第15話【ぬくもり】
全自動食堂マキナの女主人が覚醒せずに鋭時は安堵するが、
その直後にミサヲを探すメイド姿の少女が店を訪ねて来た
「いらっしゃいチセリちゃん。ミサヲちゃんなら来てるけど今は取り込み中でね、ちょっと待っててくれないかい?」
「夜分遅くに申し訳ございません、マキナ様。ですが事は急を要しますので」
店内を隠すように立ったマキナからチセリと呼ばれた狼のような耳と尻尾を持つメイド姿の少女は、丸眼鏡をクイっと僅かに上げてから周囲のにおいを嗅ぐように数回鼻を小さく動かす。
「これは……どうやら駆除は無事に出来たようですね。使い切る前に家賃の徴収をさせていただきます、よろしいですねマキナ様?」
「だからお待ちよ!……って言っても無理ね……」
目的の人物の所在を確信したチセリは店主のマキナが止めるのも聞かずに堂々と店に入り、マキナは諦めてため息をついた。
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「お帰りなさいませ、ミサヲお嬢様。用件はお分かりですよね?」
閉店した店に躊躇なく入ったチセリは、咄嗟に立ち上がって鋭時を隠す位置まで移動したミサヲの前で立ち止まって微笑みながらお辞儀する。
「しまったな……チセリが来る可能性をすっかり見落としてたぜ……」
「何か仰いまして?」
「いやなんでもない……それより今月分の家賃だよな? これで足りるはずだから後はもういいだろ?」
チセリの来訪に慌てたミサヲが誤魔化すようにホットパンツの横のポケットから数枚の紙幣を取り出して差し出すと、眼鏡を僅かに持ち上げたチセリは受け取った紙幣を数えてから肩に掛けたポシェットに仕舞った。
「確かに全額受け取りました。それにしても珍しいですね、ミサヲお嬢様が私を遠ざけようとするだなんて。後ろのお客様と関係がございまして?」
「そうか? 客人なら明日にでも紹介するぜ、今日はもう遅いからさ」
ミサヲの態度を訝しむチセリが微笑みながら鎌をかけるが、ミサヲは落ち着きを取り戻してチセリの質問をはぐらかしつつ後ろ手で鋭時に外套を被るよう促す。
(お嬢様って呼びながら家賃の徴収とはね……また随分とミサヲさんとの関係性が捉えにくいジゅう人が来たもんだな……)
手を後ろに回したミサヲの合図に気付いた鋭時は、ミサヲとチセリのやり取りを聞いた中で生じた疑問を考え込まないよう意識しながら急ぎ背もたれの外套を手に取る。
「えー!? ミサちゃんってお嬢様だったの!?」
だが同時にシアラが驚きの声を上げてミサヲが思わず振り向き、チセリの視界に外套を被る直前の鋭時が入り込んでしまった。
「まあこれはこれは……こんな素敵な殿方を連れ込むなんて、ミサヲお嬢様も隅に置けませんね」
「あちゃー、ひと足遅かったか……すまねえドク、鋭時のハーレムに1名追加だ。何か策を考えといてくれねえか」
尻尾を激しく左右に振りながら眼鏡の蔓に手を当て、目を細めうっとりと鋭時を眺めるチセリを見て覚醒を確信したミサヲはしばし額に手を当てて天を仰いだが、すぐに嬉しそうな顔でドクに善後策を頼み込む。
「いや待て、色々と待て。何か今とんでもない事をさらりと言わなかったか!? これどうにかならないのかよ……」
「鋭時君には申し訳ないが起きてしまった事は仕方ないよ、それにチセリさんならしばらく大丈夫だから」
「いやだから、しばらくって……」
新たなジゅう人の覚醒を楽しむかのようなミサヲとドクの態度に鋭時が絶句していると、振っていた尻尾を落ち着かせたチセリがゆっくりと近付いて来た。
「ご挨拶が遅れて申し訳ございません、私はタイプキキーモラの依施間チセリ。シショクの12人がひとり、ドクター・グラスソルエより代々この凍鴉楼の管理を仰せつかった依施間家の家長を務めております」
「あ、どうも燈川鋭時です。何て言うかその……えーっと……」
丁寧にお辞儀をして挨拶するチセリに鋭時が座ったまま頭を下げながらも言葉を詰まらせていると、隣に座っていたシアラが明るく弾むような声を上げる。
「教授と運命の出逢いで結ばれた榧璃乃シアラですっ! これからよろしくねっ、チセりんっ!」
「まあ教授でございましたか、どちらでご教鞭を?」
シアラの自己紹介を聞いて興味深く見つめてくるチセリに、鋭時は深くため息をついた。
「またこのパターンか……なあシアラ、せめて人前では俺の事をあだ名で呼ぶのは止めてくれないか?」
「いーじゃないですかーっ、教授は教授なんですしっ! それともぉ……」
疲れた顔をする鋭時の袖を掴むシアラの笑みが、悪戯を思い付いた子供のように変わっていく。
「定番のダーリンがいいですかっ? やっぱりご主人様? そうだっ!将来の予行演習も兼ねてパパと呼ぶのもいいですねっ! これからはそうしましょうっ!」
「……、教授でいい……」
満面の笑みで正面から悪戯っぽく見詰めて来るシアラに対し、鋭時は諦め切った表情を浮かべるしかなかった。
「わかりましたっ! 末永くよろしくお願いしますねっ、教授っ!」
「あら、とても仲がよろしいのですね。これから私もお二方を旦那様に若奥様とお呼びしてよろしいでしょうか?」
鋭時とシアラのやり取りを見て微笑みながらお辞儀して来たチセリに、シアラは興奮しながら白い長手袋に包まれたチセリの両手を握り締める。
「もちろん大歓迎ですっ! 若奥様ですかぁ……実にいい響きですねぇ」
「旦那様ね……着実に外堀が埋められてるな……まあ好きにすればいいさ……」
半ば強引なチセリの申し出に歓喜するシアラを見た鋭時が諦めて呟いていると、いつの間にか店の奥に入っていたマキナがグラスを載せた盆を持って戻って来た。
「随分と楽しそうだねチセリちゃん、まずはお掛けよ。後でまた持って来るから、とりあえずアイスティーでいいかい?」
「そうですね。聞きたい事も山ほどありますし、ここはお言葉に甘えましょうか」
隣のテーブルから椅子を引いて来てシアラの横に座ったチセリがアイスティーの入ったグラスをマキナから受け取り、嬉しそうに微笑むチセリを見たミサヲは頭を掻きながらいそいそと席に戻る。
「こうなった以上はチセリにも説明が必要か……ところでマキナ母さん、そっちのアイスコーヒーは何だい?」
「レーコさんの分だよ。せっかく店に入って来てくれてるんだから、これくらいは出さないとね」
盆に載ったもうひとつのグラスを興味深く眺めるミサヲに答えながら、マキナはアイスコーヒーの入ったグラスをレーコさんの前に置いた。
「お気遣いありがとうございます、マキナさん。ですけど私は立体映像投影型のアンドロイドなので飲食は……」
「飲めないのは分かってるけど、形だけでも付き合っとくれよ」
微笑むマキナにレーコさんが困惑の表情を表示していると、ドクがグラスを手に取ってレーコさんに微笑みかける。
「すまないがレーコさん、このコーヒーは後でボクが飲むからお付き合い頼むよ」
「かしこまりました、マスター」
お辞儀したレーコさんがグラスを持つドク手に手を重ね、ドクはもう片方の手に枡を取った。
「相変わらずドクは気が早いな……まあいいか、このまま乾杯といこうぜ。みんなも用意はいいか?」
(え? ああ……これでいいのかな?)
飲み物の行き渡った様子を確認してから枡を手に取ったミサヲに続いてシアラとチセリが各々の飲み物の器を手に取り、鋭時も慌てて目の前の枡を手に取った。
「それでは凍鴉楼の新たな仲間、シアラと鋭時を歓迎して。かんぱーい!」
「「かんぱーい!」」
「か、かんぱい……」
ミサヲの掛け声の共に鋭時以外の一同が一斉に飲み物を顔の高さまで上げ、半歩遅れて鋭時も手にした枡を持ち上げながら小声で続く。
そのまま両手に持ち直した枡の縁に口を当てて静かに中身を運び入れたミサヲと同じように鋭時も枡の中身を口に入れると、まるで雷が突き抜けたように強烈だが爽やかな辛味が舌から頭まで駆け抜けた。
「うわっ、こ、これは!?」
「どうしましたっ!? 大丈夫ですかっ、教授っ!?」
驚いた鋭時が思わず声を上げると、シアラが手にしたグラスをテーブルに置いて着物の袖から治癒術式を組み込んだヘビのぬいぐるみを取り出そうとする。
「大丈夫、ちょっと驚いただけだ。頭がすっきりする美味い酒だよ、これは」
「こいつはステ=イションの工場で作られてる純米酒、冥酒樽灘だ。鋭時にも気に入ってもらえたようで何よりだぜ」
心配そうな表情で見詰めて来たシアラをぎこちない笑みで宥めた鋭時に気付いたミサヲは、空になった枡をテーブルに置いてから上機嫌で飲んだ酒の説明をした。
「それはよかったですっ! じゃんじゃん飲んでくださいねっ、教授っ」
「いや、何となく思い出したけど、たぶんこの枡を飲み終えたら打ち止めだ。酒はそれほど強くなかったらしい」
ミサヲと鋭時の様子を満足そうに眺めていたシアラの満面の笑みに、自分の酒の強さを思い出した鋭時は複雑な笑みを返してから手にした枡に目を落とす。
「旦那様、もしもの時は私が介抱いたします。安心してお飲みくださいませ」
「その……どう説明したらいいかな? 俺にはちょっと事情があって、酔い潰れる訳にはいかないんだ……」
シアラの隣で顔を覗かせて微笑むチセリに鋭時がしどろもどろに答えていると、既に手にした枡を空にして次の枡を手に取ったミサヲが突然笑い出した。
「にゃははっ、酔わせて送りオオカミとはチセリも中々大胆だね~」
「ミサヲお嬢様、タイプキキーモラの私をすぐオスに向かってやらせろと吠えるそこいらのメスオオカミと同じにしないでくださいまし」
茶化されたチセリが僅かに眼鏡を上げながら静かに微笑み、気圧されたミサヲは笑顔を引きつらせて凍り付く。
「茶化したのは悪かったよ、でも隙あらば……って考えてはいるんだろ?」
「旦那様には若奥様がいらっしゃいます。殿方に無理矢理迫るのは我が依施間家の流儀に反する振る舞いですので」
頭を掻きながら笑って誤魔化すミサヲにチセリが柔らかい物腰で小さく首を横に振ると、シアラが満面の笑みを浮かべて顔を近付けた。
「我慢しなくていいですよっ! 一緒にがんばりましょうねっ、チセりん!」
「お気遣い感謝します若奥様。歴史は浅いとは言え我が依施間家は代々、凍鴉楼を管理するタイプキキーモラを家長に据えるべく殿方の御助力を得て来た家系です。いずれ旦那様にもご協力をいただきますので、是非よろしくお願いします」
感謝の意を表してシアラに頭を下げたチセリが顔を上げると同時に鋭時に向けて獣のような眼光を放ち、それに気付いたミサヲが呆れ顔で笑う。
「なんだよ、言葉を替えても結局やること変わらないじゃないか」
「あら? 乙女はみんなオオカミでしてよ? マキナ様の方も準備が終わったようですので、私は手伝いに行ってまいりますね」
呆れるミサヲにとぼけるような微笑みを返したチセリは、店の奥の方に向かってにおいを嗅ぐように鼻を数回動かしてから席を立った。
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「ミサヲさんのお陰で助かったぜ……シアラも楽しそうにしてるし、とりあえずは安心かな……」
ミサヲとシアラのフォローでチセリの興味から逃れる事の出来た鋭時がようやく枡の半分まで辿り着いて安堵のため息をつくと、同じく枡を半分まで空けたドクが楽しそうに話し出す。
「タイプキキーモラはタイプサキュバスと同じく女性だけの種別、お互い通じ合うものがあるんだろうね」
「マジかよ……!? シアラだけでもどうなるか分からないってのに……」
ドクの言葉に驚いた鋭時が警察署でシアラに求められた無茶な要求を思い出して店の奥へ向かうチセリの後ろ姿を見るが、ゆっくりと振る尻尾の先から誘導されるように付け根へと目が向かってしまい慌てて視線を手元の枡に戻した。
「タイプキキーモラのチセリさんは自分の役割を凍鴉楼の管理人と、その後継者の育成としてるからね。レアケースを引かない限り鋭時君に無理は言って来ないよ」
「後継者……? この流れだと募集をかけるわけじゃないよな……」
落ち着き払って説明を続けるドクに鋭時が頭を掻きながら苦笑して聞き返すと、ドクはさも当然のごとく頷く。
「鋭時君のご想像通りだよ、タイプキキーモラは自分の娘を後継者に育てるんだ。もちろん、役割を果たすには鋭時君の協力が必要不可欠だけどね」
「やっぱりそうだよな……早く事情を説明しておかないと」
「そうだね。チセリさんも戻って来たし、おいおい説明するよ」
頭を掻く手を止めて大きく項垂れる鋭時にドクも同意して頷き、皿やどんぶりを載せた盆を持って来たマキナとチセリの方へ顔を向けた。
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「お待たせみんな、あり合わせで悪いけど食べとくれよ」
俵型に整えられた稲荷寿司を並べた大皿をテーブルの真ん中に置いてから醤油と鰹出汁の香り漂う蕎麦のどんぶりを鋭時とシアラの前に置いたマキナが微笑むと、アジフライと千切りにしたキャベツを山と載せた大皿を稲荷寿司の隣に置いてから蕎麦のどんぶりをドクとミサヲの前に置いたチセリがしばしテーブルの上の料理を見回してからマキナに顔を向ける。
「ところでマキナ様。このような時間では難しいのが承知の上ではございますが、旦那様にはもっと精の付くものをお出ししないと」
「それなんだけどね、ドクから止められてんだよ」
「ドクターが? いったいどのような理由でしょう?」
マキナに苦言を軽くいなされたチセリは、怪訝な表情でドクを眺める。
「あー……少し落ち着いてくれないかな、チセリさん? すまないがレーコさん、鋭時君の事情をチセリさんにも説明してくれないかな?」
「かしこまりましたマスター。ではチセリさん、事情を説明しますので少々お時間よろしいでしょうか?」
ただならぬ気配に身をすくめたドクがレーコさんに説明を頼むと、レーコさんはチセリの前に移動して微笑みの表情を表示する。
「聞いておきなよチセリちゃん、こっちはもう大丈夫だからさ。ほら他のみんなは早くお食べ、せっかくの料理が冷めちまうよ」
「分かりましたマキナ様。ではレーコさん、ご説明をお願いします」
マキナに促されたチセリが眼鏡に手を掛けながら席に着き、マキナは2枚の盆を手に取って店の奥に入って行った。
「シアラも鋭時も腹減っただろ? この時間ならチセリも晩飯済ませてるんだし、遠慮無く食えよ」
「いっただきまーっす」
大皿から稲荷寿司とアジフライを手早く箸に取ってから自分の取り皿へと移したミサヲに続いてシアラも同じように料理を取って食べ始め、小さく安堵した鋭時も取り皿に稲荷寿司を載せる。
「それじゃあいただきます」
箸を親指同士で挟んで小声で手を合わせた鋭時が箸を持ち直して稲荷寿司を口に運ぶと同時に噛み千切った薄い油揚げから甘辛い醤油の味がジュワっと染み渡り、ほろりと崩れた酢飯の程よい酸味が後を追うように広がる。
しばらく酢飯と油揚げを咀嚼して味を楽しんだ鋭時は、枡に残った冥酒樽灘からさらに半分ほど流し込んで箸に持った残りの稲荷寿司も口に入れた。
「いい飲みっぷりだな鋭時、もう一杯どうだ?」
「美味いけど、さすがに打ち止めですよ。それほど強くないのも思い出したし」
口に入れた稲荷寿司と共に枡の残りの酒も流し込んで空にした鋭時がぎこちなく笑いながら追加の酒を断ると、ミサヲは残念そうな顔をする。
「そうか、無理強いはあたしの趣味じゃないしチセリの話が終わったタイミングでマキナ母さんに頼むよ、とりあえずウーロン茶でいいか?」
「そうですね、それでお願いします」
レーコさんの説明を聞くチセリの方へと目を向けたミサヲが笑顔に戻り、鋭時も釣られて微笑んでから目の前のどんぶりを手に取り近付けた。
鋭時が覗いたどんぶりの中には鰹出汁と醤油の香りが際立つ黒いつゆに三角形の油揚げと薄切りのかまぼこが浮かび、脇に刻んだ長ネギとワカメが盛られている。
テーブルに置いてあった七味唐辛子を軽く振り掛けてから箸で軽く混ぜた蕎麦を掴んで勢いよく啜ると、つゆの香りと唐辛子のほのかな辛みが口の中を駆け抜けて鋭時は少し顔をほころばせた。
「どうしました、教授っ?」
「何て言うか、温かい食事を久しく取ってなかったのを思い出してね……ちょっと嬉しくなったんだ」
心配そうに顔を覗き込んで来たシアラに、蕎麦を啜り終えてひと息ついた鋭時は氷解したような温かな笑顔を浮かべる。
「まあ、そのような仕打ちまでも……ですが凍鴉楼ではシショクの願いに誓って私が旦那様と若奥様のお世話をいたしますから、ご安心ください」
「おぅわっ!? チセリさんか……もう話は終わったのか?」
突然上から聞こえて来た声に鋭時が大袈裟に驚くと、近くに立つチセリが静かにお辞儀した。
「はい、レーコさんから詳しい事情をお聞きしました。でもまさか彷徨う秘宝が、忘却刑などというむごい仕打ちを受けた殿方だったとは思いもしませんでした」
「彷徨う秘宝?」
極力笑みを保ちながらも複雑な表情を浮かべるチセリに、鋭時が初めて耳にした言葉を聞き返す。
「人間の少ない居住区に突如現れる殿方の噂……と言えばよろしいのでしょうか、いわゆる都市伝説のようなものです。私は真っ先にその噂を思い出しましたが、ドクターからお聞きになりませんでしたか?」
「いや……全くの初耳だ、色々あったから聞きそびれただけかもしれないな……」
あり得ない事態に驚くチセリと助け船を求める鋭時の視線を感じたドクは、枡を急いで空にしてから口を開いた。
「ごめんねチセリさん、すっかり失念してたよ。それにさ、近付いたら避ける上に捕まえたら消えてしまう人間なんて記録はもちろん噂も残ってないから、鋭時君は彷徨う秘宝とは違うと思ったんだ」
「ドクターの分析でしたら間違いありませんね、噂の謎がひとつ解き明かされたと思いましたのに少々残念です」
赤く染まった顔で、それでも冷静に自身の考えを説明するドクに、チセリは顔と尻尾を少し沈めて頷く。
「チセリの噂好きも相変わらずだな~、また何か面白い話でも仕入れたら聞かせてやるから気を落とすなよ」
「お気遣いありがとうございますミサヲお嬢様、でも無理はなさいませぬように」
「分かってるよ、チセリ。おーいマキナ母さーん、酒のおかわりもらえるかー? あと、鋭時にウーロン茶頼むよ!」
楽しそうに笑うミサヲにチセリが柔らかい仕草でお辞儀を返してから席に戻り、話がひと段落したと判断したミサヲは空になった枡を持ち上げながら店の奥にいるマキナに注文した。
「ところでミサちゃんとチセりんってどういう関係なんですかっ? ミサちゃん、お嬢様って呼ばれてたみたいですけどっ?」
「あたし達が家族でここに越して来た時に先代の管理人が親父に出逢ったんだよ、まあ簡単に言えばチセリはあたしの妹だな。ちなみにマキナ母さんもここで親父と出逢ったんだぜ」
「まあ……妹などと過分なお言葉、私はあくまで凍鴉楼の管理人にして使用人。宜洋様の約束に従ってミサヲお嬢様のお世話をするだけでございます」
ミサヲがシアラの疑問に簡略な説明をすると、チセリが少し俯いてから手を胸に当ててミサヲを真っ直ぐ見つめる。
「なあチセリ、親父はもうここにいないんだ。いつまでも約束に囚われてないで、あたしをお姉ちゃんと呼んでくれていいんだぜ?」
「でしたらもう少し姉らしくしてくださいまし、ミサヲお嬢様」
ため息をついてから頭を掻くミサヲに、チセリは涼しい顔で微笑んだ。
「うっ……相変わらず痛いとこ突いて来るなあ、昔はもっと可愛かったのによ……いや、昔からああだったか……?」
「あなたたちも相変わらずねえ、ほらおかわり持って来たよ。こんな娘達だけど、シアラちゃんも仲良くしてやってくれないかい?」
自分の胸を押し上げるように腕を組んで考え込むミサヲの前に呆れ顔のマキナが酒の入った枡を置き、そのままシアラの方を向いてため息交じりに軽く微笑む。
「もちろんですっ! 教授を好きならわたしとお揃いですからっ!」
「まあ若奥様ったら……私も旦那様に全力で尽くすとお約束いたしますね」
「やれやれ、こういうところはシアラにはかなわないな……」
無邪気な笑顔を浮かべるシアラにチセリは手を口に当てて小さく笑い、ミサヲは頭を掻いて小さくため息をつきながら新しい枡を両手で持ち上げ、縁に口を当てて静かに酒を流し入れた。
「どうした鋭時? ボーっとして」
「え? ああ、こう言っては失礼かもしれないけど奇麗な飲み方だな、と思って」
視線に気付いたミサヲが鋭時の方に顔を向けると、鋭時は視線から逃げるように慌てて俯く。
「奇麗な飲み方か……お袋達に厳しく躾けられた意味が分かった気がするぜ」
「ええ、私も旦那様に出逢って、初めて躾の意味を実感出来た気がします」
手にした枡に入った酒に目を落として感慨深く呟いたミサヲにチセリも同意し、戸惑うばかりの鋭時の顔を恍惚とした表情で見つめた。
「え? 俺、またなんか変なこと言ったのか……?」
「そんな顔すんなよ鋭時。あたし達は小さい頃からお袋達に『ジゅう人はこっちの世界では化け物同然だが心は人間に寄り添ってる、だから日頃の立ち居振る舞いに注意して心まで化け物になるな』って何度も言われて育ったんだ」
予期せぬ反応に慌てて考え込む鋭時にミサヲが嬉しそうな笑みを浮かべて理由を説明すると、シアラも身を乗り出し話題に参加する。
「それ、わたしも両親から言われましたっ! どこも同じなんですね~っ」
「『郷に入れば郷に従え』おそらく私達の祖先が住んでいた世界にも同じような言葉があったのでしょう」
「そのせいなのかブローカーに一銭も入らなかったせいかは知らないけど、利害が対極に位置する関係者やメディアに様々な憎悪を向けられたりもしたらしいんだ」
シアラの言葉に同意するように頷くチセリとドクの説明に、鋭時は戸惑いながら頷いた。
「こっちの世界に飛ばされた影響で独自の文化を失ったとは聞いたけど、ここまで溶け込む努力をしてくれてるなんて……逆に申し訳なくなる気分だよ……」
「そんな事は無いさ。ご先祖様にどんな事情があったとしても、こっちの人達から見たら呼んでもないのに外から来た人に違い無いからねえ。元から住んでる人達に迷惑掛けないように、ジゅう人がこっちの国の生活に合わせるのは当然の話だし、仮に迷惑掛けて国を追い出されても文句言える立場じゃないよ」
恐縮気味に呟く鋭時にマキナがウーロン茶の入ったグラスを差し出して微笑み、チセリも柔らかく微笑みかける。
「それに食べ方の汚いジゅう人を見たら、殿方も食べたくなくなるでしょう?」
「だから返答に困るような聞き方しないでくれよ……」
微笑みつつも肉食獣のような眼光を湛えながら艶やかな唇の上を舐め回すようにさりげなく舌なめずりしたチセリに、鋭時は慌てて蕎麦のどんぶりを手元に寄せて箸を手に取った。
「と、とにかく今は食事だ。記憶の限りでは今日はまだ何も食ってなかったから、何をするにもまずは腹拵えだ」
「かしこまりました、旦那様の三大欲求を順に満たすのも私の役目ですので」
「いや、だから……!!……」
思わず箸を止めた鋭時がチセリの方へ振り向くが、そのまま吸い込まれるようにチセリが身に付けた白いエプロンにリンゴを横に2つ並べ入れたように押し上げて膨らむ稜線に視線が向かってしまって逃げるように慌ててどんぶりに入った蕎麦に目を落とした。
「教授っ、どうかしましたかっ?」
「な、何でもないから! それよりシアラもたくさん食べてくれよ、今日はロクに食事も取れないまま色々連れ回して悪かったからな……」
間に座って鋭時とチセリのやり取りを見ていたシアラが唐突に身を乗り出して、鋭時は目を逸らしながら必死に誤魔化す。
「そうですねっ、まずお食事ですっ! 教授もたくさん食べて、丈夫な体を作ってくださいねっ」
「ははっ……思惑は何となく見えるが今は素直に受け取るよ、ありがとなシアラ」
誤魔化す鋭時を元気付けるように微笑んだシアラが大皿から1枚のアジフライを鋭時の取り皿に載せ、受け取った鋭時は複雑な表情を浮かべて礼を言いつつ大皿の端に盛られた辛子を箸で掬ってアジフライに塗ってからソースをかけて齧り付く。
齧った瞬間にフライの衣がサクッと音を立て、噛みしめるたびにソースと辛子の味がふわりとした食感の鯵の旨味と混ざり合って衣のサクサクした歯ごたえと共に口の中で広がった。
(こいつはいけるな)
複雑に絡み合った味の余韻を楽しみながらアジフライを飲み込んだ鋭時はさらにひと口ふた口と齧っては噛みしめて飲み込み、時折ウーロン茶や千切りキャベツを交えて食べ続けてとうとう取り皿に尻尾を残すのみとなった。
「いい食べっぷりだねえ、おかわり持って来ようかい?」
「お気遣いはありがたいけど、俺はたぶん大丈夫です。今は勢いよく食べたけど、どうやらそこまで大食いじゃなかったみたいで……ここにある分で充分足ります」
「そうなのかい……でも今日食べただけでそこまで思い出せたんだろう? 今夜は機械を止めてたから作り置きしか出せなかったけど、普段は他に色々出せるんだ。よかったらこれからもご贔屓に頼んだよ」
体内に食物を取り込んだ事で普段の食事量を思い出した鋭時がぎこちなく笑って追加分を断ると、隣のテーブルに座ったマキナは手を招くように上下に振りながら優しく笑った。
「ドサマギで宣伝とは、相変わらずマキナ母さんは商売が上手いよ」
「ここ最近、客の入りが渋かったからね。鋭時くんが常連になれば客も増えるってもんだよ」
半ば呆れるように感心するミサヲに嬉しそうに笑ったマキナのやり取りを聞いた鋭時は引っ掛かりを覚え、そのまま首を傾げる。
「人間が珍しいのは分かるけど、それだけで客が増えるものなのか……?」
「A因子の強い人間に近付くとジゅう人のN因子も活性化すると信じられてんだ、鋭時君がいるだけで男女問わず客が増えて商売繁盛間違いなしだよ」
疑問に答えたドクに鋭時は重ねて質問する。
「じゃあドクも?」
「とりあえずそういう事にしてるけど、タイプレプラコーンのN因子が活性化した記録は無いからね。ボクはあくまで知的好奇心優先だ」
一瞬難しい表情を浮かべたドクだが、すぐに飄々とした表情で質問に答えながらアジフライを蕎麦のどんぶりに入れた。
「ああ、これはちょっとした裏メニューだよ。鋭時君もどうだい、何か思い出せるかもよ?」
不思議そうに眺める鋭時に涼しい顔で答えてから黒いつゆの染みたアジフライを齧るドクを見たマキナは、呆れた顔でため息をつく。
「何言ってんだい、そんな食べ方するのはあんたくらいなもんだよ。そんな事よりお客が戻って来る方法でも考えてくれないかい?」
「それなら多分数日中には戻って来るはずだ、しばらくは上がりを掠め取る奴等も出て来ないだろうし」
「上がりを……? まさか鬼畜中抜きが出てたのかい!?」
含みを持たせたドクの言葉にマキナが驚いて聞き返すと、代わりに答えるようにミサヲが頭を掻いた。
「ああ、ウラホがね……誰に吹き込まれたのか、多くの手下を連れてたんだ……」
「ミサヲお嬢様を姉と慕っていたウラホ様が!? 俄かには信じられません……」
驚きのあまりチセリが両手を口に当てて呟くと、マキナは小さくため息をつく。
「もうチセリちゃんも覚醒したから分かるでしょう? ジゅう人ってのは出逢った人間次第でいくらでも変わっちまうもんなんだよ」
「ええ、旦那様のようなお優しい方に出逢えた幸運には感謝の言葉もありません。それにしても皆様よくご無事で……」
マキナの言葉で覚醒した自分の中に広がる温かい感情を自覚したチセリは、胸に手を当てて静かに頷いてから鋭時達を見回した。
「ウラホが半覚醒していて手を焼いたんだけど、シアラと鋭時のおかげでどうにか退けたよ。あたしのケガもシアラが治してくれたんだぜ」
「左様でございましたか。マキナ様、少々キッチンをお借りしますね」
「あいよ。分かってるとは思うけど、あまり汚さないでおくれよ」
嬉しそうにジャンパーの右袖を捲ったミサヲの腕を眺めていたチセリはしばらく考えてから席を立ち、マキナは軽く答えてキッチンに行ったチセリに手を振った。
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「よろしかったらこれをどうぞ若奥様。話を聞く限りですと当面の間は旦那様から飲ませていただけないようですし、これで少しは魔力の足しになるかと」
「ありがとうございますっ、チセりん!」
しばらくしてから店内に戻って来たチセリはホットミルクの入ったマグカップをシアラの前に差し出し、シアラは満面の笑みを浮かべて礼を言う。
「なんか悪いなチセリさん、それは何か特別なものが入ってるのか?」
「そういえば旦那様は記憶が無いのですね、記憶が戻ったらきっとわかりますよ」
質問に対してはぐらかすようにチセリが優しく微笑むと、鋭時は顎に手を当てて下を向いた。
「記憶か……手掛かりを考えれば、やっぱり掃除屋になるべきだよな……」
「はい? 旦那様が掃除屋になるとはどういう事でしょう?」
鋭時の呟きを聞いたチセリの耳と尻尾の毛が突如逆立ち始め、吹き上がる感情を抑えるような冷たい微笑みを浮かべて鋭時に向かって詰め寄り出した。