第23話【変化の兆し】
順調に目的の買い物を終えたチセリは、
シアラの要望を聞き入れて次の店へ一行を案内した。
「で? 何でパジャマを買いに紳士服の店に来てるんだ、俺達は?」
「ほえ? わたしが着たら、教授の着るワイシャツが無くなるじゃないですかっ」
チセリの案内のままに移動した一行は【シュトラントベル紳士服店】と書かれた看板が掛けられた店の前で止まり、額に手を当てて問い質す鋭時にシアラは満面の笑みで答える。
「はい、私も若奥様から旦那様に新しいワイシャツをお贈りしたいと聞きましたので、こちらへお連れしました」
「これは伝説のあれだな……だからここに来た訳か」
胸に手を当て自信に満ちた表情を浮かべたチセリがシアラの回答を補足すると、ミサヲも店舗入口から中をひと通り見回してから大きく頷いた。
「ま、まさか、あの伝説を実際に見られるにゃんて……」
「さっきから伝説って何だよ……スズナさん、ちょっと教えてくれないか?」
一斉に色めき立つ女性陣に困惑する鋭時は、自分を挟んだシアラの反対側で顔を赤く染めながらも猫の耳をピンと立てて周囲の音を拾うスズナに小声で尋ねる。
「ふみゃ!? わたくしの口からはとても……でも、その……よろしければ次のシャツはわたくしに贈らせてもらえませんか?」
「スズにゃん大胆っ! 大歓迎ですっ! でもそうしますと……スズにゃんの着るシャツをわたしが選ぶ事になりますから、やっぱりお揃いがいいですねっ!」
唐突な質問に驚いたスズナが真っ赤にした顔を伏せながらも鋭時のスーツの袖を力強く掴むと、興奮したシアラが鋭時の前を回り込んでスズナに抱き付いた。
「おーいシアラさん、そもそも俺のワイシャツはパジャマじゃないぞー……それに今着てる服に記憶の手掛かりがあるかも知れないだろ?」
「うっ……教授の記憶を考えると、ちょっと早すぎましたねぇ……」
女性陣の興奮の意味をようやく理解してため息をついた鋭時が咄嗟の機転で釘を刺し、シアラは力なく肩を落とす。
「みゃ……そうでしたね……ごめんにゃさい、えーじしゃま……」
「私とした事が、そこまでは考えが至らずに申し訳ありませんでした」
意気消沈したシアラを見たスズナとチセリが揃って深々と頭を下げ出し、鋭時は慌てて袖の拘束が解かれた手のひらを前に向けて振り出した。
「い、いや、そんな大袈裟に謝らなくても……と、取り敢えず移動しようか……」
「せっかくお店にまで来て、何も買わないというのもいかがなものでしょうか? 実は私の買いたい物もこちらにありまして、旦那様にも見ていただきたく……」
適当に嘘をついた罪悪感に苛まれて店の入口から離れようとする鋭時をチセリが呼び止め、恥じらうように俯きながら上目遣いで甘える視線を送り続ける。
「うん? この店にはチセリさんが使う物も売ってるのか? まあいいか……俺で良ければ相談に乗るぜ、いったい何を買うんだい?」
「はい、首輪でございます。晴れて旦那様の持ち物となった訳ですから、その証を身に付けたいと思いまして」
立ち止まった鋭時が不思議そうな顔で聞き返すと、チセリは頬を紅潮させた顔を上げて首元に手を当てながら高揚した笑みを浮かべた。
「いや待て、色々と待て。聞きたい事も言いたい事も山ほどあるけど、まずは何でそんな物をここで売ってるんだよ?」
全く予想外の回答に凍り付いた鋭時は額に手を当てて考えを巡らせて、ひとつの質問をどうにか捻り出す。
「以前母様から聞いたのですが、【大異変】の前には全く同じ言葉で2つの意味を持っていたという記録があったそうです。そして多くの方々が過去の記録の研究を重ね、その両方の意味に対応した品揃えになったそうでございます」
「だからって方向が違い過ぎるだろ……それに俺はチセリさんを物だなんて考えた事は無いし、女性に首輪を嵌める趣味も無いぜ」
顔を紅潮させながらも落ち着きを取り戻したチセリが淡々と売り場の由来を説明すると、鋭時は額に手を当てて何度も首を横に振った。
「せっかくリードにつながれて散歩したかったのですが、仕方ありませんね……」
「わたくしもえーじしゃまに首輪を付けて欲しかったのに、残念です……」
「だから何で残念そうな顔するんだよ、しかもスズナさんまで……その、出来ればスズナさんとチセリさんには俺の代わりにシアラの手助けを……って違うか、これじゃただの我儘に聞こえちまう……こういう時はどう言えばいいんだよ……」
耳と尻尾を力なく下げ肩を落とすチセリとスズナに鋭時が頭を掻いて呆れるが、続く言葉が見付からずに途中で考え込んでしまう。
「今のお言葉だけで旦那様の若奥様への想いは充分に理解しましたし、私達への優しさも伝わりました。今はこの言葉だけで満足です、では参りましょうか?」
「えーじしゃまがシアラちゃんを大切だと思ってるのが分かりました、わたくしもきっと今はえーじしゃまと同じ気持ちです」
顎に手を当てて考え込んでしまった鋭時にチセリが耳を立てて満足そうに尻尾を振りながら微笑みかけると、スズナも耳と尻尾を立てて嬉しそうに微笑んだ。
「あいつは……シアラは命の恩人というだけで……ところでチセリさん、そっちは店の方なんだけど……」
微笑むスズナの認識を訂正しようとした鋭時だが、店に入ろうとするチセリ達に気付いて慌ててチセリに声を掛ける。
「はい、新しく何かを買う事は出来ませんが、旦那様のお召し物をこちらで調べていただく事は出来ますから」
「さっすがはチセりんですっ! 教授がどこから来たのか分かれば、教授の記憶もきっとすぐ戻りますねっ!」
「はい、これも旦那様のヒントのおかげです」
足を止めて微笑みつつ鋭時に入店の目的を伝えるチセリにシアラが興奮しながら尊敬の眼差しを向けると、チセリはシアラの視線を誘導するように鋭時の方へ手を差し向けた。
(……あれ口から出まかせなんだけど、今は黙っておいた方が良さそうだな……)
「俺もそこまでは思い浮かばなかったよ……でもさ、いきなり店の人にこんな事を聞いて迷惑にならないかな……?」
シアラからの熱い視線に心を痛めた鋭時は、ぎこちない微笑みをシアラに返して誤魔化しながらチセリに質問する。
「シュトラントベルの店長さんとは顔馴染みですので是非お任せ下さい、旦那様の記憶が戻りましたらワイシャツを人数分買ってお祝いしましょう」
「それと首輪もいいですか? 管理人さん」
「スズにゃんが積極的になってくれて嬉しいですっ。チセりんっ、わたしもここで何か探していいですかっ?」
「もちろんでございます。ここなら旦那様にご満足いただける品が他にもたくさん見つかるでしょう」
「荷物持ちならあたしに任せろ! 好きなだけ選んでいいぜ!」
「はぁ、もう好きにしてくれ……」
自信満々に答えながらも既にその先の買い物に想いを馳せて店に入る女性陣に、鋭時は力なく肩を落として大きくため息をついてからゆっくりと後を追った。
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「いらっしゃいませ依施間様、本日はどのようなご用件でしょうか?」
「こんにちは店長さん、実は少々ご協力を仰ぎたい事がございまして……」
片側には山羊のような角を1本生やした白髪、反対側には黒髪と奇麗に分かれた2色の髪を丁寧に後ろの方へ揃えて固め、上品な装いのスーツに身を包んだ長身の青年に見えながらも多くの歳を重ねて来たかのように落ち着いた口調で挨拶をした男性ジゅう人の立つ会計まで迷わず進んだチセリは、丁寧な仕草でお辞儀してから事情を説明した。
▼
「話が付きました旦那様、店長さんは快く協力していただけるそうです」
「あなたが噂の人間、燈川鋭時様ですね? 今日はどの店も朝からあなたの話題で持ち切りですよ」
話を終えたチセリと店長は店の中を遠慮がちに歩いて来たために遅れて到着した鋭時に気付き、揃って丁寧な仕草でお辞儀して出迎える。
「え? あ、どうも……もうそんな情報が……いったいどうやって……?」
「蛇の道は蛇というものでございますよ、それではさっそく上のお召し物を見せていただけますか?」
「取り敢えずこれでいいかい?」
遠慮がちに会釈しながら戸惑う鋭時に店長が苦笑しながら虫眼鏡型の術具を手に取ると、鋭時はスーツを脱いで手渡す。
鋭時からスーツを受け取った店長は、虫眼鏡に意識を集中しながら小声で術式を発動してカウンターに置いたスーツにかざしてから小さく首を横に振った。
「失礼ですが、このスーツは生地からボタンまで魔法科学工場の基本的な術式から生成された原料だけで作られた製品でございます。申し訳ありませんが、これでは燈川様がどこから来たのか特定するのは無理でございますね」
「それは残念、では残りの服の確認もお願いできますでしょうか?」
店長の説明を聞いて肩を落としたチセリは、気を取り直して会釈しながら調査の続行を依頼する。
「かしこまりました、では少々失礼しますね【衣服鑑定】」
「って……脱がなくても調べられたのかよ……」
チセリの依頼に快く頷いた店長が手にした虫眼鏡型の術具に意識を込めて術式を発動すると、術を向けられた鋭時は恥ずかしそうに頭を掻く。
「よろしいではありませんか、若奥様達の目の保養になりましたし」
「見られて困る訳じゃないけどさ、こんな貧相な体を見て嬉しいもんかね……?」
日頃から【圧縮空筋】などの術式を使用していたために多少は鍛えられているがワイシャツ越しでは筋肉の盛り上がりなどまるで見えない細い体に向けられた熱い視線に気付いた鋭時は、獲物を狙う肉食獣のような気配に身をすくめながら複雑な表情を浮かべた。
▼
「お待たせしました。燈川様の身に付けている品物は、ベルトのバックルを除いた全てがスーツと同じく基本的な術式のみの製品となっております」
「そういや、バックルは今朝ドクに貰ったんだったな……」
【衣服鑑定】による調査を終えて安堵の表情を浮かべた店長に気付いた鋭時は、申し訳なさそうな顔でこめかみ辺りを掻く。
「左様でございましたか、では燈川様の手掛かりはこちらでは見つけられなかった事になりますね……力になれず申し訳ありませんでした」
「こちらこそ無理を言って申し訳なかったよ……とはいえ、どうしたもんか……」
発見した手掛かりの正体を明かされた店長が落ち着いた態度を保ちながらも肩を落とすと、鋭時は慌てて頭を下げてから周りを見回す。
「困りましたね、私も旦那様の記憶の手掛かりが全く得られない事態は想定していませんでした」
「依施間様が毎日のように見ていた品なら奥の棚にございますが、こちらへ持って参りましょうか?」
「いえ、そちらは次の機会に。こちら側の売り場で見る物ではございませんから」
困惑する鋭時に目を向けながら耳を丸めて尻尾を下げるチセリに店長が助け舟を出すが、チセリは力なく微笑みながらお辞儀する。
(こっちじゃ見れないって……想像は付くけど確認する気にはならないな……)
「ねえチセりん。このシャツ、教授にどうでしょうかっ?」
店長とチセリの会話の内容から話題に出している商品の概要を察した鋭時が内心頭を抱えていると、シアラが近くにあった1枚のワイシャツをチセリに手渡した。
「あのなあシアラ、今はそれどころじゃ……」
「まあ……このワイシャツには【対魔障壁】が組み込まれていますのね」
「もしかしてチセリさんも、シアラみたいに道具に組み込まれてる術式を見る事が出来るのか?」
額に手を当ててシアラに苦言を呈そうとした鋭時だが、ワイシャツを手に取って感心するチセリの反応を見て思わず聞き返す。
「いえ、こちらのタグを見ただけでございます」
「あはは、そういう事か……でも、どうしてこんな服が……?」
冷静な顔付きで答えつつシアラの手にワイシャツを返したチセリに鋭時が笑って誤魔化していると、やり取りを見ていた店長が声を掛けて来た。
「そちらの商品は再開発区に入る方々のために作られたものでございます」
「なるほど……確かに再開発区も安全と言えないものな……この術式を組み込んだ服はいいかもしれない……」
店長の説明に納得した鋭時は、拒絶回避が出ないよう慎重にシアラに近付きつつ値札を確認してからズボンのポケットに入れた財布を取り出す。
「これ買うのでしたら、今着てるワイシャツをわたしにくださいっ!」
「取り敢えず帰ってからな……この程度じゃ恩返しの足しにもならんだろうから、残りは出世払いでいいか?」
「はいっ! わたし、教授に出逢えて最高に幸せですっ!」
俄然色めき立ち出したシアラを鋭時が頭を掻きながら窘めるが、シアラはさらに興奮して何度も頷いた。
「あらあら、さすがにそちらのシャツの代金を私が出す事は出来ませんね……」
「これは俺の個人的な事情だからな。チセリさんには申し訳ないけど、ここは俺が自分で支払うよ。店長さん会計頼むぜ」
嬉しそうに眺めるチセリの視線に気付いても言葉の意味までは気付かずに真顔で頷いた鋭時は、慎重にシアラから受け取った商品を店長に渡して財布を開く。
「お買い上げありがとうございます。話を聞く限りでは、燈川様は身を守る手段がご入り用のようですね。簡単な刺繍でよろしければ、このスーツも組み込む術式を増やせるように強化してみましょう」
「いや、そこまでしてもらわなくても……」
レジの操作を終えてワイシャツを紙袋に入れた店長が預かったままカウンターに置いたスーツに視線を向けると、代金を支払い終えた鋭時は紙袋を受け取りながら遠慮がちに俯く。
「刺繍する作業場と装置には多くのジゅう人が関わって参りました、それだけでも双方に損の無い話と思いますが?」
「では、そちらのお代は私の方で出しましょう。店長さんもよろしいですね?」
鋭時の遠慮を和らげようと微笑む店長に、チセリがポシェットを手に取りながら微笑む。
「かしこまりました依施間様、凍鴉楼の若い皆様にも恩恵は行き渡って欲しいものですからね」
「恩恵って、ジゅう人のN因子を活性化させるって話か? そっちはどうも実感が湧かないんだよな……」
「そちらは覚醒と違って急激な変化はありませんからね。ですが、不肖の息子でも早く孫の顔を見たくなってしまうのがジゅう人の性なのでしょうか。では燈川様、こちらのスーツは少々お預かりしますね」
チセリと店長のやり取りを聞いた鋭時が困惑して頭を掻くと、店長は照れ笑いを浮かべてからスーツを手に取り会計の奥へ移動した。
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「お待たせしまた、燈川様。こちらをどうぞ」
「この短時間でスーツの裏地に刺繡してもらえるなんて……しかも、多くの術式を高密度に組み込める上に魔力も相当溜められてる。こいつは凄いな……」
しばらくして戻って来た店長からスーツを受け取った鋭時は、裏地に刺繍された等間隔に並んだ灯台型のシルエットの間を横倒しにした梯子でつなぐような紋様に意識を集中してから感心して呟く。
「こちらは当店オリジナルの紋様となっておりまして、高密度魔力圧縮と数多くの術式の組み込みを可能にしたものです。敢えて名付けるならば臨界スーツと言ったところでしょうか、既に組み込まれている術式の助けにもなりますよ」
「臨界スーツか……これなら色々な組み合わせを試せるな。ありがとう店長さん、チセリさんもありがとう」
落ち着いた様子で店長が紋様の説明をすると、鋭時は期待に満ちた眼差しで再度スーツの裏表を見てから羽織って小さく頭を下げた。
「こちらこそ旦那様のお役に立てて嬉しく思います。それでは店長さん、お会計をお願いします」
「かしこまりました。ではこちらで……」
鋭時にお辞儀したチセリは、そのまま入れ替わるようにレジの前に立つ。
「お待たせしました旦那様、若奥様。それでは参りましょうか?」
「そう、だな……ところでミサヲさんとスズナさんは?」
「ミサヲお嬢様がスズナ様を連れて行ってしまって……今、戻って来ましたね」
会計から戻って来て微笑んだチセリは頷いてから周囲を見回す鋭時に困った顔で店の奥へと目を向けるが、スズナと手をつないで戻って来たミサヲの姿を確認して安堵の表情に変わった。
「よおチセリ、調べものは終わったのか? それで鋭時はどこから来たんだ?」
「申し訳ありませんが相曽実様、【衣服鑑定】を使用して燈川様が身に付けているものをひと通り見せていただきましたが居住区の特定は出来ませんでした」
チセリの様子から用事が済んだと判断して合流したミサヲに、店長が調査結果を答えながら丁寧にお辞儀する。
「そっか、ベル兄さんが分からなかったんならしょうがないか……」
「ミサヲお嬢様、宜洋様と同じ呼び方で店長さんをお呼びするのは失礼かと……」
「よろしいではありませんか、お父様といらしていた頃からのお付き合いですし。それに、少々形は変わりましたが燈川様のお力にもなれました」
片手を上げて気さくに挨拶を返したまま頭を掻いて少し沈んだ顔をするミサヲにチセリが苦言を呈するが、店長は静かに首を横に振ってから満足そうに微笑んだ。
「それなら良かったよ、鋭時は親父とは別の意味で色々訳ありだからどうなんのか心配だったんだ。鋭時、その荷物もあたしが持つからこっちに寄越してくれ」
「ミサヲお嬢様、あれは旦那様が若奥様のために買ったものでございます」
店長の笑顔に気を良くして鋭時の持つ紙袋を預かろうと手にしたトートバッグを見せたミサヲに、チセリが微笑みながら小声で注意する。
「そういう事か……悪かったよ鋭時。世話になったなベル兄さん、また来るぜ」
「本日はお世話になりました。また何かありましたらよろしくお願いします」
「色々世話になったよ、ありがとう」
「ご利用ありがとうございました、またのお越しをお待ちしております」
チセリの微笑みの意味に気付いてばつが悪そうに頭を掻いてから誤魔化すように店長に挨拶したミサヲの後に続いてチセリと鋭時が礼を述べてから出口へ向かい、一行は丁寧な仕草でお辞儀した店長に見送られて店を後にした。
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「なあ鋭時、必要な物は買ったよな? 次は何を買うんだ?」
「だから何で俺に……何も浮かばないな……2人は行きたい場所ってあるか?」
紳士服店を出た後に数軒の店を回って買い物を終えてから収納術式を組み込んだトートバッグの中を覗き込みながら聞いて来たミサヲに困惑した鋭時は、そのまま自分の両袖に目を落としながら次の行き先を聞く。
「そうですねぇ……特に買いたいものはありませんし、教授にお任せしますっ!」
「わたくしも、えーじしゃまとならどこへでも……」
「では、私のお気に入りの場所へ旦那様をご案内してよろしいでしょうか?」
手提げ紐を通した袖と紙袋を包み込むように掴んだシアラも反対側の袖を掴んだスズナも行き先を決めずにいると、前を歩くチセリが立ち止まって振り向いた。
「そういや元々は街の散策だったな、シアラもスズナさんもそれでいいか?」
「もちろんですっ! 教授の記憶が戻るかもしれないんですよねっ!」
「本当ですか!? でしたらすぐに手術の手配をしないと」
当初の目的を思い出して呟いた鋭時にシアラとスズナが早合点し、鋭時を挟んで勝手に盛り上がる。
「おーいシアラさん、スズナさんも。記憶が戻ると決まった訳じゃないからね……チセリさん、案内よろしく頼むよ」
「かしこまりました。では、私の後を着いて来てくださいませ」
自分の両隣ではしゃぎ出したシアラとスズナを鋭時がため息に交じりに宥めつつ行き先を決めると、チセリは落ち着いた様子でお辞儀をしてから前を向いて尻尾を千切らんばかりに振りながらテレポートエレベーターに向かって歩き出した。
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「こちらの歩行回廊からは街を見渡せます。どうです旦那様、何か思い出しましたでしょうか?」
テレポートエレベーターで上階へと向かい、ビルを出て各高層建築同士をつなぐ歩行者専用回廊へと出たチセリは、回廊の端まで鋭時達を案内してから振り向いてお辞儀する。
「確かに……記憶を失う以前の俺がステ=イションに来た事あるんなら知っててもおかしくない風景だが……駄目だ……何も思い出せねえ……」
胸の高さくらいの手すりに背を預けた鋭時が生垣や街灯やベンチなどが等間隔で備え付けられた公園のような回廊をしばし眺めるが、何も思い出せずに顔を沈めて考え込んでしまった。
「教授っ、無理はしないでくださいっ!」
「えーじしゃま、治癒術式ならいつでも使えますよ」
「ちょっと待てくれ、考え事してただけだよ。そんな大袈裟に騒がないでくれよ」
慌てた様子のシアラとスズナにスーツの両袖を引かれた鋭時は、大騒ぎを続ける2人を宥めるべく笑顔を作ろうとぎこちなく顔を動かす。
「シアラとスズナの言う通りだぜ。鋭時が倒れたら元も子もないんだし、しばらく休んでろよ」
「無理をしてるつもりは全く無いさ。ただ、記憶が何も出て来ないんだ……それでどうしてなのか考えてたんだよ……」
騒ぎを見かねたミサヲが頭を掻きながら優しく微笑むと、鋭時は両袖を引かれる中で出来るだけ体を動かしながらようやく出来上がったぎこちない笑顔を返した。
「またしても予想が外れるなんて相当奥の深い事件ですね……きゃん!?」
「だから探偵小説の読み過ぎだ、チセリ。たぶん色々と歩き回って疲れたんだろ、何か飲み物でも買って来るからそこのベンチで休んで待ってなよ」
記憶の戻らない鋭時の様子を見て眼鏡の蔓に手を掛けたチセリの頭を強く撫でたミサヲは、ビルの壁沿いの店を親指で示してから近くのベンチを指差す。
「そうだな……俺はひとりで大丈夫だからみんなで行って来てくれよ」
「鋭時ひとりを置いてくなんて出来ないだろ。そうだな……ここは2人ずつ買いに行くのはどうだ?」
「それはいい考えですね、ですが治癒術式を使える方を残した方がいいでしょう。1組目は若奥様とミサヲお嬢様、2組目はスズナ様と私でどうでしょうか?」
スーツの両袖を小さく振ってシアラとスズナに手を離すよう促してからひとりで残るつもりの鋭時がベンチに腰掛けると、苦笑したミサヲが買い物を2回に分ける提案をしてチセリも頷きながら役割に応じた割り振りを考えた。
「それじゃ鋭時の疲れが取れそうな飲み物買って来るよ、ちょっと待っててくれ」
「スズにゃん、チセりん、教授の事お願いしますねっ!」
「任せてくださいシアラちゃん、えーじしゃまは絶対にお守りしますから!」
「旦那様はこの身に代えても守ってみせます、どうかご安心を」
気軽な態度で店に向かうミサヲとは対照的にシアラが心配そうな表情でベンチに目を向け、スズナとチセリが心配を和らげるように自信に満ちた微笑みを浮かべて手を振り送り出した。
「だから大袈裟なんだよ……いや、それだけ心配させちまってるのか……」
目と鼻の先にある売店へ飲み物を買いに行くためだけに、まるで大事な戦にでも出陣するかのように盛り上がった女性陣に呆れた鋭時は同時に原因が自分にあると気付いて肩を落とす。
「旦那様はもう少しご自愛してくださいませ。ご自分では大丈夫と思っていても、買い物の最中にずっと拒絶回避で人を避け続けてしまえばお体の負担も大きくなるものです」
「管理人さんの言う通りですよ、えーじしゃま。今は休んでください」
(これから掃除屋になろうってのに情けない……でも記憶を失う前から拒絶回避で体に無理させ続けたのかもしれないし、今は素直に従って置こう)
「分かった……少し休ませてもらうよ」
チセリとスズナに健康状態を指摘されても自覚の全く無かった鋭時だが、しばし考えてから力なく頷いてベンチの背もたれに寄り掛かった。
「ところでスズナ様……スズナ様も若奥様や私と同じく、旦那様に出逢った仲間同士でございます。今後は私の事も名前でお呼びいただけますでしょうか?」
要望に素直に従った鋭時に気を良くしたチセリは、表情を硬くしてスズナの目を見詰め始める。
「ええと……それじゃあチセリさん……これからもよろしくお願いします……」
「はい、こちらこそよろしくお願いします」
「ふみゃあ!?」
突然真顔で迫られて驚いたスズナが耳と尻尾を丸めながら俯き加減で小さく名を呼ぶと同時に感極まった表情へと変わって目を細めたチセリに抱き付かれ、さらに驚いたスズナは耳と尻尾を立てながら小さく悲鳴を上げた。
「以前からこの耳と髪を触ってみたかったのです。こんなところをミサヲお嬢様に見られたら何を言われるか……思った通り、滑らかな手触りですね」
「どうしたんだ、チセリさん? スズナさんも大丈夫かい?」
「ジゅう人の全身からは、生物の性欲を減衰させる魔力を帯びた音波を常に発してます。だから覚醒が進行しないように、時々こうしてお互いの体を寄せ合って抑制するんです」
唐突にスズナの耳や髪を丁寧に撫で回し始めたチセリに鋭時が戸惑っていると、スズナが時折目を細めながらジゅう人女性の習性を説明する。
「それで昨日もシアラと……何て言うか色々苦労を掛けて申し訳ない」
「いえ、これはいずれ覚醒するジゅう人なら小さな頃から誰でもする行為ですから気になさらないで下さ……ふみゃん!」
昨夜の病院でシアラの取った行動の意味を理解して俯いた鋭時に対してスズナが自分達には至極当然の行動である事を重ねて説明しようとするが、途中で反対側の耳を撫でようとしたチセリの胸に顔を半分埋まり再度小さく悲鳴を上げた。
「気にするなと言われても、ちょっと目のやりどころが……」
「拒絶回避が消えれば旦那様がお好きにしていい身体ですよ、遠慮なく品定めしてくださいませ」
抱きしめるスズナの顔に沿って形に変えて柔らかさを証明しながらもエプロンを押し上げる弾力を持った膨らみを見て気まずそうに頬を掻く鋭時に対し、チセリは楽しそうに微笑みながらスズナの腰に手を回して尻尾の付け根にまで手を伸ばす。
「ふみゃぁ!? わたくしをえーじしゃまがお好きにゃように……心の準備が……それでもえーじしゃまのためにゃら……でも……」
「スズナ様には少々刺激が強かったみたいですね。それに、旦那様も少々お時間が必要でしょうか」
2本の尻尾の周囲を優しく撫でられたスズナが繁殖本能を強く意識して顔を赤く染めながら戸惑っていると、楽しそうに目を細めたチセリが尻尾の付け根から手を放して頭を撫でながら鋭時の方へと顔を向けた。
「確かに……な、女性とそこまで進展した記憶も無いし、戻るまでにどうなるのか分からん。期待するわけにはいかないだろ……」
「期限はありますが、まだ1年ございます。旦那様には期待を……きゃん!?」
頭を掻いて大きくため息をついた鋭時にチセリがスズナの後ろに回り込みながら微笑むが、突然大きな手に頭を撫でられて悲鳴のような声を小さく上げる。
「楽しそうな事してんじゃないか、チセリにも可愛いところがあったんだな」
「ミ、ミサヲお嬢様、いつお戻りに!?」
「今さっきだ。鋭時の分も買って来たし、後はチセリとスズナが好きなのを買って来るだけだぜ。すぐにシアラも戻って来るし、そろそろ行ってきなよ」
スズナの髪と耳を優しく撫でるチセリの手を見て嬉しそうに微笑んだミサヲは、売店から走って来るシアラを親指で示してからチセリの頭を優しく撫でた。
「ただいま戻りましたっ、教授っ! スズにゃんとチセりんもありがとーっ!」
「お帰りなさいませ、若奥様。次は私達が買いに行く番ですね、参りましょうかスズナ様」
ミサヲに頭を撫でられて呆然としていたチセリはシアラの弾むような明るい声を聞いて我に返り、スズナの手を取って急ぎ売店へ向かおうとする。
「はい、チセリさん。シアラちゃん、えーじしゃまをよろしくお願いしますね」
「もちろんですっ! 教授の疲れが吹き飛ぶ飲み物を選んできましたっ!」
「鋭時の事なら心配ないからさ、ゆっくり好きなのを選んで来いよ」
慌てて片手で髪を整えながら振り向いたスズナにシアラが自信に満ちた顔で胸を張ると、ミサヲも優しく手を振ってスズナを見送った。
「お待たせしました教授っ。お願いしますねっ、ヴィーノ」
「ああ、ありがとうシアラ……ところでこれは……?」
宙に浮くメイド姿のウサギのぬいぐるみが持って来たプラスチック製のコップを受け取った鋭時は、中に入った黄色い液体を少し警戒しながら見つめる。
「こいつはレモネードだ。学生の頃にチセリがレモネード作りに嵌り出して味見に付き合わされたんだけど、体を動かして疲れた後に美味かったのを思い出してね」
「なるほど、それで……ありがたくいただきます」
シアラに代わってレモネードを選んだ理由を話しながら気恥ずかしそうに笑ったミサヲに納得して頷いた鋭時は、安心した様子でストローに口を付ける。
ストローを通じて口の中に入って来た酸味と甘味は喉を通って全身に染み渡り、鋭時は無意識に強張っていた肩をほぐしてひと息ついた。
「よかったぁ~、教授がやっと元に戻りましたねっ」
「そんなに酷かったのか? 俺は普段通りのつもりだったんだけどな……」
安堵のため息をついて胸を撫で下ろすシアラに、鋭時は困惑しながら聞き返す。
「だって教授……お体はすれ違う人と無意識に距離を取りながら記憶の手掛かりを探そうと目だけ忙しなく動いて……わたし、とても心配だったんです……」
「それを聞くと確かに酷いな……悪かった、今度からは気を付けるよ」
「今の鋭時が街を歩けばこうなる訳だ……難しい事はドクに考えてもらうとして、残りは人の少ない所を回ろうか? お、チセリ達が戻って来るぜ」
心配そうな顔で話し終えてからストローに口を付けて数種類の果実を混ぜた白い飲み物を口に入れたシアラに鋭時が指で頬を掻いてから頭を下げると、紙コップを手にしたミサヲがもう片方の手で頭を掻いてから親指で売店の方向を指し示した。
「おかえりなさいっ! スズにゃんは何を買ったんですかっ?」
「ミルクセーキです、これ甘くて美味しいから。シアラちゃんも飲みますか?」
両手に持った紙コップを何度か口に付けながら歩いて来たスズナが、興味津々のシアラに紙コップを手渡す。
「ワクワクする名前ですねっ……スズにゃんの言う通り甘くておいしいですっ! よかったらお礼にこちらもどうぞっ!」
ミルクと卵の柔らかい甘味に満足したシアラは、満面の笑みを浮かべて手にしたプラスチック製のコップをスズナに手渡す。
「ありがとうシアラちゃん……ふみゃ!? これ、にゃんれふかぁ……?」
プラスチック製のコップをシアラから受け取ったスズナがストローを口に付けて中の白い飲み物を吸い込み、突然スズナの様子が変化し始めた。