第25話【決意、新たに】
夕食を待つ間、一緒に風呂に入ろうとするシアラ達の誘いを断った鋭時だが、
今度は少年のような姿をしたジゅう人のヒカルが鋭時を風呂に誘って来た。
「誰にどこまで聞いたか分からないけど、俺は人との接触を無意識に拒絶しちまう体質なんだ。狭い場所で発動したら誰にどんなケガを負わせるかも分からないし、風呂に入るのはヒカル君でも無理かな……」
スーツの袖を掴みながら風呂に誘って来たヒカルに驚き困惑した鋭時は、慎重に言葉を選んで自分の身に付いた拒絶回避の説明を試みる。
「人間の力でジゅう人の体に付けられる傷なんて大した事は無いんだし、ぼくなら気にしないから一緒にお風呂入ろうよ。鋭時お兄ちゃん」
「何を言ってやがんだ、ヒカルもメスだろ! オスの振りはここまでだ、ヒカルもあたし達と風呂入るぞ!」
鋭時の説得を意にも介さない様子でヒカルが袖を引くと、後ろから来たミサヲが呆れ顔でヒカルの首根っこを掴んで持ち上げた。
「そうよヒカル。えーじしゃまの精神が安定するにゃらと思って見逃してたけど、これ以上は駄目よ」
「えー……鋭時お兄ちゃんの写真も撮ろうと思ってたのに。スズナお姉ちゃんも見たかったでしょ?」
自分を抱えるミサヲの腕から降りて注意して来たスズナに、ミサヲに降ろされたヒカルも頭の後ろで手を組みながら悪戯っぽい笑みを返す。
「そ、そんにゃのいらにゃいわよ! えーじしゃまの体を治せばいつだって実物を見れるんですから……!! えーじしゃまの前で何て事言わせんのよ、ヒカル!」
「ちょっと待って!? 今のはスズナお姉ちゃんが自分で言ったじゃないか!」
動揺を隠しつつ落ち着いた振りをして話すスズナが途中で顔を赤くしてヒカルに駆け寄ると、ヒカルは慌ててミサヲの脚に隠れるように逃げ出した。
「そこまでだ、スズナもヒカルもあたしと風呂に入るぞ」
「ふみゃ!? ごめんにゃさい、みしゃお姉しゃま……」
「うわわっ!? ミサヲお姉ちゃん、もうちょっと優しくしてよ」
脚の間を小動物のように駆け回るスズナとヒカルを、ミサヲが諭すように微笑みながら同時に捕まえて抱え上げる。
「つまり、ヒカル君……じゃなくてヒカルさんは女の子で、俺と風呂に入ってたら覚醒させてたって事か?」
「そうですよ、教授っ? ルーちゃん女の子なのに男の子みたいにしてるから何か理由があるのかな? とは思ってましたから黙ってましたけど……」
「ごめんね、鋭時お兄ちゃん、シアラお姉ちゃん、騙すつもりはなかったんだよ。ぼくが覚醒したらどうなるのか、ちょっと興味があっただけなんだ」
目の前のやり取りを呆然と眺めていた鋭時が気を取り直して質問するとシアラが上目遣いで小首を傾げ、ミサヲに抱えられたヒカルは悪びれる事もなく悪戯じみた笑みを浮かべた。
「いや待て、色々と待て。一度覚醒したら二度と戻れないんだぞ?」
「シアラお姉ちゃんもみんなも楽しそうに笑ってるから、ぼくも鋭時お兄ちゃんを見て覚醒したいな~、って思ったんだ」
大袈裟に両腕を広げて再度の説得を試みた鋭時に、ヒカルはシアラ達をひと通り見回してから満面の笑みを返す。
「だからどうして……そうか……! 覚醒は本能でも、覚醒したジゅう人が周りにいればA因子を推測できるのか……これは盲点だったな……」
「それだけじゃないんだ、ぼくの眼鏡には人間が使うA因子測定装置も組み込んであるからね。もし他のジゅう人が見ても、鋭時お兄ちゃんのA因子がドクの発明に隠れてるなんて考えもしないよ」
浮かんだ疑問を整理するように呟いていた鋭時がジゅう人の繁殖本能の覚醒にも理性や思考が働く可能性に気付くと、ヒカルはミサヲの腕から抜け出そうともがく手足を止めてから誇らしげな顔で眼鏡の赤い縁を少し持ち上げた。
「それで確信した訳か……ドクの発明を出し抜くジゅう人がいたなんてね……」
「大した事は無いよ鋭時お兄ちゃん、タイプグレムリンならタイプレプラコーンの作った装置を見破るくらいは出来ないとね」
頭を掻いて呆れる鋭時に嬉しそうに微笑んだヒカルは、ようやくミサヲの腕から脱出して店舗スペースのソファに座るドクに子供のような無邪気な笑みを向ける。
「やはりヒカルさんの目だけは誤魔化せなかったみたいだね、ただ今回に限っては事情が事情だからお手柔らかに頼むよ」
「分かってるよドク、ぼくだって鋭時お兄ちゃんに消えてほしくないもの」
「ははっ、そう言ってもらえると助かるよ……」
視線に気付いたドクの苦笑に対しヒカルが頭の後ろで手を組んで聞き分けの良い子供のような笑顔で答えると、ドクは指で頬を掻きながら苦笑を重ねた。
(これも種別が持つ本能なのか? ドクだって本当は人間なのに大変だな……)
「ところで教授っ……ルーちゃんの件もひと段落しましたし、着替えの方を……」
心の中でドクに同情する鋭時に、居住スペースの戸を開けたシアラが上目遣いで恥じらいながら声を掛ける。
「待たせて悪かった、でもこのままミサヲさん達を待たせるのも申し訳ないな……シアラ達が風呂入ってる間に着替えとくから、出て来たら取りに来てくれよ」
「わかりましたっ、教授っ! それではミサちゃんっ、教授が着替えるまでの間、みなさんでお風呂に入りましょうっ!」
気まずそうに頭を掻いた鋭時が周囲を見回してから自分の部屋に目を向けると、シアラは目を輝かせて頷いてから、逃げようとするヒカルを再度捕まえたミサヲに声を掛けた。
「任せろシアラ、スズナとヒカルも行くぞ。おーいチセリ! あたし達先に風呂に入ってるから、何かあったらドクか鋭時を呼んでくれー」
シアラに呼ばれてスズナとヒカルを抱えたミサヲが居住スペースに入り、廊下とつながったキッチンに向かって声を掛ける。
「かしこまりました。それではお料理の仕上げも皆様がお風呂を出るタイミングに合わせますね」
「サンキュー、チセリ。出来るだけ早く出てくるつもりだ。さ、行こうぜ」
「お気になさらずごゆっくりどうぞ。旦那様にはお早くお出ししましょうか?」
キッチンから返って来たチセリの声に答えたミサヲがシアラ達を連れて風呂場へ向かうと、咄嗟に避けて室内縁側に座った鋭時にもチセリの声が飛んで来た。
「俺もみんなを待つよ、ちょっと部屋の様子も確認したいし。昨日は夜遅く来て、そのまま寝ちゃったからさ」
室内縁側に座ったまま腕に通した紙袋をしばし眺めて考えた鋭時は、キッチンに顔を向け直して返答する。
「かしこまりました。では皆様がお風呂を出たらお声掛けいたしますね」
「分かりましたチセリさん、よろしく頼みます」
キッチンに立つチセリからの快い返答を聞いた鋭時は礼を言ってから靴を脱ぎ、室内縁側に上ってから自分の寝室の戸に手を掛けた。
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「こいつはチセリさんが設定してくれたのか?……やっぱり隣はシアラか……」
戸を開けようとした鋭時は寝室の戸に埋め込まれたパネルに【EIJI】、隣の部屋の戸のパネルに【SIARA】と表示されているのに気が付いて複雑な笑みを浮かべる。
「昨日は特に気にしなかったけど、明かりは普通に自動設定だったのか……」
寝室の戸を左側へ引いて開けた鋭時が部屋に入ると同時に室内の照明が点灯し、鋭時は入ってすぐ右の壁に備え付けられたセンサー付きのスイッチを見付けて納得した。
「ここは今朝も使ったけどトイレ……隣の壁の向こうは押し入れって訳か……」
そのまま室内縁側と畳の間にある板張りの床に立って左を向き、室内縁側の方へ寄ったトイレの扉の配置から壁向こうのスペースを推測して頷く。
「で、ここには洗面台……入ってすぐは見えなかったけど、チセリさんがタオルを掛けてくれたんだな……」
トイレの扉の隣の壁に設置された洗面台を確認した鋭時は、水が畳に掛からないよう洗面台と直角に設置された壁に挟まるように取り付けられたタオル掛けに白いタオルが掛けられているのを見付けて心の中で感謝した。
「水回りはこれくらいだな……キッチンと風呂は共用、洗濯は……風呂同様術式でどうにかなるし、洗濯機があるなら共用スペース……風呂場の辺りだろうな……」
板の間の設備をひと通り確認し終えた鋭時は、しばらく考え込んで苦笑してから洗面台横の壁を回り込んで畳の上へと移動する。
「やはりこっちの照明も自動設定か、しかもご丁寧に俺がしばらく横になってると明かりが消える設定になってるな……少し設定変えとくか……」
四畳半の部屋に足を踏み入れてすぐに右側の壁を見た鋭時が小さなディスプレイ付きのスイッチを見付けると、設定画面を開いてしばらく操作した。
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「これが件の乾燥機か?……布団もこの中にしまってくれたのか……」
照明の設定を終えた鋭時は入口の戸を背にした押し入れを開け、その下段に固定された金属製の引き出しを見付けて開ける。
「湿り気が全く残ってないとは見事なもんだ、たぶんチセリさんがここまで布団を運び入れてくれたんだろうな……いくら俺より力持ちだからって申し訳ない……」
引き出しの中に奇麗に畳まれて収まった布団の表面を鋭時が軽く触れながら朝の慌ただしさを思い出すと同時に、それを全く感じさせない室内の様子に改めて感謝した。
「こっちには窓型ディスプレイか……好きな景色と音楽、ついでに字幕ニュースの表示設定まで出来る、と……」
押し入れの反対側、入口と向かい合わせの壁に掛けられた窓枠が映像を映し出すディスプレイだと気付いた鋭時は、ディスプレイの横に掛けられたリモコンを手に取り操作を始める。
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「いけね、こんな事してる場合じゃなかった。今のうちに着替えないと……」
画面に映った景色映像をいくつか切り換えながら眺めていた鋭時は当初の目的を思い出し、慌てて押し入れの脇に置いた紙袋からワイシャツを取り出した。
「忘れる前に【衣服洗浄】……酷いシワだ。完全自動洗濯機でもあればいいんだが無理だよな……何かアイロン代わりになる術式を……」
「旦那様、今しがた若奥様達がお風呂場から出て参りました。食卓の準備が終わりましたら再度お声がけしますので、もうしばらくお待ちください」
着替えを終えて手にしたアーカイブロッドの術式を眺めていた鋭時は、キッチンから飛んで来たチセリの声に思わず手を止める。
「えっ!? 少しのんびりし過ぎたか!? とにかく手伝うって約束したんだし、間に合わなかったら格好付かないだろ……!」
「教授ーっ、着替えは終わりましたかっ? 今すぐ取りに行きますよーっ!」
チセリの呼び声に慌てた鋭時が急いでアーカイブロッドの中から目当ての術式を探そうとすると、今度は弾むようなシアラの声が部屋の入口の前で響いた。
「待ってくれシアラ!【衣服洗浄】は掛けたんだが、結構くたびれちまってんだ。すぐにシワを伸ばす術式を探すから、もうちょっとだけ待ってくれないか?」
「ちょっと待ってくださいっ! 今すぐ受け取りますっ!」
動揺を隠せないままの鋭時の説明を聞いて状況を察したシアラが慌てて勢い良く戸を開けるが、入る直前で足を止めて縋るような目付きで部屋を覗き込む。
「今そっちに行くよ。でもいいのか? 今からでもアイロンになる術式を……」
「はい、このままがいいんですっ! ありがとうございますっ、教授っ!」
「そうか……シアラは先にテーブルの方に行ってくれないか? 俺はチセリさんの手伝いに行って来るよ」
「では教授のシャツを部屋に置いたらすぐに行きますねっ!」
腰にウサギのぬいぐるみを付けたメイド姿で部屋に入ろうかと葛藤するシアラに自嘲と安堵の入り混じった複雑な表情を浮かべながら近付いた鋭時が適当に畳んだワイシャツを躊躇いがちに差し出すと、満面の笑みを浮かべて受け取ったシアラは外に出て靴を履こうとする鋭時に向けて手を振りつつ自分の部屋の戸を開けた。
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「遅くなってすいません、チセリさん。手伝うって約束したのに申し訳ない……」
「ありがとうございます旦那様。途中までは若奥様に手伝っていただきましたし、残りはミサヲお嬢様とスズナ様、ヒカル様に手伝っていただきました。後はこちらを運ぶだけで終わりです」
居住スペースの廊下にある洗面台で手を洗ってからキッチンに入ってばつの悪い顔をする鋭時に、チセリは丁寧な仕草でお辞儀をしてから調理台の上に置いてある彩り豊かな野菜とポテトサラダの入ったサラダボウルに手を差し向ける。
「だからあいつはメイド服だったのか……じゃあそれは俺が運ぶよ、それくらいはしないとな……後でみんなにも謝らないと……」
「謝罪よりはお礼の方がよろしいかと。本当はお体でお礼をしていただくのが一番よろしいのですが、それは今後の楽しみにいたしますね」
「そういう冗談は勘弁してくれよ、チセリさん……とにかくこれ持って行くぜ」
夕食の準備がほぼ完了していると知って沈んだ表情浮かべる鋭時の前でチセリが悪戯じみた表情を浮かべて微笑みかけると、半ば諦めたように微笑んで頬を掻いた鋭時はサラダボウルを手に取って店舗スペースへと運んで行った。
「ちょうどよかったっ、教授っ! こっちですっ、ここに座ってくださいっ!」
「分かったから今は袖を引っ張るなよ、せっかくのサラダを落としちまうからな」
玉のれんをくぐった鋭時は居住スペースの戸を開けて店舗スペースに戻って来た着物姿のシアラと鉢合わせし、案内されるままにテーブルへと向かう。
「なるほど……これなら万が一拒絶回避が出ても大丈夫だな……遅れてすまない、みんなありがとう」
横に2つ並べたテーブルの中央に唐揚げを盛った大皿を始めとして煮物や漬物の入った器がいくつか置かれた中の空いた箇所にサラダボウルを置いた鋭時は、縦の位置にひとつだけ置かれた椅子に気付いて感心するように座ってから左右に並べられたソファそれぞれに座った人達に向かって頭を下げた。
「ありがとうだにゃんて……えーじしゃまこそありがとうございます」
「優しいんだね鋭時お兄ちゃんは、ぼくも鋭時お兄ちゃんを見て覚醒したいな」
鋭時から見て右側に置かれた2人掛けのソファ、その手前に座って顔を赤らめるスズナを隣で見ていたヒカルも楽しそうに鋭時の顔を見つめる。
「勘弁してくれよ……これ以上覚醒させたら完全に立ち直れなくなるぜ……」
「そんな事ないよ。シアラお姉ちゃんはタイプサキュバスだし、鋭時お兄ちゃんを元気にする術式ならいくらでも使えるはずだよ」
自分に向けられた期待の眼差しに戸惑う鋭時が頭を掻いて苦笑すると、ヒカルは不安を払拭するような満面の笑みを浮かべて身を乗り出した。
「あー……ヒカルさん、俺が言いたいのはそういう事じゃなくてだね……」
「そうですっ、ルーちゃんっ! わたしが教授を回復させますから、ルーちゃんも遠慮なんていりませんよっ!」
額に手を当てた鋭時の苦言をシアラが遮り、鋭時から見て左に置かれたソファの前に移動して大きく胸を張る。
「教授も安心してわたしの仲間を増やしてくださいねっ!」
「おーいシアラさん。やたらと覚醒者を増やそうとしないの、俺の記憶はまだ何も戻ってないんだからさ……」
「鋭時の記憶なら必ず戻るさ、だから今はとにかく食おうぜ」
期待と自信に満ちた笑顔を浮かべて見つめて来たシアラに気付いた鋭時が疲れた顔でため息をつくと、シアラの隣に座っていたミサヲが鋭時達を元気付けるように笑いながら唐揚げの盛られた大皿に手を伸ばした。
「何をなさっているのですか、ミサヲお嬢様?」
「いや、これは、その……やっぱり唐揚げにはレモンを豪快にかけないとさ」
ご飯の入った茶碗と味噌汁の入った椀を人数分お盆に載せてキッチンから戻って来たチセリの落ち着いた声に手が止まったミサヲは、手にしたくし切りのレモンに向けられた視線に気付いて顔を引きつらせる。
「私の作った唐揚げはレモンをかけなくても食べられるよう研究を重ねました。それでも人には好みがございますから、レモンをかけるのでしたら取り皿に載せてから各自でおかけいただくようお願いいたしますね、ミサヲお嬢様」
「そうだな、悪かった……檸檬探偵は唐揚げにレモンをかけなかったんだな」
盆をテーブルに置いて穏やかな笑顔を浮かべながらも毛まで逆立てた尻尾を立てながらミサヲの横に立ったチセリがテーブルの上の取り皿を手で指し示すと、引きつった顔を緩めて軽く微笑んだミサヲは手にしたレモンを自分の取り皿に置いた。
「お待たせしました皆様、どうぞ召し上がって下さい」
「はーいっ、いっただっきまーす」
「ぼくも遠慮なくいただきまーす」
「うみゃっ、いただきます……」
ご飯と味噌汁を各自の前に配り終えたチセリがテーブルをひと通り見回してから微笑むとシアラが勢いよく大皿に盛られた唐揚げを取り皿に載せ、ヒカルとスズナも続くように唐揚げに箸を伸ばした。
「どうだい鋭時、今夜も飲むか?」
「いえ、さすがに毎日飲む訳には……」
唐揚げを取るシアラ達に目を細めたミサヲが白地に黒で【冥酒樽灘】と書かれたラベルを貼った茶褐色の瓶を差し出すが、鋭時は手を振る仕草で遠慮する。
「そっか……無理強いはしないぜ。でも飲みたい時はいつでも言ってくれよ、すぐ買いに行けるんだからさ」
「あまり強くなかったのを思い出したんで、取り敢えず週1回程度で考えますね」
半ば予想通りの返答に小さく肩を落としたミサヲが気を取り直しつつ微笑むと、鋭時もぎこちない愛想笑いを返した。
「分かった。さっきも話したけど明日酒売ってる店に案内してやるから、ついでに見ておくといいぜ。ところでドクは飲むかい?」
「ボクも遠慮しとくよ、帰ってから片付けないといけない事があるんでね」
遠慮がちに頭を掻く鋭時に嬉しそうな笑みを返したミサヲがヒカルの隣に座ったドクに酒瓶を差し出すが、ドクも遠慮がちに首を振る。
「おいドク。もしかしてレーコさんがいないのも、それが理由か? 今度来る時はちゃんと連れて来いよ」
「今日は少々イレギュラーだったのもあるけど、今回の件が片付いたら必ず連れて来るよ」
「ああ、楽しみにしてるぜドク。それじゃ今日はあたしひとりで遠慮なく飲ませてもらうぜ」
不機嫌そうに目を細めて体を少し乗り出したミサヲが苦笑するドクに約束を取り付けると、上機嫌な顔に戻って手元に置いた枡に酒を注ぎ始めた。
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「はいっ、どうぞっ! 他に食べたいものがあればわたしが取りますから、教授も遠慮なく言ってくださいねっ!」
「あ、ありがとな、シアラ。昨日思い出した記憶だとそれほど大食いってわけでも無いし、取り敢えずこれをいただいてから考えるよ」
ミサヲと話している間に唐揚げとサラダを盛った取り皿をシアラに差し出された鋭時は、やや引き気味に感謝しながら頬を掻く。
「いっぱい食べて丈夫な体を作ってくださいねっ、教授っ!」
「色々と言いたい事はあるけど、記憶探しも体力勝負だからな……いただきます」
覗き込むように顔を近付けたシアラが満面の笑みを浮かべると、困惑したような複雑な表情を浮かべつつも気を取り直した鋭時は手を合わせてから箸を持ち直して唐揚げをひとつ取って口に運んだ。
歯に当たった瞬間、充分に揚げられた衣がサクッと音を立て、同じく充分に熱の通った柔らかい鶏モモ肉が千切れると共に溶けた脂と肉汁の旨味が下味に使われた醤油やショウガ、ニンニクなどの風味と共に鋭時の口中に広がる。
すぐに紺色の茶碗を左手に取った鋭時がそのままご飯を箸で掬って口に運ぶと、ふっくら炊かれた白いご飯の微かな甘みが唐揚げの重厚な旨味と風味に合わさって広がり、複雑に混じり合った味を堪能してから飲み込むと同時に箸で掴んだ残りの唐揚げをご飯と共に口の中に投入した。
ひとつの唐揚げを箸数回分のご飯と共に腹に収めた鋭時は次に、取り皿に載ったポテトサラダを箸で掬い口に運ぶ。
蒸かしてペースト状に潰したジャガイモが口の中で抵抗なく解れてマヨネーズの豊かな風味と程よい酸味とが混ざり合った中で薄いキュウリの輪切りや茹でられたニンジンのいちょう切りなど様々な歯ごたえの重なる食感を楽しんだ鋭時は、再度唐揚げとご飯の組み合わせで箸を進めた。
(美味い……どんな唐揚げが出てくるかと思ったけど、案外普通で安心したぜ)
2つ目の唐揚げを食べ終えてから程よい大きさに千切られたレタスやくし切りにされたトマトなどで口の中をひと休みさせた鋭時は、奇をてらわずに基本に忠実な味付けと調理をされた唐揚げに心の中で感心する。
「相変わらず普通に美味いな、チセリの作る唐揚げは。これも例の檸檬探偵が毎日食べれる唐揚げを研究した成果だったか?」
「それも今ではいい思い出でございます。いろいろと試しましたが、結局は基礎が最も大切と分かりましたので」
テーブルに枡を置いて唐揚げを頬張ったミサヲが両手で枡を取って中の酒を流し込んでから満足そうな笑顔を隣に座ったチセリに向けると、チセリも口に手を当てながら嬉しそうに微笑みを返した。
「何事も基礎が大事か……」
(……まるでドクの訓練と同じだな)
「どうしましたかっ、教授っ?」
聞こえて来たミサヲとチセリのやり取りに納得するかのように呟いてから大根と油揚げの味噌汁の椀に口を付けた鋭時に、唐揚げを食べ終えたシアラがタケノコとわかめの煮物を取り皿に載せながら不思議そうな顔を向ける。
「いやなんでもない、明日の訓練を頑張ろうと改めて思っただけだ」
「チセりんが作ったお料理はどれも美味しいですねっ! いっぱい食べて、明日もがんばりましょうっ!」
思わずシアラと目が合った鋭時が慌てて口に入った味噌汁の具を飲み込んでから平静を装って誤魔化すと、目を輝かせて頷いたシアラは出汁と醤油で煮しめられたタケノコを口に入れて満面の笑みを浮かべた。
「お褒めに預り光栄ですが、少々複雑ですね……本来は旦那様と若奥様の愛を育む手助けになるはずでしたのに……」
「ふむ……拒絶回避は鋭時君が自力で記憶を思い出すか、魔力を使い切る前に捕獲してから解呪して魔力を使い切らせる方法しか無いからね。手術ならスズナさんが中心になって動いてくれてるし、ボクも出来る限りの協力はするよ」
仲睦まじい様子で会話する鋭時とシアラを見て複雑な表情を浮かべるチセリに、向かいに座ったドクが顎に手を当てながら状況を整理して説明する。
「当然だぜドク、鋭時を掃除屋にするからには徹底的に強くしろよ。こうなったらドクの悪知恵だけが頼りなんだからさ」
「悪知恵ね……否定はしないよ。鋭時君が掃除屋になる前に記憶を戻せたら危険は無いんだし、その為にも最終試験を突破出来なければ駆除の現場に出さない約束を取り付けて時間を稼いでるんだから」
チセリの横でドクの説明を聞いていたミサヲが中身を飲み干した枡をテーブルに置いてから口を挟むと、ドクは動じる事無く涼しい顔で小さく肩をすくめた。
「じゃあ訓練が終わる前に鋭時お兄ちゃんの記憶を戻せばいいんだね、ドク?」
「あちゃー、ヒカルにも聞こえてたか……」
ドクの白衣のような黒服の袖を軽く引いて興味深く目を見開くヒカルに気付いたミサヲは、額を手に当てて小さく天を仰ぐ。
「ぼくの耳はよく聞こえるけど、こんな近くなら誰だって聞こえるよ」
「聞かれて困る話では無いよ、時間稼ぎは鋭時君の理解も得てるからね。とはいえ未知数な部分も多い、出来ればヒカルさんも聞かなかった事にしてくれるかな?」
特に気にする様子も無くヒカルが兎のような自分の耳を指差しながら微笑むと、ドクは白衣のような黒服のポケットに手を入れながら含み笑いを浮かべた。
「でも面白そうな話じゃないか、ぼくも乗っていいかい? 鋭時お兄ちゃんに恩を売れば、お礼に覚醒ぐらいさせてくれそうだし」
「ちょっとヒカル! 遊びじゃにゃいのよ。協力すると言うにゃら、わたくし達の言う事をちゃんと聞きにゃさいね」
尚も興味津々な様子でドクに話し掛けるヒカルに、スズナが後ろから注意する。
「分かってるよ、スズナお姉ちゃん。ぼくもジゅう人の端くれ、シショクの願いに誓って鋭時お兄ちゃんを助けたいんだ」
「確かにヒカルさんがいると心強いな……詳しくは今の案件が落ち着いたら詰めるとして、時間がある時にスズナさんから話を聞いといてくれるか? スズナさんもそれでいいかな?」
ヒカルが笑顔のままスズナの方へ振り向いて頭の後ろで両手を組むと、顎に手を当ててしばし考えたドクがヒカルの協力を仰ぎつつスズナの了承を求めた。
「ドクに仕切られるのはちょっと癪ですけど、えーじしゃまのためにゃら仕方ありませんね」
「任せてよドク、必ず鋭時お兄ちゃん助けて覚醒させてもらうから!」
時折鋭時に視線を向けながら渋々頷くスズナに被るように、ヒカルが再度ドクの方へ振り向いて無邪気な笑顔を向ける。
「待ってくれ、ヒカルさんまで巻き込む訳には行かないよ」
「いいじゃないですかっ、教授っ! もう教授の事を知ってしまったんですから、ルーちゃんも仲間に入れちゃいましょうっ!」
ヒカルが協力を了承するまでのやり取りが聞こえて来た鋭時が慌てて止めようとするが、シアラが鋭時のスーツの袖を掴みながら満面の笑みを浮かべた。
「シアラお姉ちゃんの言う通りだよ鋭時お兄ちゃん、ぼくだけ仲間外れにしないでおくれよ」
「はぁ……こうなると話を聞いてくれねえのがジゅう人なのは、昨日の今日でよく分かったよ……ヒカルさんも好きにすればいいさ」
一度俯いて何やら目に塗ってから潤ませた瞳を上目遣いで見せて来たヒカルに、鋭時は半ば呆れて頭を掻きながらため息をつく。
「いいのかい鋭時お兄ちゃん!? 試してみたい機械があるんだ、記憶が戻ったら協力してね!」
「あ、いや……好きにしろって、そういう意味じゃなくて……」
「よかったですねっ、ルーちゃんっ! 教授のお体を治すためにも、まずは食べてみんなで元気を付けましょうっ!」
「迂闊だった、この口癖もどうにかしないと……とはいえ口に出した以上、今回は仕方ないか……」
目を軽く拭ってから手放しで喜ぶヒカルと満面の笑みで祝福するシアラを交互に見て弁明は不可能と鋭時が悟ると、そのまま周囲に合わせて食事を再開した。
▼
「「ごちそうさまでした!」」
「お粗末様でした」
ヒカルの件がひと段落してから長らく食事と会話を楽しんで満足した一同は空になった大皿や器を前に手を合わせ、チセリは立ち上がって嬉しそうにお辞儀する。
「美味しかったよチセリさん、ありがとう。シアラ、スズナさん、取り皿を重ねてくれないか?」
「お口に合いましたようで嬉しく思います、旦那様。後片付けでしたら私の方でしますので、しばらくお休みくださいませ」
チセリに続いて立ち上がった鋭時が周囲の取り皿を重ねて持ち上げると、料理を褒められて喜んでいたチセリが振っていた尻尾を下げながら取り皿を受け取ろうと両手を差し出した。
「支度の時は特に何も手伝えなかったんだし、これくらいはさせてくれないか?」
「そのような事をお気になさらずとも……ありがとうございます。流しの横にある食器洗浄機の近くに置いていただければ結構ですので、よろしくお願いします」
重ねた取り皿を両手で持ちながら照れ笑いする鋭時に、チセリは観念したように小さくため息をついてから丁寧な仕草でお辞儀する。
「分かった、ありがとうチセリさん」
「わたしも手伝いますねっ、教授っ! ヴィーノお願いしますっ」
軽く頭を下げて礼をした鋭時が台所へ向かうと、シアラは腰のぬいぐるみをネコからウサギに取り換えてメイド姿になってから食器を集め始めた。
「片付けならぼくも手伝うよ」
「わたくしも……」
後片付けを始めた鋭時とシアラに続きヒカルとスズナが立ち上がろうとするが、いつの間にかミサヲが2人の座るソファの後ろに回り込んで頭を撫でる。
「ありがとよ、ヒカル、スズナ。でも今夜はもう遅いし家で休んでくれ、片付けはあたし達で何とかするよ。それとも久しぶりに一緒に寝るか?」
「ぼくは遠慮しとくよ、息継ぎしないで寝たいからさ」
2人の頭や耳を優しく撫でたミサヲが悪戯じみた微笑みを浮かべると、ヒカルは乾いた笑いを浮かべながら目を逸らした。
「わ、わたくしは……みしゃお姉しゃまと……」
「冗談だよスズナ、今日は色々あって疲れたろ? 家に帰ってゆっくり休むんだ。ヒカル、スズナを家まで送ってやってくれねえか?」
真剣な顔で俯くスズナの頭を優しく撫でたミサヲは、そのままヒカルの方へ顔を向けて片目を瞑る。
「もう体は大丈夫ですから!……ひとりで帰れます……」
「いいじゃん、スズナお姉ちゃん。鋭時お兄ちゃんの事を色々聞きたいし、一緒に帰ろうよ」
ミサヲに心配掛けまいとスズナが立ち上がると、ヒカルも立ち上がってスズナの手を握りながら微笑んだ。
「えーじしゃまの事を……? そ、それにゃら仕方ありませんね!」
「よーしヒカル、任せたぞ。じゃあスズナもおやすみ」
握られていない方の手で肩の髪を掬ってから包むように自分の手を握るヒカルの手に重ねたスズナを見て目を細めたミサヲは、激励するようにヒカルの背中を軽く叩いてからスズナの頭を優しく撫でる。
「おやすみにゃさい、みしゃお姉しゃま。さあヒカル行くわよ、早く来にゃさい」
「待ってくれよスズナお姉ちゃん。おやすみなさいミサヲお姉ちゃん、みんなにもよろしく言っといて」
逸る気持ちを抑えつつ挨拶したスズナがヒカルの手を引くと、ヒカルはミサヲに軽く挨拶してからスズナに引き摺られるように店の出口へ向かった。
「やれやれ……後はチセリかな……」
「ご安心くださいませミサヲお嬢様。食器は全て洗浄機に入れ終わりましたので、私もこれでお暇させていただきます」
スズナとヒカルを見送って安堵のため息をつくミサヲの後ろで、チセリが丁寧な仕草でお辞儀する。
「そうか……せっかく来てくれたのに色々悪いな……2人はそれぞれ考える時間が必要なんだ、そうでないと掃除屋の訓練は突破できねえ」
「左様でございましたか。確かに旦那様と若奥様は片づけを終えた後、それぞれのお部屋へ入って行きました。それでは私も失礼いたします、おやすみなさいませミサヲお嬢様」
聞き分けの良過ぎる妹に申し訳なさそうな顔で頭を掻いたミサヲが簡単に理由を説明すると、チセリは得心がいった様子の笑顔を浮かべて再度お辞儀してから店を出て行った。
「おう、おやすみ……さてドク、詳しい話を聞かせてもらおうじゃねえか」
「やれやれ……鋭時君とシアラさんをダシに人払いとは、キミも随分成長したね」
チセリを見送ってからソファに目を向けたミサヲに、ドクはソファに座ったまま呆れ気味で肩をすくめる。
「世辞は後でいい。署長と話して来た事、まとまったんだろ?」
「まあね、鋭時君もシアラさんも部屋の中でそれぞれ自習してるだろうし、簡単な打ち合わせといこうか」
「ああ、よろしく頼むぜ」
軽口を笑って受け流しつつ向かいのソファに座ったミサヲに居住スペースの戸を眺めたドクも頷き、それぞれの思いを包み込むように夜は静かに更けて行った。




