黄昏ゆく珈琲の苦味
金曜日の夕方、時音が指定した時間よりも少し早いが、藤崎課長と孝明は阪急西宮北口駅に降り立った。駅前の開発がここ10年で大幅に進んだこの街は、夕方ということもあり学生やサラリーマンで溢れかえっている。
「ほー、変わり過ぎやろ西宮。」
藤崎課長は、駅前に鎮座する百貨店とショッピングモールを見つめながらそう言った。
時音との二年ぶりの会話から時間にして約12時間後、孝明は会社の廊下で偶然鉢合わせた藤崎課長に電話の内容を具体的に説明した。
藤崎課長は、話を一通り聞き終えると時音のフルネームを孝明に尋ねたのだった。
「九条時音って名前です。結婚してなきゃの話ですが。」
若干自嘲気味な言い方をした孝明だったが、藤崎課長にしては珍しく笑うこともなく
「さよか」
と一言言っただけだった。表情を変えることは無かったが、孝明には藤崎課長の顔に何かしらの考えが見えたような気がした。
「で、今6時40分を少しすぎたところやけど茶店はどこなん?」
昨日のやりとりを思い出していた孝明は、藤崎課長のいつも通りの軽妙な声で我に返る。
「あ、あの出口出たところです。」
そういって孝明は駅前から少しそれた、人通りが他の出口より若干少ない箇所を指差した。
「ほな、タッキーの元カノ拝みに行こか。」
本当にこの人は、物事の重大さがわかっているのだろうか?と孝明は一抹の不安を感じつつも、藤崎課長を先導するように歩き出したのだった。
久しぶりに訪れたその喫茶店は、ほとんど何も変わっていなかった。薄暗いオレンジ色の電球が照らす店内には有線で80年代の懐メロが流れており、ガラスケースに入った珈琲豆がギラギラと光っている。唯一変わった所は、大学生と思われるアルバイト店員が入れ替わっているところくらいだろうか。
「いらっしゃいませー」
大学生くらいのウエイトレスが、孝明と藤崎課長に気づき声をかける。孝明は店内を一瞥する。時音の姿はまだ見えない。
「二名で、後でもう一人来るから。」
孝明がそう言うと、ウエイトレスは「こちらへどうぞ」とテーブル席へ案内した。
窓際のテーブルに着くと、藤崎課長は上座に座り、ふと声を漏らす。
「お、今時紙マッチおいとるなんて珍しいやん。」
砂糖の入ったビンの横に並べられている「Shelly」と店名の入った紙マッチを手にとってそう言った。
「こちらお冷やになります。ご注文はおきまりですか?」
先ほどのウエイトレスが水を持ってやってきたついでに、注文をとる。
「冷コー。タッキーは?」
間髪入れずに藤崎課長はアイスコーヒーを頼むと孝明に尋ねる。
「ブレンドで。」
ウエイトレスは伝票に注文を書き込むと、注文を繰り返し去っていった。孝明は、背もたれにもたれるように座ると、ふぅと溜め息をつく。
「なんや?久しぶりに昔の女に会うから緊張しとるんか?」
そんな孝明をみて藤崎課長が言った。
「そんなんじゃ無いですよ・・・と言ったら嘘になりますね・・・」
孝明は藤崎課長の質問に半ば呆れながら返すと、店のドアが開く音がした。
「いらっしゃいませー、お一人様ですか?」
ウエイトレスの声が響き、スーツ姿の女性が入ってくるのが見えた。
「いや、後から2人・・・もしかしたらもう来ているかもしれないけどね。」
思わず見つめてしまった視線の先にいるのはストライプのスーツに身を包んだ女性は、孝明が二年ぶりに目にする九条時音そのものだった。
時音がキョロキョロと店内を見渡すと、孝明と目があった。
「どうも先に来ていたようだ。ありがとう。」
時音はウエイトレスにそう言うと、孝明のテーブルに向かって歩き出した。藤崎課長は一連の流れを見ていた様で椅子からスッと立ち上がる。孝明もそれにつられて立ち上がる。
「やぁ、久しぶりだね。」
時音はテーブルの前まで来ると孝明にそう言った。
「ああ、久し振り。」
孝明は努めて冷静にそう返すが、若干頬がゆるんでいる。
「こちらの方は?」
時音は藤崎課長に一瞬視線を送り、孝明に訊ねる。
「お世話になります。大阪ニッケル商事の藤崎と申します。滝川君の直属の上司です。」
いつの間にか名刺を出しながら、貼り付けたお面のような営業スマイルで藤崎課長はそう言った。
「これは失礼しました。九条時音と申します。あ、頂戴します。」
時音は全て分かっていたかのような表情で名刺を受け取り、自分の名刺ケースを出そうとした。尤も、時音の顔からそのような思惑を読み取れる人間は中々いない。しかし孝明にはそれを読みとることができた。
「あ、お名刺は後程で結構ですよ。」
藤崎課長は笑顔のまま、何故か時音の動きを制止して彼女に椅子に座るよう促した。
時音はゆっくりと腰掛け、藤崎課長の名刺を手前に置いたところで、先程孝明達が頼んだコーヒーが運ばれてきた。
「いや、遅れてしまってすみません。あ、ブレンドを一つ。」
運ばれたコーヒーを見て、時音が謝りながら注文をする。
「いやいや、こんなかわいい女性の為ならいくらでも待ちますよ。」
いつもとは違う上品な笑い声をだす藤崎課長を見て、営業時代はこんなスタイルはこんな感じだったのだろうか?と孝明はぼんやりと考える。
「多分ご存知だと思いますが、私と滝川君は以前交際しておりまして・・・」
時音は、わざとらしい恥じらいを浮かべながら藤崎課長に言うと孝明を見つめた。
「あー、タッキー。うらやましいわオイ!」
そこから10分ほど、三人で他愛も無い雑談をした。孝明も、最初は緊張があったが藤崎課長の営業トークで場は和み時音との間にもぎこちなさは無くなっていた。
「いや、本当にうれしい限りだよ。孝明の元気そうな顔を見ることが出来て。」
時音はコーヒーに口を付けそう言った。
「なんやねんほんまー。タッキーこんなええ子ちゃんと捕まえとかなあかんで!」
藤崎課長はすっかり普段の関西弁になっていた。元々営業のプロだった彼の口調が普段通りになったということは、それだけ時音と打ち解けることができたという証拠なのだろう。
「さてと、そろそろ本題に入ろうかな?」
時音はそう言うと、テーブルの灰皿を藤崎課長に差し出した。
「あ、吸ってええの?おおきに。」
藤崎課長はそう言うと胸ポケットからいつもの紙のパッケージとは違う革張りのたばこケースを取り出し、「せっかくやから、」と先程話題に上がった紙マッチに火を灯した。
「孝明、正解だよ。君は本当に僕の意図を汲んでくれる。」
時音は藤崎課長がたばこに火をつけるのを横目にそう言った。
「正解って・・・藤崎課長を連れてきたことか?」
孝明は聞き返した。
「そうだよ。僕の秘書にでもならないか?」
クスクスと、時音は昔と変わらない笑い方をした。
「たっきーは残念ながら弊社の重要な戦力や。引き抜きは勘弁してや。」
藤崎課長は紫煙を吐きながら、時音に言った。
「これは失敬。」
時音は大袈裟な表情で驚き、再びコーヒーに口を付けた。
「さて、本題と言うたけどその前に一つ確認させてもらえへんかな?」
藤崎課長は煙草を叩き、ぱらぱらと灰を落としながら時音に言った。
「時音さん、あんたもしかして九条財閥の家系の人間ちゃいますか?」
やべえ、思ったより長くなりそう。