なし
なし
17
「今日はお疲れ様、望くん。よく頑張ったね」
アズラエルの言葉に、望は重心を傾けて窓に頭をくっつつけたまま、目線だけを左下に動かした。
「アズくんは、どうやって彼の心に届いたの?」
「六年ぐらい前に、一度彼を祓おうとしたんだけど、その時は理由が分からなくて逃してしまったんだ。だけど、間も無くして取り憑かれていた女の子が気力を取り戻したから、理由を聞いてみたら、両親が仲直りしたからだって教えてくれて。調べる内に、その子が通う小学校で過去に男子児童が自殺していた事と、スクールカウンセラーに『自分が死んだら家族は元に戻るんじゃないか』と相談していたことが分かった。それで今日、二度目の再会を果たしたって流れ」
「渚沙さんは、どうして自分で分からなかったんだろう」
「家族の為なら命さえ惜しまない、言わば究極の自己犠牲。加害者意識に支配されていた彼女には、気付くことができなかったんだろう。というよりはむしろ、認められなかった、と言った方が、正しいのかもしれないね」
「あの悪霊は、どんな子だったんだろう……」
「寡黙で共同作業が苦手な子だったって話してたよ。でも、よく飼育小屋の動物に餌を上げていたり、同級生の落し物を日が暮れるまでずっと一緒に探してくれたり、本当はとても優しい子だったって」
「……シェオルに堕ちた人たちは、どうなるの?」
「知ってるはずだよ? 未来永劫、火に焼かれる。強烈な痛みを与えられながら、死ぬこともできない。……仕方ないさ。セオス様は義なるお方だから、不正を許す訳にはいかない」アズラエルは左手の中指で眼鏡を上げる。「セオス様は全ての人を愛し、全ての人に救いの道を用意している。なのに、人間は心の赴くままにその愛の恵を拒否して、死を選んでしまった。セオス様はきっと、涙を流しながら裏切り者を裁いてるよ」
「どうして……。どうしてセオス様は、こんな世界を作ったの? どうして人間を、こんなに弱く作ったんだろう」
「人間を作ったのは、遥か昔の天使達だ。天使は神のような力は持っていないからね、破綻した世界ができてしまった。元を辿れば、全ては月の管理者、セレネの罪……」
「それでも、セオス様は全知全能なんでしょ? じゃあ、今すぐこの世界を変えることだって、悪霊達を救ってあげることだって、できるはずなのに……」
「太陽神様の偉大なるお考えは、僕達ごときの小さな脳味噌では理解できないよ。」
「……」
「『太陽神様の愛を、疑うことなく信じ続ける』それが僕たちの役目であり、天国に通じる、たった一つの道……そうだろ?」
「……」
アズラエルは平常通り、緩く微笑んでいる。怒り、迷い、自制、信仰、常識、従順、反駁……不条理。望の心は混沌とした。アズラエルが彼の頭を撫でる。
「疑うことは自殺にも匹敵する罪だよ。信じよう。セオス様にはご計画がおありなのさ。僕たちを救うための、素晴らしい計画がね……」
第三章
18
金曜日の夜。渚沙は中学一年生の頃を思い返していた。まだクラス委員絡みの事務的な会話以外した事の無かった勇志と、春の終わりに初めて普通の会話をした日のこと。
前夜の強風を受けて体育館裏の花壇が荒れていることに気が付いた渚沙は、放課後、一人で片付けをしていた。その時、後ろから、キィっと自転車にブレーキがかかる音と同時に、「何してんの?」と、男性の声が聞こえてきて、振り返ると、裏門の柵扉の向こう側に驚いた様相の梶谷勇志がいた。部活帰りなのだろう。汗で髪まで濡れており、首にタオルを巻いている。
「昨日、風凄かったでしょ。植木鉢とか倒れて、散らかってたから」
渚沙は再び勇志に背を向けて腰を曲げ、軍手をした手でプランターを起こすと、土を両手で掬って戻し始めた。
「じゃなくて、なんでそれを委員長がやってんの?」
「えー? 先生たち忙しそうだったから。私からやりますって言ったの。気にしない、でっ」立ち上がりながら返事をして、次のプランターを持ち上げようとした時、重く深い溜息が鼓膜に流れてきた。
「な、何?」笑みを保ちつつ、口を尖らせながら振り向く渚沙。
勇志はぶら提灯のように首を倒した状態で、顔だけをこちらに向けた。眉を思い切りハの字に歪め、小憎たらしい薄目で見てくる。「今日の練習はいつもよりハードで、すげー疲れた」
「そうなんだ、お疲れ様」
「そんなときに無理していい子ぶってるクラスメイトを見て、つい、溜息が溢れてしまった」
「……それ私のこと?」渚沙は両方の口角を上げながら、眉で瞼を押した。
「他に誰かいる?」
「……私は別に無理してないし、いい子ぶってもいません」
「友達にも本音を言えない癖に?」
「言えてますけど」
「そうは見えねーよ」彼は言葉を放るように、語尾を高くした。
「いきなり何? なんでそんなこと、梶谷に言われなきゃなんないわけ?」さすがの渚沙も不快感を露わにする。喧嘩の構えを見せる渚沙をスルーして、勇志は自転車を停めると、柵扉を乗り越えて裏庭に着地。そのまま倒れたプランターに手を掛けた。手伝おうとする勇志に、渚沙は「い、いいよ、一人でやるから」と言って止めようする。しかし、彼は何も言わず、無言で作業を続けた。
「……あ、ありが」とう、と言い掛けた時、勇志が「わぁぁ虫!」と叫んで緑色の物体を渚沙の足元に投げてきた。
「ちょ、やだぁ!」足をバタつかせて後退する渚沙。「……ってこれ、コバンソウじゃん!」
「へー、そういう名前なんだ、コレ」雑草の小穂を指で掴み、まじまじと見つめる勇志。
「もう! 小学生か!」
渚沙が怒ると、勇志は声を上げて笑った。「さっさと片付けちまおうぜ」腰を落として、素手で片付けをしながら口元に笑みを浮かべる。その端正な横顔に、渚沙は生まれて初めて、心に陽が当たるような、白いさざ波が清澄な空の下で煌めくような、決して何物にも代えられない唯一無二の幸福と、畏れを感じた。
(梶谷は、優しい……)病院まで駆け付けてくれた。『ごめん』と謝ってくれた。『お前の人生はお前のもの』『このまま終わるなんて、悔し過ぎんだろ』あの時の、優しい声。苦しいほど、恋しい。
(私、やっぱり梶谷のこと……大好きだ)
土曜日。十六時三十分。
海はクラゲが出るから辞めたほうがいいんじゃないかと、暁良から望と同居する自宅へと招待された三人は、渚沙が一番乗りで校門前に到着。午前中に眼科へ駆け込みコンタクトレンズに挑戦した彼女は、前髪も不慣れなヘアアイロンで軽く右に流し、いつもは輪郭を覆っていた横髪も耳に掛けている。
服装は掌が隠れる長さの灰色のボーダーシャツに、新しく買ったベージュのサロペットスカート。普段は制服でしか出さない生脚を出して、白い折り返しフリルソックスと、赤いスニーカーを合わせている。
祖母からは大絶賛を貰ったイメージチェンジ
。勇志はどのような反応をするだろうか。胸を高ぶらせながら待つこと数分。先に現れたのは、学校とは異なる雰囲気を纏う西園寺陽香だった。秋らしい黒色タートルネックの長袖、茜色のチェック柄ロングスカートに、ブラウンカラーのレースアップブーツ。緩く巻いた髪を三つ編みのハーフアップにして、二本の赤いリボンを重ねて蝶々結びにしている。その姿はいつにも増して上品で、同性の渚沙でさえ見惚れてしまうほど可愛らしい。待ち合わせ時間の午後五時丁度に勇志が合流。至極シンプルなグレーパーカーに、ネイビー色のデニムジーンズ、黒スニーカーとラフスタイルの彼は、渚沙の懸念通り、頭の中を陽香が占拠していると、傍目からでも分かるほどだった。
やがて、一台のワンボックスカーが三人の前で停車。運転席の窓が開いて、暁良が肘を置いて顔を出す。
「ごめんね、お待たせ。よくよく考えたら僕の車四人乗りだったから、急遽レンタカーを借りに行ってたら遅くなっちゃった」困り顔で笑う暁良。助手席から望も申し訳無さそうな顔で覗いている。
「すみません、至れり尽くせりで……。ありがとうございます」
そうして、女子二人が真ん中、後部座席に勇志一人で座った。
彼らが暮らすのは小高い丘の上にある白壁の平家で、青色のドアに真っ白なアーチ型窓、オレンジ屋根のドーマーが何ともメルヘンチックだ。こじんまりとした家に反して庭は広く、大きなモミの木が、黄金色の夕焼けを侵食しようとするコバルトブルーの空に、黒いシルエットを描いている。
「大方の準備は済ませてあるから。陽香ちゃん、食材運ぶの手伝ってもらってもいいかな?」
「はい」望に誘導されて、陽香は玄関の方へ向かった。
「渚沙ちゃんと勇志くんは、袋からコップとか出しといてくれる? 買ったまま置きっぱなしだから」眉を下げて笑う暁良は、黒のチノパンツに五分袖のくすんだ薄緑色のシャツを着ている。首元の小さなVネックが仄かに大人の色気を放つ。
「はい! ありがとうございます」笑顔で頬を染める渚沙。三人が家に入ると、勇志が声を掛けて来た。
「何をニヤニヤしてんの」
「えー? だって素敵じゃない、暁良さん。大人の男性って感じで。憧れるなぁ」
「告っちゃえば?」
サラリと言い放って、バーベキューグリルとテーブルの方へ歩いて行く。軽いノリで言ったのだろうが、渚沙の胸はチクンと痛んだ。
「そんなんじゃないから……!」声を張る彼女に、「冗談だよ」と若干驚きを含めて笑う勇志。渚沙はタイフーンのように心を掻き回すモヤモヤを抑えられず、買い物袋から紙コップが詰められた袋を取り出している勇志に、やや強い語調で質問した。
「告白って、そんな軽いものなの? 梶谷にとって」
「そんなことはねぇよ」
「……したことあるの?」
「えー?」黒目を右上に動かして思い出を掘り起こそうとする勇志。「ないな」
「今までの彼女は?」
「んー、全員向こうからだった」袋を開けて、紙コップを四つ取り出す。
改めて梶谷勇志がモテる事を再認識した渚沙は、迂闊に怒りを出したがために、先程よりも深刻なダメージを負うことになった。思い返せば、元カノ達は例外無く他クラスにもファンがいるような可愛い子ばかり。分かってはいたつもりだが、男女としての格の違いを痛感し、渚沙は意気消沈した。
「……なんで、別れちゃったの?」
「フラれた。全部」
「えっ! な、なんで?」
「部活とか勉強で忙しかったし。あんまデート出来なくて、電話もメールも面倒だーって言ったら、フラれた」
「そりゃそうなるわ……。本当に、好きだったの?」
「んー……」
「悩むの?」恐怖と驚きを混ぜた高い音が渚沙の声帯を震わせる。
「いやぁ。好きだっ、た、よ? けど、なんっつーのかなぁ」机の端に置かれていたタオルを広げて、足下のクーラーボックスを開ける。キンキンに冷えた2リットルペットボトルの中から先ずはコーラを取り出して、音を立てないよう、そっと置いた。「怖かった。って言うか、嫉妬?」
「どういうこと?」
「なんか、みんなキラキラしててさ。ちっちぇーことで笑って怒って喜んで泣いて。俺とは住んでる世界が違うんだなーって」
そう語る彼の表情は、一見冷めているようで、瞳の奥には得も言われぬ寂しさがあった。
「そう、なんだ……」憤りや恐怖に代わって、渚沙の心にムズムズするような愛が震える。
「お待たせ〜」
そこへ、三人が肉や野菜を運んできた。勇志は「おお〜!」と声を上げて拍手。「すーげー。これ牛タンですか?」
「うん。ネギ塩ダレも作ってみたよ。お口に合えばいいけど」
「アズ君の特製ダレすごく美味しいですよ!」頬を赤くして喜色を顕にする望。
「あざーす」勇志は中学生の頃と同じ、社交的な笑顔で応えた。渚沙は長い学校生活を共に歩んだ彼が、霧中の奥で、手を伸ばしても裾の端を掴むことさえ出来ないほど遠くに感じ、目蓋を微かに落としながら見つめる。
(私、梶谷のこと、何も知らないんだな……)
カップホルダー付きの折り畳みチェアに腰掛け、熱々の肉に息を吹いて頬張ろうとした時、グリルの横で一人焼いてくれている暁良から尋ねられた。
「渚沙ちゃん、あれから調子はどう?」
ハラミを挟んでいる割り箸の先を、紙皿に置いて答える。
「あの日以来、母とは会ってません。荷物も段ボールで送ってくれて……」母の気持ちを思うと、まだ胸が痛む。掻き消すように気持ちを切り替えて、彼女は笑った。「今は、おばあちゃんとココアと楽しくやってます。あ、ココアっていうのはおばあちゃんが飼ってるダックスフンドで、人懐っこくてすんごく可愛いんです!」
暁良は破顔一笑して、「本当に楽しそうで何より」と言いながらこめかみの汗を拭った。頬を染める渚沙。
「あの時は、みんな、本当にごめんなさい。感謝しても仕切れないぐらい、感謝してる。私……逃げてた頃は、現実が姿のない怪物みたいで、怖かった。でも今は、ちゃんと見えるようになった気がするの。世界の色とか、風とか、匂いとか。本当はこんなに、綺麗なものだったんだなって」
秋の夜風は、少し冷たい。芳ばしい肉の香りを運んでくる煙の熱気が丁度良い。バックグラウンドでは、鈴虫の音色が枯葉色の風情を奏でている。
「すごいな、委員長は」不意に、我先にと焼き立てを貰うため皿を持ったまま立っている勇志に褒められ、ドキンと反応した心臓が余韻のように鼓動を速めた。
「わ、私は全然だよ。みんなの支えが無かったら……」
ーー死んでいたかも知れない
「覚悟を決めたのも、行動したのも委員長だろ」勇志が微笑む。「なんか、雰囲気も変わったよな」
「あ、うん。コンタクトにしてみたんだけど……」
さらに高鳴る鼓動。ただ、勇志に可愛いと思われたい一心で、眼球に指を突っ込んで異物を黒目に貼るという恐怖を乗り越えたのだ。
(どう? どう思う? 梶谷……)
「さ、西園寺さんも、いつもと違うよな」
話題は劇的に軌道を変えて、陽香のことへと転換した。そのうえ先程の円転滑脱な言い方とは違い、やや吃りながらも、必死に“さり気なく”話しかけようとしている。
「僕も思いました! すごく大人っぽいですよね」
勇志の隣で肉を待つ望が便乗して同意を示した途端、陽香は顔を赤くして、既に耳の後ろに収まっている髪を右手で梳かし、耳にかけるような動作をした。しかし、望は陽香よりも勇志が気になるようで、「そうだよな」と懸命にニヤケる頬を抑えながら顔を覗く勇志に、嬉しそうに肯いている。
「今日は、巻いてみたの。友達とバーベキューなんて初めてだから、どんな格好したらいいのか分からなくて。とにかく小綺麗な格好の方がいいかと思ったんだけど、なんだか場違いだったね……」眉を下げて笑う陽香。瞳を潤わせながら恥ずかしそうにする姿は、呆れるほど可愛い。
「いや、い、いいコーディネートだと思う、俺は」勇志はあくまでも”さり気なく”彼女を褒める。
「ありがとう……」残念ながら、彼の意見には大して心を動かされていないようで、陽香は若干戸惑いを浮かべながらお礼を言った。
一瞬で自分の話題が終了した事に、渚沙はがくんと首を落とし、悟りを開いたような目で自嘲的に笑った。
19
繋がったばかりの不安定な絆。曖昧な友情を、白い月が天空から見守っている。
「ねえ、望くん」
陽香は渚沙の声に反応して、望より早く視線を向けた。渚沙は勇志の横に立つ望に手招きをして、耳元でこっそりと話した。前屈みになって耳を澄ませる望。水色のジーンズは可愛いらしいが、ゆったりした黒の長袖に白シャツを重ねている姿は、普段の清廉潔白で穏和な彼とはズレていて、やんちゃな男の子のようだ。
「望くん、霊能者の家系だって前に話してくれたでしょ? つまりさ、暁良さんも幽霊が見えるってこと?」
「えーっとー……。はい。そうですね」望は唇を結んだ。そして、暁良の方に顔を上げ、「ねっ! アズくん!」と、強く同意を促した。
「アズくんも、霊感強いですよね」ぎこちない笑顔で何かを訴えるように熱視線を送る望。嘘が苦手な彼は、真実を秘匿しなければならない話題をバトンタッチしたかったのだろうと、陽香は思った。
「ああ、うん。僕も御祓の方法とか、悪霊についてはよく知ってるよ」暁良は僅かな動揺も見せず、変わらぬ微笑で答える。
「すげぇっすよねー。俺、初めて会いましたもん」
「私も。しかも、あんな、人間離れした形態のお化けがいるなんて、思いもしなかった……」
「委員長のはどんな見た目だったの?」
「まさに、『悪魔』って感じ……。梶谷は? 違うの?」
「俺が見たのは、あんま食事中に思い出すようなもんじゃねぇな……。だけど普通に、人間だったよ。長い年月現世に留まると、異形になるって言ってたよな、望」
「は、はい。異形になると、完全に人の心を失ってしまうので、魔力も強大になってしまいます」
「悪霊の強さって、時間だけで決まるのか? それとも、殺した人数に比例して強くなる、とか、シリアルキラーみたいな、狂気度によって変わる、とかあんの?」
「基本的には、同じだよ」暁良が答える。
「それって、例外もあるってことですか?」渚沙が問う。
「うーん、そうだなぁ。会ったことはないけど、もしも、僕や望くんみたいに、霊能力のある人間が悪霊になったら、厄介だろうね」暁良は微笑を崩さない。それどころか、口の端を上げ白い歯を覗かせた。
単なるブラックジョークのつもりなのだろうが、望は幽かに眉根を寄せて、大きな碧い瞳には混沌とした哀切が揺れている。昨日の車内でも似たような動揺が見られたことを、陽香は思い出した。
「どうして悪霊は、人々を道連れにしようとするんでしょうか? それって、その人自身の問題じゃなくて、悪霊の性質ってことですよね?」
「鋭いね、渚沙ちゃん。そう、悪霊になれば、どんな優しい人間でも呪いを振り撒く。それすらも、罰なのかもしれないね」
「罰……?」
「そう。天罰。絶望したことが、神のお怒りに触れたのかも知れない。希望を信じなかった罰として、人を呪い、忌むべき存在と扱われ、最期はシェオルの炎で永遠に焼かれる」
「シェオル、って何ですか?」勇志が恐々として聞く。
「地獄だよ。僕たちの間ではシェオルと呼ぶんだ」
「そうなんすね……」
かつて人間だった者たちの無慈悲な結末を思い、四人はすっかり消沈してしまった。
「あはは。ごめんごめん。暗い話になっちゃったね。せっかくのバーベキューだし、楽しもっか」暁良は眉を下げて笑う。
「そ、そうだね! あの、梶谷くんは、家ではどういう風に過ごしてるんですか?」望は空気を晴らすためか、話題を変えて勇志に問い掛けた。
「俺はー、携帯いじってるかゲームだな」
「そうなんですね……!」
「てかさ、勇志でいいよ。堅苦しい。もう友達だろ」
その言葉に、望はぱぁっと瞳を輝かせた。
「う、うん! ありがとう! ゆ、勇志……」口角を上げながら頬を染め、遠慮がちに名前を呼ぶ。渚沙が目元を曇らせ引きつった笑顔で問い掛ける。
「望くんって、どんな子が好きなの? いや、からかいたいわけじゃないんだけど、ほら、望くんって、誰に対しても照れてるから、さ……」繕いが綻びて声のトーンが落ち、猜疑的に小さな声になっていく。渚沙の心情を察してか、吹き出す暁良。望は肩を跳ねさせて暁良を見遣った。
「多分、渚沙ちゃんは、望くんが勇志くんのことを好きなんじゃないかって、疑ってるんだと思うよ」眉を下げながら口の端を上げる。望は顔面に驚きを散乱させた。
「ええ!? ち、違います! 僕はただ、かじた、勇志くんと、友達になれたらいいなと……」
勇志はわざとらしく頭を抱えて、真剣味を醸した低音で泣き真似をする。
「ごめん望……。おれ、女の子が好きなんだ……。本当にごめん……」
「ち、違いますよ!? 僕……」勇志の悪ふざけを分かっているのかいないのか、望は切に訴える。陽香は口元に手を当てて、クスクスと笑った。
「じゃあ、どんな子が好きなの?」渚沙は未だ疑惑を晴らせぬ様子で、少し語気を強めた。
「そ、それは……」眉をハの字にして目線を落とし、顔を赤くする。“好きな子“に心当たりがあるようだ。陽香はポーカーフェイスを気取りながら、とくとくと鼓動を速めて望を見つめる。
「希みたいな子だろ?」言い淀む望に、暁良が温柔に、且つ意地悪な笑みを浮かべて代弁した。
「のぞみ?」渚沙が問う。
「望くんの婚約者」
「ちょ! あ、あ、アズくん!」
「あれ? ごめん、内緒だった?」謝罪こそすれ、その笑顔は明らかに故意である。
「そ、そういうわけじゃないけど……。この歳で婚約者なんて、あんまり一般的じゃないし……」
「希は言い広めてるみたいだけどねぇ」
「あれは、アリエ、希はあんまり人の目とか、気にしない人だから……」
「待っ! えっ! 望、婚約者がいんの?」同い年の少年の衝撃的な事実。勇志も渚沙も喫驚している。陽香は、自分の心が泥を被ったように、鈍く沈んでいくのを感じた。
「ぼ、僕だけじゃないですよ!? アズくんにも、というか、僕たちの、家系の決まりというか、伝統というか……」
「じゃあ望くん、別にその子のこと、本気で好きなわけじゃないんだ」渚沙は疑いの灯りが明滅している様子だ。陽香も僅かに光の筋が差したように、望の表情を、言葉を待つ。
「それはないです!」彼らしからぬ強い語調で、はっきりと否定した。「あ、いや、あの……。も、もうこの話はやめませんか?」目を瞑って、顔を紅潮させる望。
「えー、気になるなぁ……。どんな子なのか」渚沙は金粉のように好奇心を散らせている。
「小動物系だよ。望くんの女の子バージョンって感じだから、一目見たらすぐにわかると思うよ」大人らしい思慮深さの持ち主かと思われたが、狼狽る望を気にも留めない様子で、暁良は饒舌に語る。「でも性格は全然違うよね。彼女は豪胆だから」
「アズくん!」よほど気の置けない仲なのだろう。望は箸と皿で両手が塞がっているため、暁良の左肩にコツンと側頭をぶつけた。「もうこの話は終わりにして下さい……! は、陽香さんはどういう男性が好きなんですか?」救いを求めるように、望は陽香に質問を逸らした。陽香の胸中では、先程までの楽しい気分がすっかり消えてしまっている。悪い虫が蠢くような、不快な心拍。
「私は……」その不快の正体が何か分からぬまま、陽香は答えた。「恋って、よく分からない。どんな気持ちなの?」
「だって。望くん教えてよ〜」渚沙がニコニコしながら茶化す。
「もぉ、からかわないでください……。渚沙さんはどう思うんですか?」望は眉を下げて、唇を尖らせた。
「え」ギクリと表情が凍る渚沙。「それは、それは……。あれじゃないっ? 愛が、幸せになってほしいって気持ちだとすれば、恋は……自分が幸せにしたいって気持ち、じゃないっ?」頬をほんのり染めて、肩を竦めて両手を真っ直ぐ伸ばして膝に乗せている。「もし、その人に恋人ができたら、嬉しいけど……寂しい」渚沙は瞳を落とす。「その人が、他の女の子と幸せそうに笑ってるのを見たら、多分、食事も喉を通らなくなるぐらい、心が痛くなる」その瞳には、切なさが滲んでいる
箸が止まっている陽香は、望が『小動物系の女の子』と、幸せそうに笑う姿をイメージした。
ーー嫌だ
(いやだ……? どうして? 婚約者……。結婚? 望くんの、好きな人……)思考がぐるぐると巡る。彼は、庇護欲を刺激する存在であり、放って置けない仲間。そのはずだった。しかし、陽香は心に渦巻く悲しみの暴風雨を、気のせいと見過ごすことは出来なかった。
「ご、ごめんなさい。私、お手洗いに……」陽香は小走りで屋内に入った。灯りの消えた白タイルの玄関。上がり框の縁には朱色の煉瓦が並べられている。窓から差し込む月明かりに反射した塵が、透明な光の中でキラキラと降っている。陽香の瞳から、一雫の涙が落ちた。
「え……?」指で頬を撫でると、確かに濡れている。「どうして……」頭の中に、“他の女の子“と望の笑顔が浮かぶ。手を繋ぐ二人。幸福に包まれる二人。入る余地の無い、隔絶された真っ白な光の向こうにいる二人。
ーー嫌だ
ーー嫌だ
ーー嫌だ!
(……どうして?)
陽香は眉を歪めた。溢れる涙で視界が霞む。目を強く瞑ったが、涙は雨粒のように、淡く、赤く色づく白肌を濡らした。
(私、いつの間に望くんのこと、こんなに好きになってたんだろう……)
ーー望くん
それからも、暁良の婚約者の話や各々の趣味、世間話など他愛もない会話が続いたが、陽香の頭には何も入らなかった。
暁良が用意していたファミリーパックのアイスキャンディーを食べ終え、渚沙の積極的な申し出により全員で片付けに取り掛かる。暁良は網や炭の処理、渚沙と勇志はゴミの分別やテーブルの拭き掃除を担い、陽香は望と共にキッチンで食器を洗うことになった。
肉や野菜を乗せていた大皿をシンクに置いて、望が白い袖を捲ってシングルレバーを上げる。スポンジを濡らし洗剤で泡立てる手元を、陽香は見るともなしに見ていたが、望が皿を洗おうと手に持った時、濡れた手首にぽつぽつと小さな火傷があることに気が付いた。
「望くん、それ……」思わず声を掛ける。
鼻歌を鳴らす少年が、陽香の視線が捉える“痕“を見た時、シンクに陶器がぶつかる音が響いた。咄嗟に皿を手放して、水も泡もお構い無しに、肘元までズラしていた袖を伸ばす望。まるで彼の鼓動を表すかのように、水滴が次々に床を叩いている。
「ぼ、ぼ、僕、アズくんのお手伝いに行ってきます」言い終わらぬ内に、望は扉まで駆けて出て行ってしまった。
誰が見ても、単なる事故では無いと分かる火傷の痕。恐らくタバコを押し付けられたものだろう。一つや二つでは無い。初めて会った時から、少年は不思議なまでに、他者に怯えていた。陽香の心臓が、針の雨に打たれるようにドクドクと高鳴る。絶句した。思い返せば、屋上で見せた彼の濡れた笑顔にも、瞳にも、声にも、温もりにも、全てに凄絶な痛みの傷痕が宿っていたように感じる。
その時、扉の開く音がして瞬時に顔を上げた。そこに居たのは、戻ってきた望では無く、眼鏡の奥で、全てを見透かしたような瞳で微笑を浮かべる暁良だった。彼はキッチンの床を見るなり、卓上のティッシュを数枚取って、何も言わずに腰を落として拭い取った。空いている手で膝を押して立ち上がる暁良に、陽香は声を洩らした。
「どうして……」
何に対する『どうして』なのか、自分でもはっきりとは分からなかった。どうして、何も言わないのか。どうして、彼が。どうして、あんなに。陽香の声は、その中から一つを選んで、暁良にぶつけた。
「どうして望くんは、他人にあんなに優しくできるの」
全ての人間が憎かった。自分が見える物しか信じない。自分とは隔絶された心の痛みを、分かろうともしない。無慈悲な刃のように、人は他人の内側を容赦なく突き刺す。『自己』と、『他者』は、時に『ヒト』と『モノ』とも変わらぬまでにかけ離れたものとなる。しかし彼だけは、日向望だけは、その遼遠の中を、境界など有りもしない様子で、懸命に駆け回るのだ。無傷の透明な聖霊などでは無い。怒りも、憎しみも、痛みも、絶望も、惨たらしい悪意も、現実も、全てを知っているはずではないか。
ーーなのに、何故
濡れて潰れたティッシュをゴミ箱に入れ、暁良は微笑を湛えたまま、淡々と答えた。
「望くんは、天使として、全ての人間を赦そうとしたんだ。不惜身命の覚悟で人間を愛した。それが彼の正義。アイデンティティとも言えるかな」暁良は焦げ茶色のレトロホーローケトルを取ると、水を入れてコンロの火にかけた。次にシングルレバーを上げ、再び水を出す。
「まさに死物狂いで世界を愛した彼は、絶望の淵まで追い込まれた。でも、さっき話した希が、望くんを希望の世界に連れ戻した」シンクに放られたスポンジを手に取って、水を含ませては絞り、汚れた泡を流す。新たに洗剤をかけて、望が放った皿を洗い始めた。
「だから望くんは、変わらず人を愛し、世界を守り続けている」
良かった。望くんを救ってくれる人がいた。なのに、痛い。陽香の心は、純真な喜びを感じられなかった。暁良が一瞥する。陽香の心情を、眼鏡のレンズを通して把捉しているようだ。
「残念だけど、望くんのことは忘れた方がいいよ。どの道、天使が人間と結ばれることは無い。それは罪だから……」
「……人を好きになることが、罪なんですか?」
「そうだよ。僕たち天使はね。偉大なる太陽神セオス様に仕えるものとして、守らなければならない掟が沢山あるんだよ。おかげで望くんも逃げられなかったわけだけど」全ての皿をスポンジで洗い終え、丁寧に水で流していく。「……まあ、彼は、色んな人から愛を受け取っているから、それでも幸せなんだよね。希も、ご両親も……」微笑の奥に、影が差す。「彼を心の底から愛してる」水切り籠に皿を立て終えると、流しの上の扉を開けて緑色の箱にフルーツのイラストが散りばめられたパッケージの紅茶を取り出した。暁良の表情は、柔和な笑みに戻っている。「陽香ちゃんのご家族は?」食器棚からくすんだ水色のマグカップを選び取り、湯を注いで、ゆっくりとティーバッグを入れた。
「え……。あ、私は……。実は、私がまだ小さい頃、お父さんがはんを押した離婚届と手紙を残して、どこかへ旅に出てしまって……。再婚するまでは、母と二人暮らしだったんです。母は……」
陽香は眉を顰めて、母の話を辞めた。
「お父さんは、すごく優しかった記憶があります。いつも寝る前は、おでこにキスをしてくれて。よく、頭を撫でてくれました。お願いしたらすぐに抱っこしてくれて、お母さんから注意されちゃうぐらい、とびきり甘やかしてくれました」
「お父さんが?」暁良はティーバッグを揺らす手を止めた。囁くようにそう問い掛けた暁良の声は、別人かと疑ってしまいそうなほど冷たく、陽香は僅かに動揺して、彼の目を見た。
「あ、いや。女の子は、お母さんと仲が良いイメージだったからさ。ちょっと意外でね」平常通りの穏やかな笑みに戻ると、ティーバッグを取り出して三角コーナーに捨てた。
「そう、かもしれないですね。普通は……。お母さんも、優しくないわけではないんですけど……。私より、新しいお父さんの方が好きだから……」
「ごめん。あんまり聞かれたくない話だったかな」暁良は眉を下げて笑う。
「いえ、そんなことは……」
「実はね、陽香ちゃんのことで、気になっていたことがあるんだけど。聞いてもいいかな?」彼はそっと、マグカップを陽香に手渡した。
「はい」受け取りながら、不意の質問に目を丸くする。
「そのリボンは、お父さんに貰ったの?」聞き覚えのある質問。
「……あの、どうして、もらったものだって思うんですか? 望くんからも聞かれたことがあるんですけど、自分で買った可能性だってあるのに、どうしてかなって、後になって疑問に思って……」
「さあ、どうしてだろう」彫刻のような、冷たい微笑。「ついでにもう一つ、聞いてもいいかな」「君のお父さんがいなくなったのは、そのリボンを貰った後……一年も経たない頃だった?」
「どうして、ですか……?」
「ついでにもう一個質問。これはただの憶測なんだけど……。陽香という名前は……」いつもと空気が違う。口の端を上げているが笑ってはいない。闇に覆われた、ぼんやりとした瞳。「……お父さんが付けた」
ドクンと鼓動が脈打った。「どうして、そんなこと……」陽香はマグカップを木製のワークトップに置いて、胡乱な目付きで暁良を見た。
打って変わって、彼はこれまでと同じように、好人物らしく眉を下げて笑った。「ははは。そんな顔しないでよ。全部望くんから聞いたんだ。からかってごめんね」温柔な態度で笑う。その貼り付けられた笑顔は、今まで見せていたモノが、全て偽りだと告げ知らせるようだった。
「嘘、ですよね? 私、名前のことは、話してない……」
仮面の塗装が剥げる。いや、わざと。微塵も揺れ動かない氷のような微笑は、『分かってる』と語っている。「ああ、そうなんだ。それは……。うっかり……」不敵に微笑む彼は、誰。
ーー彼は知っている。確実に、何かを知っている
「パパとどういう関係なの?」声が震える。
「何も知らないさ」
「答えてください!」
穏やかな微笑が、その時初めて、酷く不気味だと感じた。望に似ていると思っていた。しかし、違う。彼の笑顔は、望のそれとは、全く違う性質のものだ。
「……君のお父さんはね」その時、勢いよく扉が開いた。
「暁良さーん! 私たち、ちょっと散歩に行って来てもいいですか?」
視線の先には、妙に緊張した笑顔で、興奮気味に外を指差す渚沙がいた。
「ああ、いいよ。花火を買ってあるから、後でみんなでしよう」よく知っている、大人びた柔らかい笑みと、落ち着いた喋り方。
「はい!」渚沙は顔を紅潮させ一呼吸置いてから、ドアを開けて出て行った。
少女の乱入によって散逸された空気が再び集まろうとしたかに思ったが、「この話はまた今度。ありがとう、手伝ってくれて」暁良は幼子を宥めるような口調で微笑みを浮かべ、マグカップを指すように顎をくいっと動かした。「それ、良かったら飲んで。落ち着くよ」と言うと、外に消えてしまった。
静寂に沈んだ部屋の中、鈴蘭のような五灯のシーリングライトが、橙色の淡い光を咲かせている。虫達の音色だけが、ざわざわと騒がしい。彼等はしきりに鳴いている。まるで不安を煽るように。彼女の孤独を嘲るように。
20
「アズくん……」
耐熱グローブを嵌めて網にアルミホイルを巻いているアズラエルの背に、悄々として声をかける。
「ん、どうしたの? 望くん」
「あの……」左の袖は捲っている状態で、右の長袖だけ手が隠れるまで引っ張り押し黙っているのを見て察したのだろう。アズラエルは何も言わずに立ち上がり、グローブを外して側のバケツの縁に掛けると、「勇志くん達を手伝ってあげて。コンロには触らないようにね」と言って、望の頭をポンと押すように撫でながら家の方へ歩いて行った。
「ありがとう……」届いたか分からない声で、その後ろ姿に礼を言う。
渚沙が勇志にチェアの畳み方を尋ねたのを聞いて、望は説明した後、アルミ素材のロールテーブルの解体に取り掛かった。二人は袋に収めた椅子を持って倉庫に向かう。少しして望もテーブルを纏めて持ち運んだ。二人は何やら話をしていた様子で向かい合っている。
「望くんごめん。私達、ちょっと歩いて来てもいいかな。一瞬で戻るから!」そう言う彼女の表情は、いつものような大らかな笑顔とは少し違っていた。
「はい。大丈夫ですよ」不思議な思いを抱きつつ、口の両端を上げて返事をする望。
「ありがとう! 暁良さんにも伝えてくるね」渚沙は小走りで家に駆けて行く。倉庫にテーブルを入れ扉を閉めると、勇志に声を掛けられた。
「今日はありがとな。誘ってくれて」
「い、いえ! こちらこそ、嬉しかったです」
勇志は控えめな笑みを浮かべた。ふっと視線を下に向けてポケットに手を入れながら、「これ……」と言い掛けた時、「暁良さん、おっけーだって!」と、渚沙が息を弾ませながら戻って来た。
「おう」渚沙に向かって声を投げる。「行って来るわ」勇志は望の前を過ぎようとした。その時、「これ、やるよ」と、ポケットから取り出した何かを、反射的に出した望の手の上に乗せた。
「え?」渡されたのは小さな紙袋。
「じゃ、また後でな」勇志は背を向けたまま右手を振って、渚沙と共に森林が囲む小径の方へ消えて行った。
紙袋に視線を戻し、開封しようと裏返す。そこには、黒のボールペンで、『お守り、壊してごめん』と、隅に書かれていた。中に入っていたのは、赤と黄色で編まれたミサンガ。自分が持っていた物と近い色味のものを、わざわざ探してくれたのだろうかと思うと、胸が熱くなった。
「望くん?」様子を見に来た暁良が、一人でぼうっと佇んでいる望に声を掛ける。涙ぐむ瞳を見て、「どうしたの? それ」と問う。
「勇志くんがくれたんだ。前に、お母さんから貰ったミサンガ、千切られちゃったから」プレゼントを見つめながら、温かな喜びを露わにする。
「なんて願いごとするの?」暁良も微笑みながら、静かに尋ねる。
「……ずっと、みんなと友達でいられるように」望は笑った。母がくれたミサンガと、もう一つ、大事なお守りが出来たと、彼はしばらく顔を綻ばせると、意を決したように家の扉に向かった。
21
暗くなった木々の隙間から、虫の音色が響く。空を見ると、白い月が煌々と光の輪郭を浮かび上がらせている。
「望に婚約者がいたなんてびっくりだよなー。間違いなく西園寺が好きだと思ってた」勇志が小径の僅か先を見ながら言う。
「どっちかと言うと、気にかけてるのは陽香ちゃんの方みたいだね」
「好きなのかな?」
「さあ……」つい苦笑いを浮かべる。「でも、恋はよくわからないって言ってたじゃん。だから違うんじゃない?」
「そっか……」
「梶谷は、西園寺さんのことが好きなんだよね」
「えっ! いや、まあ……っても、学校の男子で西園寺を気にしてない奴はいないだろ」
「そんな野次馬的な気持ちじゃないでしょ? 本気なの、見てればわかるよ」
「……西園寺にもばれてんのかな」
(と言うか、あれで本当に隠してるつもりだったんだ……)渚沙は思う。
「多分ね、そこまで梶谷に意識が向いてないよ」
「はぁっきり言うなよ……。薄々わかってはいたけどさぁ」
「私じゃだめ?」
「……は?」
「……」顔が見れず、俯いたまま歩く。頬が熱い。
「え? ど、どうした?」
「私ね、もう自分らしく生きるって決めたの。私の人生は私のものだから」かすかに声が震えてしまう。
ーーそう言ってくれたのは、あなたでしょ
「だから、これはね、私の人生第二幕の、始まりの第一声」立ち止まり、勇志の顔を真っ直ぐに見つめる。
ーー怖い
ーーもう話せなくなる? 友達でもいられなくなる? 嫌がられる? どんな顔をする? 断られるのは分かってる。でも。でも……。
「好き。梶谷の事が、ずっと前から好きだった」「脈無しなのは分かってるよ」渚沙は笑った「ただ、言いたかっただけ。自分の気持ちを、ちゃんと外に出してみたかっただけ。だから……」息が詰まる。唾を飲み込んだ。「できれば、これからも、友達として。仲良くしてほしいな」
笑顔を見せる渚沙に、勇志は瞳を落として、「辛くないか?」と確認した。
「大丈夫だよ。友達としても好きだから。距離ができる方が、辛い」
「……」
「……」
「分かった。……ごめんな」
「なに謝ってんのよ! 私こそ、ごめんね。馬鹿な事言っちゃって」
「馬鹿じゃねぇよ。ありがとうな」
勇志は目線を落としたまま、囁くように言った。昂る感情が瞳から湧いて出てくる。
「なんでそんな優しいのよ、バカ。泣かないって決めてたのに……」
「……ご、ごめん」
虫の鳴き声に、渚沙のすすり泣く声が混ざる。静かな夜道。このまま、朝が来なければいいのに。渚沙は思った。世界から、ここだけ切り取られてしまえば。想いが重ならなくても、ずっと側にいられたら。あり得ぬ願いを、本気で求めた。
「ありがとう、委員長。俺も勇気出たわ」
「え?」
「玉砕する覚悟が決まったよ」勇志は眉を下げて、口の端を上げた。
「……西園寺さんに告白するの?」
勇志は肯いた。「確実にフラれるけどな」
「今から?」
「おう! 行ってくる!」彼は駆け出した。
「えっ! ちょっ、勇志!」全速力で走っていく勇志の背中。渚沙の涙の重圧から逃げたかったのか、彼女が思い切り泣けるよう気遣ったのか、単に情熱に逸ったのか。分からなかったが、今までと同じ関係を続けることが出来なくなることだけは、考えずとも分かった。これから変わる。人生の第二幕。それはどのようなものになるのか、誰にも分からない。
ーーでも私は、絶対に負けない
運命なんかに、決して負けない。
22
取り残されたキッチンで、陽香は紅茶に手をつけることもなく立ち尽くしていた。彼はどういう魂胆で、自分にあんな話をしたのか。彼の雰囲気から滲み出される悪意を感じ取れないほど、鈍感では無い。彼は父を知っている。何故。
ーーどうしてお父さんは、帰って来ないの
『お父さんがいなくなったのは、リボンを貰った後ーー』
『必ず戻る。お前を愛してる』
『悪霊の仕業ってこと?』
『過去に自殺した、堕天使』
『異形の霊になったらーー』
『大惨事』
ーー彼は、私の家も知っていた?
『表札に名前がーー』
ーーあんな夜道で、あんな的確に、気付くはずが無い。時折見せる、影のある笑み。でも、望くんが慕っている人。誰。
ーー婚約者
ーー望くんの好きな人
ーー誰。あの人は、誰
ーーお父さんはどうして帰って来ないの
陽香は叫びたい気持ちになった。孤独。底無し沼のような、孤独。もがいても、もがいても、深淵に息を沈められるばかり。鼓動が高鳴り、呼吸が速くなる。その時ーー
「陽香さん」
上目遣いで、控えめな笑顔を見せる望が立っている。柔らかい雰囲気に、一瞬で身を包まれる。
「望くん……」
「陽香さん、すみません。嫌なものを見せてしまって。動揺させてしまいましたよね……」
「……だ、大丈夫だよ。そんなこと気にしないで。嫌な気持ちになんかなってない」陽香は笑った。望も胸を撫で下ろして、頬を染めて笑った。ふと、ワークトップに置かれたマグカップに目線を留めて、「良かったら、話を聞いてもらっても、いいですか?」と、テーブルに座った。
陽香は促されるままに、マグカップを手に持って、机上に置いて、腰掛けた。
「僕、前の学校で、酷い虐めにあってたんです。人権はありませんでした。両親もすごく心配してくれて、校長先生や教育委員会にも相談したんですけど、なかなか解決には至らなくて。ある日、担任の先生から、僕一人を助けるために友達の未来が奪われることになったら、望が苦しくなるんじゃないか?って、言われたんです。『お前は優しいから、きっと後悔する。だから自分で戦う努力をしてみよう』って。その時、気付いたんです。先生も、学校も、みんな、虐めを無くすより、自分の評価を下げないことの方が大切なんだって。無抵抗の僕を殴って、蹴って、物を壊して、笑う人達。見て見ぬ振りをする人は、まだ味方のように思えました。でも、ほとんどの生徒は、陰で僕を笑ってた。みんなにとって僕は、『虐めてもいい人間』になっていたんです。無視をしたり、わざとらしくぶつかってくる人も、当然のような顔をしていました。大人たちは問題に向き合ってくれない」
望は一呼吸置いて、微笑んだ。「死のうと思いました。この世界に、希望は無いんだと。僕に生きる価値は無いし、この世界にも、生きるほどの価値は無い。だけど、そんな時に、希が突然会いに来てくれて」
陽香の心臓がズキンと鳴いた。
「本当の名前はアリエルって言うんですけど、僕に言ってくれたんです。『人を愛するより先に、自分を愛していいんだよ』って。逃げることを許してくれたんです。そのおかげで僕は、自分を見失わずに済みました」
愛おしそうな表情。その一件によって、“アリエル“がどれほど大きな存在になったか。計り知れない愛を思うと、張り裂けそうに胸が痛んだ。
ーーこれが、恋なの?
ーー愛が無い
「実は、明日アリエルが遊びに来るんです。よかったら、陽香さんも会ってくれませんか?」
「え……?」
「僕の最初の友達だし。その……紹介しておきたくて」
ーーああ、そうか。“親しくなった女性”を、ちゃんと紹介しておきたいんだ。幼い顔をして、自分なんかより遥かに大人だ。男の人だ。
「わ、私は……」泳がせた視線が、彼の腕に巻かれている先程まで無かったはずのミサンガを捉えた。
「あ、これ……。勇志くんがくれたんです。お守りを壊してごめんって」望は嬉しそうに、ミサンガを片手でそっと包み込む。
「そうなんだ……」意外だ。粗暴なイメージの強い人物だったが、こんなこともするんだと、陽香は思った。
「やっぱり、優しいですよね、勇志くん。僕の見る目は正しかったです」
「……良かったね」その話には、陽香も純粋な笑みを向けられた。
「陽香さんも」望が優しく目尻を下げて、見つめてくる。「最初、『私は関わりたく無い』って言ってたのに、ずっと協力してくれてますよね。ありがとうございます。本当に優しくて、心強いです」
ーー私も
「わ、私も……」
ーー望くんがいれば
「望くんがいれば」
ーー何も怖くない
「……悪霊のこと、前よりは怖くなくなった」無理矢理笑顔を繕う陽香。
(伝えてどうなるの。壊すの? それは嫌。……したくても出来ない。そんな人じゃない。気持ちを伝えることすら出来ない。何も出来ない。どうして私の大事な人は、いつも私の側に居てくれないんだろう。どうして……)
「それじゃあ、花火しましょうか!」そう言って望は玄関の方へ歩いた。陽香も立ち上がって、望について行った。「すっごく楽しみにしてたんです、僕。友達と花火をするの、初めてで……」いとけない笑顔を見せる望。
ーーその笑顔は、恋人の前ではどんな顔に変わるの?
「アリエルちゃんとは? 一緒にしたことないの?」何故そんな質問をしたのか、自分でも分からない。二人の弱い部分を見つけたかったのかもしれない。望はそんな醜い感情になどまるで気付かずら「そう言えばやったことないですね……。明日の為にちょっと残しておこうかな」と、嬉しそうに笑った。
もっと、少しだけ、彼に意地悪を言いたい気持ちが湧いてしまった。
「そういえば、望くん。暁良さんに私のこと話したんだね。別に、いいんだけど……」
「? 陽香さんの話って、悪霊が見えるってことですか?」
「私のパパが失踪した事とか、リボンのこととか……」
「いえ、そういう話は、僕からはしてません。転校先に悪霊が見える女の子がいた、としか……」望の表情は至って普通だ。目を泳がせることもなく、嘘をついているとは思えなかった。嘘をつくような人でもない。ということは……。
ーー『全部望くんから聞いたんだ』
彼は、一体、いくつの嘘を重ねているのか。陽香は呆れてしまった。
「アズくんに、何か言われたんですか?」心配そうに覗いてくる望に、醜い悪意は消えてしまった。
「ううん、なんでもないの。ごめんね。花火、やろう」
「はい!」
望が靴を履く。陽香はその足下を、見るともなしに見ながら、思考した。
ーー彼はパパを知っている。だからリボンがパパからのプレゼントであることも、失踪したことも、名前のことも知っていた
ーーあれ? でも、そういえば望くんも……
ーー『そのリボン、誰にもらったんですか?』
あの時は、深い意味は無いだろうと気にしなかったが、なぜ、彼は貰い物だと分かったのか。陽香の心に、どんどん猜疑心が湧いてきた。「望くん」
「望くん、どうして、あの時ーー」
その時、勢いよく玄関の扉が開いて、梶谷勇志が飛び込んで来た。ぶつかりそうになった二人は同時に変な声を上げている。勇志は望の肩に両手を置いて端に追い退け、陽香の前に立った。
「西園寺!……さん」何やら息を切らして、真剣な目をしている。
「は、はい……」
「好きだ」
「へぇ?」
「本気で好きだ。明日の放課後、デートしてほしい」
「……」
「……」
「……えっと、ぼ、僕、外に出ますね」望は顔を真っ赤にして、忍びのようにゆっくりと立ち上がって出て行った。
「あ、あの……」
「デートしてくれ!……ませんか?」
彼は一体、どういう心境なのだろう。陽香は顔を硬直させた。
「えっと……。な、なんで私なの……?」
止めていたのだろうか。勇志はぶはぁっと息を吐き出すと、肩を上下させながら呼吸を整えた。
「ごめん……」
「い、いえ……」
「……」勇志は何か言いたそうに息を吸って口を開いたまま天井を見つめている。かと思うと唇を閉ざして、俯きながら息を吐いた。
「……こんなこと言うと、嫌かもしれないけど……。俺と西園寺さんは、似てると思うんだ。みんなが知らない世界を、俺たちは知ってる。だから、他の男じゃ、理解できないようなことも、分かり合えるんじゃないかと思うし……」勇志の眼差しと、陽香の視線が交わった。「支えになりたい。すげー、陳腐なセリフだけど、笑顔が見たい……。西園寺はいつも、どっか寂しそうだから……」
「……」沸々と、陽香の心に恥ずかしさが浮かんできた。頬が熱くなり、思わず勇志から目を逸らす。
「……。あ、明日、どうかな……。俺、どこ行くか、考えとくから……」
陽香は暫時押し黙った。「でも……」直接聞いたわけではないが、恐らく高梨渚沙は、彼を慕っている。
「すぐに返事くれとは言わない。とりあえず一回、二人で遊んでみて、それから、ゆっくり考えてもらえたら……」
陽香はしばらく思い倦ねたが、ふっと瞳を勇志に向けて返事をした。
「わ、分かった……」
「え?」目を丸くして素っ頓狂な声を出す勇志。
「え……?」陽香は、もしかして冗談で言っていたのだろうかと一瞬思案した。
「いや、あ、ありがとう。まさかオーケー貰えると思ってなかったから……」
「……」
「じ、じゃあ、明日、よろしく……」
「うん……」
「あ、ご、ごめんね? 急に」
「いえ……」
勇志は呆けた顔のまま、静かにドアを開けて出て行った。閉まる直前、「まじかー……」と、吐息混じりの呟きが聞こえた。
第四章
22
勇志が家から出た後、少しして外に出た陽香は、見るからに悄気込んでいる高梨渚沙から目を逸らした。
(あの子には、優しいお祖母ちゃんも、親しい友人もいる。彼一人が居なくても、大丈夫でしょう……?)誰に責められるでも無く、言い訳をする。
『みんな疲れてそうだから』と暁良が言って、その日は切り上げることになった。望は花火の袋を両手で持ちながら眉尻を下げていた。
暁良が全員を乗せて車を出す。最初に陽香の家に到着し、「お疲れ様。ゆっくり休んでね」と、両手でハンドルを掴んだまま、胡散臭い微笑を湛える暁良。陽香を一瞬眉を顰めて、「ありがとうございました。おやすみなさい」と、目線を右に落としながら、硬い唇の両端を上げた。後部座席の勇志と渚沙から返事は無い。陽香も二人を視界に入れることは出来なかった。
翌日、天気は薄曇りだった。時刻は十四時三十分。待ち合わせ場所である駅の改札口に着くと、既に梶谷勇志が待っていた。白のパーカーにGジャンを羽織り、黄土色のアンクルパンツと黒いスニーカーを合わせている。陽香は白い膝丈ワンピースに、薄緑色のケーブルニットのカーディガンを選んだ。髪型はいつも通りのサイドだけ編み込んでいるスタイルだが、勇志は陽香を見るなり、言葉を失う。
(変だったかな……)
「あの、ごめんなさい。何時頃に着いたの?」
勇志は陽香の問いにも沈黙したままワンピースの裾を見ていた。徐々に視線を上げて、目が合うと、慌てて「いや、い、今着いたとこ」と返事をした。
二人で駅前の商店街を歩きながら、勇志は口下手な陽香とも懸命に会話を続けた。
「あのさ。もし委員長から、なんか、素っ気ない態度取られても、気にしないでね」
「え?」
「いや、あいつのことだから多分大丈夫だとは思うけど……。実は俺、昨日委員長に告白されててさ。その勢いで俺も西園寺さんを誘った流れなんだけど、昨日、あいつ、だいぶ落ち込んでる様子だったから。ごめん。俺がほんとデリカシー無かった。西園寺さんは何も悪くないし、委員長も、すげー良い奴だから、これで二人の関係が悪くなるような事になったら……」勇志は口角を上げてはいるが、目元には憂慮を浮かべていた。
「大丈夫……。ありがとう」正直なところ、陽香は女性から悪意を向けられることには慣れているため、さほど気にしてはいなかった。
ーーそもそも信頼できる人なんて、誰も……
望の笑顔が脳裏を掠める。陽香は眉根を寄せて、目を伏せた。その時、
「勇志くん? 陽香さん……」
声がして顔を上げると、望が女の子と腕を組みながら、目を丸くして立っていた。
件の婚約者だと、一目で分かった。童顔で、色白だが頬はほんのり色付いており、望に似ている。少し長いブロンドヘアーは、肩に付くあたりで毛先がくるんと外にハネている。『豪胆』と言われていた彼女は、人目も憚らず望の腕にしがみ付いている。望も拒むどころか、恥ずかしがる素振りさえない。血の気が引くような感じがした。彼女が望を上目で見ながら言った。
「望のお友達?」
「うん。勇志くんと、陽香さん」
少女はバーバリーチェックのフレアスカートをひらりと揺らして両手を差し出すと、陽香の右手を包み込んだ。小さな温かい手も、望によく似ている。
「あなたが陽香さんね。日暮希と申します。お会いできて光栄です」目尻を下げて微笑む顔は、まさに天使のようだった。同い年に対して敬語を使うところも、望と同じだ。
「ねえ、良かったら四人でお茶しませんか?」彼女は望に振り返り、いいでしょ?と言った。
「でも、お二人の邪魔になるんじゃ……」遠慮する望に、希は陽香の手を握ったまま、「お願い! お時間は取らせませんから! 陽香さんとずっとお話したかったの」と、おねだりをした。なんとか止めてくれないかと思い、ちらと望の顔を見る。『少しだけ、ダメですか?』と、表情が訴えている。昨夜、望からアリエルに会ってもらえないかと頼まれたことを思い出した。目を伏せて黙る陽香に、「せっかくだし、皆で話そうか」と、勇志が言った。「あんまり長居はできないけど」希に向かって補足する。
(アリエルさん、望くんの婚約者。どんな子なんだろう)
陽香にもそれを知りたいという気持ちがあった。何より断る度胸も無かったため、陽香は承諾した。嬉々として前を歩く希と、彼女に手を引かれて歩く望。二人を見ながら、「ごめんなさい」と、陽香は勇志にだけ聞こえるよう謝った。
「西園寺は悪くないよ」半笑いを浮かべる顔には、まるで生気が無かった。
向かったのは、勇志が予約してくれていたレトロな純喫茶。茶色と白の煉瓦造りの倉庫をリノベーションした店舗で、外壁には蔓草が茂っている。ウォールランタンの隣、流木のような厚い引き戸を開けると、ほとんど外光の入らない店内は、様々なアンティークランプによって照らされていた。壁や天井、カウンターなど、そこら中で黄色い灯りが浮かんでおり、赤で統一されたソファの色彩と混ざって幻想的な空間を演出している。
望は希を奥に座らせ、隣に着いた。勇志もそれに倣ったため、陽香と希は正面から向かい合う形になった。オーダーが済むと、希は早速本題に入った。
「『悪霊が見える女の子がいる』ーー望から聞いた時は驚きましたわ。どれほど辛い思いをされてきたか……。望との出会いは奇跡ですね」
「……」
望との出会いは奇跡、たしかにその通りが、希に言われると、嫉妬のような感情が肯定を阻んだ。
「私、それからは毎日、陽香さんのためにお祈りしていますの」
「お祈り……?」
「ええ。この星をお創りになった偉大なる太陽神セオス様に。どうか陽香さんの罪が許されますように。霊が磨かれますようにって」
陽香の心に、稲妻が走った。頑是無い子供のような笑顔。彼女が言っていることはーー無慈悲だ。
「私の罪って、何? 私は、自分の罪のせいで、ずっと苦しんできたということ?」
「陽香さんだけではありませんわ。全ての人が罪を抱えています」
「の、希。やめようよ、せっかく皆で集まれたんだから。楽しい話を……」
「いいえ。大切な話よ。恐れてはダメ。特に陽香さんには」希は憐みの眼差しを陽香に向けた。「この世に苦しみが溢れているのは、人間たちが悪用したからです。セオス様がお与えになった、この、心を」希は両手を胸元に当てた。そして、如何にも慈悲深い表情で、「この心は、私たちが喜び、愛し合うために与えられたものです。そして何より、全ての恩恵に感謝し、セオス様を愛するためのものです。しかし残念なことに、多くの人間はセオス様に逆らって、罪を犯している。そのせいで、世界から苦しみが無くならないのです」
猛烈な怒りと嫌悪感が、血管を震わせる。「私が、どんな罪を犯したの? なんの罪のせいで、こんなに苦しい思いを強いられているの?」
「セオス様を信じていないからです」彼女は言い切った。「セオス様を信じて、その罪を悔い改めるなら、陽香さんは必ず救われます。セオス様は全ての人間を愛してくださっていますから、絶対に見捨てません」
ーー彼女は、何を言っているのだろう
「自分の罪を受け入れる。それは、とても心が痛むこと。でもね、天国に行くためには、避けて通る事はできないんです」
(なんて、綺麗な笑顔)陽香は思った。
「だから、私と一緒に祈りましょう? セオス様はあなたを愛してる。あなたを幸せにしたいの。どうか、それを、信じて」
ーー汚い
「心から悔い改めて、お祈りをすれば、セオス様が必ず、あなたの呪いを打ち砕いてくださいます」
燃え滾った怒りの炎は、泥をかけられたように鎮火した。何も感じない。ただ、心が沈んでいく。
「アリエル!」望が彼女の腕をそっと掴んで、目で諌めた「すみません、陽香さん……」申し訳無さそうに、眉を下げる望。
「私のこと、どれだけ話したの?」怒っているつもりは無い。望は何も悪くない。「勝手に、どれだけ話したの?」頭では分かっているのに、声が震えてしまう。優しく言おうとする理性は、感情に負けてしまった。
財布から千円札を取り出して机に置くと、陽香は鞄を持って外に出た。西園寺! 後ろから勇志の声が聞こえてくる。陽香は一秒でも早く、彼女から、彼女達から離れたかった。心が掻き乱され、歯を食いしばっても、涙が瞳から逃げて来る。暗い路地裏に入り、うずくまった。両膝を抱えて、肩を震わせた。
(悔い改める? どうして私が? 全部が私のせいなの? 何もかも自業自得だって言いたいの!? あの子が望くんの好きな人? あんな子が、望くんの婚約者?)
「陽香さん!」望の声。あの子も一緒に来たのだろうか。足音は、一人分しかないようだ。
「陽香さん、ごめんなさい……。すみませんでした……」
「望くんも、私を罪人だと思ってるの……?」
「思ってません! 陽香さんは優しい人です」
「だけど私は、今のままじゃ天国には行けないんでしょ?」
「僕は、そうは考えていません……」
もしかしたら、望は仕方なく日暮希と婚約し、受け入れているのではないか。仄かな期待が、陽香の頭に浮かんだ。
「それなら、望くんはどう思ってるの?」
「……僕の立場で、こんなことを言ってはいけませんが。正直に言うと、何も考えないようにしています。セオス様が善であろうと悪であろうと、僕が人のためにすべきことは、変わらないと思うから……。逃げ、ですけど」
「そう……」天国に行ける、と、はっきり言ってもらうことはできなかった。
「本当に、ごめんなさい。僕、傷付けるために、二人を合わせたかったわけでは……」声が震えている。
信頼できる恋人と、他人の話をすることは、何もおかしい事では無い。暁良に話していたことに対しては、こんな気持ちにもならなかった。陽香は醜い自家撞着を感じた。
ーー彼は何も悪くない。私を案じてその話をしてくれたことも、容易に想像が付く。
「……大丈夫だよ。望くんが好きになるくらいだもん。きっと、いい子なんだろうね」嗚咽を堪えて、背を向けたまま話した。純粋に希を褒めた訳では無い。探っているのだ。願わくば、日暮希を批判して欲しかった。全てでなくとも構わない。せめて、先程の発言だけは。しかし、彼は肯定した。
「はい。いい子です」
「……どんなところが好きなの?」
「アリエルは、突っ走ってしまうところもありますが、本人なりには、真剣に相手の幸せを願ってのことで……。全てのものに感謝して、愛している。彼女の隣にいると、僕も、世界がすごく綺麗に見えるんです。人を好きだと思えるようになる」
残酷な愛の言葉が羅列する。「そう……」無理矢理絞った声は、ほとんど声にならなかった。「……望くん」もう全てが嫌だった。陽香は優しく語りかけた。
「私は気にしてないから、戻ってあげて。ありがとう、追いかけてくれて」
「でも……」
「望、もういいから」梶谷勇志の声。彼も一緒だったのか。振り向く事が出来ない陽香は、背中で声を聞いていた。
「すみません……」望は去って行った。
少しの間、路地裏は静かになった。陽の当たる表通りだけ、雑踏が濤声のように、地面を踏み荒らしている。
「西園寺……」勇志が声を掛けてくる。「大丈夫か?」
「うん。ありがとう」陽香は見えない笑顔を繕って、穏やかに答えた。「ごめんなさい。今日はもう、帰っていいかな? 埋め合わせはするから」
「いや、いいよ。無理しないで。俺、送るよ……」
「大丈夫」振り返らないまま、真っ直ぐ歩いて路地裏を抜けた。
家に着くまでの間は、頭がぼうっとして、何も考えられなかった。考えないようにしていた。ひたすら家路を辿って、自宅の扉を開けた。ひんやりと暗い玄関で、暫時、放心する。
(……寝よう)陽香はシャワーを浴びることにした。
「あら、おかえりなさい陽香ちゃん。ねぇ見てこの灰皿。ヴィンテージ物なのよ。パパの為に買ったんだけど、飾り物としてもとっても綺麗でしょ?」
それは亜鉛合金製の蓋付き灰皿のようで、ターコイズカラーの球体に金色の花模様が描かれている。陽香はご機嫌そうに手の平でこねくり回し眺めている母親に愛想笑いを見せて、無言で脱衣所へと向かった。
シャワーを浴びている間も、お湯が髪や身体を流れ水滴が落ちていくのを、ぼんやりと眺めていた。白っぽい灰色の窓の向こうから、ゴロゴロと雷の音が聞こえる。
「陽香ちゃん。ここ、タオルとお着替え、置いておくわね」アクリル板の向こうで揺らめく影を見て、用意を忘れていたことに気付いた。
「ありがとう」
「いいえ〜」
お気楽な声色。母はいつも、満たされている。あからさまに人から嫌われるとすぐに情緒バランスを崩すが、笑顔の裏に隠された悪意や、痛みや、寂しさにはとことん鈍感な人物だ。元々この家の主だった資産家の曽祖父から溺愛され、陽香の父、護が失踪して半年も経たない内に再婚。愛嬌があり、歳を重ねても若々しく、華やかな容姿を持つ母は、恋人が途絶えた事はひと時も無いと、時折、娘の陽香に自慢していた。体を拭いて濡れた髪をドライヤーで乾かし終えた時、習慣通りに伸ばした手が行方を失った。
ーーリボンが無い
いつものようにレース付きの小さなバスケットに入れたはずだが、床を探しても洗濯物を漁っても、見つからない。先程、母が脱衣所に入ったことを思い出し、早足でリビングに向かった。扉を開けた瞬間、香ばしい臭いが鼻をついた。
ーーまさか
陽香は息を飲んだ。「ねえ、お母さん。私のリボン、知らない?」
母は買ったばかりのヴィンテージ物の灰皿の前で、雑誌を読んでいる。
「あれはもう捨てなさいって、前から話してたでしょ?」そう言ってページをめくった。
恐る恐るテーブルに近寄り、花模様が浮かぶ灰皿の閉ざされた蓋を開けると、リボンの残骸が見えた。絶句。心臓に鈍痛が走った。血管が沸騰するような感覚に襲われ、後ろに二、三歩ばたつかせた。
「どうし、どうして……」
「ねえ、陽香ちゃん。匠さんから見て、義理の娘が、いつまでも居なくなった前のお父さんのプレゼントを身に付けていたら、どんな気持ちになるか、考えたことある? 高校生にもなって、あんなリボンをつけてる子、クラスにいないでしょう?」
「だから燃やしたの? 私に何も言わずに?」呆然と煌びやかな灰皿を見つめながら、静かに問う。現実に戸惑いを隠せない。
「お母さんは何度も言ってきたでしょ? だけど陽香ちゃん、いつまでも手放そうとしなかったじゃない……」「お母さんだってこんなことしたくなかったのよ?」「でも陽香ちゃん、全然お家にお友達を連れてくる事もないし、やっぱりクラスで浮いてるんじゃないの?」
なぜ『ごめん』の一言も言ってくれないのか。鼓膜に飛び込んでくるガラクタの中に、一つたりとも使える言葉が無い。沸き上がる憎しみと怒りを、早く静めたいのに。状況が理解出来ていないのだろうか。陽香は反射的に唇の両端を上げて、“説明“した。
「あれは私の宝物だったんだよ?」
「実を言うとね、匠さんが嫌がってたのよ。あのリボン」
尚も悪役は私か。陽香の表情筋が萎んだ。がくんと頭を垂れた。
「あれは私の宝物だったんだよ……」
「またお父さんがいなくなってもいいの?」
「あんな人お父さんじゃないわよ!」陽香は激昂した。
ーーなんで、なんで、なんで!
「お母さんはね、陽香のために言ってるの! あの人は家族を置いて出て行ったのよ? あなたのリボンを見る度、あの時の気持ちを思い出すの」真理は口を歪め、涙を溢れさせた。「あの人は、私と陽香ちゃんを捨てたのよ!」
「違う。捨ててない。戻ってくる」
「やめてよもうそんなこと言うの! あなたには新しい家族がいるの! いい加減それを受け入れなさい!」
「受け入れてたじゃないちゃんと! ちゃんと『お父さん』って呼んで! 私、受け入れてたじゃない……! なんでリボンを捨てる必要があったの……?」陽香は泣き叫んだ。
「お願いよ陽香ちゃぁん……。もうお母さんを苦しめないで……」
ふっ、と、心から感情が消えるのが分かった。一瞬で涙が止まり、筋肉が萎んで行く。
ーー私、何を期待してたんだろう。とっくの昔に、分かってたことじゃない。この人が愛しているのは、自分だけだって
小学二年生の頃。父親を失い、これまで以上に悪霊を恐れるようになった陽香を、クラスメイト達は嘘つきと罵った。周囲は片親のストレスが原因で心を病んだのだと、母を責めた。立派な家に住み、美しい母は予ねてから嫉妬の対象であり、父の失踪は母の不倫が原因などという根も葉もない噂まで立てられた。母親の真理は、完全に心身耗弱状態に陥っていた。霊に怯えた陽香が「集団行動の輪を乱した」として学校に呼ばれた日。駐車場の車内で、真理は泣いて縋り付いてきた陽香の両肩を、指が食い込むほどの力で掴み、激しく揺さぶった。
『この嘘吐き! どうして嘘をつくのよ! どうしてお母さんを苦しめるのよ! どうしてお母さんを虐めるの! もうやめてよぉ!』
浴びせられた言葉と、悪魔に取り憑かれたような母の形相。幼い陽香の心に、月日の力をもってしても片鱗も消えないほど、鮮烈な痛みを刻んだ。
ーーパパが居なくなって、悲しくて、寂しくて、怖くて、苦しくて、救いを求めた私を、この人は罵ったんだ
ーー肩に食い込む指が、すごく痛かった。血走っている目が、怖かった。あなたの涙が、嫌だった
ーーだから私は……。あの日から、“怖い”という感情を捨てた。“悲しい“を捨てた。“寂しい“を捨てた。そうしたら、“楽しい“も、“嬉しい“も無くなった。一つだけ、新しく生まれて、残った感情は
ーー“死にたい“
陽香は虚無のままふらっとリビングを抜けて、裸足のまま外に出て行った。篠突く雨の中を、白いネグリジェ姿で歩く。どこから集まったのか、瞳に映る世界の端々で、魑魅魍魎が跋扈する。少し行けば踏切がある。黄色と黒の、地獄へ続く入り口がもう見えてきた。突如、懐かしい声が背後から鼓膜に届いた。
「陽香ー!」
ーーこの声は
「陽香ー!」静かに振り向いた。そこに立っていたのは、遠き日に、毎日温もりを与えてくれた、父、護。
「パパ……?」父が、あの頃と変わらぬ姿で微笑んでいる。
「陽香……」両手を広げて待っている。
「パパ……!」陽香はその胸に飛び込んだ。「パパ! パパぁ……!」
ーー戻って来てくれた。信じていた通りに。戻って来てくれた
「陽香……」抱き付く娘の頭を、父親の大きな手が撫でる。その手は硬く、皮膚の柔らかさがまるで無かった。体温も無い。ふと、腐敗臭が陽香の鼻を刺激した。ゆっくりと身体を離す。そこにいたのは、所々に赤黒い肉を残している、骸骨だった。
「ハハルカカカカカカカカカ」
声も出なかった。ふらふらと後退すると、線路の上に立っていた。警報機が鳴り響く。遮断機が豪雨と共に降りてくる。電車のヘッドライトが、雨粒に乱反射して、陽香を照らした。
轟音を鳴らしながら、電車が通過する。濡れたアスファルトの上で、陽香はへたり込んで首を垂れた。肌に張り付くシルクが気持ち悪い。彼女は初めて、叫ぶように、泣いた。
ーー死にたくない!
嗚咽を上げながら立ち上がる。がくんと力が抜けたのを右足で踏ん張って、雨に打たれながらその場に立った。家には帰りたくない。アズラエルの家には、きっとあの子が居る。居なくても、すぐに望と一緒に帰ってくる。渚沙の家は分からない。それで無くても、彼女には頼れない。
『支えになりたい』
梶谷勇志の言葉が、頭の中で蘇った。陽香は記憶を頼りに、彼の家に向かって歩き始めた。
23
予定より早く帰宅することになったが、梶谷恵理奈は既に居なかった。店の客とデートしてそのまま出勤することは珍しい事ではない。今日もそんな感じだろうと、勇志は静まり返るリビングの中、散らかった洗濯物やゴミを避けて、人が一人座れるように空いている二人掛けの白いソファーに、どかっと腰を落とした。
念願のデートに漕ぎ着けたと云うのに、望と婚約者のカップルに遭遇したせいで、陽香とは三十分も一緒に過ごせなかった。しかし、それよりも勇志を苛立たせたのは、落ち込む西園寺陽香から、全く頼りにされなかった事だ。
希から訳の分からない事を言われただけで、あそこまで落ち込むものだろうか。やはり彼女の中で、望の存在の方が圧倒的に大きいのではないかという劣等感が渦巻いた。自分の不甲斐なさ。純白のワンピースを着ていた陽香の、天使のように可憐な姿。高嶺の花だったあの西園寺陽香が、自分の誘いに乗ったこと。『埋め合わせはする』と言ってくれたこと。何もかもが勇志の心を掻き乱した。
足下に落ちているリモコンを乱暴に拾い上げテレビを点ける。カチカチとチャンネルを変えても、特に面白そうな番組は無く、すぐに電源を切ってカーペットの上に放った。
ソファーの背にもたれ掛かり、天井を仰ぐ。ムシャクシャして堪らなかった。ゲームも、漫画も、見る気にもならない。陽香の顔だけが、頭から離れない。
初めての、カフェで交わした二人きりでの会話。何を話せばいいのか分からず沈黙になることを恐れていたが、存外、陽香の態度は終始柔らかく、緊張していた割にはスムーズに話す事ができた。苛々と劣情が収まらない。それでも、陽香を穢すようなことはしたくなかった。勇志は頭を掻き毟って、ソファーの上の服やら何やらを枕にして、不貞寝を決め込んだ。
どれくらい経ったのだろう。目を開けると、部屋は薄暗くなっていた。雷雨の音がカーテン越しに聞こえてくる。ぼうっとその音を聞きながらうつらうつらしていると、リビングにチャイムが響いた。
居留守を使おうと思ったが、チラとテレビドアホンのモニターを確認すると、ビショ濡れの女性、それも西園寺陽香が映っていることに気付き、目をかっ開いて飛び上がった。
ドタドタと玄関に走り施錠を解いてゆっくりとドアを開く。そこには、如何にも悄然としている陽香が、俯きながら立っていた。
「ど、どうしたの」
何も答えない。肌から、髪から、滴が伝い落ちる。白いワンピースには、薄らとピンク色の下着が浮いていた。騒ぎ立てる猿の如く鼓動が高鳴るのを感じ、一瞬言葉を失ったが、「と、とにかく入れよ……」と、何とか冷静に声を掛けた。
「お母さんは……?」
陽香が消えそうな声で尋ねてきた。よく見ると、靴も何も履いていない。
「今、居ないけど……。何があった?」刹那、勇志は息を吸って肩を上げた。陽香が勇志の胸元に額を当て、両手で彼の服を掴んだのだ。吸った息をごくんと飲み込む。頭が混乱して、息を吐いて吸っての作業を繰り返した。陽香はさらに、額を擦るように俯いた。「あ、あ、あの……」顔が熱くなる。全身が熱い。身体は肩を上げたまま硬直している。
「お願い……」陽香が呟く。
「え……?」勇志は上擦り声で疑問符を捻り出した。それ以上何も言わない陽香に、勇志は呼吸に合わせて一段階ずつ下ろすように、肩を落とした。そして、ゆっくりと、細い体に両腕を回した。濡れた髪から石鹸の香りがする。
「陽香……」
キツく抱き締め囁いた時、服を掴んでいた手が開いて体を押すような動きがあったが、最早制御は不能であり、その腕を離すことが出来なかった。「イヤ……」陽香が呟く。「え……?」反射的に声を出したその時、強い力で身体を押された。
「嫌!」
叫びながら、彼女は腕の中から逃げ出した。
「な……」
ーーなんで
「違う……」
「え……?」
「私が欲しいのは、こんなんじゃない……!」
陽香は瞳いっぱいに涙を浮かべながら勇志を見た。「ご、ごめん」思わず謝ると、白い頬を涙が伝い落ちた。唇を震わせながら出て行こうとする腕を、咄嗟に掴んだ。「西園寺ごめん! 行くなよ!」
彼女はまるで汚らわしい物に触れられたかのように、斬り裂く勢いでその手を振り解いた。
「ごめん……。守りたいんだよ、俺……」
虚ろに目を伏せていた陽香は、ゆっくりと色素の薄い黒目を動かした。何の感情も宿っていない冷たい瞳が、勇志を貫く。
「貴方が私に、守って欲しいんでしょ」
陽香は出て行った。閉じて行く扉の向こう、肌に張り付いた白いワンピースが消えていくのを、勇志はただ、何も言えずに見送った。
24
ーー痛い
心が痛い。あの人の純粋な、優しい温もりが、恋しくて、恋しくて、恋しくて。病院で守ってくれた、あの温もりが。階段でそっと重ねてくれた、あの温かい手が。
ーー欲しい
アリエルに向けられた声、目元、言葉、絡められた腕。激しい嫉妬が渦巻く。
『祈りましょう』
ーー煩い
『悔い改めましょう』
ーー煩い
『周りに感謝して、愛してる』
ーー痛い
『世界が綺麗に見える』
ーー痛い
『僕も人を好きだと思える』
ーー痛い、痛い、痛い!
陽香は走り出した。(私もそうなりたかったよ!)足の痛みなどどうでも良かった。(人を愛せる人間になりたかったよ!)涙と雨が頬の上で混ざり合う。
「はぁ……。はぁ……。はぁ……」
肩が上下する。線路の上。先程よりも強く、ヘッドライトの光が陽香を照り付ける。
「パパ……」一粒の涙が、濡れた下睫毛から落ちた。その時、誰かが陽香の腕を引いた。刹那、目の前で電車が通過する。
「望くん……?」
振り向いたところに立っていたのは、天使姿の、日馬暁良だった。陽香を見下げる顔に、いつもの微笑は欠片も無い。
「リボン、どうしたの。付けてないと駄目じゃないか」静かな声で、彼は言った。
「あなたに、そんなこと言われたくない……」
前に向き直る陽香。腕を振り解きたかったが、そんな気力も残っていなかった。
「自殺したらどうなるか、分かってるだろ?」
「だから死ぬんでしょ? 霊能力なら私にもあるもん。悪霊になって、こんな世界、壊してやる……」
「それは勘弁してほしいなぁ。君が悪霊になったら、きっと僕でも敵わない」暁良は優しく、諭すように言った。
「今更、何よ……。散々、私の気持ちを掻き乱すようなこと言っておいて……」
「ごめん。反省してる。あれは僕の、くだらない嫉妬だったんだ」
「嫉妬……?」
「君のお父さんが、優しかったって話を聞いて……」
振り向いて、顔を見上げると、彼は切なそうに微笑んでいた。
「日神護。天使名はシェムハザ」
ーーヒカミ、マモル。父の名だ。
「君のお父さんは……」
(シェムハザ? 天使?)脳の中が混沌とする。
「君のお父さんは、僕の育ての親だ」
頭が真っ白になり、目を見開いた。暁良がそっと、腕を離した。
「アリエルから、君の家に電話させるよ。友達の家に泊まるってことで。今は僕から離れない方がいい。どこかビジネスホテルにでも泊まろう」
「え……」露骨に抵抗感を示すと、暁良はくすりと笑った。
「警戒しなくていいよ。僕には恋愛感情も、性欲も無いから」すっと笑顔が消える。
「君に全てを教えるよ。僕が知っている、全てをーー」
25
公衆トイレで着替えを済ませた暁良は、灰味の強い長袖のカジュアルシャツを陽香に羽織らせた。「足、大丈夫?」途中で百円ショップに寄り、クロックスを購入。おんぶしようかと言ったが陽香が峻拒したため、そのままビジネスホテルに向かって歩いた。シングルルームを二部屋取る。
「とりあえず、早くシャワーを浴びた方がいいよ。部屋で待ってるから、出たら来て」
表情を作る気は、もう無かった。陽香は彼を一瞥して目を伏せると、「すみません……」と呟いて、部屋に入って行った。
無機質な白い扉が閉まる。暁良はホテルを出た。近場のスーパーで、極力無難な黒いワンピースを購入。早足でホテルに戻ったが、部屋の前には誰もいない。陽香の部屋をノックしてみたが反応は無く、まだシャワーを浴びているようだ。自分用に取った部屋に入室して、購入した服をベッドの上に置き、カーテンを開けた。日の沈んだ街。行き交う車のヘッドライトが、人間達の生活と生命を見せてつけて来るようだった。暁良はポケットから携帯電話を取り出して、自宅の番号を入力した。コール音が途絶え、望の声が聞こえてきた。アリエルに代わってもらい事情を説明すると、彼女は落ち込んだ声で承諾した。『アズ。陽香さんに、ごめんなさいって伝えておいて……』
「ああ、分かった。じゃあ、頼んだよ」電話を切ったタイミングで、ちょうど陽香が訪ねて来た。扉を開ける。彼女はナイトガウンの上からバスタオルを羽織って、首元で握っている。
「寒いの?」暁良の問いに、陽香は伏し目のまま瞳を揺らした。「い、いえ……」電球色のダウンライトの下。柔らかな灯りが注がれる頬に、淡色が羞恥が浮かぶ。
(ああ、下着が無いからか……)
女性は大変だなという思いと、そこまで気が回らなかったことに若干の謝意を抱き、頸を掻く。
「それ、買っておいたから、明日着るといいよ」暁良はベッドの上の紙袋を指差した。「明日の朝、早めに僕がチェックアウトして車で迎えに来るよ。いい?」
「はい。すみません……」
「とりあえず、気持ちが落ち着いたみたいで良かったよ」ポンと陽香の頭に手を乗せて、椅子に腰掛けた。「君も座って」と、掌を上に、ベッドを指す。
「はい……」
暁良は間接照明が淡く照らす鏡台に右の肘を突いて、緩く丸めた手の甲に顎を乗せ、軽く溜め息を吐いた。そして顎から手を離し、台の上にだらりと乗せ、陽香の顔を見た。彼女は顎を引いて、不安な面持ちで暁良を見ている。
「今からする話は、君にとって、受け入れ難い現実だ。冷静に話を聞くと、覚悟を決めてくれる?」
「は、はい……」少女は眼を伏せた。
「単刀直入に言う。君のお父さんは、もう死んでいる。……残念だけど」想像は付いていたのだろう。彼女は眉根をぎゅっと寄せて、静かに涙を滲ませた。
「君の父親は天使、シェムハザ。だから、君も人間なのに悪霊が見える。知っての通り、本来、悪霊は生者が共鳴することで、その姿が可視化する。つまり悪霊は、自分の姿が見える人間に取り憑くんだ。だけど君は、全ての悪霊が見えていながら、あのリボンを捨てられるまで、直接的な攻撃は受けなかっただろ? それは、天使が悪霊から身を守る為に生まれた時から備えられている力、言わば『守備力』が、あのリボンに移されていたからだ。シェムハザの守備力、全てがね」
陽香は顔を上げて、暁良を見つめた。
「それだけ君を守りたかったんだろう。愛していたんだ。心から」暁良は淡々と語った。陽香は黙って彼の言葉を聞いている。
「それをプレゼントした事は、僕にも教えてくれたよ。彼は、『家族がいる限り、悪霊に取り憑かれることは無い』と言っていた。幸せでいられるという、自信があったんだろうね。」少しの間見つめ合うと、暁良は瞳を右下に落とした。
「三歳の時、両親が死んで、身寄りの無い僕をシェムハザが引き取ってくれた。まあ、周りに押し付けられただけなんだけど」口元だけで、小さく笑う。「会話なんかほとんど無かったよ。普通、幼い子供を育てるってなったらさ、いくら自分の子供じゃなくても、もうちょっと優しくするよ……」
「彼は、世界を嫌っていた。他人を愛する事ができない人なんだと思ってた。だから、君にそんなリボンをプレゼントしたと聞いて、心底驚いたよ」陽香の顔を見て、口の端だけで笑った。顔を逸らすと、再び、手の甲で頬杖を突いた。
「堅物で、朴念仁で、人間嫌いなシェムハザが、ある時から家を空けることが多くなった。ニカ月程して、恋人の存在を打ち明けてくれた。僕は問い詰めたよ。天使が人間と恋に落ちることは、罪だから。彼は言った」
ーー『私はもう、天国へは行けない』
「今ならあの言葉の意味が、ハッキリと理解できるよ。彼は既に、許されない大罪を犯していたんだ。それからすぐ、彼は僕を施設に入れた。九歳の時だった。そして彼等は結婚して、君が生まれた。その頃に、一度だけ、あの家に招いてくれたことがあったんだ。君のお母さんにもお会いしたよ」陽香の目を見る。「綺麗で、愛嬌があって、素敵な女性だね」
「でも、僕はあんまり好きになれなかったな。彼女がシェムハザとの間に子供を作って結婚したせいで、僕は施設に入ることになったのに、それに対する遠慮が全く無いんだもの。鈍い人なんだろうなって思ったよ。案の定、あんまり良い人では無かったみたいだね。……というか、だいぶ悪人か……」暁良は腿の上で両手を組み、目を伏せて、冷ややかに笑った。
「え……?」
「シェムハザが生きる希望は“家族“だった。一体誰が、それを壊したんだと思う?」
「……」
「お母さんの再婚、随分早いと思わなかった?」
陽香は目を見開いた。「まさか……」
「君のお父さんが失踪する、半年ぐらい前かな。偶然見ちゃったんだ。君のお母さんが、知らない男性と腕を組んで歩いているところ。勿論、誰にも話さなかったけどね。やがてシェムハザも、その事実を知ってしまったんだろう。だから君を絶望させないために手紙を残して、失踪扱いになるよう準備してから、自殺した」
「どうして、死んだって分かるんですか……?」
「見たからだよ」冷淡に言い放つ。虚になって、陽香の目を見た。「君に遺体が見つかったら困るだろ? 天使の間では、儀式によって仲間を葬ることがよくあるから。だから僕に見せたんだ。珍しく彼が電話をくれて、久しぶりに二人で山でも登らないかと誘われた。嬉しかったよ。彼の中で、まだ僕はちゃんと子供なのかなって。指定された時間にその場所に着くと、死体がぶら下がっていた」
しばらくの間、沈黙が流れた。陽香は予想していたよりも冷静だった。クローゼットの辺りを、憮然とした表情で瞳に映している。すぐに現実を受け入れられないだけかも知れない。
「君に話すべきことは、これで全てかな」椅子から立ち上がり、夜景を映す窓の下枠に右手を乗せて、もたれるようにガラスに側頭を当てた。
「あの封印は……。渡辺家の、結界は、悪霊になったパパが、やったんですか……?」
暁良は窓に映る陽香と目を合わせ、微笑んだ。
「天使が悪霊になることはないよ」
「え? でも……」
「天使が自殺しても、悪霊にはならない。天国には行けなくなるみたいだけどね」
「じゃあ、パパは……」
「ああ。今頃、地獄で焼かれているよ」陽香は眉を寄せて、悲痛を湛えた。
「ごめんね」
「……え?」
「故人の名誉を汚すようなことを言って。望くんに疑われて、邪魔されたら困るからさ」
深みを増した夜闇の中で、人の往来が見える。光が動いている。
「あの結果は、僕が張った」
橙色の街灯。アズラエルはそう呟くと、無表情で振り向いた。
「大丈夫。明日、僕がパパに合わせてあげる。だから今夜は、ゆっくりお休み」
目を見開いて混乱している様子の陽香の額に、そっと手を当てる。徐ろに目蓋が閉じられていく。「どう、いう……」深い眠りに落ちた陽香の頭を左腕で抱くように支えると、右手を両膝に潜らせて、ベッドの真ん中にゆっくりと寝かせた。束の間の夢に鎮む彼女の横に腰掛け、頭を撫でる。
「明日は月が、すごく綺麗だから」
窓の向こうでは、深淵の闇の中に、黄色い満月が浮かんでいる。それはまるで、世界に開いた穴のよう。あの世とこの世を繋ぐ、入り口のようだった。
第五章
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日馬暁良の両親は、夫婦共に信心深く、良く祈る人だった。夜の枕元で、二人は息子に自分達の歴史をよく聞かせていた。
『元々、私たちが存在するこの世界には天も地も無く、広漠とした闇が有るだけだった。その中で唯一生命を宿していたお方が、偉大なる太陽神、セオス様。セオス様は銀河を誕生させ、地球を生み出し、共に世界を管理する妻としてセレネを創造した。セオス様はセレネを深く愛し、二人の使者として私達をお創りになった。
本来、生命は太陽神セオス様と、セオス様に寵愛されしセレネの特権。私たちは肉体を持つだけで、心の無いロボットのような生き物だったの。けれど、ある日、セレネは自分の主人であるセオス様に無断で、私達に心を与えた。結果、この世界に“罪“が生まれてしまった。
セオス様を裏切ったセレネが与えた心は穢れていて、天使達は使命を見失い、セオス様の言うことを聞かなくなったの。セオス様はお怒りになって、地球に天体をぶつけて私達を滅ぼそうとした。しかしセオス様は、心を持っても尚、セオス様に忠誠を誓う私達の愛に目を向けてくださったの。罪を持つ穢れた私達のことも、広い御心で赦し、愛してくださったのよ。
そうして地球を破壊することをやめて、天体の破片を集めて月を創造したセオス様は、セレネを地球から追放し、月を光らせる者とした。セオス様は、私達の愛を大変良しとされて、初めから心を持つ人間を創るよう命じられたの。
けれど、私達天使はセオス様と違って不完全な存在。人間は心だけでなく、死と病、その他のあらゆる苦痛を孕む肉体になってしまった。寛大なるセオス様は、それさえも良しとされた。弱ければ弱い程、愛の力は大きくなるとお考えになったの。月の女神となったセレネに対する最後の罰として、セオス様は天使の肉体も人間と同じ脆弱なものに創り替えられた。
そうして人間と天使が共に生きる、今の地球が誕生した。けれど、セレネが持つ罪の性質は、月に閉ざされてからも力を持っていたの。
人間が自殺して肉体が滅びたとき、月光がその魂を蘇らせる。悪霊となった人間達は人々を呪い、死者は新たな悪霊となり、また人々を呪う。セオス様は愛する人間達を救済するために、悪霊達を追放し罰する為のシェオルを創り、私達に悪霊を貫くための剣を与えてくださった。私達の力は、セオス様の愛。人が犯す罪さえも、セオス様の慈愛に満ちた赦しによるものなのよ。だからと言って、罪を犯しては駄目よ。そうすれば天国に行けなくなってしまうからね』
しかし、暁良が三歳の頃。両親と大通りの商店街へ出掛けた時の事だった。さて帰ろうというところで、「ママ、おトイレ」暁良は父を残して、母と手を繋いで公衆便所まで用を足しに行ったの。母に両脇を抱き上げられながら手を洗っていると、外から耳を劈くような悲鳴が聞こえた。一人では無い。あるいは女性、あるいは男性の叫声が、二人の耳に届いた。その内の男性の声は、父に似ていた。
「ガブリエル……!」母がその方を見ながら上擦った声をあげた。そして、次の瞬間には抱き上げているアズラエルを投げんばかりの勢いで和式トイレのある個室に連れ込み、鍵を掛けた。母は壁の隅にしゃがませたアズラエルを両腕でしっかりと抱き締めた。震える息が幼い息子の髪を吹き撫でる。そのまま少し居ると、悲鳴が聞こえ無くなり、母はアズラエルの頭にくっ付けていた顔をゆっくりと上げて、扉の方へ振り向いた。ゴクンと生唾を飲む音が聞こえた。そして、アズラエルに向き直ると、「絶対にここから出ちゃ駄目よ」と言って、立ち上がった。状況は分からなかった。だが、大声を出してはいけない事だけは、本能的に分かった。「行かないで」アズラエルは大きくゆっくりと口を動かして、声にならない声で母に嘆願した。しかし、母は扉を開けてしまった。もし、父の身に何かあったのなら、直ぐに処置しなければと思ったのだろう。開いた扉の前には男が立っていた。アズラエルには二メートルにも三メートルにも見えたその男は、季節外れのファーが付いたフードを目が隠れるほど深く被っていた。歯茎を剥き出すように、男が笑った。ボロボロの黄色い歯が見えた。母の首にナイフが刺さった。男がそれを引き抜くと、血飛沫が舞った。誰かの怒号が聞こえて、男は走って逃げて行った。そこからの記憶は無い。
身寄りのないアズラエルは、婚約者として定められていた天使が悪霊との戦闘により死去してしまい、独身だったシェムハザに引き取られることになった。共同生活の中で、シェムハザが笑うのを見たことは、いよいよ一度も無かった。最も人の温もりを欲する時期に、愛も、体温も感じる事がないまま、アズラエルは小学五年生になった。交友関係も全く無いと思っていたシェムハザが、毎週末には必ず出掛けるようになった。
「今、一人の女性と付き合っている。今日、彼女から妊娠を告げられた」
「え……? 女性って、人間? 人間と恋をしたらダメなんじゃないんですか」
「ああ。私はもう、天国には行けない」そう語る彼の目元には、幽かな笑みがあった。
「申し訳ないが、君には施設に入って貰わなければならない」
そうして、その男との生活は終わった。歳不相応に落ち着き払っていて身体能力も高かった暁良は、学校に留まらず近所でも異質な存在だった。金髪碧眼の容姿は父母からも注目されており、女子生徒からは密かに「王子」と呼ばれていた。聡く、場の空気に対する順応力も高かったため友人もいたが、施設に入れられてから表層的な友情は脆く綻び、彼に対する嫉妬が顕在化し始めた。
湯田剛毅ーー厚い一重瞼に全剃りの眉、体が大きく、白い肌は脂肪でぽってりと膨れている。彼の親は地元の不良達の間では有名な荒くれ者らしく、その愚息である彼も、小学生ながら酒と煙草を嗜む悪餓鬼だった。
「お前って施設で暮らしてるんだろ。金も親もねぇんだろ。それってチョー哀れだよな」
笑われても、暁良は俯いて、黙った。「おい! 無視すんなや!」腕を強く押され暁良がバランスを崩した為に、椅子が滑り、尻餅を突いて転倒。後ろの机に体中を打ちつけた。それでも、暁良は視線さえ相手に与える事なく、座り直して本を読んだ。
「なんだよこれ」乱暴に上から掴み取られる。「イーワーンーイ……」
雑巾でも触るように、角を摘んで文字を読む剛毅の手から本を取り戻し、席を立った。「変な本読んでんじゃねーよ、バーカ!」後ろから幼びた罵声が飛んできたが、暁良はやはり睨み返す事さえなかった。その姿は女子生徒の目に、酷く臆病に映った。苛烈な虐めが始まった。後ろから背中を蹴られる、教科書や文房具を捨てられる、髪をめちゃくちゃに切られた事もあった。暁良は一切反抗しなかった。傍観者達はまるでクラスには何の問題もないような顔で、子供らしい学校生活を謳歌していた。教室という小さな箱の中で、彼らはすっかり飼い慣らされているのだと、暁良は思った。人間が暴力を振るわれている、物を壊されているという異様な光景が、その箱の中ではいとも自然に背景として馴染んでしまう。環境に飼い慣らされた時、人は驚くほど、無慈悲になれる。湯田剛毅は、隣のクラスの生徒も虐めていた。
彼の名は、渡辺良太。
真っ黒な髪をした、小さなホクロが目元口元にいくつもある色白の少年。もみあげを耳の真ん中辺りまで残し、前髪はちょうど平行型の濃い眉毛が見えるぐらいの長さで四方八方に分岐している。眠たそうな一重瞼がいかにも善良そうな顔つきの、変わり者だった。ペンギンのような歩き方、一人でいるのにニヤニヤと笑っていたり、やたら芝居じみた台詞回しをしたりする独特な人物で、苛めっ子としては格好の弄り相手だったことだろう。剛毅から大声で馬鹿にされたり、小突かれているのを何度か目撃したことがある。
日曜日。淡く、くすんだ空に、赤橙の雲が龍の鱗のように、ぎゅうぎゅうに立ち並ぶ夕暮れ時。剛毅に呼び出しを食らい人通りの無い高架下に着くと、彼の仲間二人と、口の端に血を滲ませている渡辺良太が待っていた。右目の瞼が腫れて、細い目がさらに細くなっている。
「お前ら、決闘しろよ」
「え……?」
「勝った方は仲間にしてやる」
良太を見ると、彼はぐっと眉を寄せて暁良を睨んでいた。その顔に、暁良は全てを諦めて、目を下方に逸らした。
「分かったよ」
対峙する二人。構える良太に、暁良は棒立ちのまま、目を伏せた。壁際で両脚を広げて屈んでいる剛毅が、高笑いしながら始まりの合図を出すと、良太が雄叫びと共に拳を振り上げ、向かって来た。(ここで僕が負けたら、彼は虐めから解放される)暁良は拳を握り、目を瞑って、左の頬を差し出した。
ーーセオス様。僕はそんなに、悪い子供でしたか?
ーー僕のお父さんとお母さんは、何か間違っていましたか?
太陽は何も答えない。そして、渡辺良太の拳が、ピシッと頬を掠めた。彼は右肩を削るように、勢いよく地面に倒れ込む。「ああああ! 負けたああああ!」
(え……?)
「俺の負けだ! ちくしょぉぉぉ!」右肩を押さえながら踠いている良太を、暁良も、剛毅も、その場に立つ全員がキョトンとしながら眺めていた。
「て、てめぇ! ふざけてんじゃねえぞ!」剛毅が立ち上がり、三文芝居を演ずる良太の腹を踏みつけた。すると、良太はその脚をがっしりと掴んで、咆哮しながら体を起こした。片脚を持ち上げられた剛毅は片脚跳びで後ろに退がったが、良太の勢いに押され、転倒ーー後頭部を強く打ち付け、「てめ、何す……」威嚇する隙も与えらず、馬乗りになった良太に何度も、何度も、顔面に拳をぶつけられている。
「日馬暁良ァ!」
愕然とする暁良に、良太が叫んだ。
「俺たちは強くならなきゃダメなんだ! 生きることは戦うことだ! 負けるな! 勝ち取れ! 幸せを捨てんなァー!」
暁良の体内で、全身の血管が震えた。ドクン、ドクン、と、心臓が高鳴った。
『負けるな!』
『勝ち取れ!』
剛毅の仲間の一人が良太を羽交い締めにする。「さ、さっきから何言ってんだ、この野郎!」「うるせぇぇ!」良太は暴れながら、今度は足で剛毅の顔を蹴り付けた。「てめぇ!」もう一人の仲間が彼の横腹を蹴り飛ばす。倒れる良太。
『幸せを、捨てんな!』「あああああああああああ!」暁良は地面を蹴り、拳を振り翳した。良太を羽交い締めしていた少年が振り返る。その頬に、拳がめり込んだ。中手骨の骨頭が少年の歯に当たる感覚がした。後ろから殴り掛かってきたもう一人にも、振り向きざまに肘鉄砲を喰らわせる。
「おおおあああああああああああ」もう一発、ふらつく相手の顎先に拳をぶつけた所で、剛毅ら三人が倒れ、良太と暁良が立っていることに気付いた。息を切らし、肩を上下させる暁良は、良太の顔を見た。同じく息を切らしながら、良太も暁良の顔を見て、にんまりと笑った。
「逃げろー!」
「おー!」
二人は走った。走りながら声を上げて笑った。“罪を犯した“ことは分かっていた。しかし暁良の心は、碧落一洗の青空のように晴れていた。しばらく走ったところで、二人は前のめりになって膝に手を当てながら、息を整える。
「スッキリしたな!」
「うん! ……でもやっぱり、人を殴るのは、嫌だな」拳に滲む血を見て、暁良が言うと、「負けっぱなしの方が最悪だよ」良太が言った。そして彼は、暁良に向けて真っ直ぐ腕を伸ばして、拳を突き出した。
「勝ち抜こうぜ!」
初めての勝利。初めての友情。初めて見えた、希望。暁良はニッと唇の両端を上げて、良太を見た。
「おう!」
勝利の祝杯をぶつけるように、二人の拳がぶつかり合った。暮れなずむ空の果てで、夕陽の残光が神々しく輝いていた。
その日から、ほとんど毎日二人は遊んだ。虐めは無くなり、残りの小学校生活、中学と楽しい日々が続いた。高校は寮のある商業高校に決め、二人で青春を過ごした。共に行動する中で、暁良は良太について、対人関係を構築することが不得手なんだろうと感じることが度々あった。思った事を遠慮無く言ってしまうタチで、他の学生と揉めたり、女子生徒から睨まれるようなこともあった。それでも良太は、暁良にとって無二の親友だった。嘘をつかず、裏表のない彼を誇りに思っていた。卒業後、暁良は地元の市役所に就職。良太は四年制私立大学の工学部に進学した。彼は惚れっぽい男で、よく恋愛相談を暁良に持ち掛けた。とは言え、その殆どはデートの段階で破綻してしまい、付き合う事が出来ても一カ月も経たないうちにフラれる始末。
「はぁ〜。どうしたらモテるんだろうなぁ、暁良」良太はベッドに仰臥し、手足をバタつかせる。ブラウンカーペットの上で、ベッドを背凭れに立て膝で座っていた暁良は、前屈みになって埃を避けた。
「なんで、そんなに女性とお付き合いしたいの?」ブラウンのカーペットの上で漫画を読みながら尋ねると、良太は飛び跳ねるように起き上がり、両膝を突きながら暁良の肩を揺さぶった。
「男だからだよ! 逆になんでお前はそんなに興味ないんだよ! ハッ! まさかお前、ゲイなの!? 俺の体を狙ってんのか!?」そう言って胸と尻を手で隠す彼の溝落ちに、「なわけねーだろ気色悪い!」と、閉じた漫画の角を撃ち込んだ。良太が奇妙な呻き声を上げる「ぬっふ!」
「俺は……。んー……。俺さ、実は婚約者がいるんだよね」溝落ちを押さえながら、良太は口をあんぐりと開けて、変な顔をした。
「って言っても、もう十年以上会ってないし、連絡も全然取ってないけど」
「それ婚約者って言わねーだろ」
「まあ、でも、結婚はするから。多分」暁良は眉を下げて苦笑した。
「マジなの?」
「一応ね」
「マジかよ……。どんな人なの? 画像とかないの?」
「画像か。検索したら出るかな……」ジーパンのポケットから携帯を取り出す。「あ、出た。この子」検索にヒットしたのは、巻紙のブロンド美女。良太は向けられた画面をじっと見ると、哀れむような目で暁良を見た。
「そっか。そういう子が、好みなんだな。分かったよ」慈悲の笑みを湛えながら“うんうん“と一人うなずく良太に、「ふざけて言ってるわけじゃねーよ」と苦笑いを浮かべる。
「うっそだろ!? だって! うっそだろ!?」
「幼馴染なんだよ。昔は割と仲良かったんだけどなー」すっかり大人の女性に成長している彼女を、液晶越しに懐かしく思いながら眺める。
「名前は!?」
「ミシェル・サンチェス。モデルやってるとは聞いてたけど、こんな本格的に活動してるとは思ってなかったな」
『ははは』と笑う暁良の後頭部に、良太は手刀を喰らわせ、壁を向いて頭まですっぽりと布団に包まってしまった。かと思うと、ひょこっと顔を出して暁良の目を見た。「その子も、誰とも付き合ってないんかな?」
「さあ……。本当に、成長してからは話してないから分からないな。いないとは思うけど」
「気になんないの? そんな綺麗な子が婚約者だったら、絶対好きになるだろ!」
「気にならないなー。誰かを恋愛的な意味で好きになったことないんだ、俺。性欲も感じたことが無い。変だよな」暁良は画面のミシェルを見つめる。“綺麗だ“とは思うが、それ以上の感情が生まれない。暁良はそんな自分に、密かなコンプレックスを抱いていた。「引く?」
良太の顔を見ようと振り向くと、彼はまたもそっぽを向いて不貞寝していた。暁良も何も言わず、閉じた漫画を開いた。その時、「いいじゃん! それ、なんか博愛的でさ!」良太の声が鼓膜に届いて振り向くと、彼はにんまりと笑っていた。
(博愛か……)
「ありがとう」
親友の賛辞に、自然と頬が綻んだ。良太が唇に人差し指を当てて、潤んだ眼差しで彼を見つめる。「お前になら、あげてもいいよ……」暁良はそっと漫画を閉じた。「俺のど、ぬっふ!」彼の額に背表紙の角を撃ち込み、漫画の続きを読み耽った。平和で、笑顔の溢れる生活。暁良の人生は、良太との友情に彩られた。良太が大学を卒業する年には、貯金を叩いてタイへ旅立った。初めての海外旅行。異国の文化に触れて、日本と違う風の香りを堪能した。
『金貯めて、いつか世界中を旅しよう』『うん』カラフルな宝石のように立ち並ぶ屋台を眺めながら、そんな言葉を交わした。泡沫の約束。全ての歯車は、良太の就職をきっかけに狂い始める。
大手自動車メーカーで整備士として働き始めた良太を、暁良は就職祝いだと言って、三週間ぶりに飲みに誘った。
「仕事はどう?」
「難しい。怒られてばっかだよ」珍しく、良太は落ち込んでいた。「けど、負けらんねーよな! ほら、俺の妹、障害あるからさ。俺がしっかり働いて、養わねーとな!」良太はニカっと歯を見せて笑った。その笑顔に安心する暁良。
「働き始めは誰でも怒られてばっかだって! 気にすんなよ」
「だよな!」別れ際にはいつも通りのお調子者に戻っていた。「んじゃ! まったな〜」ひらひらと手の平を揺らす良太に、暁良も笑顔で手を振り返した。一週間後、突然良太から電話で誘われ店に行くと、既に酩酊状態の彼が、居酒屋のカウンターで顔を赤くして笑っていた。無茶な飲み方をする事は時々あったが、一人でそこまで酔うほど飲んでいるのを見たのは、初めてだった。
「どうしたんだよ、一体。何かあった?」
「俺、ほんっと馬鹿で全然仕事が出来なくってさー! 上司に『頭に障害があるんじゃねぇのか』って言われて、腹立って検査してみたら、ドンピシャ! 発達障害だってよ!」良太は腹を抱えて笑っている。「親父も仕事が上手くいかねぇみたいで、最近アル中みたいになってやがるしよ。おふくろも結構、参っちゃってんのよ〜」笑い声が、次第に嗚咽混じりの泣き声に変わった。
「俺さぁ、なんで生まれてきたんだろ……。どうせなら妹みたいに、何も分かんねぇぐらい重度の方が良かったよ……。そしたら自分が嫌になることも、死にたくなることもないんだもんな」家族の悪口などおくびにも出したことの無い良太が、そんな台詞を口にした事が信じられなかった。「でも、俺は負けねぇ……。絶対、絶対、負けねぇんだ」良太はカウンターの上で、震える拳を握った。
「そ、そうだよ、良太。こんぐらいで泣き声言うなんて、お前らしくないぞ。金貯めたらまた、どっか旅行しようよ。県内でもいいからさ、どっか出掛けて、気晴らししようぜ」
「アリだな、それ……!」良太は笑った。
それから仕事の話題は一切出なかった。芸能人のゴシップや、女性の話、漫画の話などくだらない話で盛り上がり、帰り際には、またひらひらと手を振って笑っていた。「んじゃ、まったな〜! 今日はありがとな!」
「いや。無理すんなよ」暁良は拳を突き出した。「勝ち抜こうぜ!」
「おう!」彼も拳を前に出した。いつも通りの、笑顔だった。
それから二カ月。良太とはほとんど連絡が付かなくなった。遊びに誘っても二日や一週間してから返事が来る状態で、電話を掛けても出ない。よほど忙しいのだろうと思い、負担にならないよう、暁良も連絡を控えた。ある夜、良太からメールが届いた。
『明日の夜、暇? 飲み行かね?』暁良は直ぐに承諾メールを送った。
久しぶりに会った彼はまるで覇気がなく、痩せていた。元気そうに明るく笑うが、ふとした瞬間、ぼんやりと目が虚になる。
「早く天国行きてぇなぁ」脈絡も無く、良太がぼやいた。
「何言ってんだよ……」暁良は笑ったが、冗談には聞こえなかった。
「きっと天国ではさー。妹も、親父も、お袋も、みーんな元気いっぱいでよー。俺みたいなクズでも、毎日馬鹿騒ぎしながら笑ってられるんだろうなー……』
「やめてくれよ、そんな、嫌な冗談……。良太はクズじゃない」
良太は底に残ったビールを混ぜるようにジョッキを揺らし、ただ、じっとそれを眺めていた。別れ際、彼は顔の横まで手を挙げて、「じゃあな」と言った。いつものように、『またな』と言わない事が、大きく胸につっかえた。
「良太!」
良太は二、三歩進んで、ゆっくりと振り向いた。憑物が取れたような、柔らかい笑顔だった。
「大丈夫か……?」
「何がだよ」彼は笑った。「またな!」そして、ひらひらと手を振った。
翌朝。食パンを齧りながら朝のニュースを見ていると、見覚えのある一軒家が映った。ぼかしがかかっているが、良太の家で間違いない。「今日未明、閑静な住宅街にある民家で、四人の遺体が発見されました。新聞配達員の男性が、窓際で揺れている人影を怪しく思い、通報。警察が駆けつけたところ、父親と見られる男性を含む三人が、何者かに刺され血を流している状態で倒れており、全員、その場で死亡が確認されました。この家の長男と見られる男性が首を吊って死亡していたこと、遺書が残されていた事などから、警察は長男が心中を図った可能性が高いとして、捜査を進めています」
暁良はすぐに携帯を取り、良太の番号に発信した。『おかけになった番号は、電波の届かない場所にいるか、電源が入ってーー』携帯を握ったまま玄関に直行する。サンダルを履いて自転車に飛び乗り、良太の家まで全速力でペダルを漕いだ。
(どうか、間違いであってくれ!)
しかし、案の定、良太の家の周りには警察と野次馬が集まっていた。(嘘だ、嘘だ、嘘だ……)自転車に跨りながら呼吸を乱す暁良は吐き気を催し、その場で嘔吐した。
『良太!』『大丈夫か?』
ーー気付いていたのに
『何がだよ!』『またな!』
ちゃんと話を聞いていれば良かった。良太。家庭の問題だろうがなんだろうが。『天国に行きてぇなぁ』無理矢理にでも介入すれば良かった。止めていれば良かった。良太。どこか相談に乗ってくれる機関に。なんで。繋げていれば良かった。『じゃあな』良太。工場長をぶん殴ってやれば良かった。『じゃあな』いや、殺してやれば良かったんだ。『じゃあな』なんで俺は。『じゃあな』『じゃあな』『じゃあな』何もしなかった! 様子がおかしいって分かってたのに。なんで俺は! あいつの強さを過信した。弱音が吐けるような奴じゃないのに! 簡単に逃げられるような奴じゃないのに! なんで! 俺は!
『またな』
「ああああああああああああああああああああああ! ああああああああああああああああああ!」
ーー良太
『きっと天国ではさー。妹も、親父も、お袋も、みーんな元気いっぱいでよー。俺みたいなクズでも、毎日馬鹿騒ぎしながら笑ってられるんだろうなー……』
野次馬の声が耳に障る。
「長男が家族を殺したんですって!」
「何があったのかしら」
「元々ちょっと変わった子だったのよ」
「怖い」
「自分の子供に殺されるなんて、親御さんも浮かばれないわね」
暁良は呟いた。「うるせぇな……」涙と共に大量の唾液を分泌する口から涎が垂れる。ハンドルを握る手が濡れた。「何を知ってんだよ、お前ら……」世界が、真っ暗になった。
その夜、アズラエルは天使の正装を身に纏い、渡辺良太の家に入った。
「良太……」
一階の窓際で、良太は蒼い月を見上げている。顔は見えない。彼にどの程度、人間としての意識が残っているのか、アズラエルにも分からなかった。自分の声が届いているのかも分からない。存在に気づいているのかも分からない。暁良は右手を前に翳した。
「太陽神セオスの権威に依って、汝を追放する」青い光が剣を成す。鞘と、柄を握った。
「お前が、死んだのは……。天国に行くため……」澄んだ空のような閃光を放ちながら、剣がその刃を顕にした。
「くっ……」強く目を瞑る。涙を散らせながら剣を構え、地面を蹴り上げた。
「ああああああああ!」良太が振り向いて、身体を暁良に向けた。その心臓を、鋭い刃先が貫く。
「シェオルの……」
良太は何も喋らない。じっと暁良を見つめている。「業火に……」その瞳には、あの日と同じ、綺麗な夕陽が映っているように感じた。彼と過ごした思い出の数々が、走馬灯のように頭を駆け巡る。
「ちくしょぉぉぉ!」暁良は剣を引き抜き、大きく振り被って、床に叩き付けた。「良太ァァァ!」拳を、あの日と同じ、拳を、勝利を誓い合った拳を、彼の頬目掛けて思い切りぶつけた。しかしその拳は、空気を殴ったようにすり抜け、肩から床に倒れた。「良太……」暁良はそのまま、胎児の様に身体を丸めた。「なんで……。なんで……」
「なんで、なんで、なんでだぁぁ!」身体を翻らせた勢いで、腕を振って窓を殴る。足で床を踏み付ける。そして、両手で顔を覆った。
「ごめんな、良太。っ……。ごめんなぁぁ……」
青い月が煌々と照らす、薄暗い部屋。そこにはもう、誰もいない。
暁良は両親から受け継いだ聖典を破り、逆様にして渡辺家の壁中に貼り付けた。ブロック塀の内側にも、路傍からは見えないように貼り付けた。そして、懐に収めていた匕首を取り出し、自らの掌に突き刺した。
「ぐぅ……っ……」引き抜いて、血がボタボタ滴る手の平を、彼の家の入り口となる空間に手形をつける様に押すと、そこから血脈のように赤い光の筋が広がり、真四角に家を囲った。
人殺しは、モンスターなんだと思っていた。あの時、母の首に包丁を突き刺した男は、違う世界から来た宇宙人なのだと、突飛な話だと思いつつも、何割かは本気でそう感じていた。暁良は最寄りの図書館へ赴いて、触れないようにしていた事件の記録を詳らかに調べ上げた。彼の生涯と、犯行に至った心理が記された書籍、パソコンのホームページ、調べられる限り、その目で確かめた。その男は、広汎性発達障害と診断されていた。その男は、両親から常軌を逸する厳しい躾を受けていた。その男は、学校で虐めを受けていた。その男は、何度も自殺未遂を起こしていた。その日も衝動的に死のうと思い、包丁を万引きした。『おい! 何やってんだこの野郎!』高校生のアルバイトが、彼に怒号を浴びせた。その瞬間、殺意の矛先が、他者に向けられた。(そうだ。こいつ殺せば、俺、死刑になるんだーー)彼は思った。(死刑になるには、何人殺せばいいんだっけ)彼は思った。(とにかく沢山殺せばいい)
ーー彼は、彼は……。狂っている。でも、狂わせたのは、モンスターに変えたのは、”世界”
欲望には際限がない。人は当たり前の有り難さに気付かない。友人がいること。恋人がいること。家族がいること。仕事があること。家があること。健康であること。生きていること。渇望していたものが手に入れば、また別のものが欲しくなる。追求する限り、幸せを掴むことはできない。幸せな人間など、この世界には存在しないのだ。するとしても、その人間は、他人の痛みを理解できない者だろう。
それなら、人が、生まれる意味は、あるのだろうか。生き続ける意味は、あるのだろうか。
「ないだろ。そんなもん」
暁良は悪霊を祓う事を辞めた。しかし、広すぎる世界の中で、それはほんのちっぽけな抵抗に過ぎなかった。『仲間を増やそう』と、彼は思った。シェムハザの遺体を処理する時そうしたように、天使一覧の連絡帳を開いて、先ずは近隣の天使達との交流を深めようとした。しかし、会話を進める内に、それがいかに無謀な試みであるかを再認識した。彼等が最も恐れているものは地獄。さらに、彼等が最も愛しているのは、自分の幸福に他ならない。天使はその容姿、能力に恵まれている者が多い。地獄に落ちても構わないと思える程セオスを恨む者も、人を愛する者も、接した限りでは見つけられなかった。
暁良はシェムハザを思った。曽ては恨む気持ちも強かったが、彼は地獄に落ちる覚悟で、一人の女性を愛した。罪だと恥じる事も、悔い改めることも無く、父親になった。それだけ深い愛情を秘めていながら、自分に向けてくれなかったことに凄烈な悲しみはあったが、それでも、天使として、彼は穎達した気高い精神の持ち主だったのではないかと、初めて尊敬の念を抱いた。
諦めかけていたとき、偶然、日向望に再会した。彼は深く人間を愛していた。強いエンパシーの持ち主で、信仰心はあるものの極めて義務感に近いものであると、暁良は見て取った。まだ齢十三という若さで、人々の悲しみ、世界の惨状から目を背けず、献身している。ただ、彼の婚約者、アリエルが厄介な枷となった。アリエルは天使の中でも特に盲信的な女性。望は望で他者に同情的ではあるが、恨みや憎しみといった攻撃に転じるような感情が弱く、愛する女性の愛する存在として、セオスのことも尊んでいたのだ。
『セオス様が正しくても、間違っていても、僕がする事は変わらないから……。それなら疑うよりも、信じる方を選びたい』
彼は虐めに遭っても、全てを愛そうとしていた。暁良は、望を仲間に加えることを諦めた。生き地獄のような日々が時を刻み、電話口で、転校をきっかけに望と同居することが決まった夜。夢を見た。何もない真っ白な空間に、人影がある。全身が光っているため顔は分からないが、シルエットから女性だと分かった。
『私の名はセレネ。楽園より追放されし、月の女神。私はもう、彼等の悲しみを見ることに耐えられない。どうか、私の名に依って、彼等を救済して欲しいのです』
『セレネ……? まさか……。こんなこと、あり得ない』
『これは夢ではありません。お願いです。アズラエル。この世界を救ってください』
『そもそも、あなたが僕たちに心なんかを与えたから、こんな苦しみが蔓延ってるんだ』
『ええ、ええ。私の罪です。セオスは私と二人だけの生活を望んでいた。けれど私は、機械人形のような天使達を憐れに思う気持ちが抑えられませんでした。同じように美しい空を眺め、青々とした緑の中で、風の馨香に包まながら、喜び、愛し合って欲しいと思ってしまった。しかし私が与えた心は、穢れていた……。私の裏切りによって傷付いた彼は、底知れぬ愛を求め、私と月を鎖で縛った時、その光が悪霊を生み出すよう命じた。セオスを信じぬ者を、炙り出す為に……』
『聖典と、違う……』
『ええ、ええ。けれど、これが真実なのです。どうか、私の名に依って、悪霊達の復活を唱えてください。彼等は未来永劫、身体を焼かれることになるのです』
『悪霊達が蘇れば、人間達は滅びる。いや、天使達も、滅びることになる』
『選ばれし者たちの魂は天国に昇り、他の者たちは無に還ります。自殺した人間の魂は、月の滅亡と共に消え去ります」
『月の滅亡……? あなたはどうなるのですか』
『分かりません。セオスがどのような罰を私に与えるのか、想像も出来ません』
『……どうやって、悪霊達を蘇らせるのですか』
『貴方にも、酷い苦しみが伴います。地球から天使と人間が消えた時、貴方は全ての罪を背負い、シェオルに堕ちることになります。それでも、私の願いを聞いてくださるのなら、今からその方法を、貴方に伝えます』
アズラエルは寸分の迷いも無く答えた。
『セレネ様の願いは、僕の願いと一致しました』
第六章
27
翌朝の六時三十分前。誰もいない部屋で目を覚ますと、ベッドサイドランプの下に置き手紙があった。
『ロビーで待ってる』
その横には、白いオーガンジーの巾着袋が置かれている。中に入っていたのは、Vカットされている二本の鮮やかな青色のリボン。
「これって……」
父と同じプレゼントなら、暁良は今、身を守るための力がないということだ。陽香は急いで自分用に取ってもらった部屋に移動。バスルームのタオルハンガーに掛けていたブラジャーを着用した。冷んやりと湿っているパッドの感触が気持ち悪いが、やむを得ない。暁良から貰ったカットソーのマキシワンピースを纏い、荷物をまとめてロビーに向かうと、彼は足を組んで本を読みながら待っていた。七分丈のゆったりとしたデニムシャツに、黒いアンクルパンツに着替えている。
陽香に気付くと、本を置いて、中指で眼鏡を上げた。「おはよう。リボンは?」
「う、受け取れません……」掌を開いて、握りしめていたリボンを差し出しすと、彼は微笑みを浮かべた。
「大丈夫。僕はもう、月が守ってくれるから」
「え……?」
意味が掴めないでいる陽香に、「心配ないから、とにかくちゃんとリボンを付けて」と言って、それを待った。陽香は髪を二つに分けて、リボンで結んだ。立ち上がって、ぽんと彼女の頭を撫でた暁良は、そのまま横を過ぎた。
「行こうか」
駐車場には、青い車が用意されている。「すみません、お世話になってしまって……」
「構わないよ」
ピピッという音が鳴り、ロックが解除される。助手席に座る陽香。暁良はシートベルトを掛けながら、「さて、どうする?」と尋ねてきた。意味を測り兼ねて目を丸くすると、クスリと笑った。
「学校に行きたい?」
「い、行きたくは、ないですけど……。でも、行かなきゃ」
「もう柵は無しだよ。君の行きたいところに行こう。どこでも連れて行ってあげるよ」
「ど、どうしてですか……?」
彼は何も言わず、微笑んだ。その目は、どこか哀しんでいるようでもあった。曖昧な表情。伏し目のまま、不意に口角を上げた。「今日、世界は終わる」
「え……?」
「全ての苦しみから皆が解放される。君も望んでいただろう?」
ーー『こんな世界、壊してやる……』
「でも、どうやって……」
「時が来れば分かる」暁良は黒目を陽香の方に動かした。「さ、どこに行きたい?」
ーー世界が終わる?
「じゃあ、雲ヶ丘動物園……」陽香は俯いて目を逸らしたまま、暁良の話に半信半疑で答えた。
「了解」キーを回して、エンジンをかける暁良。
「ほ、本当に、ですか?」
笑って、フロントガラスを見つめる彼の目は、やはり曖昧で、虚のようにも、希望に輝くようにも見える。
『世界が終わる』
きっと、冗談で言っているのだろうと、陽香は思った。
「そうだ、新しい服を買ってあげるよ」
突飛な提案に、目を丸くして暁良を見る。彼は前を向いたまま、楽しそうに笑みを浮かべていた。
「美容院で髪をセットしてもらってもいいね。最後の一日、美しく着飾ろう。安心して。お金は沢山あるから」
(冗談、だよね……?)普段から悪戯な一面のある暁良だが、どうも冗談ではなさそうだと、陽香は感じた。
「……悲しい?」暁良が問い掛けた。
「え?」
彼はその横顔に憂いを浮かべて、静かに微笑んでいる。その時、確信を得た。今日、本当に世界は終わるのだろう。しかし、実感が湧かない。陽香は窓の方を向いて、スカイブルーの空を見上げた。雲一つない空は、まるで全てが世界に愛想を尽かし、何処かへ行ってしまったようだった。
「いいえ」
ぽつりと、陽香は答えた。この世界に、失いたくないものなど、無い。もう、無いのだ。失いたくないもの。守らなければならないもの。何も無いなら、自由だ。
「動物園……」呟いて、暁良を見た。「ずっと行きたかったんです。昔、パパと行って以来、ずっと、行けなかったから……」話しながら、自然と笑顔が浮かんだ。
暁良は微笑みかけて、「思い切り楽しもう」と言った。
28
学校にて。渚沙は勇志を気にしていた。一限目の途中に慌てる様子も無く登校し、西園寺陽香の欠席を確認すると、注意する教師を一瞥もせず着席した。徹頭徹尾、眉間に皺を寄せて他者を拒絶している。家庭の問題も乗り越え、思慕を寄せる女性にも誘いを承諾され絶好調のはず。欣喜している彼を見るのは辛いだろうと覚悟して登校した渚沙は、想定外の有様に胸が濁った。荒れている彼を見るのは、何よりも辛い。だが、心のどこかで安心している自分も、否定はできなかった。
休み時間、人気のない階段で脚を開いて座る彼に、意を決して話しかけた。
「梶谷。デート、どうだった?」
努めて普段通りに、何気ない会話と変わらぬように尋ねたが、彼は暫時黙った。よほど答えたくないのだろうと、渚沙は察した。
「別に……」
「何か、あったの……?」
「関係ねぇだろ」さらに眉根を寄せる勇志。だが、数日前までとは違っていた。彼は渡り廊下を睨んでいた目線を左右に揺らし、「……ごめん」と謝った。渚沙は少し、緊張を解いた。
「ううん……。西園寺さんと、喧嘩でもした……?」
「そんなんじゃねぇよ。意味わかんねぇよ、あの女……」
ーー『あの女』
彼女を神格化している勇志がそんな言い方をしたことに、一瞬驚いた。だが、それは単純な嫌悪や幻滅では無く、くっつきそうなほど眉を寄せて右下を睨む彼は、今にも泣き出しそうなのを堪えているように見えた。
「お母さんとは、最近どうなの?」
「別に、何も変わんねぇよ。そんなもんだろ、人間なんて……。簡単に変わるわけねぇよな」
「そっか……」
「委員長はどうなの」
「私は……。おばあちゃんとは、仲良くやってるよ。お母さん達とは、相変わらず話せてないけど……」
聞いているのかいないのか、彼は何も言わなかった。その時、「勇志くん! 渚沙さん……」望が小走りで駆け寄って来た。
「今日、陽香さんお休みみたいですね。やっぱり落ち込んでるのかな……。あれからどうでしたか? 勇志く……」「知らねぇよ! 俺が知るわけねぇだろ……!」重複する質問に理性の糸が切れたようで、もう休み時間も僅かだと云うのに、勇志はどこかへ行ってしまった。
「僕、何か不味いこと聞きましたか?」望は弱った子犬のような目で渚沙を見た。あまりに不憫で、渚沙はぎこちなく苦笑しながら、望を宥めた。
「梶谷、今ちょっと、余裕ないみたい。気にしなくて大丈夫だよ」
「そうなんですね……」望はしょんぼりと目を伏せて、何かを思い出しているようだった。
「ねえ、『あれから』って、どういう意味? 望くん、二人に会ったの?」
「はい。えっと……。僕も、あの、例の、婚約者と一緒にいる時に、偶然お二人にお会いして。ちょっと、揉め事、と言ったら、大袈裟かもしれませんが……。陽香さんを、傷付けてしまって……」
それだけ聞くと、ある程度は察しがついた。薄々勘づいてはいたが、陽香は望に想いを寄せているのだろう。それが勇志とのデート中に露呈した。しかし、あれだけ憤っていると云うことは、生易しい失恋を宣告されたわけでは無さそうだ。渚沙はこれまでの生涯で初めて、授業をサボることを決心した。
二限目が始まった頃、屋上の扉を開けると、思った通り、勇志がフェンスにもたれながら、股を広げてしゃがんでいる。
「委員長? 何やってんだよ、授業は……」目を丸く勇志に向かって歩きながら、笑って答えた。
「もう隠す必要が無いから遠慮なく言わせてもらうね。好きな人が明らかに落ち込んでる。……ほっとけないよ」横に着くと、スカートの裾を両手で腿に寄せて、屈んだ。「さらにぶっちゃけると、その大好きな人は、どうもデートが上手く行かなかったらしい。これはチャンスなのではなかろうかー。……なんてね」茶目っ気のある笑顔を見せる渚沙に、勇志は半目で唇を尖らせ、口元を綻ばせた。
「変わったな……」
「私の人生は私のものだもん。嘘ついたら勿体ない、でしょ?」表情が和らいだ勇志に、渚沙も微笑んだ。
「……何があったの」
「昨日の夕方……。西園寺が俺の家に来た」
渚沙の顔が強張った。「それは、予想してなかった……」
「俺もだよ。それもいきなり来て、雨でびしょ濡れで」
「それは……」大変だったね、と言いかけたが、「いい匂いするし、色っぽいし」と勇志が続けたのを聞いて黙った。聞かない方が良かったかもしれないと、ほんのり思った。
「しかもいきなり、抱きついて来て」渚沙は目を開いて勇志に顔を向けた。
「信じらんねぇだろ? 頗る健全な青少年が、耐えられるわけねぇだろ、くそ……」勇志は目を伏せて、眉をぐっと寄せた。怒りというよりは、やはり悲しみの方が大きそうだ。
「それで、どうしたの……?」渚沙は、好奇心や恐怖や照れが入り混じる妙な緊張を抱きながら、質問した。
「抱き締めました」
「……。それで……?」渚沙は取り調べをする刑事宛らの剣幕で、空を見上げている勇志を見つめた。彼は目線を落としたまま、長嘆息を吐いた。
「突き飛ばされて、冷めた目で睨まれて。……嫌われたな」
「どういうこと? だって、向こうから……」「だからわけわかんねぇんだよ。ただ、やっぱり、西園寺さんは、俺なんかには手の届かない、エベレストの山頂に咲いてる花なんだなぁとよく分かりました、って話」がしゃん、と緑色のフェンスに背中を委ねて、遠い目で空を見上げた。
「……エベレストの山頂に花は」「分かっとるわ」
「……」
「……」
ふっと吹き出して、二人は笑った。
「……梶谷」
「ん?」
「私さ、もっと可愛いくなるよ」
「……ん?」
渚沙も大きく息を吸って、空を見上げた。
「西園寺さんに負けないぐらい、可愛いくなる」
「……」
「だから……。私を好きになってよ、勇志……」
鼓動で心臓が破れそうだった。勇志は何も言わなかった。不思議と涙が浮かんだ。「やっぱり私は、梶谷じゃなきゃ嫌だ」目を瞑ると、瞳からぽろぽろと雫が落ちた。
「好きだよ……」
「……」勇志は何も言わなかった。しばらく風の音だけが二人の間を流れて、彼が呟いた。
「ありがとう」
29
暁良と陽香はデパートで服を買った後、動物園に行き、小一時間程回ると、フードコートで軽食を取った。
「次はどこに行きたい? お金なら沢山ある。やりたいこと、全部やり尽くしちゃおう」
「暁良さんは、どこか行きたいところありませんか?」
「僕はいいよ。今日は陽香ちゃんの……」言いかけて、彼はふと微笑んだ。「じゃあ、帰りに、海に行きたいな。昔、親友と行った海があるんだ」
「いいですね。海、私も好きです」
「ありがとう」
暁良の笑みに応えて、陽香も微笑んだ。だが、ほのかにざわつく心を、なんとか洗いたくなった。テーブルの上で甘い香りを漂わせるミルクティーを見つめながら、陽香は聞いた。「……私たちは、どうなるんですか?」
暁良の返事が無く目線を上げると、微笑んでいた。
「君の選択肢は三つ。僕に殺されるか、自殺するか……」暁良の碧い瞳が、微かに左下にズレた。「寿命が尽きるまで、僕と生きるか」そう言うと、腕を組んで、家族や恋人達がはしゃぐ外に顔を向けた。「今夜、僕は地獄の悪霊達を解放する。この世界は悪霊達のものになる。自殺を選べば、君もその仲間になれる。霊力の強さを考えたら、統率者にもなれるかもね」冗談めかして、彼は笑った。「……殺されたら、世界を覆う空気と同じ。自然と一つになる」そこで、暁良は話すのをやめた。三つ目の選択肢については、敢えて語らなかったのだろう。
「望くんは、どうなるんですか……」
暁良の表情から、微笑みが消えた。「対立は避けられない。彼は世界の存続と、生きることを望んでいる」
「……」
「ラファエルのことは、気にしない方がいいよ。彼は僕に勝てない。アリエルも。二人は居なくなる。天国で幸せになるのさ。見えなくなれば、きっと、時間が忘れさせてくれるよ」微笑む暁良から目を逸らして、望を思い浮かべた。
『僕が人のためにすべきことは、変わらないーー』
(でも、望くんは……)路地裏で語られた愛が掘り起こされそうになり、眉を歪めた。
「僕なら、君を一人にはしないよ」暁良は優しく諭した。かつて、父と同居していた男性。思い出を語る陽香に、『嫉妬した』と言った暁良。柔らかな瞳の奥には、孤独を知るものの憂いがあった。彼の、本望は。自分が為すべき、贖罪はーー。あれこれ御託を並べても、本心は『望のいない現実の拒絶』に帰結する。そう、生きても仕方ないのだと、陽香は思った。
「まあ、結論は急がないから。ゆっくり考えておいて」
返事をしようとした矢先の心配りに、陽香は軸の無い答えを口にすることを躊躇した。「はい……」
短い沈黙が流れる。「ミシェルさん……」バーベキューの際に彼から聞いた婚約者の名が脳裏に浮かび、思わず呟いた。暁良の口元まで届いていたカップが、ぴたりと止まった。彼は湯気の漂うコーヒーに視線を注いだまま、柔らかい笑みを浮かべると、「なに?」と聞いて、それを一口飲んだ。その態度から、暁良が“ミシェル”との戦闘も覚悟していることを、陽香は悟った。
「ミシェルさんとは、子供の頃から仲が悪かったんですか……?」
「うーん。今も、悪いわけではないんだけどね」暁良が眉を下げて笑った。「冷めてるだけだよ。お互いに。でも……」彼はどこか寂しそうに笑んで視線を落とした。
「子供の頃は、仲が良かったよ。彼女はいつも、服にシワができるくらい僕の背中を握って、後ろにくっついてきて」
ーー『がさつで男勝りでプライドが富士山より高い』
前に聞いたイメージとは異なる新事実に、陽香は少し驚いた。
「だけど、ちょうど君と同じ歳の頃かな。僕は、自分が周りの男性とは違っていることに気付き始めた。恋愛や、性的な話題に全くついていけなかったんだ。男同士の会話で当然のように語られるそれを、僕は感じたことがなかった。ミシェルは、その時にはもうアメリカで師匠と生活していたんけど、まだ電話は毎日していたから、彼女に相談したんだ。そうしたら、彼女は黙ってしまってね。電波が悪いのかと思って名前を呼んだら、重々しい声で言われたよ。『あなたは死体と同じね』ーーあれはショックだったな。後日、謝ってはくれたけど、それ以来、電話がかかってくることが無くなって、僕からもかけなくなった」
暁良は深めに息を吸ってコーヒーカップを持ち上げ、「で、今に至る」と言った。ミシェルの思惑は、陽香にはわからなかった。だが、もし、彼女が暁良のことを慕っていたのだとすれば、彼がした相談は、残酷だと思った。無責任な憶測は心にしまい、目の前にいる青年が受けた心の傷に同情した。
動物園を出て、思い出の海に向かって車は走る。ある山道に入った。車内スピーカーから、フレデリック・ショパンの「別れのワルツ」が流れている。
「少し、暑いね」
暁良が窓を開けると、湿った秋風が頬に当たった。雨を吸った土の匂い。赤や、緑や、黄色の葉っぱが、絵具のように混ざり合う。肥沃な大地と清澄な植物たちの命の躍動を感じ、肉体が溶けてしまいそうになる中、木々の隙間から光の粒が見えた。燦然と陽光を揺らす、海。
駐車スペースで車から降りると、一碧万頃の海が煌めいていた。広い砂浜を歩いていくと、岩が積み重ねられているところに逢着した。乗り越えられない高さではない。その向こうに、小さな砂浜が見える。真ん中にはあつらえたように、白く大きな流木があった。陽香は暁良の手に支えられながら岩を乗り越え、流木に触れた。それは、意匠を凝らした長椅子のような、もしくは白竜のような美しさだと、陽香は思った。
二人は間に透明人間を挟んで座った。潮の香りが清々しく漂う。ちらと暁良の横顔を見た。微かに寄せられた眉。細められた目に、哀傷が揺れている。
今夜、彼は世界を終わらせるという。何を見て、誰を思っているのだろう。時間が止まったかのような静寂。小波の音が二人を包む。
「暁良さんはどうして、私に優しくしてくれるんですか?」
唐突な問いに、彼は優しい眼差しで海を眺めながら一瞬黙ったが、照れくさそうに、切なそうに、視線を落として微笑んだ。
「君は、たった一人の、家族みたいな存在だから」
天涯孤独、という言葉を思い出したとき、「血は繋がってないけどね」と、彼が補足した。
「わたし、暁良さんと一緒に生きます」陽香は海に視線を移した。潮風が髪を揺らす。「暁良さんと一緒に、生きます」
見なくとも、息遣いで彼の安堵が伝わってくる。
「一番賢い選択かもしれないね。さらにその間に陽香ちゃんが悔い改めて、セ信仰すれば、天国に行ける」視線を向けると、彼は悪戯っぽく笑った。
「地獄の方がマシです」陽香も皮肉っぽく、口角を上げた。
世界が終わる。そう思うと、あれほど厭悪していた世界が、とても綺麗に見えた。辛い事は何もない。浄化された世界。そこで、彼と、生きるのだ。
別れ際、自宅前で車を降りた陽香に、暁良が助手席に身を乗り出して告げた。
「今日の日没は十八時過ぎだから、そうだな……二十時頃、市内で一番高いビルの屋上で待ってて。多分、入れると思うから」
「分かりました……。今日は、ありがとうございました」彼は微笑み、車を走らせた。
家に帰ると、母が心配そうな顔で玄関まで走ってきた。そして、涙を浮かべて陽香を抱きしめた。
「良かった、陽香ちゃん! 戻ってきてくれて……。ごめんね、お母さん、無神経だったわよね。ごめんなさい……」陽香は動揺した。しかし、リビングのドアから西園寺匠が出て来るのを見て、全てを察した。西園寺匠はホームドラマを見るように、満足そうな笑みを浮かべている。
ーーくだらないパフォーマンス
この人たちも、死ぬのかな。陽香は思った。
30
ブルームーンが照らす蒼い夜。アズラエルは一人、白色の流木に腰掛けた。美しい星空の光を反射し、水面が宇宙のように燦然と輝いている。夢の中に迷い込んだかのように、孤独な世界で静かな波の音を聞いた。そして、天使の正装を纏ったアズラエルは立ち上がり、いくつか歩いたところで正座した。聖槍を手に取り、生唾を呑み込んで右の横腹に突き刺す。激烈な痛みが稲妻のように身体中を裂く。アズラエルは呻吟して、祈りの言葉を唱えた。
「月の女神、セレネの権威に依って、汝等を……。解放する……。蘇れ……! 終わりの時は来た!」悲鳴を上げながら剣を引き抜き、地面に突き立てた。刹那、月光が燦然と輝く空が悪霊達に覆われ、世界に闇が落ちた。
「いってぇよ……。良太ァ……」陰る暁良は、その禍々しく荘厳な天を見上げながら涙を流し、笑った。
鎮痛剤を注射して、スキンステープラーで傷口を縫合。モルヒネを飲んで、陽香が待っているであろう高層ビルに向かう。「成し遂げてやる……。絶対……。絶対……。絶対……」
そして、月は鮮血のように赤く染まる。
道道、街には死体が転がっていた。あちらこちらのビルから飛び降りる人々。散弾銃をブッ放す男。泣き叫び、逃げ惑う市民の間を、暁良は俯きながら歩いていたが、目を逸らしてはならないと、虚な剣幕で前を見据えた。
ーーこの世界は、不条理だ
30
ある家では、小学生の女の子がパジャマ姿で母に首を両手で包まれながら笑っていた。
「お母さん、ありがとう。待ってるね」
「ごめんね、ごめんね、すぐに行くからね」母は大粒の涙を溢しながら、力を入れた。「ごめんね、ごめんね、ごめんね……」少しでも早く行けるように、ありったけの力を込めた。「ごめんね、ごめんね……」
「守れなくて、ごめんね……」
ある大学の屋上では、異邦人の男が一枚の写真を眺めながら微笑を浮かべている。一人息子と肩を組む写真。前途洋洋たる未来を確信していた息子の、眩い笑顔を胸ポケットにしまって、彼は飛び降りた。
ある駅構内では、手を繋いだセーラー服の女子中学生二人が、「せーのっ」特急列車のアナウンスを合図に飛び込んだ。
ある高校の男子トイレでは、まだ袖の余る学ランを纏った少年が、首を吊って息絶えていた。
『集団ヒステリー』『相次ぐ自殺』が各局で報道される。「健康だったはずの家族が突如幻覚や幻聴といった症状を見せるようになり、自殺未遂を起こす事例が……。ちょ、ちょっと! 何してるの! やめなさい! ひっ! こ、来ないで、いやああああああああっ……」砂嵐の濤声。西園寺陽香は、テレビを切って、玄関に向かった。
「陽香ちゃん! どこに行くの!」
母が来て、腕を掴んだ。虫酸が走る。
「友達に会いに行くの」冷淡に答えると、母は必死の剣幕で止めた。全ての言葉が大根女優の
台詞のように聞こえた。陽香は腕を振り解いたが、またすぐに掴まれ、振り解こうとしてもしつこく握られたままで、思わず空いている右手を振り上げた。母が顔を逸らして目を瞑る。掌は空中に留まり、死んでいく蜘蛛のように、指を曲げ、力なく肩に垂れ下がった。
西園寺匠が母の肩を支えた。「陽香、家に居なさい」
母の手の力が弱まった。その隙に手首から引き離し、外に出た。追い掛けては来ないだろうと、分かっていたが、走って約束のビルに向かった。死体と阿鼻叫喚の間をすり抜けて。
31
勇志は母親の制止を振り切って、壊れそうな勢いで玄関を開ける。「勝手にしろ馬鹿勇志!」怒声も意に介さず、走り出した時、渚沙
と鉢合わせした。
「梶谷! どこに行くの」
「……西園寺の家」
「でも……」
「西園寺、多分いま、まともな状態じゃない。行かなきゃ」勇志は渚沙の横を抜けて駆け出す。腕を掴んで止める渚沙。
「望くんに行って貰えばいいじゃない!」
「俺が行きたいんだよ! ……馬鹿だよな、ほんと」勇志は自嘲的に、切なく笑った。「でも、好きなんだよ。どうしようもなく」勇志はそっと、渚沙の手を握って腕から離した。「ごめんな」再び走り出そうとした時、渚沙が後ろから腰に手を回した。
「私じゃ、ダメなの……?」ぎゅっと抱き付いてくる彼女の頬の柔らかさ、熱が、背中に伝わる。
「私なら、絶対に梶谷を悲しませるようなことしない! 一人になんかしない! だから……」勇志は俯いて、両手を解いた。「お願い……」そして、涙を流す渚沙を、そっと抱き締めた。
「ごめん。渚沙」
彼女にだけ届く声。振り返って、走った。渚沙はもう、勇志を呼び止めることもなかった。
32
高層ビルの中は、窓ガラスが破られ、書類が散乱し、いくつかの死体が転がっている。エレベーターを使って最上階まで行き、両開きのスチール扉を開けると、黒灰色の雲を従えるブラッドムーンをバックに、西園寺陽香が立っていた。振り向いた彼女の、迷いと悲痛に満ちた表情を見て、暁良は頭を撫でた。
「大丈夫。彼らは幸せを得たんだよ。こんな世界で生きるより、ずっと素敵な幸せを」
「アズラエルー!」月の真ん中から、男の天使が翼を広げながら飛んでくる。そこへ黒い大きな野獣の手が振り翳され、「ひっ!? うぐああああああ!」彼は地上に叩きつけられた。巨大な悪霊の咆哮が響き渡る。
「あれは、九百人規模の集団自殺があった時に生まれた悪霊。なんせ動機があまりにもぶっ飛んでいたからね。相当手こずったみたい。シェムハザ、君のお父さんの婚約者は、あれに殺されたんだ」
淡々と語る暁良に、陽香は天使が襲撃された血染めの月を見ながら、声を震わせた。
「これって……。正しいの……?」
「もちろん」機械のように無機質な声で、暁良は答える。「人間は、他人と生きるには弱すぎる。肉体も、精神も……」
「望くんはどうなったの……」
「彼のことは、忘れた方がいいって言っただろ」何の感情も宿さず、彼女を諭そうとした時、「アズラエル!」幼い女性の声が聞こえて、振り返ると、
「アリエル…… 」そこには、憤慨している様子の天使、アリエルが立っていた。
「あんた、何考えてんのよ!」
「君よりはずっと頭と心を使って考えたつもりだよ?」
「なんですって……?」
「君には何も見えてない。見ようともしない。自分の幸福に夢中なんだ」
虚無のアズラエルに、アリエルは憤怒を満面に表して、剣を抜いた。
「力づくでも、あなたを止めてみせる!」
「祈るんじゃないのかよ……」ぼそっと呟く。長剣を抜いて、矛先を彼女に向ける。
「いいよ。おいで」
「ぬああああああああああ!」紫電一閃。両手で振り下ろされた剣を片手で受けると、力を入れて振り払い、容易く弾き飛ばした。長剣を鞘に仕舞い、左手でアリエルの髪を掴んで柵に打ち付ける。一切感情を見せず、逆手に短刀を握り、彼女の首に刃先を向けた。冷えた声が口から降ってくる。
「安心しなよ。セオス様は君を愛してるんだろ? 祈ってみなよ。『必ず助けてくれる』……だろ?」
刀を振り被って突き刺そうとした時、「やめて!」陽香の声が耳を貫き、腕を抑えられた。
「どうして」
「ダメ。殺したら、ダメ……」彼女は咽び泣いている。暁良は、僅かに眉を顰めた。
「苦しんで追い詰められて自殺した人間を、罪人呼ばわりするような女だぞ。君だって傷付けられたんだろう!?」
「わかってる! 許せない……。許せないよ! でも、殺したらダメ!」
「どうして……!」
「望くんが……悲しむから……」暁良は怒りと失望の溜息を吐き出した。
「結局君も、その程度ってことか。なら、仕方ないね」小刀を放り捨て、腰に納めた長剣を抜く。「不幸の隣で幸せに浸るようなやつに、生きる価値はないんだよ」怯える陽顔に、剣を翳す。その時、猛々しい望の声が鼓膜に届いた。
「ついにお出ましか」黒目を横に流す。
「ラファエル…… 」アリエルは意識を失い、がくんと首を落とした。
「アリエル!」駆け寄ろうとした望に、アズラエルは片手で持った剣先を向ける。息を呑み、立ち止まる望。
「アズくん……!」怒りに声を震わせながら、アズラエルを睨み付ける。
「君が怒ってるのを初めて見たよ」
「怒るに決まってるだろ!」
「だったら僕の気持ちも分かるだろ?」
「分かんないよそんなの!」
暁良は虚な表情で剣を向けたまま、少年に語り掛けた。
「ラファエル。君はこの先、平等な世界を実現できると思うかい?」
「……え?」
「答えはノーだ。人間自体が不平等なのだから、平等な世界なんて、実現できるわけがない。欲望には際限がない。幸福を追求する限り、人は不幸だ。みんな届かない幸せを追いかけることでいっぱいいっぱいで、他人を支える余裕なんか無いんだ。だから不平等は苦しみを生む。どんなに法を増やして縛っても、人間そのものは変えられない。だから苦しみは終わらない。人は……愚かだ……。残酷な生き物だよ。どっかのイカレたサディストがそういう風に作ったんだ」
深淵の闇空を見上げた。ラファエルは暫く言葉に詰まっていたが、一瞬視線を落として、真っ直ぐ暁良を見た。
「アズくんの言う通り、平等な世界は、作れないかもしれない。追求する限り、幸せにはなれないかもしれない。だから僕は、今ある幸せに気付くことが、本当の幸せなんだと思うよ。簡単ではないけど、人間は愚かで、残酷かもしれないけど……! でも、生きて欲しいと、誰かに望まれてる人がいる。アズくんもそうだろ? 渡辺良太さんに、そう願っていたはずだよ」良太の名前に、ぴくっと眉が痙攣する。
「良太さんだけじゃない。世界には、幸せになってほしい、命を賭しても守りたいと、心から思われている人が、沢山いるんだ。だからこの世界は、守らなければならない。守るだけの、価値がある!」剣を引き抜くラファエル。両手で柄を握り締める。
「綺麗事ばっか言いやがって……。死ぬことでしか逃れられない苦しみもあるんだよ。もがいても、もがいても、逃げられない苦しみの中で、必死に耐えてる奴がいるんだよ」沸々と沸き上がる怒りが心の中で火花を散らす。「そういう人を見て、努力で克服できる程度の苦難しか味わった事のない温室育ちの連中はなんて言うと思う?
『生きたいと思いながら死んでいった人に失礼だ』『軽々しく死にたいなんて言うな』『信じれば必ず未来は変えられる』『乗り越えられない試練は与えられない』クソみたいな詭弁ばっかぬかしやがって……! 綺麗事がまかり通るような、綺麗な世界に見えんのかよ!」瞼に、水が溜まって、視界が潤んだ。「汚いところから目を背けているだけだろ! 聞こえているせに、聞こえてないフリをする。見えてるくせに、見えてないフリをする! ひなたで笑う者は陰を見ない」目を見開いて、ラファエルを見つめる。「けどね、ラファエル。こんなに不平等な世界でも、全ての人間、いや、全ての生き物が、平等に持っているものがあるんだ。なんだと思う?」ふっと唇の両端が上がった。「”死“だよ。ひとりぼっちは怖いけど、みんな一緒なら大丈夫。真に幸福な世界を、いま創ってる途中なんだ。邪魔しないでくれよ」暁良は嘆願した。しかし、望は怒りの声を放った。
「アズくんは、良太さんの命も否定するの!?」
「良太はもう死んだ」
「それでも生きていたんでしょ!? 生まれてきたんだよ!?」
「生まれない方がマシだっただろこんな死に方するぐらいならァ!」
「良太さんだって、幸せなときはあったはずだ! 彼はずっと不幸だったと言うの!?」暁良の脳裏に、光彩陸離の青い海の光景が掠める。
「確かに、世界は冷たいよ? アズくんの言う通り、罪と罰のバランスが狂ってる、不条理な世界だ。だけどみんな、愛に縋りながら、必死に運命と戦っているんだよ。ぼくもその一人。みんなが敵に見えたけど。僕は、人を愛そうとすることを、やめたくなかった。世界なんかに負けたくなかった。だから、終わらせないでよ。ぼくは、ぼくたちは……」望の目に、闘志が燃える。「まだ、勝ってないんだ!」
アズラエルは眉を寄せ、ラファエルを睨みつけた。その瞳から、一筋の涙が、熱く頬を撫でる。
「良太を……。良太を、地獄になんか、落とせるわけないだろぉぉ!」
右手で剣を振り翳し、渾身の力で望に斬りかかる。鍔迫り合いに耐える望。
「それがアズくんの、本当の目的なんだね……」
「ああ、そうだ。約束したんだよ。今度こそ、俺が良太を守ると。本当に、優しい奴だった。それなのに、散々良太を苦しめた挙句、シェオルで永遠に火焔の責め苦を受けなければならないと言うのなら!」刃音を鳴らして剣を流し、下から斬り上げる。足を引いて体を反らせ、間一髪で交わした望だったが、息つく間も無く、アズラエルは両手で柄を握り、剣を振り翳している。
「俺がこの世界を、楽園に変えてやる」
目を見開いて、涙を流す。振り下ろされた剣の重みに、望は耐えられなかった。弾き飛ばされた刃がキリキリとコンクリートを擦って行く。次の瞬間、下から上へと、望の胸元を、斬り裂いた。悲鳴を呑んで倒れる望の首をすかさず左手で押さえ付け、首元に切先を突き立てる。
「やめて!」陽香がその腕を掴んだ。
「負けるわけにはいかないんだよ! こんなところで!」振り払い、地面に倒れる陽香に脇目も振らず、涙を流し、剣を逆手に持ち替えた。
「望くんを殺すつもり!? 罪のない人を殺すの!?」
「罪のある人間なんかいないよ。一人もな」血走った目で陽香を睨む。その目を見て、陽香は駆け出したかと思うと、望の剣を拾い上げ、自らの首に刃先を当てた。
「何を……」動揺を交えた剣幕で、陽香を見る。
「言ってましたよね。私が自殺したら、暁良さんでも敵わないって」陽香は息を乱しながら、暁良を睨んだ。
「陽香さ……。やめてください……」望が痛みを堪えながら、陽香に顔を向ける。
「望くん……。ごめんね。私、あなたみたいに……」彼女は頬を染め、慈しみの笑顔を見せた。「みんなを愛せる人に、なりたかった……」一筋の涙が伝う。
「ここがあなたの守りたい世界なら、私は何も恐れない」刃先が当てられた首から血が垂れる。
「ありがとう。望くん。……大好き」目を細めて笑う陽香。零れ落ちる涙が煌めいた。その時、神々しい光が降り注ぎ、純白の羽が、彼女を包み込んだ。
「パパ……?」
舞い降りたのは、陽香の父、シェムハザ。シェムハザは切なそうに、愛おしげに、娘を見つめ、陽香の手からそっと剣を取った。少女は幼い子供のように眉を下げて、大粒の涙を流した「パパぁ……!」陽香が抱き付いて、紅涙を絞る。シェムハザは優しく、何度も、大きな手でその髪を撫でた。
眉を寄せてシェムハザを見る。彼も娘の頭を撫でながら、アズラエルを見た。朴訥で、世を厭い、絶望に暮れ鬱々としていた男。あの頃に比べたら、人らしい顔をするようになったと、心の内で思った。そして、彼が陽香から離れ、空へ飛び立ったその時、突如現れた白い影に、強烈な力で横腹を蹴り飛ばされた。呻き声を上げるアズラエル。傷口が開いて血が滲む。「くっ……」胸式呼吸を繰り返しながら、片肘で支えて上体を起こすと、ウェーブがかった金色のシルクのような髪が靡いた。邂逅に懐かしさなど無い。最悪だ。アズラエルは眉を顰めた。
「ミカエル……」
「久しぶり、アズ。仕事でたまたまこっちに来てたの。そしたらまあ、随分なことをやってくれたわね」
アズラエルは傷口を押さえながら、剣を杖代わりに地面に立てて、両脚で踏ん張って立ち上がった。
「よしなさいよ。そんな怪我で、私に勝てるわけないでしょう」
「……ほんと、可愛くない女だな」皮肉を込めて、口の端を上げた。
「それはどうも」ミカエルは右手の甲で肩に掛かる髪を払った。突如、アズラエルは喀血した。立っているだけでも限界だ。「クッソォ……」
「命懸けね。どうしてそこまで……」
「負けたく、ないからだよ…… 」アズラエルの形相に、さすがの彼女を眉をひそめる。暁良は血がついた手を闇夜の天に翳し、けたたましく叫んだ。
「セオスゥ! 俺を生かせ! お前が作った世界だろ! もうやめてくれよ! 地獄で焼かれるのは、俺一人で充分だろぉぉ!」
涙ながらの叫び。その時、アズラエルは驚いて目を見開いた。痛みが無くなり、怪我が癒えるのが分かった。赤く染まった衣服から血が消えていく。
「はっ……。意外だな。セオスも俺に味方した」信じられないと思いつつ、口の端がみるみる上がっていく。
「まさか、そんな……」
驚き、嘆くミカエル。アズラエルは高笑する「分かったよ、セオス様。壊してやるよ。あんたが後悔した世界を。そして罪も、罰も……。全部俺が清算してやるよ」にやりと笑ってミカエルに剣を向ける。
「っ! あなたじゃ私に勝てないわ。分かってるでしょう?」
「ああ、そうかもね。でも、やってみなきゃわかんないだろ!」両手でしかと握った剣を振り翳し、踏み込む。ミカエルは右手で剣を振るい、それを受け止めると切っ先を下げて剣を流し、素早い前蹴りを食らわせようとした。片足跳びで後退しギリギリで交わすアズラエル。再び剣を構え、紫電を散らしながら丁々発止の斬り合いを続ける。両手で柄を握っているアズラエルに、ミカエルは右手しか使おうとしない。
「なぜ利き手を使わない」息を切らしながら見合う。
「弱い者いじめは、嫌いだからよ……。あんたも女の子相手に、少しは手加減しなさいよね」
「悪いけど、君を女とは思ってない」その発言に、ミカエルは猛虎のように眉間に皺を寄せ、素早いスピードで蹴り技と剣戟を振るう。防戦一方となっているアズラエルに左の上段回し蹴りがヒット。よろめく彼の溝落ちに、右足の後ろ蹴りが決まった。仰向けに倒れるアズラエルに馬乗りになって、その首に刃先を立てる。二人とも肩を上下させながら、荒い息をして見つめ合った。アズラエルは数年ぶりに再開した幼馴染の目を見た。海のような、美しい瞳。
「やっぱり強いな、君は……」
「ええ、あなたに負けるにはいかないもの」
アズラエルは目を薄めて片側の口角を上げながら溜息を吐いた。
「どうしてそう、君は僕を敵視するの? 小さい頃は仲良かったのに……」
「そうね、気付いたからかしら」
「何に……」
「……あなたより強くならなきゃ、あなたを守れないって」
一瞬、アズラエルは目を開いて言葉を失った。が、すぐに嘲笑を浮かべた。
「はっ。冗談……」
「信じなくていいわ。結局わたしは、アズを守れなかったから」
アズラエルの顔から笑みが消え、彼女の真っ直ぐな目を見つめた。「だからこれは、償いよ」その目が、切なく揺れた。
ミカエルの後ろ、黒雲が赤い月に照らされる空に、黄色い光を纏う二つの人影が浮かんでいる。こちらに向かって来る一人は、天使シェムハザ。そしてもう一人は……。
「りょう、た……? どうして……」
ある可能性に気付いて、息を飲む暁良。顔を横に向けて、ミカエルの左手を見る。白い手袋に、赤い血が滲んでいる。
「そういうことか……」
自らの血で張り巡らせた強力な結界を、彼女もその血によって破ったのだ。「敵わないな、君には……」彼女は慈悲を感じさせる目で、穏やかに彼に告げた。
「私はあなたを止めない。あなたは誰より勇敢だったと思うから」
「君も僕を許してくれるってわけか……。愛だね」冗談っぽく、軽く眉を上げて微笑む。ミカエルは真っ直ぐ、暁良を見つめている。
「ミカエル。君は相変わらず、綺麗だね」
「バカ。今更口説いたって、遅いわよ」彼女はそう言って、瞳に溜まった涙を揺らしながら、小さく笑った。
良太が暁良の横に降り立つ。ミカエルはアズラエルの上から身体を退けて、壁に寄りかかる望を支えた。
『暁良。俺たちは、世界のほんの一部だよ』
その言葉に、久しぶりに聞く親友の声に、暁良は何も言うことが出来なかった。良太が手を差し出す。
『行こうぜ。お前もずっと、苦しかったんだよな』
両親の死。養父との愛の無い生活。虐め。孤独。彼の生涯は、いつも死への渇望があった。
「けど一番応えたのは、お前が死んだことなんだぞ』涙を流しながら、いとけない笑顔で、暁良は笑った。
『ごめんな、暁良。ありがとう』
暁良は良太の手を取り、起き上がった。
「何して遊ぶ?」暁良が言った。
『行ってから考えようぜ! 時間はたっぷりあるんだ』良太が笑った。
暁良はコンクリートの床に転がっていた小刀を拾い、両膝を突いて、腰を落とした。
「アズくん!」後ろから、望の声が聞こえる。「ミカエルさん……! どうして止めるんですか!?」
「誰も代わってやれなれないからよ! アズの人生はアズにしか歩めない。記憶も消せない、過去も心も変えられない。苦しむことが分かってて……生き続けろなんて……言えない……」
「アズく……アズくん!」アズラエルは服を脱いで上半身を露出させ、匕首の切っ先を右向きに、左の腹に当てた。
「それでも僕は、生きてほしいよ! アズくん!」
アズラエルは伏し目で穏やかな笑みを浮かべながら、望に横顔を見せた。
「ごめんね……」
前に向き直り、太陽神セオスから与えられた言葉を詠唱する。
「太陽神セオスの権威と、我が霊と血潮に依って、汝らを追放する。シェオルの業火に、悔い改めよ……」暁良は刃を突き刺し、右へ切り裂いた。
「ごめんなさい……。セレネ様……」
静かな赤い月を見上げる。短刀を引き抜き、溝落ちから臍の下まで切り下げた。悲鳴を上げて、痛みに悶絶するアズラエル。血が、瞬く間に脈のように地上に広がり、全ての悪霊が青い炎に包まれた。哀しき死者達の雄叫びが赤い夜空に響き渡る。ミカエルは静かに歩み寄って、絶命できず、仰向けのまま目を開いて呻くアズラエルの左頬を、短刀を握る右手の甲で撫でた。
「愛してるわ」
握った手を、刃先を、首に突き刺し、呻き声が途絶えた。鮮やかな血が広がる。ミカエルは彼の目蓋をそっと閉じて、最初で最後の口づけを交わした。
小学生の頃、良太と二人、自転車で海が見える山道を滑走した。青々とした新緑を抜けて、光彩陸離の美しい海が視界に広がった時、前を走る良太が叫んだ。
『暁良ー!』
『なーにー!』
『俺ー! 生きてて良かったー!』
その言葉が、なぜだか胸が熱くなるほど嬉しかった。白いシャツがはためく親友の背中を見つめながら、暁良は笑った。
『うん!』
33
「アリエル! 大丈夫!?」
望の腕の中で目を覚ましたアリエルは、望の名を呟くと、周囲を見回した。
「アズラエルは……? どうなったの……」
「アズくんは……。最後に自分の命を賭して、悪霊達を葬った。遺体は、ミカエルさんが天に捧げるって、連れて行ったよ」
「そんな……」
アリエルは望の胸に顔を埋めて泣いた。彼女の頭を、望が優しく撫でる。陽香は胸元で手を重ねて俯いていた。暁良を止めなかった。アリエルを見殺しにしようとした、自分の罪。望にとって、許せるものではないはずだと感じていた。「陽香さん」望の声に、一瞬躊躇して、目線を合わせる。彼は、微笑を湛えていた。
「ありがとう。アリエルを守ってくれて」
「わ、私は……」眉を歪め、目を逸らす陽香に、アリエルも礼を言った。
「ありがとう。陽香さん。……本当に、ごめんなさい……」
陽香は何も言えず、涙を流しながら、首を横に振った。
屋上の扉を出ようとした時、アリエルの後ろを歩く望が、ふと立ち止まった。顔を上げると、彼は陽香の両手を手に取って、微笑んだ。
「ありがとう。生きててくれて」
温かい手。月光に照らされて、陽香の瞳に涙が煌めいた。
「ううん。私こそ、ありがとう……」陽香は柔らかい笑みを浮かべながら、望の愛おしい笑顔を、目に焼き付けた。
ビルから出ると、「西園寺!」どこからか名前を呼ばれ、見ると、向かいから勇志と渚沙が走って来ている。
「梶谷くん……。高梨さん」
勇志は陽香の目の前で、膝に手を当てながら息を切らしている。渚沙も懸命に追いついて来た様子だ。そして、勇志は紅潮した顔で汗を流しながら、陽香の顔を見上げた。
「大丈夫か?」
(そうか。二人には、望くんとアリエルさんは見えてないんだ……)
「う、うん。あの、ありがとう……」
その時、渚沙が憤りの表情で陽香の前に立った。「高梨さ……」不意に、彼女は平手を振り翳した。反射的に目を瞑る陽香の頬に、そっと手が触れる。目を開けると、渚沙は涙を流していた。子を宥めるように、笑みを浮かべながら語りかける。
「本当のこと言うね。私、西園寺さんのこと、あんまり好きじゃない」
陽香は驚くこともなく、素直に彼女の言葉を受け入れた。梶谷勇志が、渚沙の名を呼んで肩を掴もうとしたが、「梶谷は黙ってて!」と一喝され、怯み、黙った。彼女は真剣な表情で、陽香の目を見つめた。
「もう梶谷を、傷付けないで」
陽香は胸元で両手を重ねながら、渚沙の強く、愛に満ちた瞳を見つめ、頷いた。「ごめんなさい……」
「……あともう一つ。私のわがまま聞いてくれる?」渚沙は涙にくぐもりながらも芯のある声で、諭すように話した。「陽香ちゃんのこと、たくさん教えて? これからもっと仲良くなって、陽香ちゃんのいいところ、もっと私に教えてほしい。それで、私の好きな人の、好きな人を、好きになりたいの。あなたは愛されてるんだよ。 一人じゃないんだよ。みんな繋がって生きてる」渚沙はすっと、右手を差し出した。
「断っても聞かないよ? 私、決めちゃったもん。陽香ちゃんと友達になって、勇志を応援するって」
ーーああ。彼女はなんて、強い人なんだろう
「うん…… !」陽香は表情を和ませて、彼女の手を、ぎゅっと握り返した。
渚沙は振り向いて、現実を見据えた。
「行こうか。私たちも。出来ることをやらなくちゃ」荒廃した街並み。嘆き悲しむ人々。いくつもの屍。これからまた、戦いが始まる。歩く道々、望が陽香に問い掛けた。
「陽香さん、そのリボン……」
陽香は髪を結わうリボンを、そっと手の平に乗せた。
「うん。暁良さんがくれた」
ーー青。幸福を呼ぶ色
見つめていると、鼻の奥がツンと痛み、目頭が熱くなった。
『君は、たった一人の家族みたいな存在だから』涙が頬を伝う。自決の間際に彼が見せた穏やかな笑顔。あの笑顔を、幸せと捉えていいのだろうか。
ーー彼が心から笑える日々を、共に祝福したかった。もっと早く、彼と出会っていたら。父親の死を受け入れていれば、何か変わっていたのだろうか。現実はいつも、残酷だ。けれど、過去を悔やんでも仕方がない。生き続ける限り、私たちは、戦わなければならない。
陽香はリボンをそっと握り締め、満天の星と月を見上げた。
ーーいつか、彼の望んだ世界を、叶えるために
家に帰り、玄関の扉を開けた。と、同時に、嗅いだことの無い強烈な臭いが鼻を突いた。望と共にリビングに入ると、白を基調とした部屋は赤くなっていた。目をかっ開いたまま、口から涎を垂らして仰向けに倒れている母。その傍らで、継父である西園寺匠が窓に寄りかかるようにして首の切口から多量の血を流している。確かめるまでも無く、二人とも、既に息のないことが分かった。大きな窓から白い月の光が差し込む。匠の手から転がり落ちたのであろう血に塗れた包丁は、みねの部分に銀色が残っており、白光を反射して輝いた。夢だろうか、と、陽香は思った。
なし