「スズナお姉ちゃんのアドバイスも聞きたいし、是非お願いするよ」
気を落ち着かせようとしたスズナが肩まで伸びた銀色の手で髪を掬い、ヒカルは嬉しそうに笑みを返した。
「今日はやけに素直じゃにゃいの? 何を企んでるの?」
「何も企んでないから、早く作業に入ろうよ。また後でね、鋭時お兄ちゃん」
警戒するスズナに屈託の無い笑みを返したヒカルは、掴んだスズナの手を引いて診察室の奥に向かおうとする。
「あ、ああ……よろしく頼んだよ」
「勝手に仕切らにゃいで、ヒカル! えーじしゃま、どうかご無事で」
呆然としていた鋭時が慌てて手を振り、ヒカルの手を振り解いたスズナは小さく頭を下げた。
「安心してくださいっ、スズにゃんっ! 教授は必ずわたしが守りますからっ!」
「ありがとう、シアラちゃん……こらー! 勝手にどこ行くのよ、ヒカル!」
自信に満ちた笑みを浮かべたシアラが胸を張り、安堵の笑みを浮かべたスズナは険しい顔に変わって診察室の奥に消えて行く。
「ははっ……それじゃあ、失礼しまーす」
軽く手を振った鋭時は、遠慮がちに頭を下げて診察室を後にした。
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「今日の予定も終わったし、これからどうしようか?」
「せっかくですから、病院の中を見て回りましょうかっ!」
待合室を兼ねた玄関ロビーに戻った鋭時が軽く伸びをし、シアラは目を輝かせて両手を広げる。
「見るって言っても、この間の売店がせいぜいだろ? 上の階を勝手に見る訳には行かないし」
「スズにゃんがいればよかったんですけど、ちょっと失敗でしたね……」
元来た廊下を親指で指し示した鋭時が難しい顔で見上げ、シアラは気まずそうに頬を指で掻いた。
「近いうちに俺が世話になるんだし、その時にでも見て回ればいいさ」
緊張を解くように軽く笑った鋭時は、シアラに目を落として片目を瞑る。
「わかりましたっ! それでは少しお散歩しましょうっ!」
「そうだな……少し歩くか」
笑顔に戻ったシアラがスーツの袖を掴み、軽く頷きを返した鋭時は病院の出口に向かった。
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「ここに来るのも久し振りだな」
「初めての散策で来た場所ですねっ!」
外周区の高層建築をつなぐ歩行者専用回廊に来た鋭時が周囲を見回し、シアラも全身を使って大きく頷く。
「あの時はスズナさんが大変な事になって……いや、すまん」
「大丈夫ですよっ! 今度はみなさんで来ましょうねっ!」
話の途中で言葉を詰まらせた鋭時が気まずそうに指で鼻の頭を掻き、静かに首を横に振ったシアラは満面の笑みを返す。
「そうだな……せっかくだから、何か飲むか?」
「はいっ! わたしはミックスフルーツヨーグルトスムージーで」
「俺はレモネードだな」
顔を綻ばせてビルの売店を親指で指し示した鋭時に大きく頷きを返したシアラが袖を掴み、腕を引く力に身を任せた鋭時は余裕の笑みを返した。
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「何か平和だな……」
「平和ですね……」
回廊のベンチに座った鋭時が透明な天井の先にある空を見上げ、ひとり分離れて腰掛けたシアラも天井越しに空を見上げる。
「この居住区の外にZKがいるなんて、とても信じられないよ」
「でも教授は、もう知らなくていいんですよっ!」
小さくため息をついた鋭時が俯いて首を横に振り、シアラは希望に満ちた笑顔を浮かべて頷いた。
「一度知った以上、すぐ忘れる事なんて出来ないぜ」
「そんなっ!?……教授が掃除屋を続けるのなら、わたしもご一緒しますっ!」
僅かに顔を上げた鋭時が再度首を横に振り、思わず立ち上がったシアラは慎重に近付く。
「今までの言葉を額面通りに受け取れば、掃除屋を続けるなんて無理だ」
「そうですね……では、どうする気なんですかっ?」
手のひらを向けて宥めた鋭時が軽く肩をすくめ、足を止めたシアラは俯き加減で聞き返した。
「経験を活かして掃除屋を支える何かが出来れば、とは考えてる」
「さすがは教授ですっ! わたしも全力で手伝いますねっ!」
曖昧な表情で頷いた鋭時が遠い目をして天井越しの空を見詰め、尊敬の眼差しで見詰めたシアラは鼻息荒く気合を入れる。
「まだ何も浮かんで来ないけどな。帰って昼にするか?」
「はいっ!」
気恥ずかしそうに頭を掻いた鋭時が空になったプラスチックのコップをゴミ箱に捨て、続いてコップを捨てたシアラは鋭時のスーツを掴んで歩き出した。
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「ほえ? 今日は何を頼んだのですかっ、教授っ?」
「ん? ちょっとした裏メニューだよ」
全自動食堂マキナの配膳ロボットを眺めていたシアラが小首を傾げ、悪戯じみた笑みを返した鋭時はどんぶりと皿をテーブルに並べる。
「おや? それはドクの?」
「こんにちはっ、マキナママっ!」
「いらっしゃいシアラちゃん、鋭時くんも」
半ば呆れたマキナの声に気付いたシアラが大きく手を振り、マキナも軽く手を振って優しく微笑む。
「こんにちは、マキナさん。自由に動けるうちに、一度は食べて置こうかなと」
「律儀なもんだねぇ。食べ方は自由だから、好きにおあがりよ」
「では、遠慮なく……」
軽く頭を下げてから曖昧な笑みを浮かべる鋭時にマキナが笑いを堪えながら手を差し伸べ、鋭時は皿に載ったアジフライを蕎麦のどんぶりに入れた。
「いただきます」
七味唐辛子を振り掛けてから箸で軽く混ぜた鋭時はつゆに浮かべたアジフライに齧り付き、歯応えの残る衣から染み出た鰹出汁と醤油の風味と合わさった鯵の身を噛み締める。
アジフライを飲み込んで勢いよく蕎麦を啜った鋭時は口の中を駆け抜けるつゆの香りと唐辛子のほのかな辛みに顔を綻ばせ、更につゆを染み込ませたアジフライに齧り付いて黙々と箸を進めた。
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「普通にいけたな……」
「そいつはよかった。あのドクの好物だから、ちょいとばかり心配してたんだよ」
どんぶりを空にした鋭時が満足そうに微笑み、様子を窺っていたマキナは安堵のため息をつく。
「ドクだって普通のにんげ……ジゅう人ですから」
「それもそうねぇ。ところで聞いたよ、ウラホちゃんの仇討ちに行くんだって?」
静かに頷いた鋭時が言葉を詰まらせて微笑み、納得して微笑んだマキナは真剣な眼差しを鋭時に向けた。
「どこでそれを……!?」
「警戒しなくていいよ。表立って言わないけど、みんな事情は知ってるからさ」
思わず戦慄した鋭時が身構え、優しく微笑んだマキナは周囲に目配せする。
「色々と申し訳ない、俺は人間が嫌になりそうだ」
「そんな事言わないでくださいっ、教授っ!」
緊張を解いた鋭時が肩を落として俯き、驚いたシアラは思わず大声を上げた。
「悪かった。俺が人間だから、シアラ達を幸せにしてやれるんだよな……」
「はいっ! 絶対に教授を幸せにしますからねっ!」
額に手を当てて首を横に振った鋭時が優しく微笑み、力いっぱい頷いたシアラは満面の笑みを浮かべる。
「お熱いのはいいけど、ここはそういう店じゃないよ。続きは外でやっとくれ」
「っと……すいません」
からかうような笑みを浮かべたマキナが手で扇ぎ、鋭時は慌てて頭を下げた。
「真面目に謝らなくていいのよ、みんな新しい子供を楽しみにしてるんだから」
「わかりましたっ! わたしも教授と繁殖できるようにがんばりますっ!」
手のひらを向けて笑いを堪えたマキナが慈しむように目を細め、明るく微笑んだシアラは鼻息荒く気合を入れて走り出す。
「おーいシアラさん……って、もう行っちまったよ。会計、お願い出来ます?」
「あいよ、ちょっと待っといで」
呆然と出口を見詰めた鋭時が曖昧な笑みを浮かべ、楽しそうに微笑んだマキナは手招きしながら歩き出した。
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「「いらっしゃいませー」」
全自動食堂マキナを出てすぐ合流した2人は乙鳥商店の自動ドアを抜け、2体のマジックドール、らっぷとさなの歓迎を受ける。
「こんにちはー」
「ははっ……こうして見ると、まるで生きてるみたいだ」
設定された動作を実行する魔法人形にシアラが明るく手を振って返し、呆れとも感心とも付かない笑みを浮かべた鋭時も後に続いた。
「いらっしゃいませ、えーじさん」
「どうぞごゆっくり」
鋭時の入店を確認したらっぷが落ち着きのある声で挨拶し、続けてさなも丁寧な仕草でお辞儀をする。
「いや待て、色々と待て。何で急に動きが……?」
「えーじ君、いらっしゃい」
突然変化したマジックドールの動きに鋭時が戸惑って足を止め、隙を突くようにヒラネが背後から声を掛けた。
「おうわぁ!?……っと、ヒラネさんか……」
「らっぷちゃんとさなちゃんを調整してみたんだけど、どうかな?」
大袈裟に驚いた鋭時が安堵のため息をつき、ブラウスとジーンズを組み合わせた軽装の上にエプロンを付けたヒラネが目を輝かせて顔を近付ける。
「調整したから、あんな動きを……でも、何でまた?」
「2人にえーじ君のお世話をさせるって約束したでしょ?」
得心の行った様子で頷いた鋭時が聞き返し、ヒラネは悪戯じみた笑みを返した。
「あれか……断った事になってなかったのかよ……」
「他にも色んな機能を付けられるわよ、えーじ君はどういうのがお好みかな?」
初めて店に来た時のやり取りを思い出した鋭時が額に手を当て、ヒラネは興味津々な様子で微笑む。
「みんなと仲良くしてくれれば、俺は別に……」
「分かったわ、女の子を悦ばせる機能ならお安い御用よ」
回答に窮した鋭時がゆっくりと言葉を絞り出し、再度悪戯じみた笑みを浮かべたヒラネは大きく頷いた。
「何だかワクワクしますっ! ラコちゃん、どんな機能があるんですかっ?」
「おーいシアラさん、少し落ち着こうね~。ヒラネさんも勘弁してくださいよ」
俄然興味を示すシアラに釘を刺した鋭時は、ヒラネにも曖昧な笑みを返す。
「冗談よ。でも気が変わったら、いつでも言ってね」
「ははっ……」
柔らかく微笑んだヒラネが片目を瞑り、鋭時は複雑な笑みを返すに止まった。
「あまり王子様をからかわないでくれよ、ヒラ姉」
「おっと……セイハさんか」
店の奥から顔を出したセイハが呆れ顔で声を掛け、僅かに身構えた鋭時は安堵のため息をつく。
「よう、いらっしゃい。今日は何をお探しなんだい?」
「庭園バルコニーで術式の最終確認をするので、軽く飲み物でも」
トレーニングウェアとエプロンを組み合わせた姿のセイハが気さくに手を振り、顔を綻ばせた鋭時は素直に目的を答えた。
「そっか……でも決行は今夜だぜ? 休まなくて大丈夫なのかい?」
「確かジゅう人は短い休息で充分だったかな?」
軽く頷いたセイハが神妙な面持ちで聞き返し、鋭時は慎重に質問を返す。
「ああ、そうだぜ」
「何となく長い夢を見てるような気もするけど、短い時間で目が覚めるのよね」
事も無げに頷いたセイハが自信に満ちた笑みを浮かべ、ヒラネも同意するように頷いてから微笑んだ。
「なるほど、やっぱりそうだったのか……」
「何か新しいコツを掴んだみたいだな、今夜を楽しみに待ってるぜ」
「ラコちゃん、シロちゃん、また後でねーっ!」
確信を持って頷く鋭時に気付いたセイハが期待に満ちた笑みを浮かべ、シアラはタイミングを見計らったように手を振ってから商品棚を眺め始めた。
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「ただいまー」
「ミサちゃん、たっだいまーっ」
「お帰りなさいませ、旦那様、若奥様」
夕刻になって鋭時とシアラがグラキエスクラッチ清掃店に戻り、チセリは丁寧なお辞儀で迎える。
「チセリさん。手術が終わった後でいいんだけど、凍鴉楼に空いてる部屋ってあるかな?」
「あるにはありますが、何故そのような?」
しばし躊躇っていた鋭時が決意の眼差しと共に声を掛け、静かに頷いたチセリは慎重に聞き返した。
「記憶が戻ったら、居候する訳にも行きませんし」
「水臭い事言うなよ、あたしはいつまでもいてもらってオッケーだぜ?」
複雑な笑みを浮かべた鋭時が遠慮がちに頭を掻き、ソファに座っていたミサヲは気にする様子も無く笑みを返す。
「でもミサヲさんは……いえ、何でもありません」
「ほえ? どうしたんですかっ、教授っ?」
「今はまだいいんだよ、シアラ……記憶が戻ったら、みんなで話し合おうぜ」
言葉を詰まらせて俯いた鋭時にシアラが小首を傾げ、手のひらを向けたミサヲは首を横に振ってから微笑みを浮かべた。
「そうですね、よろしくお願いします」
「これからどうなさいますか、旦那様?」
「少しだけ仮眠を取らせてもらうよ」
曖昧な笑みを返しながら頭を掻いた鋭時に密かに安堵したチセリが丁寧な仕草でお辞儀し、鋭時は自信に満ちた笑みを返した。
「少し、でございますか?」
「短い時間で充分な睡眠を取れる術式を組み上げたんだ」
怪訝な表情を浮かべたチセリが慎重に聞き返し、鋭時は緩む口角を押さえながらアーカイブロッドを取り出す。
「さすがは教授ですっ! たっぷりお休みください」
「ああ、また後でな」
瞳を輝かせたシアラが満面の笑みを浮かべ、手を振って返した鋭時はいそいそと寝室に入って行った。
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「みんな揃ってるかな?」
「全員揃ってる、って言っても6人、レーコさんを入れて7人だけどな」
居住区正面のゲートを背にして立ったドクが周囲を見回し、軽く頷いたセイハは呆れて肩をすくめる。
「目的を考えればちょうどいい」
「僕も十善教とは色々あるけど、直接乗り込むのは問題があるからね」
放電銃ミセリコルデを肩に乗せたミサヲが不敵に笑い、見送りに来ていた真鞍は複雑な表情で頭を掻いた。
「事後処理の方はお願いしますよ、真鞍署長」
「あまり派手に暴れるなよ」
今まで見た事が無い程に丁寧な仕草で頭を下げたドクが微笑み、小さくため息をついた真鞍は釘を刺す。
「出来る限りの善処はしますよ」
「それじゃ困るんだがな~」
「冗談ですよ。ターゲットをピンポイントで駆除するだけなんで」
涼しい顔で肩をすくめたドクに真鞍が呆れ顔で苦言を呈し、ドクは動じる事無く含み笑いを返した。
「駆除、ね……僕はこれ以上何も言わないよ」
「ドクター・マリノライト、出来れば我々の処理出来る範囲でお願いしますよ」
小さくため息をついた真鞍が静かに首を横に振り、隣に控えていた蔵田が真剣な眼差しを向ける。
「相変わらず固いな、ミノリは。ドクが全力で悪知恵を働かせたんだ、必ず上手く行くぜ」
「悪知恵はともかく、念入りな準備をしたのは確かだよ」
「分かりました。姉を……いえ、みなさんをよろしく願いします!」
ミサヲに困惑した様子でドクが頭を掻き、蔵田は直立して敬礼した。
「鋭時お兄ちゃん、これ返すよ」
「ありがとう、ヒカルさん。ところで何を入れたんだい?」
同じく見送りに来ていたヒカルが投げたリッドリングを受け取った鋭時は、軽く頭を下げてから興味を示して聞き返す。
「指輪の追加機能を見てごらんよ」
「どれどれ……こいつは!?」
頭の後ろで手を組んだヒカルが得意満面な笑みを浮かべ、リッドリングに意識を集中した鋭時は小さく驚きの声を上げた。
「ほえ? ルーちゃん、何をしたんですかっ?」
「今はまだ内緒だけど、スズナお姉ちゃんの術式と組み合わせて鋭時お兄ちゃんの助けになるよ」
鋭時の隣にいたシアラが小首を傾げ、胸を張ったヒカルは自信満々に悪戯じみた笑みを返す。
「やっぱりスズナちゃんは来てないのね……」
「スズナお姉ちゃんは次の仕事があるんだ。みんなによろしくって言ってたよ」
「そう、ありがとう」
周囲を見回して肩を落としたヒラネに気付いたヒカルが軽く手を振り、ヒラネは曖昧な笑みを返して俯いた。
「今はその言葉で充分だろ? そろそろ出発するぞ」
「皆様、どうかご武運を」
気遣うように微笑んだミサヲがゲートを親指で指し示し、丁寧な仕草でお辞儀をしたチセリが送り出す。
「おまかせくださいっ、チセりんっ! 教授は必ずわたしが守りますからっ!」
「はい。ここは旦那様と若奥様の新たな故郷、必ず帰って来てくださいませ」
振り向いて胸を張ったシアラが大きく手を振り、狼のような尻尾を左右に振ったチセリは再度深くお辞儀をした。
「故郷カ……イイ響キダ」
「っと、星白羽か……今まで何してたんだよ?」
唐突に入れ替わった星白羽が小さく頷き、思わず立ち止まった鋭時は小声で聞き返す。
「休ンデタ、万全ナ状態デ戦エルゾ」
「そいつは頼もしい事で。みんな行っちまったし、俺達も行くぞ」
「分カッタ。必ズ、コノ日常ニ帰ルゾ」
不敵な笑う星白羽に呆れながらも感謝した鋭時が先を歩く一行を指差し、後ろに広がる街を見詰めて頷いた星白羽は再び鋭時の意識の底に沈んで行った。