歪んだ鏡
「何もない、か・・・」
日付が変わって少し過ぎた頃、マーケティング部のデスクに座った孝明は一言つぶやいた。時音から得た情報を元に営業から回ってきている過去の業務日報を片っ端から嘗め回すように見ていても、井岡部長が絡んでいると思われる怪しい記述は見つかる気配すらしなかった。
「アカンな・・・」
藤崎課長も同様だった。彼もまた孝明の斜め前のデスクに座って椅子にもたれかかり天を仰いでいる。
「もう社内に誰も残ってへんし、これ以上残っていると守衛にどやされてまうから今日はお開きやな・・・」
そう言って藤崎課長は鞄にノートやスマートフォンをしまい込んだ。
「あっ・・・終電あるんですか?」
孝明は自分が帰るすべが無いことを思い出した。それは藤崎課長も同様だろう。
「あー、もう電車あらへんな・・・タッキーは?」
孝明は無言で首を横に振る。
「まぁ、オレはファミレスで時間つぶすわ。タッキーどないするん?」
「それじゃ、お供しますよ。どうせ明日・・・今日は土曜ですし。」
予定は何もなかった。思えば仕事以外何もしていない気がする。孝明は自分のつまらない人生を、少し悲しく感じた。
深夜のファミリーレストランは閑散としていた。ビジネス街の店舗と言うこともあり柄の悪い人間がいるわけでもなく、所々で終電を逃したサラリーマンやOLが数名、眠気と戦いながらドリンクバーで朝まで粘っているのを見受けられるだけだった。
「タッキー土日は何してるん?」
藤崎課長がコーラを飲みながら孝明に聞いた。
「なんもしてないですね・・・強いて言えばたまにベース弾いてる位ですよ。」
学生時代にあれほど熱中し、それなりの金額をつぎ込んだ機材は今や部屋の景観を損ねるオブジェになっていると思いながら孝明は答える。
「バンドマンか、オレらの頃流行ったからやってる奴多かったでー。」
藤崎課長はそう言うと再びコーラを飲んだ。
「課長は休日は?」
孝明はそれとなく先程された質問と同様の質問を投げかけた。
「まぁ、たまにゴルフする位やな。」
「ご家族とかは?」
「あー、嫁とはもう別れてもうたからなー」
孝明は言葉に詰まる。地雷を踏み抜いてしまったという後悔は、既に遅かった。
「ああ、気にせえへんといてな。人間色々あるんや。」
藤崎課長は笑いながら言うが、気にするなと言えば余計に気にしてしまうのが孝明の性格だった。
「まぁ、嫁とは元々うまく言ってへんだからな。子供も二人おるけど、仕事ばかりやってきたからオレにはあんま懐いてくれへんだわ。」
そう言って煙草を取り出し『shelly』 のマッチで火をつけた。
「でも、ガキがおるから頑張れるんや。養育費払うATMでもええ。愛する存在がおるからこうやって仕事をできる。金を払うことがつなぎ止める方法っちゅーのも、悲しい話やけどな。」
「・・・」
無言の孝明に、藤崎課長は畳みかけるように続けた。
「まぁ、オレはタッキーが羨ましいよ。」
「えっ?」
「今日、時音さんとタッキーを見て思ったんや。二人がどういう付き合いをして何で別れたんかは知らへんけど、二年ぶりに会ってもああやって話ができる・・・なによりお互いの事をよく理解しあっとる。」
藤崎課長は遠い目をしながらそう言った。
「きっとタッキーも時音さんもようできた人間やからやな。」
「できた人間なんて・・・時音はともかく、僕は全くですよ。」
自虐的な言い方を孝明はする。
「まぁ、オレならあんだけ綺麗で気遣いできる人は離さへんな。」
白い煙と同時に発せられた藤崎課長の言葉が、孝明の耳には痛いばかりだった。
藤崎課長が孝明に対して恋愛論を一通り語り終えると、突然切り出した。
「月曜日やねんけど、井岡が怪しいっちゅー話上にあげるわ。」
「上って・・・?」
マーケティング部の部長は容疑者である井岡氏で他ならない。それより上となると、役員になってしまう。
「まぁ、伊達に子会社から本社に異例の栄転を遂げたオレやない。」
自慢気に語る藤崎課長は笑いながら煙草の灰を落とす。
「まぁ、オレを評価してくれたんは、今の常務の平野さんや。彼が西日本の統括部長やったときに引っ張ってくれた。」
孝明は直接話をした事はないが、平野常務の顔は分かる。髪の毛が薄く、メガネをかけた、悪く言えば堅物、よく言えば真面目を絵に描いた見かけをしている人物だ。正直、藤崎課長とは水と油に見えるタイプだった。
「もちろん、九条家の事は隠して言うし、今は何より証拠があらへん。どこまで信じてもらえるか分からへんしな。」
「そうですね。」
孝明は同意するしかない。証拠がない、責任者が当該案件の容疑者となれば方法は少し荒くなるが他には無かった。
「そう言えば・・・」
孝明はあることが気がかりだった。
「井岡部長はなんでこんな循環取引なんて・・・?」
まだ大阪ニッケル商事が直接絡んでいると確定したわけではないが、循環取引の商流に入っている可能性は大いにあると状況的に孝明は判断していた。だが、目的がわからない。
「せやな・・・時音さんの話を聞く限りやと巻き込まれた訳ではなく、思いっきり絡みに行っとるからな・・・」
そう言うと、藤崎課長は以下の推測を挙げた。
1 .営業部時代にどうしてもまとまった売上が目に見える数字でほしかった。
2.他社に買収されて悪事を働くことにした。
3.会社に恨みがあって刑務所覚悟での嫌がらせ
4.そもそも循環取引が悪いことだと思っていない
「まぁ、最後のは無いやろうけどな。」
「大体循環取引やる会社って、銀行からの融資を引っ張るためか、株主に決算報告をよく見せるかですよね?」
「まぁ、そのパターンは多いわな。しかし、井岡が中心人物ならマズいぞ。大阪ニッケルは仮にも上場企業や。内々で片付けないと夜のニュースでうちの社長が頭を下げる映像が流れることになってまう。」
そう、現在社内でもこの話を知っている人間は孝明や藤崎課長を含めて極僅かだ。しかし事が大きくなる可能性は十二分にある。
「流石に、路頭に迷うことは無いですよね?」
孝明は、藤崎課長の言葉に若干恐怖を覚えた。
「わからん。」
一言での即答。
「正直、オレは時限爆弾やと思っとる。爆発するタイミングが遅ければ遅いほどダメージは大きいはずや。世間の大阪ニッケルに対するイメージだけやない、循環取引の金額も時間と共に大きくなっていくんや。わかるやろ?」
「ええ。それはわかりますよ。それはうちだけでなく、時音がいるK.Kコーポレーションも同じですよね?」
「ああ、せやな。その割に時音さんは落ち着いとるな。まぁ九条ケミカルからすりゃ、孫会社がちょっとやらかした程度で済むんやろなぁ・・・」
藤崎課長は、溜め息をつきながらそう言った。
二人はその後、始発電車が動く時間丁度に駅に向かい、それぞれ帰路についた。週末がやってくる。孝明は月曜日が大阪ニッケル商事にとってブラックマンデーにならないことを祈り電車のシートに座ったが、すぐに眠りに落ちていった。
藤崎課長みたいな上司がほしい。