第17話【逆転の理屈】
全自動食堂マキナで試験の概要と課題をドクから聞いた鋭時、
食堂を後にした一行は【グラキエスクラッチ清掃店】という名の店に到着した。
「これは……清掃店……?」
「まあ一応な。本業は清掃用ロボットの貸し出しなんかをしてるんだけど、今時は高性能のロボットやゴーレムが出回ってて開店休業も同然なんだけどさ」
【グラキエスクラッチ清掃店】と書かれた看板を眺めながら怪訝な表情で呟いた鋭時に、ミサヲは照れ笑いしながら簡単に店の説明をする。
「このグラキエスクラッチ清掃店がステ=イションで最初にZK駆除業務を始めた事で、いつの間にかZKの駆除を仕事にする人を掃除屋と呼ぶようになったんだ」
「じゃあこの店はステ=イションと同時に出来たのか?」
ミサヲの説明を引き継ぐようにドクが掃除屋の由来と歴史を説明すると、鋭時は興味深そうに質問を重ねた。
「ちょっと違うんだ。【大異変】でこちらの世界に転移して来たジゅう人が居住区確保の為にZKの駆除に協力した歴史があったのは警察署で話したよね? 最初は特務機関を組織したんだけど、多くの居住区を確保して全国民救済宣言が出された時に業務も民間に委託されたんだ」
「それが176年前だな? 今年は転異歴176年だものな……こんな当たり前の事を思い出すのにも時間が掛かるなんてね……」
苦笑するドクの説明を聞いた鋭時は、暦に関する記憶を思い出した事に気付いて俯きながら頭を掻く。
「ロジネル型ではどう教えられてたか知らないけど、【大異変】と暦にズレがある理由は概ねそんな所だ。話を戻すけどグラキエスクラッチ清掃店は行き場を失った特務機関の元職員の受け皿として、ドクター・グラスソルエが開いた店なんだよ」
「あたしにとって初代店長のドクター・グラスソルエは遠い存在だけどさ、先代の店長に拾われた恩があるからな。ここで立ち話もなんだし、とりあえず入ろうぜ」
扉の前でドクの説明を真剣に聞く鋭時を見ていたミサヲが店に入るよう促すと、ドクは軽く手を振って隣の扉へ歩き出した。
「ほえ? マーくんの家は違うんですかっ?」
「ボクはこっちの部屋を借りてるんだ。この部屋は元々ドクター・グラスソルエの研究室だった場所だよ、そして凍鴉楼の本来の名前でもある」
ミサヲに抱えられたまま疑問を口にするシアラに、ドクは【太陽科学研究所】と書かれた看板を指差す。
「太陽科学研究所? どんな研究してたんだよ?」
「なあに、ちょっとした郷愁だよ。じゃあまた明日、よろしくね」
研究所の看板を見て質問する鋭時にドクが短く答えると、Lab13から鍵を取り出して扉の中に消えて行った。
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「ドクは相変わらず訳分かんない事言うな……まあいい、あたし達も入ろうぜ」
苦笑してドクを見送ったミサヲが術具でもある隠し手甲、トリニティシェードの収納術式から鍵を取り出してグラキエスクラッチ清掃店の扉を開ける。
「ただいまー、とか言っても誰もいないけどな。シアラもお疲れさん、とりあえず空いてる所に座っててくれ」
誰に言うでもなく説明したミサヲが照れ笑いで誤魔化しながら店の奥に入ると、明かりを付けてから抱えていたシアラを床に降ろす。
「はーいっ、教授も早く来てくださいよっ!」
「鋭時も遠慮しないで入れよ、取って食ったりしないからさ」
店の中央に置かれた応接用のソファへと座ったシアラが満面の笑みで手を振り、ミサヲも鋭時に店の中に入るよう促した。
「じゃあ、おじゃまします……」
遠慮がちに頭を下げた鋭時が店に入るとすぐに清掃の行き届いた床が目に入り、顔を上げて周囲を見回すと事務作業用の机や清掃用ロボットが整然と並んでいる。
「どうした鋭時? そんな所でボーっとして」
「え? ああ、何て言うか奇麗だなと思って……」
入ってすぐに立ち止まって呆然としていた鋭時が遠慮がちに答えると、ミサヲはシアラの隣に座りながら嬉しそうに話し始める。
「そりゃまあ清掃店だからな、商売道具の点検も兼ねてそこのロボットで定期的に掃除してるのさ。それより鋭時も座りなよ、ちょっとここの説明するからさ」
「分かりました、では失礼します」
再度ミサヲに促された鋭時は外套を脱ぎ、テーブルを挟んで反対側に設置されたソファに置いてから腰掛けた。
「改めてようこそグラキエスクラッチ清掃店へ、今座ってるここは清掃ロボットの貸し出しを話し合ったりする店舗スペースだ。ここで飯を食う事もあるから、直接キッチンにも行けるぜ」
玄関から見て右奥にある玉のれんで区切られた部屋をミサヲが指差すと、続けて左奥にある引き戸を指差す。
「あの戸の向こうは居住スペースだ、寝室と共用の風呂があるぜ」
「なるほど、チセリさんが言ってたのはこういう事か……」
店の奥へと続く引き戸の説明を聞いた鋭時は、先ほどまで遅い夕食を取っていた全自動食堂マキナで聞いたチセリの言葉を思い出して頷いた。
「部屋は好きな所を使ってくれ。鋭時の身体の問題が解決するまでシアラと鋭時でひと部屋ずつになっちまうけど、数は充分にあるぜ」
「それなら出口に一番近い部屋を使わせてもらっていいですか?」
「ああいいぜ、あたしも鋭時にはその部屋を使ってもらおうと考えてたところだ」
「ほえ? どうして出口に近い部屋がいいんですかっ?」
説明を聞き終えてから部屋の位置に関する希望を口にした鋭時にミサヲも頷いて快諾すると、シアラが鋭時とミサヲを交互に見ながら不思議そうな顔をする。
「開けた場所に近ければ、拒絶回避で傷つけたりする可能性も減るだろ」
「そういう事だシアラ、問題が解決する前に鋭時が灰になったら意味無いからな」
拒絶回避の危険性を理由に挙げた鋭時に、ミサヲもシアラの顔を見て諭すように説明した。
「分かりましたっ。でも、せっかく教授に出逢えたというのに寝る時は離れ離れになるなんて……やっぱりちょっと寂しいですねぇ……」
「なんていうか、その……すまない。いつ治るのか全く見当の付かない俺の体質に付き合わせちまってさ」
シアラが納得しながらも沈んだ顔をすると、鋭時は静かに頭を下げる。
「教授は何も悪くありませんよっ! わたし、教授の記憶を戻すためなら何だってしますからっ!」
「お気持ちはありがたいけど無理だけはしないでくれよ。ドクの機械だとシアラは俺より何千倍も強いけど、女の子を危険な目に遭わせたくないんだからさ」
目を丸く見開いて鼻息荒く見詰めて来たシアラに対して鋭時は、こめかみ辺りを指で掻きながら複雑な笑みを浮かべた。
「はいっ! 教授にご心配をかけないためにも、もっと強くなりますっ!」
「いや待て、色々と待て……」
「そうだっ! 教授がZKを駆除した時の話を聞かせてくださいっ!」
尚も見つめて来るシアラに鋭時は額に手を当て苦言を呈そうとするが、シアラが期待に胸を弾ませるような大声でそれを遮る。
「そんなに期待すんなよ、ただ生き延びるのに必死だっただけなんだから……」
痛いほどに輝く視線を避けるように頭を掻きながら、鋭時はシアラに【遺跡】でZKを駆除した経緯を話し始めた。
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「……という訳で、どちらも【圧縮空壁】を発動してから形を変えて空気の密度を増やしたんだ。たぶんそれでZKの外殻を破壊できる強度になったんだと思うぜ」
ひと通り話し終えた鋭時がひと息つくと、何度も頷いて聞いていたシアラが身を乗り出して満面の笑みを浮かべる。
「ありがとうございますっ、教授っ! とても参考になりましたっ!」
「そうか……お役に立てて何よりだぜ。口を酸っぱくして何度も言うようだけど、くれぐれも無茶だけはしないでくれよ」
「もちろんですっ! どんな時でも教授はわたしが全力でお守りしますからっ!」
「だから、そうじゃなくてだな……」
胸を張り自信満々で答えるシアラに鋭時が力なく項垂れていると、ミサヲが膝に手を置いてから立ち上がった。
「話は終わったか? だったら風呂入ろうぜ、広いから一緒に入れるぜ」
「お風呂広いんですかっ! でしたら教授もご一緒にどうですかっ?」
ミサヲの言葉を聞いたシアラが再度目を見開くが、鋭時は項垂れたまま額に手を当てて首を横に振る。
「おーいシアラさん、拒絶回避で何しでかすか分からないって何度も言ったろ? 俺は術式で済ませるから、シアラはゆっくり風呂に浸かってくれ」
「でしたら、ぜひ覗きに来てくださいねっ!」
「ミサヲさんもいるのにそんな事できるかよ! ふざけんのも大概にしてくれ!」
まるで理性を試すかのように体を乗り出しながら満面の笑みを向けるシアラに、鋭時は思わず大声で怒鳴ってしまった。
「ごめんなさい……わたし、このまま教授と離れるのが怖くて……このまま教授が消えてしまう気がして……」
「いや……こっちこそ大声出して悪かったよ……でもさ、さすがに風呂場まで行く訳にはいかないだろ……まいったな、どうすりゃいいんだよ?」
突然目からポロポロと涙を流して声を詰まらせながら謝るシアラに鋭時も慌てて謝るが、続く言葉が見付からずに困惑して呟きながら頭を掻く。
「別に減るもんじゃなし、あたしは気にしないぜ。って言っても鋭時は首を縦には振らないよな?」
「当然です。逆にミサヲさんが気にしてくださいよ……女性、なんですから……」
重苦しい空気を和ませようとミサヲが冗談交じりに微笑んでから頭を掻いたが、鋭時はため息をついてから遠慮がちに言葉を返すしか出来なかった。
「ああ分かってる。だからさ、シアラの事はあたしに任せてみてくれないか?」
「俺ではシアラを慰められないし、ここはミサヲさんに頼るしかないな……」
返って来た言葉を聞いてニヤリと笑みを返すミサヲに、鋭時はしばし考え込む。
「お? 慰め合うとか嬉しい誤解だねえ」
「本当に任せて大丈夫なのか?……いや、こうなったらいっその事……」
俯いて時折鼻を啜るシアラを見ながら鋭時が思い詰めたように呟くと、ミサヲが慌てて両手のひらを目の前に突き出して振った。
「冗談を真に受けないでくれよ……シショクの願いに誓ってシアラを泣かせる真似だけは絶対にしないぜ。シアラもそれでいいだろ?」
「はい……教授がミサちゃんを信じるのなら、わたしもいいですよ。でも教授っ、絶対にいなくならないでくださいねっ!」
ミサヲに抱き上げられて力なく頷くシアラに、鋭時もぎこちなく微笑んで頷く。
「分かったシアラ、約束するよ……ミサヲさん、シアラの事お願いできますか?」
「ああ、任せてくれ。シアラの事ならあたしはもちろん、チセリやマキナ母さんも協力してくれるよ。もちろん鋭時もな。とりあえず部屋を案内するぜ」
深々と頭を下げる鋭時にミサヲが力強く頷くと、シアラを抱いたまま立ち上がり居住スペースに向かって歩き出した。
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引き戸を開けたミサヲを追って居住スペースへと入った鋭時の視界には入口から見て右側にキッチンとつながった広い廊下と、左側に一段高くなった木材の廊下が縁側のように並んで奥へと続く光景が広がる。
さらに鋭時が奥へと目を向けると室内縁側に沿って天井から吊るされた引き戸が複数並び、行き止まりで直角に曲がった先で大きなガラス戸が正面を向いていた。
「横に並んでる部屋が寝室で、奥にあるのが風呂場だ。鍵持って来るからちょっと待っててくれ」
簡単に居住スペースの説明を終えてからシアラを床に降ろして最奥にある寝室の前まで移動したミサヲは、安全靴を脱いで室内縁側へと上がってからゴトリと音を立てて靴を揃える。
そしてそのまま戸を引いて部屋に入ってから肩に掛けたミセリコルデを降ろし、しばらくしてから小さな鍵を持って出て来た。
「お待たせ、鍵は自分で開けてくれねえか?」
靴を履かずに室内縁側をそのまま歩いて戻って来たミサヲは、鍵を鋭時に投げて渡した。
「ありがとうございます、ミサヲさん」
鍵を受け取った鋭時はスーツのポケットに鍵を入れてから靴を脱いで室内縁側に上がり、ポケットから鍵を取り出して引き戸の鍵穴に差し込んで回す。
カチッという音と共に鍵が開いて鋭時が戸を開けると、板張りの床で区切られた奥に四畳半の畳の部屋が広がっていた。
「これは……思ったより広いな……」
「中は自由に使ってくれ、布団は後で持って来るから鍵はまだ掛けないでくれよ。全自動殺菌乾燥機で毎日手入れしてるから、それなりの寝心地は約束するぜ」
想像とは違った部屋の様子に驚く鋭時を気にする風も無く、ミサヲは嬉しそうに説明を続ける。
「あと寝室は見ての通り派手な術式を使うのに向いてないけど、術式とかも試せる実験室が店舗スペースにあるんだ。壁を挟んでこの部屋の隣にあるから、そいつを使ってくれ。明日の試験がんばれよ」
「分かりました、色々ありがとうございます。それじゃさっそくお借りしま……」
部屋の説明を終えて励ますように親指を立てたミサヲに礼を述べた鋭時が丸めた外套を床に置いてから戸を閉めようとすると、シアラが遠慮がちだが力強い意志を込めた表情で鋭時に近付いて来た。
「教授ぅ、わたし達がお風呂に行くまでそこにいてくれますか?」
「分かった。それくらいでよければ、しばらくここいるよ」
縋るような目つきで見上げてくるシアラに鋭時はぎこちなく微笑んでから寝室の戸を閉め、そのまま戸の前に立つ。
「ありがとうございますっ! わたしはもう大丈夫ですよっ、教授っ! それではお風呂に行きましょうっ、ミサちゃん!」
鋭時の返答を聞いて目を見開いたシアラは涙を拭いながら室内縁側に腰掛けて、脱いだ靴を腰に付けたネコのぬいぐるみに組み込んだ収納術式に仕舞う。
そしてそのまま元気よく縁側に上がり、意気揚々と風呂場のガラス戸へ向かって走り出した。
「ちょっと待ってくれ、着替えとか持って行かねえと。シアラも必要なもんがあるなら言ってくれ、何でも貸すぜ」
「ありがとうございますっ、ミサちゃんっ! わたしのお風呂セットとタオルならマフリクの中に入れてありますのでっ!」
慌てて自分の部屋に戻って風呂に入る準備を始めるミサヲだが、シアラは袖からヒツジのぬいぐるみを取り出しながら風呂場の入口に向かった。
「っと、服はまだ脱いじゃダメだったんだな。お待たせシアラ、風呂行こうぜ」
しばらくするとジャンパーを脱いで結んでいた裾を解いたシャツとデニム生地のホットパンツだけの姿になったミサヲが丸めたバスタオルを持って姿を現し、先にガラス戸の前で待っていたシアラと合流してから並んで風呂場に入る。
「ホントに大丈夫なのかねえ……?」
シアラとミサヲを見送った鋭時がそのまま閉まった風呂場の戸を眺めていると、しばらくして楽しそうな2人の声が聞こえて来た。
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「うわっ、ミサちゃん大胆っ! これほとんど紐じゃないですかっ!」
「ああ、動きやすいからな。そういうシアラも大胆じゃねえか、フリルとレースで可愛いけど下から丸見えだぜ」
「普段は下を結界で覆ってますよっ、結界を解除したらすぐいただけるようにしただけですからっ」
「そこまで考えるなんて大したもんだよ! ますますシアラが気に入ったぜ!」
「わぷっ!? ぷはっ、柔らかい感触がダイレクトにぃ……うにゅにゅっ~」
「元気が戻ったのはいいけど、あいつら何してんだ……取り敢えず実験室とやらに行くか……」
ガラス戸越しに聞こえて来る会話に呆れながらも元気に弾むようなシアラの声に安堵した鋭時は、室内縁側を下りながら靴を履いて店舗スペースに向かった。
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「やっぱり教授、覗きに来ませんね……」
「当たり前だろ、鋭時は見たまんま真面目で誠実な男だからな。ほら、頭を洗ってやるから前向きな」
洗い場でバスチェアに座りながら残念そうに脱衣所を眺めるシアラの頭を優しく掴んで鏡の前へと向けたミサヲは、シアラの柔らかい金色の髪に丁寧にシャワーをかけ始める。
「でもよ、こんな結界張るくらいだからホントは見られたくなかったんだろ?」
「こ、これはその……まだ見せるには早いところもあって……」
シャンプーを泡立てながら器用に頭のツボを刺激しつつ髪を洗い始めたミサヲが本心を聞くと、腰から下を湯気の幻影結界、【湯煙帷幕】で覆ったシアラが俯いて口ごもる。
「言いたい事なら分かってるよ、あたしは可愛いと思うけどな。それに鋭時だって嫌ったりしないぜ、シアラを大事に思ってるんだからさ」
一旦シアラの発動した結界に目を落としてから鏡を向いて励ますようにミサヲは微笑むが、すぐに神妙な顔付きに変わって言葉を続ける。
「だけど鋭時は、大事な人から距離を置く事が最大の誠意と思い込んでるぜ」
「そんな……っ!」
唐突な言葉に驚いてシアラが振り向くと、ミサヲは頭を撫でて落ち着かせてから前を向かせる。
「落ち着けよシアラ、目に泡が入るだろ。子供の頃に親父から聞いたんだ、上物の人間はそういう手合いが多いから出逢ったら絶対に手放すなってね」
「わかりましたっ! わたし、もっと教授のために頑張りますっ!」
「だから落ち着けって、あたし達も協力するって決めたんだからさ。ほら、泡流すから目を閉じてろよ」
奮起して立ち上がろうとするシアラの両肩を優しく押さえて座らせたミサヲは、丁寧にシャワーをかけてシアラの髪の泡を洗い流した。
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「ここが実験室か……確かに丈夫そうな部屋だ」
時間は少し戻ってシアラとミサヲが風呂場に入った後の事、店舗スペースの端にある頑強な壁で囲われた実験室に入った鋭時は扉を閉めて周囲を見回す。
「なになに……実験する内容で部屋の設定変更が可能と……素材耐久試験にすれば終了後に室内の掃除も自動でしてくれるのか、こいつは便利だな」
部屋の入口付近に備え付けられた台座の上のパネルを確認した鋭時は、画面上の【素材耐久試験】を選んでから負荷の種類を【使用者の所持品】に選択する。
パネルに表示された【決定】を押した瞬間、警報音と同時に内壁に沿って隔壁が下がり出して実験素材を載せるための台が中央の床から現れた。
「それじゃ始めるか、まずは【圧縮空壁】の形状を変更して……」
ZKの外殻を再現した白い板を取り出して台の上にある器具に固定した鋭時は、アーカイブロッドに組み込まれた【圧縮空壁】をロッド内部の別フォルダにコピーしてから出力範囲と形状の項目を書き換えて高密度の空気で出来た刃を作り出す。
刃型の【圧縮空壁】をロッドの先端に発動した鋭時が勢いよく台に固定した板に突き立てるが、空気の刃は板の表面を薄く削ぐに止まった。
「やっぱ駄目か……ならもっと短く細くして、圧縮空気で加速も付けて……」
ほぼ無傷の板を確認した鋭時が空気の密度をさらに高めた縫い針のように小さな【圧縮空壁】をロッドの先から飛ばすと、プシュッと言う音と共に空気の針は板を貫通して壁沿いの隔壁に到達する前に消える。
「よし通ったぞ、【圧縮空針】とでも名付けておくか。でもこんな小さい針穴じゃ壊したうちには入らないだろ……だが俺はこれ以上の魔力も火力も出せない……」
空気の針の術式名を変更して保存した鋭時だが、台から外した板を天井の照明にかざして目を細めてようやく確認できる小さな穴を見てため息をついた。
「魔力……火力……エネルギー……熱……?……そうだ! ZKも生き物なんだし物質なんだ、これならいけるかも!」
即座に打つ手の無くなった鋭時が隔壁に寄り掛かって思考癖を働かせていると、呟いた言葉の中からZKの単純かつ根本的な性質に気が付いてアーカイブロッドに組み込まれた術式の確認を始める。
「【活性灯】に【魔力贈与】の魔力注入コマンドを逆向きに設定して……」
【圧縮空針】を保存したフォルダの中に2つの術式をコピーした鋭時は、設定を書き換えながら1つの術式にまとめる。
「あとは【振動感知】の範囲も狭めて逆流させれば……完成だ!」
さらに新たな術式をコピーして設定を書き換え終えた鋭時は、右手のアーカイブロッドを左手に持ったままの試験用の板に近付ける。
「上手く行ったらお慰み【瞬間凍結】」
慎重にアーカイブロッドの先を板に当てた鋭時が術式をひとつ発動すると、板がたちまち凍り付いて鋭時は素早く手を放す。
「あぶっねー……拒絶回避が無ければ俺の手まで凍ってたぜ……でも術式は思った通り成功だ。では続けて【共振衝撃】」
板を持っていた手の無事を確認した鋭時は、そのまま床に落とした氷漬けの板にアーカイブロッドで触れてもうひとつの術式を発動する。
発動と同時にアーカイブロッドから強烈な衝撃波が流し込まれ、凍り付いた板は一瞬で粉々に砕け散った。
「上手く行ったぜ! これで掃除屋になって記憶が戻ればあいつに報いて……」
小さい針穴を開けるのが限界であった板を跡形も無く砕いた鋭時は思わず大声を上げるが、徐々に声のトーンを落として行く。
「そんなに……したいのかよ、俺は……命の恩人にそんな真似できるかよ……! ダメだ考えが纏まらない……明日は試験に受かる。その先は、考えれば……いい」
興奮が醒めると同時に酒の酔いが戻って来たのか、鋭時はくらくらする頭を手で押さえながらフラフラとパネルに向かい【試験終了】を押して実験室を後にした。
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「よかった……あいつは部屋に戻ったのか……こんなところを見られでもしたら、また泣かせたかもしれないからな……」
どうにか気持ちを落ち着かせて居住スペースに戻った鋭時は、風呂場のガラス戸から明かりが消えているのに気付いて安堵のため息をつきつつ室内縁側に腰掛けて靴を脱ぎ終えた時に何気なく脇に置いたアーカイブロッドが視界に入る。
(マキナさんの言った通りだ。このままだと確かに不便だな……)
全自動食堂マキナを出る際に掛けられた言葉を思い出した鋭時は、アーカイブロッドを手に取って術式を確認してから寝室の引き戸を開けた。
「この布団はミサヲさんが敷いてくれたのか? あいつも手伝ったんだろうな……2人とも疲れてるだろうに申し訳ない……っと、その前に……」
寝室の中に入った鋭時はミサヲとシアラが運び込んでくれたであろう布団にすぐ潜ろうとしたが、はたと気付いて動きを止めてからスーツの上下、ネクタイ、ワイシャツ、靴下を脱いで揃える。
「今までの話を額面通りに信じるなら、俺はこの街で魅力的に見えるって訳か……とても信じられないけど、試す気も起きないな……」
顔を下に向けて特徴もこだわりも無い自分の下着を一瞥した鋭時が苦笑すると、脱いだ服と外套を一か所に集めた。
「言った手前最低限のマナーは守らないとな、【身体洗浄】続けて【衣服洗浄】」
脱いだ服の山に膝が触れるように座った鋭時は、雑に畳んだスーツに触れてから意識を集中してスーツに組み込まれた術式を連続で発動する。
発動と同時に鋭時の体と身に付けた下着、そして山にした衣類全てが淡い緑色の光に包まれて汚れが瞬時に消滅した。
「これでヨシ、っと。さすがにもう疲れたぜ……」
術式が正常に発動した事を確認した鋭時はスーツの上下を手にして壁に向かい、おそらくこれもミサヲが用意してくれたであろうハンガーに適当に掛け終えてから敷かれている布団に潜り込んでそのまま深い眠りについた。
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「おっはようございまーっす、教授っ! 朝ですよーっ!」
「え、シアラはもう起きたのかよ!? ちょっと待ってくれ!」
翌朝、布団に潜ったままの鋭時は明るく弾むようなシアラの声と寝室の戸を叩く音で目を覚まして慌てて飛び起きる。
「教授っ!? よかったぁ~……おはようございますっ、教授っ! 今チセりんが朝ごはんを持って来てくれましたよっ! 一緒に食べましょうっ!」
「分かった。服着たらすぐ行くから、シアラは先に行っててくれないか?」
「りょーかいしましたっ、教授っ! 早く来てくださいねっ」
慌てて服を着ながら返して来た鋭時の声を引き戸越しに聞いたシアラは、安堵と興奮を混ぜたような弾む声で答えながら店舗スペースまで走って行った。
「誰かに起こされるなんて何年振りだろうか?」
寝室の畳と引き戸の間にある板張りの廊下のような部屋、その隅にある洗面所で顔を洗った鋭時が少しでも記憶を戻そうと考え事をする。
(……戸を挟んだとはいえ、女の子に起こされるなんて俺の脳には新鮮な刺激だと思うんだが、存外思い出せないもんだな……)
自分の素性につながる記憶を思い出せなかった鋭時は即座に考え事を切り上げ、鏡の周囲に手を伸ばしては宙を切る動作を繰り返す。
「いけね、タオル無いんだった……ハンカチでいいか」
自分の今いる場所が昨夜まで空き部屋であった事をようやく思い出した鋭時は、ズボンの後ろポケットから取り出したハンカチで適当に顔を拭いてから服装と共に鏡の前で軽く確認してから外套を脇に抱えて部屋を出た。
「おはようございますっ、教授っ! さあ、こっちですよっ」
「ああ、おはようシアラ。って、そんなに引っ張るなよ」
店舗スペースに入る鋭時を待ち構えていたかのように挨拶しながらスーツの袖を掴んでテーブルに向かうシアラに、鋭時は挨拶を返しながら苦笑する。
「チセりんお待たせっ、教授を連れてきましたよっ」
「おはようございます旦那様、若奥様もありがとうございます。マキナ様のお店で朝食を作っていただきましたので、どうぞお召し上がりください」
シアラがテーブルに向かって弾むような大声を上げると、テーブル近くに立っていたチセリはメイド服から覗く尻尾を勢いよく左右に振りながらも表情を崩さずに丁寧な仕草でお辞儀した。
「おはようございますチセリさん。何て言うか、昨日に続いて色々とすいません」
テーブルに並ぶサンドイッチの入った紙製のケースが目に入った鋭時は、何度か頭を下げながらぎこちなく挨拶を返す。
「そんなに固くならなくてもよろしいですよ、旦那様と若奥様のお世話をするのは凍鴉楼の管理人たる私の役目ですから。それに……」
眼鏡の縁に手を掛けながら柔らかい微笑みを鋭時に向けたチセリだが、急に顔を近付けて含みを持たせた笑みを浮かべる。
「私達ジゅう人が旦那様に硬くしてほしいものは別にありますから」
「……! だからそういう冗談は……緊張してる自分が馬鹿馬鹿しくなるぜ」
突然耳元で囁かれた鋭時が反射的にチセリから半歩下がりつつ呆れた調子で頭を掻くと、袖を引いたシアラが下から覗き込むように話しかけてきた。
「どうかしたんですかっ、教授っ? 朝ごはん、きちんと食べて今日の試験に備えましょうよっ!」
「確かにシアラの言葉も一理あるな……取り敢えず飯にするか。悪いけどシアラはそっち側に座ってくれないか? この幅だと拒絶回避が暴発しかねないからな」
「わかりましたっ、教授っ! ミサちゃん隣失礼しますねっ」
既にソファに座ってサンドイッチを口へと運ぶミサヲを確認した鋭時が向かいに座り、シアラは快く頷いてミサヲの隣に座る。
「もっとこっち来ていいぜシアラ。おはよう鋭時、先に頂いてるぜ。それにしても助かったぜチセリ、ちょうど朝飯をどうしようか考えてたところだったんだ」
「やはり私の予想した通りでしたね、旦那様の事情を考えれば店に入るのはまだ危険ですもの。昨日のうちにマキナ様にテイクアウトを頼んで正解でした」
向かいのソファへと座った鋭時に軽く挨拶したミサヲがそのままチセリにも礼を述べると、チセリは小さくため息をついて呆れ果てた表情を浮かべながらも尻尾を嬉しそうに左右に振った。
「それじゃあ、いただきます」
紙ケースの横に置いてあった紙おしぼりで手を拭き終えた鋭時がケースの中からサンドイッチをひとつ手に取り口に運ぶと、しっとりとした食感の食パンが前歯に当たった瞬間小気味よく千切れ、同時に辛子マヨネーズの風味と合わさったハムやチーズの旨味が口の中に広がる。
噛み締めるたびにハムとチーズの旨味が広がり、時折新鮮なレタスと薄く切ったキュウリの歯ごたえがアクセントとなって飽きの来ない味が続いた。
「旦那様、コーヒーもどうぞ。お砂糖とミルクはどうなさいますか?」
「ありがとうチセリさん、取り敢えずブラックでいただくよ」
「かしこまりました。また何かございましたら声を掛けてください」
頭掻きながら砂糖とミルクを断った鋭時にチセリは軽くお辞儀を返して微笑み、皿に載った白いコーヒーカップを鋭時の前に置いた。
「ここまで気を使ってもらって何か悪いな……」
微笑むチセリに軽く頭を下げた鋭時がコーヒーカップに口を付けた途端、酸味を抑えた強い苦味の後をほのかな甘味が追って来る理想的なブラックコーヒーの味が口に広がる。
ますます食欲をそそられて次々とサンドイッチを手に取り口に運んだ鋭時は目の前のケースを空にし、気が付くとシアラとミサヲも各々のサンドイッチのケースを空にしていた。
「ふぅ……朝飯をこんなに食べたのなんてどれくらい振りだ? 美味しかったぜ、チセリさん。後でマキナさんにも礼を言いに行かないとな」
「私もお役に立てて何よりです旦那様、ぜひ今夜もマキナ様のお店に顔を出してくださいませ」
鋭時からの手放しの称賛にチセリが尻尾を振りながら落ち着いた仕草でお辞儀をすると同時に、店の扉から鋭時達を訪ねる声が聞こえて来た。