あなたの為が伝わらない
この小説は、短編「私の為に死ね」「あなたの為に死にません」の後日談です。
「うわー、すごい量ですね」
二月十四日、バレンタインである。秘書課のテーブルの上には大小様々な箱が積み上げられており、それらは全て社長宛に届いたバレンタインチョコであった。秘書課の一員である笹山が運んできた沢山のチョコレートを前に、入社一年目で初めてこの光景を目にする木村は目を輝かせている。
中身を確認する為に包装は全て取り除かれており、そのどれもが有名店の高級チョコレートだと分かる。言うまでもないがあの社長に手作りのチョコを贈って来るような猛者は未だかつて存在しないし、万が一居たとしてもここに来るまでに弾かれている。
しかし毎年のことだが、これだけ高級チョコレートが積み上がっているのは壮観であると笹山は頷く。勿論これだけの量があれどそこに色恋を匂わすものは一切なく、どちらかと言わずともお歳暮のような感覚に近いだろう。若くして老舗呉服店の社長という結婚したいと思う相手がいくらでも現れそうな地位だというのにこれである。まあその社長もとうとう結婚してしまったのだから、その時の衝撃は部下の誰もが忘れられないものであった。
「社長いいなあ。これとかこれとか、限定品ばっかりじゃないですかー。俺も欲しい」
「そんな木村に朗報よ。社長は毎年贈られてきたチョコは全部社員に配ってくれるの。自分は食べないからって」
「え、マジですか!」
羨ましそうにチョコの山を眺めていた木村に、近くのデスクに座る森川が補足するように話す。ベテランの彼女は話しながらもパソコンから目を離さず高速でキーボードを叩き続けており、その仕事振りは他の追随を許さない。
森川の言うとおり、社長は毎年大量のチョコレートを貰いながらもそれを一口も食べたことが無い。チョコレートが嫌いなのかは不明だが、社長の代わりに毎年高級なチョコレートを食べられる為、社員にとっては嬉しい日である。
「あ、社長が戻ります」
「!」
入り口から一番近いデスクに座る松本がこそっと声を掛けると、立っていた一同はすぐさま席に着く。この男はいつの間にか社長の足音を聞き分けられるようになっており、こうして事前に皆に伝える係を担っていた。
木村を引っ張って席に着かせた笹山は一瞬で部屋の中を見回して不備がないかを確認する。よし、大丈夫だと思った瞬間、松本の予報通りに社長が秘書課に入って来る。
途端に部屋の中がぴん、と張り詰めた緊張感に包まれた。
「社長、お帰りなさいませ。今年も社長宛にバレンタインのチョコレートが届いておりますが」
強面という言葉では言い足りない、鋭すぎる視線と押しつぶされそうな威圧感はいつまで経っても慣れない。そう思いながらも笹山が社長に報告すると、彼は山積みになっているチョコレートに目を向けて「ああ」と頷いた。
「今年も例年通りでよろしいでしょうか」
「……森川」
「は、はい!」
「この中で一番評判の良いものはどれだ」
突然話を振られた森川ががた、と椅子を揺らして立ち上がる。予想外の質問に皆困惑するように視線を彷徨わせており、唯一木村だけは緊張感の無い顔で「あれ、話と違う」と呟いていた。
流行にも詳しい森川はやや緊張しながらもチョコレートの箱に近付くと、いくつかを物色して「こちらでしょうか」と一つの長方形の箱を手に取った。
「有名なショコラティエが監修を努めていまして、甘さは控えめで上品な味わいと見た目の繊細なデザインがいいと雑誌での評価も高いです。味のバリエーションも多く、一粒一粒楽しめるものになっています」
「森川先輩めちゃくちゃ詳しいっすね」
「自分で食べたくて買おう思ってたのに売り切れてたから……って木村は黙ってなさい!」
木村の感想に笹山も思わず頷いた。その店の回し者かと考えていると、社長は「そうか」と感情の籠もらない声で告げてそのチョコレートの箱を手に取った。
「これだけ持ち帰る。後はいつも通り配っておけ」
「は……はい」
え、と一瞬全員の視線が社長に向いた。今まで一度たりとも手を付けてこなかったチョコレートを持ち帰るという。一体社長に何があったんだ。
しかしそう強く疑問に思っても笹山にはそれをこの社長に尋ねる度胸などない。
「へー、社長もチョコ食べるんですね。毎年全然食べないって聞いたのになあ」
……笹山は、である。無論全く社長に怯まない木村はお構いなしに呑気な顔で社長に向かって口を開いていた。
木村! お前また社長に遠慮無く……というかもっとちゃんと敬語を話せ!
笹山達がそう叫びそうになる中、社長は相変わらず動かない表情を木村に向け「私が食べる訳ではない」と口を開いた。
「妻に渡すだけだ」
「!? お、奥様に、ですか」
妻。その恐ろしい顔から発せられるにはあまりに似つかわしくない言葉に笹山は思わず聞き返した。
以前会社のパーティで一度だけ社長夫人を目撃したことはある。この社長と結婚する相手とは一体、と気になっていたその人は、正直な所見るからに普通の女性だった。特別美人でも不細工でもなく、強いて言うなら身に纏う着物がよく似合っていた人だ。
「あー奥さんですか。紗桐さんでしたっけ。チョコ好きなんですか?」
「知らん。だがチョコレートは体に良いと聞く」
「体に……」
「あの、社長。召し上がるのが女性でしたら、こちらの甘めのホワイトチョコも人気ですが」
「甘すぎるものは逆に毒になる。こちらでいい」
おずおずと森川が進言するが、社長はそれを却下してさっさと秘書課の奥に位置する社長室へと入って行ってしまった。
「……」
そして残されたのは何とも言えない空気が残った空間だった。
「あの、ちょっといいですか」
「何だ、松本」
「……今の、ホントに社長ですよね? 偽物じゃないですよね!?」
社長に聞こえないように小声で発せられた疑問に、笹山もこっちが聞きたいと返したかった。
あの社長が、わざわざ奥さんに手土産を持って帰る。しかもそれだけではなく、チョコレート一つ取っても一々健康に気を遣ってまで、である。
「いやー笹山さん、社長の奥さん愛されてますねー」
「……そうだな」
もはや木村の軽口を咎める気力もなく、笹山は酷く疲れたように肩を落とした。
あの社長にあそこまでさせる件の社長夫人は、一体何者だ。
□ □ □ □ □
「食べておけ」
「……はい?」
帰宅した夫の荷物を受け取ろうとした紗桐は、いつもの鞄の他に更にもう一つ紙袋を渡されて戸惑いながらそれを受け取った。
「なんだろう、これ」
風呂へと向かった夫を見送った後紗桐が紙袋の中に入っていた箱を開けると、それは如何にも高そうなチョコレートの詰め合わせだった。良家といえども庶民派の紗桐が買うことはまずないであろう高級感溢れるチョコレートに、彼女は思わず「ひええ……」と戦くように箱から手を離した。
「社長ってバレンタインにこんなすごいもの貰うの……?」
彼女も一応バレンタイン用のチョコは用意してある。あの男が食べるかどうかは分からなかったが、まあいらないと言われたら自分で食べれば良いと思い、デパートでそこそこ値が張る――とは言っても目の前のものとは比べものにならないが――チョコレートを購入したのだ。
ちなみに手作りという選択肢は最初から無かった。花嫁修業で仕込まれている普段の食事はともかく、こういう菓子類は専門の人間が作る方が美味しいに決まっている。紗桐ができるのは精々茶に合うチョコを探して来て、そして嫌みを言われることを我慢しながら茶を出すことぐらいである。
「というか食べておけって言ってたけど……」
何故バレンタインに貰ったチョコレートを紗桐に食べさせようとしているのか、夫の考えていることがちっとも分からない。チョコレート自体は好きな方だが、こんな高級品など正直恐れ多くて食べにくい。一体何の意図があって……。
「――あ」
そのとき、ふっと紗桐の頭の中に昔の――桐の記憶が呼び起こされた。桐の記憶の中に、今の状況と合致する出来事があったのだ。
あの屋敷で暮らしていた頃、たまに近くに住む領民が採れた作物などを貢ぎ物として主に献上していた時があった。彼女もその献上品である魚や野菜を使って作られた食事を主の元へと運ぶ前に、厨で同じ料理を少量口に入れていたのだ。
紗桐は思わずはっ、となって手を打つ。
「毒味か!」