カフェインがもたらす、脳の覚醒作用
どれだけ年を重ねても、どれだけ人と関わり言葉を交わし合っても、深層心理というものは、地球の深海の様子が解明しきれないのと同じく他の人には理解されないだろう。
滝川 孝明は、電車に揺られ誰もいない自宅へと帰路をたどっていた。時刻は終電まで余裕はあるものの、各駅停車ということもあり座席に座っている人はまばらではあるものの、ほとんどがスーツ姿のサラリーマンだった。孝明も例にもれず、灰色のスーツに身を包み、昼間の仕事の疲れを少しでも癒そうとするかのように背もたれにもたれ掛って、合皮でできたビジネスバッグを膝に乗せていた。普段なら少しで睡眠をとろうと瞼をシャッターのごとく閉じるところだが、今日に限っては彼の頭は冴えていた。
『お久しぶりです。今度西宮に数日変えることになりました。もしよろしければお茶でも飲みませんか? 時音』
昼休み中に彼の携帯電話を鳴らした、データ容量にしては数キロバイトの文字列は、孝明の午後の業務をすべて吹っ飛ばすに等しい破壊力を発揮した。
九条 時音、たった一通のメールで孝明が上司に怒鳴られるほど浮つかせた彼女は、4年前まで孝明と交際していた。
電車がゆっくりと不快な金属音を立てて駅に入る。孝明はドアが開くと同時にのそりと車両から右足をだし、プラットホームに降り立った。車両と同様に人はまばらなプラットホームで彼はポケットから小銭を取り出し、電光掲示板よりも強い光を放つ自動販売機に流し込んだ。ガコンという缶コーヒーが落ちる音は、反対側のプラットホームを通過する通勤特急にかき消されていき、孝明以外には聞こえなかっただろう。
「ふう・・・」
ベンチに座り、孝明は缶コーヒーのプルタブを持ち上げる。『チカン、アカン!』と書かれたポスターに見下ろされる形で、冬の寒空のもと乳化剤まみれのコーヒーが彼の体を温める。
「突然すぎるよなぁ・・・」
誰に言い聞かせるわけでもなく言葉をこぼした孝明は、時音からのメールについて考えていた。返事はまだしていないが、いい年をしてメールを無視するわけにもいかない。しかし、元彼女、それも自分を振った女からのメールとなれば複雑な心境が先行するのは仕方がない。孝明はブラックマンデーと宝くじ当選が同時にやってきたような混沌とした心境で4年前を思い出す。
別れを告げられたのは突然という言葉以外見つからない程に突然だった。西宮北口駅の傍にある喫茶店に呼び出された
「やぁ、待たせてしまったかな?」
孝明がコーヒーにの入ったカップを片手に、当時はまだ現役だった二つ折りの携帯電話の画面を眺めていると、凛とした声が彼の耳に入ってきた。
「本当に孝明は時間に正確だ。トゥールビヨンのような正確さだね。」
時音が首からマフラーをさらりと取ると、孝明と向き合うように座りながらそう言った。時刻は午前11時4分、時音は彼を11時に呼び出していた。
「そんな高いものに例えてもらえるなんて光栄だ。庶民の俺からしたら、電波時計でも充分ありがたいよ。」
苦笑交じりの孝明は、携帯電話を閉じ胸ポケットにしまいながら時音に言った。
「まぁ。俺は時音が多少遅れても気にしないさ。」
孝明がそう続けると、時音は申し訳ないと言ってクスクスと笑う。黒い髪ゆらゆらと揺らし、一見楽しそうに見えるが、彼は目の前に座っているガールフレンドの目が笑っていないのを見逃さなかった。なにかがある、直感的に感じた孝明は、流れを早い内に変えようとウエイトレスを呼ぶために右手を挙げた。おそらくアルバイトであろう高校生くらいの女の子が、孝明の合図に気づき伝票片手に小走りでやって来る。
「えーと・・・」
孝明は手を挙げたものの、手元にある頼んだばかりのコーヒーが、湯気をくゆらせているのを目にして言葉を詰まらせる。
「じゃあ、ブレンドで。フレッシュはいらないよ。」
言葉を詰まらせた孝明の代わりに、時音は注文を伝えた。ウエイトレスは、営業スマイルで注文を繰り返すと小走りで厨房へと向かっていく。厨房の中では店主が黙々とほかの客に提供すると思われる料理を作るために、フライパンを振っているのが孝明には確認できた。
「いや、君は本当に気が利くね。そろそろボクも注文を入れたいと思っていたんだよ。」
時音は、わざとらしくニヤリと笑いそう言った。彼女その透明感があふれる瞳は、孝明が何を考えているのかすべてを見通しているかのように、彼の心を優しく突き刺している。
その視線は孝明の焦りを加速させた。
「お待たせ致しました。こちらブレンドになりますー。」
二人が見つめ合ったまま、1分ほどの沈黙があったのち、先ほどのウエイトレスが、貼り付けたような営業スマイルのまま時音のコーヒーを運んできた。カチャリ、と小さく音を立て、カップがテーブル上におかれる。
「まぁ、コーヒーも来たところで本題に入ろうかな。」
時音はそういってコーヒーに口をつける。
「本題か・・・」
「まぁ、こうやって呼び出したのにはちゃんとした理由があるんだよ、孝明。」
時音はコーヒーカップを一度テーブルに置くと、そのまま言葉を続けた。
「こうやって付き合いだして、もう2年ほどたったかな?」
「ああ、来月で丸2年のはずだ。」
孝明は月日を指折数えるしぐさをしてそう言った。時音はそんな孝明の指を見つめたまま、再びコーヒーを口元に運ぶ。昼時になってきた為、気が付くと店内は満席に近い状態となってきた。
「まぁ、言いにくいことなんだけどね・・・」
制汗スプレーのようにさっぱりとした性格の時音にしては珍しく歯切れが悪い。視線を足元に落とした彼女を見て、孝之の予感は少しずつではあるが確信に近づいていく。この歯切れの悪さ、さっきまでいつも通りつかみどころのない雰囲気を醸し出していた彼女がここまでしどろもどろになるのには、必ず理由があるはずだ。
「言っちゃえよ。どんなことでも聞いてやる。」
困っている時音を見ていると、孝明は自然とそう言っていた。聞きたくない言葉を聞く羽目になるのは、十分予測できている。だが、自分のガールフレンドが目の前で戸惑っているのを見過ごすことを孝明の優しさが許さなかったのだった。
「ふぅ…君も聡い男だから、この雰囲気だと僕が何を言いたいかわかっているだろうね。」
ため息交じりに時音が放った言葉が孝明に刺さる。
「その…突然で申し訳ないが、僕たちの関係を白紙に戻してほしい。とどのつまり、世間一般で言う、別れるということにしてほしいんだ。」
時音の柔らかい声が放った一言が、喫茶店の喧騒をかき消す。孝明は無音に感じる空間の中でコーヒーに口をつけた。冷たくなりかけているそのコーヒーの味は、もはや彼の舌で味を感じることはわからない。
再び、二人の間に沈黙が流れる。
「その、理由は?」
すっかりコーヒーも冷たくなりきった頃、先に言葉を発したのは孝明だった。コーヒーのカフェインの作用か、苦みのせいかはわからなかったが、孝明はやけに冷静さを取り戻していた。
「理由ねぇ…そう、それが言えないんだよ。うん。」
時音は目線を下げたまま申し訳なさそうに呟く。
「え?」
間抜けな声が響いた。納得がいくとか、そういう感情依然に時音が理由も言わずに別れを告げるということは、完全に予想外だった。彼女が変わり者であることには違いない。しかし、そんな不義理なことをする人間でないことを孝明は誰よりも知っているつもりだったのだ。
「とにかく、必ずいつか理由は説明する。しかし、今の僕には何も言えないんだ。」
フリーズしたかのように固まっている孝明に、時音は必死にそう言った。彼女の目には涙こそないものの、明らかに悲しみの感情を孝明に訴えかけていたのを彼は汲み取ることができた。
この後の事は正直よく覚えていない。ただ、時音が嫌がっている中で、詳細な話はこれ以上聞き出すことは彼にはできなかった。自分が納得するとか、別れるのを拒むとかそういう次元の事ではない。すべてが不可解だったのだ。合理的、論理的というものがもし擬人化されたなら、時音がそのまま表れるだろうというくらいに彼女は理路整然と物事を述べる人間のはずだった。
『本日の電車の運行は、すべて終了いたしました。間もなく…』
録音されたアナウンスによって、孝明はハッと我にかえる。まだ冬の気配を残した冷たい風が彼の頬をチクリと刺し、冷え切った缶コーヒーが彼の体温を奪っていった。
急いで定期券を改札機へ通し駅の外に出る。家まではここから歩いて15分程度だが、普段と違う疲れ方をした孝明は、タクシーで家に帰ることを選んだ。車中で孝明はスマートホンを取り出し、昼間のメールに返事を打つ。メッセージアプリが主体となったこのご時世、仕事以外でメールを打つのは久しぶりだった。
『お久しぶりです。遅くなってしまいすいません。日時を教えてくれたら、調整するからまた連絡ください。 孝明』
送信ボタンを押したところで、タクシーはアパートの前に停車した。
「はいよ、930円ね。お仕事お疲れさん。」
タクシーの運転手の優しさになぜか少し泣きそうになった孝明は、家に入るとシャワーを浴びることもなく、布団の上に倒れ込んだ。
お久しぶりです。相変わらず、こんな感じで書いていきたいと思います。