第24話【遠き想い出に】
街の散策の途中で休憩を取る鋭時達だが、
シアラから受け取った飲み物を口にしたスズナの様子が変化した。
「ふみゃぁ……にゃんか気持ちよくにゃってきましたぁ……」
「おいシアラ、スズナさんに何を飲ませたんだよ!?」
「ミックスフルーツヨーグルトスムージーですよぉ! なんでスズにゃんがこうなっちゃたのか……」
その場に寝転んでしまいそうなスズナに慌ててベンチから立ち上がった鋭時に、シアラは自分の飲んでいた物を説明しつつスズナに近寄る。
「そうれふよ~、スズにゃは変にゃのにゃんて飲んれませんよぉ~」
「うひゃあぁ!? だ、だめですスズにゃん、これ以上飲んだらスズにゃんがどうなるか……っ」
近寄って来たシアラに向かって倒れ込むように抱き付いて来たスズナが手にしたプラスチック製のコップに再度口を付けようとし、シアラはスズナの腕をどうにか振りほどいてから慌ててコップを取り上げた。
「失礼、若奥様。これは……キウイフルーツが入っていますね。それでスズナ様がこのように……」
シアラが取り上げたコップを受け取ってスズナから遠ざけたチセリは、そのままコップの中を数度嗅いでから納得したように眼鏡の蔓に手を当てる。
「そういう事か……スズナはタイプ猫又だからマタタビ飲んで酔ったんだな」
「わたし、そんなつもりじゃ……スズにゃんは、どうなっちゃうんですか……?」
飲み物の中身を聞いたミサヲが頭を掻いてから頷くと、シアラは抱き付いて来たスズナを全身で支えながらも力なく腕を降ろして愕然とした。
「落ち着けよ、シアラ。スズナさんを治せる術式なら持ってるだろ? 取り敢えずこっちでも探してるんだけど、ちょっと時間が掛かりそうなんだ……」
「そうでしたねっ、さすがは教授ですっ! 待っててくださいスズにゃん、すぐに治して……ひょわわっ!?」
冷静に袖からアーカイブロッドを取り出した鋭時のアドバイスを受けたシアラも腰のぬいぐるみを変えようとするが、もたれかかって来たスズナにふーっと耳元に息を吹きかけられて思わず悲鳴を上げて手が止まる。
「シアラひゃん……いいにおい~、スズにゃのにおいとまぜまぜしまひょうね~」
「きゃっ!? ちょっとスズにゃん、くすぐったいですよぉ……」
思わず動きの止まったシアラの柔らかい金色の髪を嗅ぐように顔を近付けて来たスズナがそのまま頬を摺り寄せると、スズナの頬に挟まれた自分の髪に頬の辺りを撫でられたシアラが控えめに悲鳴を上げてもがき始めた。
「ほほう、これはこれで……」
「ミサちゃんも助けてくださいよぉ! 早くスズにゃんを治療しないと」
借りて来た猫のように大人しかったスズナが攻勢に回るさまを楽しそうに眺めるミサヲに、腰に付けたネコのぬいぐるみに手を伸ばそうとするシアラが悲痛な声を上げる。
「心配すんなシアラ。タイプ猫又にとってマタタビは毒じゃねえし、すぐに効果も切れて元に戻るはずだぜ」
「そうれすよ~シアラひゃん、安心してスズにゃに任せてくだしゃいね~」
まるで1分1秒を争う応急処置が手遅れになるかのような不安な表情を浮かべるシアラを見たミサヲが安心させるように微笑んで宥めると、さらに上機嫌になったスズナがシアラの手を押さえながら着物の袖に手を入れ出した。
「ひゃんっ!? どこに手を入れてるんですかっ、早く戻ってくださいよーっ!」
「こらスズナ。いくら酔ってるからって、していい事といけない事はあんだろ」
袖に侵入して来たスズナの手に二の腕をさすられたシアラが目に涙を溜め始め、見かねたミサヲが手慣れた様子でスズナの首根っこを掴んで引き剥がす。
「みゃぁ……? あ、みしゃお姉しゃま~、ふみゃあ……」
「いけないっ! マハレタ、お願いしますっ!」
急に体が宙に浮かんで不思議そうな顔に変わってからすぐに自分を掴むミサヲに気付いたスズナが倒れ込むように腕に抱き付きながら目を閉じると、ようやく体の自由が効いたシアラが慌てて腰のぬいぐるみをネコからヘビに代えてナース姿へと変わりつつスズナに駆け寄った。
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「スズにゃん!? 大丈夫ですかっ、しっかりしてくださいっ!」
「お? 気が付いたか、スズナ? もう少し寝てていいぞ」
「ふみゃ、シアラちゃん?……わたくしは何を?……みしゃお姉しゃま!?」
しばらくしてからシアラの声で目を覚ましたスズナは、ベンチに座ったミサヲに膝枕されていたと気付いて慌てて飛び起きる。
「スズナ様、お加減はどうですか? 私のもので恐縮ですが、ひとまずこれを」
「ありがとう、チセリさん。あの……わたくしは何を……?」
「スズナ様が若奥様から受け取ったミックスフルーツヨーグルトスムージーには、キウイフルーツが入っておりまして……」
レモンティーの入った紙コップをチセリから受け取ったスズナが一度口を付けて気を落ち着かせてから恐る恐る聞くと、チセリは静かに頷いてから説明を始めた。
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「……倒れたスズナ様が起きるまで、若奥様がずっと術式で治療しておりました」
「そう……でしたのね……ごめんにゃさい、シアラちゃん……マタタビで酩酊した挙句シアラちゃんにあんにゃ事しちゃって……」
「わたしの方こそ……ごめんなさい、何も知らなくて……」
チセリの説明を聞き終えて頭を下げるスズナに、シアラも深々と頭を下げる。
「そんにゃこと! わたくしが何も言わにゃかったから……ふみゃ!?」
「よし! この話はここまでだ。後は帰って酒でも飲んで全部洗い流そうぜ!」
頭を下げたシアラに慌てたスズナが両手のひらを向けてから再度頭を下げると、ミサヲがスズナの頭を優しく撫でてから手打ちを提案した。
「ミサヲお嬢様がお酒を飲みたいだけではありませんか? ですが……これ以上の散策は得策でないのも事実です。申し訳ございません旦那様、本日の散策はここで終了してよろしいでしょうか?」
「ああ構わないぜ。それよりスズナさん、体の方は大丈夫なのか?」
ミサヲの提案に隠された本音に呆れながらも同意したチセリに、ベンチから少し離れた位置に立っていた鋭時も了承しつつスズナの状態を心配する。
「シアラちゃんに治療してもらいましたから、逆に元気が有り余っ……ふみゃ?」
「おっと……まだマタタビ残ってんだろ、久しぶりにあたしがおぶってやるよ」
ナース姿のシアラにお礼をするように微笑んでベンチから立ち上がったスズナがバランスを崩してよろけてしまい、ミサヲが素早く立ち上がってスズナを押さえてそのまま前に回りながらしゃがんで両手を後ろに向けてスズナを乗せた。
「ではこちらでお荷物をお預かりいたします、スズナ様の事をお願いしますね」
「荷物なら俺が持つよ、案内してもらったお礼にこれくらいはしないと」
「お気遣い感謝しますが、私達ジゅう人の力は人間の殿方を遥かに凌ぎますのでご心配には及びません。それに、旦那様はこちらの荷物より大事なものを手に取るべきかと」
ベンチに置いてある収納術式を組み込んだトートバッグを持ったチセリに鋭時が手を差し出すが、チセリはトートバッグを軽々と持ったままお辞儀して微笑む。
「何となく、少しだけ言いたい事は分かった。俺なりに考えてみるよ……」
「かしこまりました、若奥様の事はよろしくお願いします」
チセリの視線が向いた先に気付いた鋭時が目を閉じながら頭を掻くと、チセリは再度お辞儀して微笑んだ。
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「スズにゃん大丈夫かなぁ……」
「あのさ、シアラ。俺はおぶってやれないから、こっちの袖で勘弁してくれ」
「教授っ!?」
ミサヲに背負われたスズナを眺めながら腰のぬいぐるみをヘビからネコに戻して着物姿へと戻ったシアラは、遠慮がちに声を掛けて来た鋭時に驚いて振り向く。
「スズナさんは何ともないって言ってたし、俺の記憶が戻る頃には今日の出来事も笑い話の想い出になんだろ。上手く言えないけどさ、これからお互いの事を知って行けばいいんじゃないかな?」
「わかりましたっ! スズにゃんもチセりんも教授が大好きなんですから、みんなで仲良く教授にご奉仕出来るようにしますっ!」
スーツの袖を掴めるような角度で腕を差し出した鋭時が言葉を慎重に選びながらぎこちなく元気付けると、シアラは差し出された袖を掴んで満面の笑顔を向けた。
「そ、そうか……あまり無理すんなよ……」
「ご安心くださいっ! 体力回復術式なら得意ですので、教授に無理なんて絶対にさせませんからっ!」
袖を掴まれていない方の手でこめかみ辺りを掻くと同時に腕に通した手提げ紐を通じて持ち上がった紙袋をカサカサと鳴らす鋭時に、シアラも袖を掴みつつ空いた手を腰に当てて大きく胸を張る。
「おーいシアラさん、そういう意味で言ったんじゃなくて……まあいい、これ以上チセリさんを待たせる訳にもいかないし行くぞ」
「はいっ!……ありがとうございますっ、教授っ……!」
額に手を当てて紙袋で顔を隠すように俯いた鋭時が気を取り直して歩き出すと、シアラは小さく感謝を呟いてから隣に立つように歩き出した。
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スズナを背負ったミサヲを先頭に出発した一行は高層建築群の並ぶ外周区を後にして旧市街区へと戻り、帰路の途中ではミサヲが女性ジゅう人に声を掛けられては適当にあしらうを繰り返した以外に大した問題も起こらずに日が暮れようかという頃には凍鴉楼に到着した。
「あたしは酒買って来るから、先に帰っててくれ」
「かしこまりました、ミサヲお嬢様。ところで、スズナ様はどうなさいますか?」
凍鴉楼正面玄関の右側にある店の入口で止まって中を指差すミサヲに、チセリも立ち止まって軽くお辞儀をしてからミサヲの背中を見る。
「今寝ちまってるんだ、色々あって疲れたんだろ。シアラやチセリに運んでもらう訳にもいかないし、あたしがこのままおぶってくよ」
「それでは仕方ありませんね。ミサヲお嬢様、くれぐれもスズナ様の事はよろしくお願いします。旦那様、若奥様、参りましょうか」
片手でスズナを支えるミサヲが空いた手の人差し指を静かに口の前に立てると、チセリはしばらく目を細めてミサヲの背中を眺めてから凍鴉楼の角に当たる部分に向けて移動した。
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「こっちにもテレポートエレベーターか、ちょうど左右対称になってんだな」
「その通りでございます旦那様。もちろん、どちらのテレポートエレベーターから移動してもグラキエスクラッチ清掃店のある区画へ移動できます」
凍鴉楼の正面玄関から向かって右端にあるテレポートエレベーターを眺めて頷く鋭時に、チセリも頷きながら凍鴉楼の構造を簡単に説明する。
「なるほどそいつは便利だな、場所は2階のMだったかな?」
「左様でございます。私は後から参りますので、旦那様は先に若奥様を連れて待っていてくださいませ」
「分かった、ここは先に行かせてもらうよ」
「それじゃあお先に、チセりんっ!」
パネルの操作を終えてから自分の行き先を確認するように呟いた鋭時にチセリが頷きながら移動を促すと、軽く会釈を返してから【移動】キーを押した鋭時と隣で手を振るシアラの目の前が瞬時にビルの廊下に変わった。
「あはっ、教授にエスコートしてもらえるなんてっ!」
「おーいシアラさん。こんな瞬間移動でいちいち感動してないで、こっちの方まで下がろうね」
「旦那様、若奥様、お待たせしました。それとも少々早かったでしょうか?」
目の前の光景が瞬時に切り換わる装置にも慣れた鋭時が苦笑しながら袖を掴んで小躍りするシアラを金属製の足場の外に誘導した直後に、空いた足場からチセリが丁寧な仕草でお辞儀をしながら現れる。
「だから、そういう冗談は……いつか決着を付けるべきなんだろうけどさ……」
「はい、記憶を戻す方法ならドクターも皆様も考えてくださっています。旦那様はもう少し若奥様を気に掛けてもよろしいかと。では参りましょうか?」
「俺はそこまで器用に出来てない……まあ善処はするけどさ……」
自嘲気味に頭を掻く鋭時の言葉を柔らかく肯定したチセリがグラキエスクラッチ清掃店へ向かって歩き出すと、鋭時は小さくため息をついてからシアラの掴む袖をさり気なく引いてチセリの後を着いて行った。
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「おや? 中に誰かいらっしゃいますね……」
「何だって!? ここは俺が様子を見るから、シアラはチセリさんを頼んだ」
「少々お待ちください旦那様、危険は……ございません。中にいらっしゃるのは、グラキエスクラッチ清掃店にある清掃ロボットの整備を担当している方ですので」
店の扉を開ける手を止めたチセリを庇おうと鋭時が前に出ようとするが、眼鏡を通じて店の前の防犯カメラを確認したチセリは落ち着いた声で制止する。
「整備? 確かに昨日ミサヲさんからロボットのレンタルが本業だと聞いたから、メンテする人がいても不思議は無いか……」
「はい、月に数回こちらの店に来ております。詳しくはこちらの荷物を置いてから本人を交えてご説明いたしましょう」
目の前の店が何を生業にしているか思い出した鋭時が足を止めて納得したように頷くと、チセリも安堵の表情で頷いてから店の扉を開けた。
「お帰りチセリお姉ちゃん。そっちのお兄ちゃんが噂の人間さんだね」
「いらっしゃい、ヒカル様。私は荷物を片付けてきますので、旦那様と若奥様に失礼のないように」
店の扉を開けた途端、ショートボブにしたオリーブブラウンの髪から上の方へと兎のような大きく長い耳が伸び、茶色い服の上に身に付けた白いサロペットの後ろからは先端がスペードの形状に膨らんだ細い尻尾の見える、シアラと同じくらいの背丈をした少女とも少年とも判断の付かない容姿のジゅう人がチセリの声など全く耳に入っていない様子で赤い縁の眼鏡越しに鋭時の顔を興味深く覗き込む。
「昨日からここでお世話になってる燈川鋭時だ、えー……っと」
「ぼくは奈守浪ヒカル、タイプグレムリンだよ。簡単に言うとミサヲお姉ちゃんやチセリお姉ちゃんの……弟ってところかな?……よろしくね、鋭時お兄ちゃん」
「ヒカル……君でいいのかな? よろしく頼むよ」
唐突に距離を詰められて体を僅かに仰け反らせつつ自己紹介した鋭時にヒカルも距離を置いて微笑みながら自己紹介をすると、鋭時は気恥ずかしそうに頭を掻いてから軽く頭を下げた。
「そっちにいるお姉ちゃんが、鋭時お兄ちゃんと一緒にステ=イションに来たって言うタイプサキュバスのお姉ちゃんだね」
「わたしは榧璃乃シアラっ! よろしくねっ、ルーちゃんっ!」
鋭時の後ろを着いて来たシアラが、眼鏡の蔓に手を当てて観察するように眺めるヒカルに対して手を差し出しながら気さくに挨拶する。
「おーいシアラさん。誰とでも仲良くなるのはいいけど、失礼のないようにね」
「呼び方なんてぼくは気にしないよ、よろしくねシアラお姉ちゃん」
さも当たり前のようにヒカルをあだ名で呼んだシアラに鋭時が疲れた様子で釘を刺すが、ヒカルはシアラの手を取り握手しながら屈託の無い笑顔を浮かべた。
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「お待たせしました旦那様、若奥様、まずはお掛けくださいませ。自己紹介は……お互いにお済みですね。ヒカル様は普段ご自分のお店にいらっしゃいますが、時折グラキエスクラッチ清掃店に来て清掃ロボットの整備をしております」
「店と言っても小さな修理屋だから、色んな店に行って点検と整備をしてるんだ。今日行ったのはマキナ母さんの店だったかな」
キッチンに荷物を置いて戻って来たチセリに改めて紹介されたヒカルは、近くの事務机から出したキャスター付きの椅子に逆座りして恥ずかしそうに頭を掻く。
「ところでヒカル様、本日はこちらに来る予定は無かったはずですが?」
「上物の人間がミサヲお姉ちゃんの店に泊ってるって聞いたら矢も楯もたまらなくなって、つい来ちゃったよ。ところで鋭時お兄ちゃん、ぼくの目に見えるA因子と計測値との差が大きいけど、そのベルトに秘密があるの? もしかして、それってドクの発明品?」
「相変わらず見事な地獄耳と分析能力ですね……ですが旦那様は訳あってA因子を隠さねばならない身の上、くれぐれも慎重に行動してくださいますように。絶対にドクターの発明品を分解などいたしませぬようお願いしますね」
訝しむチセリを全く気にしない様子のヒカルが好奇心を抑えきれないまま眼鏡の蔓に手を当てながらソファに座った鋭時を舐め回すように観察し出すと、チセリは感心と諦めの混じった小さなため息をついてからすぐに強い意志を込めた眼差しをヒカルに向けた。
「分かってるよチセリお姉ちゃん、マキナ母さんからジゅう人が鋭時お兄ちゃんに触ると消えちゃうって話は聞いてるから。それにせっかくの機械を分解するなんてもったいないし、もっと面白くなるような改造を考えるよ」
「ルーちゃん、教授の記憶が戻るまでは改造しちゃダメですよっ!」
肉食獣のようなチセリの眼光に物怖じする事無く鋭時の腰を見つめるヒカルに、向かいのソファに座っていたシアラが遮るように立ち上がって両手を広げる。
「いや戻ってもダメだろ……ヒカル君も改造とか分解とか勘弁してくれよ……俺はこれ以上誰にも迷惑掛けたくないんだからさ」
「安心して鋭時お兄ちゃん、シアラお姉ちゃんも。詳しく調べなくちゃ改造だってできないんだし」
「何やら面白い話してんじゃねえかヒカル、あたしも混ぜてくれよ」
シアラの後ろで額に手を当てつつ苦笑する鋭時にヒカルが楽しそうに笑いながら頭の後ろで手を組むと、突然真上からミサヲの大声が降って来た。
「うわっ!? いつの間に帰ってたの、ミサヲお姉ちゃん?」
「今さっきだ。まったく……ヒカルが来てるってスズナが教えてくれなかったら、あたしが大声出してたとこだぜ」
思わず椅子から転げ落ちそうになるほど驚くヒカルの頭に手を乗せたミサヲは、そのまま勢い良くヒカルの頭を撫で回す。
「わわっ!? もうちょっと優しくしてよ、ミサヲお姉ちゃん……って、えっ? スズナお姉ちゃんも来てるの?」
「そうよ、ヒカル。わたくしがここに来たらおかしいかしら?」
自分の頭を激しく撫で回すミサヲの手を止めようと両手を上げたヒカルが驚いて聞き返すと、ミサヲの後ろから隠れるように歩いて来たスズナが肩にかかった髪を掬うように払いながらヒカルに近付いた。
「全然おかしくないよ、というよりミサヲお姉ちゃんとスズナお姉ちゃんが仲直りしたって本当なんだ。ぼく、ますます鋭時お兄ちゃんに興味が湧いて来たよ」
「わたくしは主治医としてえーじしゃまの安全を守る義務がありますの、ヒカルが変な事したら容赦しませんよ」
ようやくミサヲの手から脱出して眼鏡の蔓に手を当てたヒカルに対し、スズナが威嚇するように2本の尻尾を立てながらシアラの横に立つ。
「その辺のところは若奥様と私からも釘を刺してあります。ところでスズナ様、お体の方は大丈夫でしょうか?」
「もう大丈夫ですチセリさん、それでその……」
更に壁を厚くするようにシアラとスズナの後ろに移動したチセリがスズナの肩に優しく手を置くと、スズナは尻尾の先端同士をもじもじと合わせながら上目遣いでチセリを見つめた。
「よろしかったらスズナ様も夕食をご一緒しませんか? もちろんヒカル様も」
「い、いいんですか?じゃあお言葉に甘えて……」
スズナの心情を察して嬉しそうに目を細めるチセリに、スズナは遠慮がちに声を細めながらも耳と尻尾を立てて目を見開きチセリを見つめる。
「よかったねスズナお姉ちゃん。でも、ぼくもいいのかい?」
「ヒカル様はいつもの事ですから。もし今いらっしゃらなくても、ミサヲお嬢様がお招きしたでしょうし」
椅子の上で座り直して背もたれに体を預けながら頭の後ろで手を組んだヒカルが遠慮する風も無くチセリに聞き返すと、チセリは慣れた様子で微笑んだ。
「色々すまないなチセリ、迷惑ついでにもうひとり客を追加していいか?」
「いやミサヲさん、さすがにこの数だとチセリさんにも迷惑が掛からないか?」
ヒカルの後ろで悪びれもせず頭を掻くミサヲに、店に入って来たドクが心配して聞き返す。
「ドク!? どうしてドクがここに?……隣同士だから別におかしくないか……」
「やあ鋭時君、下の店に煙草を注文しに行った時にミサヲさんと合流したんだ」
唐突な来客に驚きの声を上げた鋭時が声のトーンを徐々に下げつつ納得すると、ドクは笑いを堪えながら事の経緯を説明した。
「煙草の注文?」
「この凍鴉楼で煙草を吸うのはボクだけのようなもんだから、普段は店に置かずに必要な時だけ工場に注文するんだ」
怪訝な表情で聞き返す鋭時に、ドクは楽しそうに自らの嗜好品を購入する手順を説明する。
「そういうもんなんだ……それで、どれくらいで店に入るんだ?」
「早くて明日の朝になるかな? それより今日の散策で収穫はあったのかい?」
さらに興味を持って質問して来た鋭時にドクが簡潔に答えると、そのまま質問を鋭時に返した。
「まあそれなりに、でもスズナさんが大変な事になってさ……」
「ごめんなさいっ、教授っ! わたしがあんな事しなければ……」
「いや、こっちこそゴメン……そんなつもりで言ったんじゃなかったんだ……」
頭を掻きながらスズナを見た鋭時は、恐る恐る近付いて来て頭を下げたシアラに慌てて弁解する。
「下の店でもミサヲさんから聞いたよ。動物系の【証】を持つジゅう人でも薬物や毒物の耐性は人間と同程度かそれ以上だから何を口に入れても問題ないんだけど、猫系ジゅう人は何故かマタタビで酔ってしまうからね。毒って訳でもないし対策も色々あるから今後は大丈夫だと思うよ」
「それじゃあスズにゃんは大丈夫なんですねっ! よかった~」
「ふぅ……ドクが来てくれて助かったぜ、よかったなシアラ」
白衣のような黒服のポケットに手を入れたドクが獣系の【証】を持つジゅう人の特徴の説明を終えると同時にシアラが大袈裟に肩を落として安心し、同じく安堵のため息をついた鋭時がシアラに出来る限りの優しい笑顔を向けた。
「今日はチセリが得意料理の唐揚げを鋭時達に振る舞うって話だからな、ついでにドクも誘ったんだよ」
「3年前に凍鴉楼に来てから何度かチセリさんの料理をご馳走になった事はあったけど、件の得意料理だけは無くてね……今夜はお相伴に預ろうと思うんだけども、いいかなチセリさん?」
シアラと鋭時の様子を見て満足そうに微笑むミサヲに、ポケットから手を出したドクは頭を掻きながらチセリに微笑みかける。
「もちろんお願いします、ドクター。本日まで殿方に振る舞うのを控えていたのは出逢えたお方を最初に、と決めていただけですので。それにミサヲお嬢様なら大勢お招きするのは当然の事ですから、材料も多めに用意してございます」
「そういう事だったのか。それじゃあ今日は念願叶った目出度い日になるんだね、楽しみにしてるよ」
チセリが嬉しそうに尻尾を振って事情を説明すると、ドクは得心のいった様子で頷いてから優しく微笑んだ。
「盛り上がってるところ悪いんだが、ちょっといいか? 覚えてるうちに済ましておきたい話があるんだ」
「何でございましょう、ミサヲお嬢様?」
ドクとチセリの会話に割って入るようにミサヲが声を掛けるが、チセリはまるで気にする風も無くミサヲに聞き返す。
「下の店の2人がウラホの件で話を聞きたいって言ってたんだ。別に急がないって言ってもいたんだけど、明日の朝飯買うついでに済ませようと思うんだ。早いとこシアラも案内したいしさ」
「かしこまりました。明日は私も済ませたい所用がございますので、こちらへは遅くに参りましょう」
ミサヲが頭を掻きながら遠慮がちに翌朝の予定を話すと、チセリは微笑みながら了承して自身の予定も変更した。
「それでは夕食の準備に少々お時間をいただきますので、準備が終わるまで皆様はおくつろぎくださいませ」
「待ってくれよチセリさん、俺も何か手伝うぜ」
丁寧な仕草でお辞儀をしてからキッチンへ向かおうとするチセリを、ソファから立ち上がった鋭時の遠慮がちな声が呼び止める。
「ありがとうございます旦那様。ですがほとんど準備も終えていますので、皆様のお手を患わせる事は無いと思います」
「野暮は言いっこなしだぜ鋭時、今日作る唐揚げはチセリの初恋の人の大好物なんだからさ」
鋭時の声に振り向いたチセリが再度丁寧な仕草でお辞儀をすると、横でミサヲが茶化すように微笑みかけた。
「チセりんの初恋ですかっ!? 詳しく聞かせてくださいっ!」
「小説の主人公に抱いた憧れまで初恋と呼ぶのなら、そうなのかもしれませんね。私はあのお方の隣に立つ事を夢見ていましたから」
ミサヲの言葉に反応して興奮気味に話しかけて来たシアラに、チセリは頬に手を当てながら落ち着いた様子でミサヲの言葉の意味を説明する。
「檸檬探偵だったかな? チセリが小さい頃から嵌ってて、主人公の口にレモンが入った時のオーバーリアクションと酸味で目が覚めるような閃きが事件解決の鍵につながるって内容だったな」
「はい、末大てがみ先生の書いた【檸檬探偵なんでも安解】という作品の主人公、何等安解ですね。ミサヲお嬢様のご説明通りレモン汁が事件解決の鍵となる、少々コメディタッチの探偵小説でございます」
落ち着いた雰囲気のチセリに種明かしされたミサヲが目を細めながら思い出した小説の設定を説明すると、チセリが嬉しそうに顔を綻ばせて説明を重ねた。
「チセリが何度も楽しそうに話してくれたからな。それで主人公の好物の唐揚げも中学に入った頃から作り始めたんだったか? 他にも二代目檸檬探偵を名乗って、自分用のレモネードを作りながら探偵の真似事も始めたりもしたんだよな」
「依施間家の家長を務める今では遠い昔の想い出でございますが、何等安解というキャラクターと、その活躍を描いた末大てがみ先生には大いに感謝しております。旦那様……いささか滑稽に映るかと思いますが、本日の支度は私の好きにさせていただけますか?」
半ば呆れ顔のミサヲが話す想い出をチセリは笑顔であしらうと、そのまま真剣な眼差しを鋭時に向ける。
「わ、分かった。後で料理運ぶのを手伝うよ……」
「ありがとうございます旦那様、では少々お待ちくださいませ」
何の変哲もない家庭料理がチセリの中では重要な意味を持つと理解した鋭時は、まるで神聖な儀式に臨むかのような足取りでキッチンの玉のれんをくぐるチセリの後ろ姿をただ見送るしか出来なかった。
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「……とは言え、この人数だとさすがにテーブル狭くないか……?」
「そこに予備のテーブルがあるから、今のうちにロボットで運んでおくよ」
気を取り直すようにソファから離れながらテーブルの周囲を眺めて呟く鋭時に、ヒカルが机に置いてあったリモコンを操作して店内にある円盤型の清掃ロボットを走らせる。
「おっと……悪いなヒカル君、ロボットの進路に立ってたみたいだ」
「こっちこそゴメンね鋭時お兄ちゃん。チセリお姉ちゃんの料理が楽しみで、つい急いじゃったよ」
家具を持ち上げるためのアームを円盤から出したロボットが足元近くに来た事に気付いた鋭時が素早く躱して謝ると、ヒカルも小さく頭を下げて謝ってから衝立で視界の遮られている壁際までロボットを移動させた。
「おいヒカル、悪ふざけも大概にしとけよ? 少し改造した清掃ロボットごときで鋭時を捕まえられるんなら、とっくに問題は解決してるぜ?」
「やっぱりバレてた?」
頭を掻きながら呆れ顔で近付いて来たミサヲの耳打ちに、ヒカルは見上げながら悪びれもせずに微笑む。
「当然だ、鋭時も気付いてる。今回は見逃してくれたから何も言わないけど、次も同じ事したら容赦しないぞ」
「それは剣呑、次は確実に捕まえる改造をするよ。そのためにも鋭時お兄ちゃんの動きをもっと知らないと」
「詳しいデータはドクが持ってるはずだ、上手く聞き出すまで大人しくしとけよ」
小さくため息をついてから小声で凄むミサヲにヒカルが身をすくめる仕草をしておどけると、ミサヲは悪戯を仕向ける子供のような笑顔を浮かべてヒカルの背中を軽く叩きながらドクの方へ視線を向けた。
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「これで全員座れるな……助かったよヒカル君、ありがとう」
「どういたしまして鋭時お兄ちゃん、これくらいお安い御用だよ」
短時間でテーブルと椅子を並べた清掃ロボットを見て感心する鋭時に、ヒカルは誇らしげに笑みを返す。
「ははっ、ヒカル君は頼もしいな。後はチセリさんを待つだけかな……?」
「鋭時もヒカルもお疲れさん。シアラ、スズナ。チセリの料理が出来るまで風呂に入ろうぜ! 鋭時も入るか?」
ヒカルに無邪気な笑顔を向けられた鋭時が手放しで称賛すると、食卓の準備を労ったミサヲがシアラとスズナの肩に手を置きながら鋭時に悪戯じみて微笑んだ。
「いえ俺は……」
「分かってるって。鋭時の記憶が戻るまでは、あたしが2人の玉の肌をしっかりと磨いといてやるから安心しろ……よ!」
「うわわっ!?」「みゃぁん!?」
苦笑して断ろうとした鋭時の言葉を遮ったミサヲがシアラとスズナを抱き上げ、突然体が宙に浮いた2人が同時に小さな悲鳴を上げる。
「だから何してるんだよ……磨くとかはともかく2人の事をお願いしますね、俺は一度部屋に戻るんで。荷物置いて来なきゃいけないし」
「でしたら是非シャツを着替えて来てくださいっ!」
困惑しつつもミサヲに信頼の笑みをぎこちなく浮かべて紙袋を持ち上げた鋭時が居住スペースのある引き戸に向かうと、シアラが目を輝かせて呼び止めた。
「あー……そういやこっちのシャツを渡す約束だったな……どうしたもんかな?」
「わたしも教授の部屋まで着いて行きますっ! ご安心くださいっ、今日は中まで入りませんからっ!」
シアラの大声で足を止めて振り向いてから着ているワイシャツを軽く引っ張った鋭時は、そのままミサヲの腕をすり抜けて来たシアラにスーツの袖を掴まれる。
「今日は……って、おい……いつかは覚悟しないといけないんだろうけど、実感が湧かないんだよな~……まあいいや。すぐ行くぞ、通り道だし」
「わっかりましたーっ! さあ行きましょうっ!」
小さくため息をついて呟いた鋭時が正解を出せない問題の先送りを決定すると、前に出たシアラが居住スペースに向かってスーツの袖を勢い良く引き出した。
「そんなに強く引っ張るなって。それと部屋の前までだぞ、間違っても風呂場まで引っ張るなよ」
「わ、わかってますよぉ、教授が消えたら元も子もないんですから……でもご一緒できないのは淋しいですね……」
あっという間に居住スペースの戸の前まで引っ張られた勢いに慌てる鋭時に釘を刺されたシアラは、袖から手を放して誤魔化すように笑いながらも、途中で笑みが消えて顔を沈める。
「勘弁してくれよ……ジゅう人の理屈はどうだか知らんけど、俺が女の子と風呂に入ってもいい理屈なんて全く記憶に無いんだからな……」
「じゃあさ鋭時お兄ちゃん、ぼくとならお風呂に入ってくれる?」
掛ける言葉が全く見付からず困惑する鋭時が眉間の辺りを掻いて呟くと、今度はヒカルが鋭時のスーツの袖を掴んで来た。