今日あなたに恋をする
とある都会でもなく、田舎でもない。そんな街に住んでいる。
笹木 羽那は、高校2年生。
高校へはいつも電車に揺られて通っている。
その日はたまたま、混雑するラッシュの時間をを避けて電車に乗り込んだのだ。早起きしたからか、それとも珍しく座れたからか眠気が襲ってきて、何度も読み返していた本をリュックにしまい膝において電車の揺れに眼を閉じてうとうととしていた。
電車のアナウンスが羽那が降りる駅をつげていてぼんやりと目を開けてみる。中途半端な睡眠は、まだまだ眠り足りずに、立ち上がった時にリュックが膝から滑り落ちてしまった。
黒のリュックは隣の若い男性に当たってしまい、慌ててすみませんと謝った。
「いえ」
答えに深く頭を下げて、羽那は足元に落ちていたリュックを拾い上げてそして、雲乃坂駅で電車を降りた。
時間にゆとりがあるので、駅から高校までにコンビニに寄ってコーヒーとそれからバームクーヘンを買おうとしてリュックを開けた………。
「違う!」
羽那はレジ前で思わず叫んでいた。
リュックは確かに羽那と同じ単なる黒のリュック。だけど、その中身は羽那の物では無かったのだ!
「どうしよう……!」
さいわい、制服のポケットには電車の定期と電子マネーカードがありそれでお金を支払い、申し訳ないけれどカバンを見ることにした。
持ち物は、羽那のと似たり寄ったりの、高校生っぽい教科書とノートと、それからペンケース。
名前は『有住 龍生』と記名でわかった。
それ以外には学校名を示す物も特になくて...財布は、きっとこの人もポケットにいれていたのだと思えた。
そして………入っていた単行本『永遠の庭』 『著者 未留久 鞍雲』。それはちょうど羽那も読んでいた物だった。
しおりが挟まっていて、ちょうど読書途中だと思えた。同じリュックを持ち同じ本を読んでいた事にすこし笑えた。
ひとまず貴重品がないという事に安心したけれど、羽那のスマホと財布は、たぶん彼の持っていったリュックの中だ。
その龍生なる人の物のリュックをもち、星峯高校に入っていきどうしようと頭を抱えた。
「おっはよ~。今日は早いね!」
元気よく話しかけてきたのは、友人の篠宮 縫である。
「縫……」
「なんか黒いのしょって、ど~した?」
「リュック……入れ替わってしまった」
そういえばお弁当も入ってる……。
(あー、もう勿体ないから、食べといて……)
がくぅんと落ち込む。
「これにこりたら女の子らしい明るい色にするか、キーホルダーつけるかしたら?」
そもそも、人気のあるブランドの黒のリュックなんて同じ年頃なら男女共に持っている率が高い。縫の言うことももっともだ。
「そうする」
そうだ、大きめのキーホルダーでもつければきっと目立つ。
「あ、ねえ。私の携帯鳴らしてくれない?運が良ければ出てくれるかも」
スマホもリュックの中だ。今頃同じように気づいていたなら探してると分かって出てくれるかもしれない。
「いいよ」
縫がスマホを取り出して、羽那のスマホを鳴らしてくれる。羽那のところにもコール音が聞こえてくる。何度も鳴って、出ないかなとあきらめた時、縫が手を振って合図した。
「あ、出たよ!すみません、その携帯の持ち主と代わりますね」
はいっと、渡されて
「あの、私は笹木 羽那といいます」
こうなった責任は寝ぼけていた羽那だ。
謝るつもりでおずおずと名乗った。
『有住です』
ややぶっきらぼうなのは、怒ってるからかも知れない。
「すみません、電車で落とした時にリュックを間違えてしまって。ご迷惑をかけてすみません」
見える訳はないと思うけれど、羽那はスマホを耳に当ててお辞儀をしていた。
『ほんとだな』
やはりそんな、不機嫌そうなそっけない返事が胸に突き刺さる。
「あの……、今から持って行きます」
羽那の教科書は向こうだし、彼の教科書はこちらにある。つまりは、二人とも今日は借りるかどうかしないといけない。
『そっちも、学校なんだろ?帰りに霧が丘駅の上りホームまで持ってこい4時な』
有無を言わせない、というよりは言えない。
「は、はい!」
『降りれたって事は、電車には乗れるだろ?』
「は、はい!大丈夫です!」
慌てて羽那は返事をした。
『弁当はもらっとくからな』
「はい!お願いします!」
『じゃあ遅れずに来いよ』
「わかりました!」
通話を切ってから、大きくほぉーっとため息をついて、とりあえずリュックが戻りそうな事に安堵した。
「えらく低姿勢だったね羽那」
「だって……私がまちがえたの」
「まぁ、そりゃあ仕方ないか」
「一時間目の数学借りにいってくる」
のろのろと立ち上がった羽那は、隣の教室で教科書を借り、縫にルーズリーフとシャーペンを借りた。昼御飯縫をはじめとして、みんなが少しずつ分けてくれると、なぜかすごく豪華なランチになった。
そうして迎えた4時。
羽那は指定された霧が丘駅に向かった。雲乃坂駅からは二つ目にある。
人気のまばらな上りホーム。
困った事に、同じ年頃の男の子だとしか分からない。当てはまる学生らしい姿をさがしながらキョロキョロあたりを見ていれば、
「おい」
「きゃ!」
突然後ろから声をかけられて、ビクッとしてしまう。
「まぬけの笹木 羽那」
名前を言われて、
「あ」
振り向いた羽那はまじまじと相手を見た。
「有住 龍生さん?」
名前を知ってる知らない人。
だとすれば、今日は彼しかいない。
「それ以外に、誰がここでお前なんかに声をかける」
酷い言われようだが的は得ている
「重ね重ねごめんなさい」
羽那は深々とお辞儀をした。
「ほら早く、寄越せ」
軽く頭一つ上から、尊大に言われて羽那は慌ててリュックを両手で差し出した。
「あ!はい!」
受けとると、龍生は空いた手にリュックを乗せた。
「名前確かめるのに教科書みたのと、腐るから弁当食べたのと、持ち主が探してるかも知れないからスマホに出た。あとペンケース、使った」
「すみません、助かりました。私も名前を見させてもらいました」
「じゃ、それでおあいこな。懲りたら電車で寝ボケるなよ」
そういうや否や、龍生はそのままやって来た電車に乗り込み、方向が同じ羽那も乗り込んだ。
真横に乗り込んだ羽那は、リュックを持ちそろりと龍生を窺うように見た。
ユルく癖のある柔らかそうな髪とそれから華やかで整った顔。バランスのよい体つき……、同じリュックの持ち主はなんだかとても、モテそうだと思った。
そんな彼は今、羽那が持っているのと同じ本を読んでいる。
どこのページかな?……どの行を読んでるのかな?
なんだか気になってしまう。
同じ車両に乗った気まずさもありつつ、空いていた席に座り、膝の上にリュックを乗せた。
それから……なんとなく。
そう、なんとなく、羽那はいつもの電車じゃなくて、龍生と出会った同じ時間の同じ電車、同じ車両に乗っては龍生を探すようになってしまった。そしてその彼の出現率はとても高かった。
席に座り、龍生も持っていた『永遠の庭』を読みながらちらりと龍生を探す。同じのを持っているからか、どうしてもこの本を選んでリュックに入れてしまう。
リュックも結局変えられなくて、小さめのリボンのブローチをフラップに付けた。
龍生の乗ってくる駅は雨水路駅。羽那の乗るのは軒下之雫駅は間には二駅ある。
龍生の降りるのは霧が丘駅で、そこの駅から歩けばすぐ近くにある青銀高校があり、彼の制服からそこだと知っていた。
どうして、探してしまうんだろう。
同じリュックを持っていたから?
同じ本を読んでいるから?
羽那は本に目をやりながらも、龍生のいる方がまるで熱を持っているかのように感じてしまう。
そんな、単に同じ電車で過ごすだけの日々はある日突然終止符を打った。
「なぁ」
いきなり隣に座った龍生にそう話しかけられて、羽那は驚いた。
「え?」
「それ、読むの何回目?」
それ、というのは羽那のもつ『永遠の庭』の事だろう。
「何回かな」
『永遠の庭』が出たのは、かれこれ5年前。
羽那の持っているその本は、かなり読みぐせがついていて何度も読み返したとわかるものだった。
何気なく表紙とタイトルに惹かれて、なんとなく買ってしまっていたのだ。はっきり言って、読んでいて楽しい物じゃないし、理解もしにくい作品だ。
「これ……読んでるよね?有住くんも」
おずおずと羽那は言った。
「驚いた。こんな、マイナーな本を何度も読み返してるやつ。俺の他にいたのかって」
クスッと漏らした笑い声と、それから笑うと和む目が、なんだかとってもドキドキとさせられた。
「なんでかな……何回読んでも、なんとなくしかわからなくて、なのに、それなのにまた読み返したくなっちゃうの」
未留久 鞍雲なんてへんなペンネームも、そしてなんだか抽象的過ぎる内容にも。
『僕はずっと永遠の庭を探してる。永遠にそこで過ごせるそんな庭だ。そこはどんな所だろう?花が咲いてるのか?小川が流れているのか?明るいのか?暗いのか?』
そんな風に始まって、そして主人公を巡る現実の厳しさをとつとつと語り、現実にあるのか、ないのかそんな庭を探し続けてる。そんな内容なのだ。
「『僕の進む道に名前はない。ただ先のわからない道があるだけで呼ぶことはしない。ただ名前のない道がそこにあるのだ』」
龍生がそらんじて言うのに羽那は頷いた。
「私もそこが……どうしても気になってて」
「……すげぇ暗い話なのにな」
「『こうしてごくごく平凡な日常が過ごせる事の素晴らしさ。普通である、ただそれだけが、どんなに難しい事なのか。普通である事を求めて、僕は今日も“永遠の庭”を、求めて名前のない道を歩き続ける。その道は時に明るく見え、時には霞んでなにもない』」
「暗記かよ」
ぷっと龍生が笑った。はじめて見せた笑顔は、なんだか素敵に見えた。
「有住くんだって覚えてるでしょ」
そんな風に、龍生はその次の日から隣に座るようになった。
そして、何故か『永遠の庭』は、龍生と話をした後には、あんなにずっとこの本を繰り返し読んでいたのに、他の本を読みたくなって、本棚にそっと仕舞われた。
「今日は何読んでる?」
そこにずっと前から座るのが当然みたいにして龍生は隣に座った。
「『雨』っていう、新しいの」
羽那が言うと、
「またか」
同じ黒のリュックから出したのは、『雨』だった。
「まただね」
クスクスと、何がおかしいのか自分でも分からないのになんだか、また同じっていうことがくすぐったくて笑ってしまっていた。
「本の趣味、変だって言われない?」
龍生は羽那の本をトンとつついた。
二人の手に、同じ本。
そして、それは目たない所に置かれていた本だ。
それが隣同士並んでいる二人の手に一冊ずつ。何だかとても変な感じがする。
だけど龍生となら、また次もありそうな気がしてしまった。
「んー?そんなに本の事を話す相手とかいないし」
むしろ、羽那は友達には本と言えば漫画で、小説を読まないタイプだと思われていそうだ。
「だよな」
華やかな龍生には、マイナーな本なんて似合わない。
「そういえば、有住くんって、この時間だと早く着きすぎるよね?」
「そっちもな」
笑って返されて……。
龍生は最近、よくこんな笑顔を見せてくれるようになった。
「早めのに乗ると、空いてるし座れるし………だから本が読みやすい。で、有効な時間の使い方が出来ると思うわけだ」
「やっぱり!そうじゃないかと思ってた」
ちらちらと意識して見ていた時、龍生はほとんどいつも本を読んでいたから。
羽那も早めの電車に乗るようになって、その時間がとても好きな事に気がついていた。
「ね、じゃあ。明日、有住くんのお勧めの本持ってきてよ。一冊、で、私も持ってくるの。それを交換したら面白そうじゃない?」
羽那はだんだん、龍生への興味が止まらなくなって、そんな事を提案していた。
「なんで」
「本の趣味が似てるから」
「そうしても良いけど、お前、本読みながら菓子食べる?」
こんなことを聞くなんて潔癖なのだろうなぁ~なんて思った。
「食べないよ。集中しちゃうから」
「おっけ。じゃそれ乗った、持ってなさそうなの持って来い」
むしろ持っているのの方が珍しいんじゃないかななんて思いつつ頷いた。
「うん、そっちもね」
羽那の降りる駅が来て、席を立ってそして車内へ手を振った。
結局朝は、こんな風に話したりして過ごすようになったから、本を読む時間は減っていたのに、なぜか全然不満じゃない。
朝起きるのも、前までは体が重かったのに……だから時間もギリギリだったのに、最近は少しもそんなことはなくて、目覚ましでスッキリ目が覚めるし、制服のブラウスのアイロンだって自分でするようになった。
次の日、持ってきた本はお互いに被らなかった。でも………家の本棚にあったのは内緒だ。それでも龍生の物だと思うと、違う感想が思い浮かびそうだ。羽那の持ってきた本を龍生も手にして眺めた。
「これ、気になってたんだ」
「私も、読んでみたかったのだ」
見事に、読んでいる本が被ってる。たくさん本は本当に無数にあるのになんて事だろう。
リュックに龍生の本を仕舞うと、
「何日かかる?」
「俺は長くて2日かな」
「うん、私もそれくらい」
そして、いつものように羽那が先に電車を降りる。
走り出す電車を振り返ると軽く片手を上げるだけの、ちょっとクールぶってる龍生が、ガラス越しに見える。
まだまばらな教室で、借りた本の表紙をめくってみた。
帰りの電車でも、前に読んだことのあるその本を集中して読んだ。すると最後のあとがきとの間にメモがはまっていた。
それは、自分はここのこういう所が好きだ、と書かれていた。
斜めがきつめの、龍生の字だ。
「こんなの……なんかちょっと、嬉しすぎる」
羽那はキャラクターのダイカットメモに自分の感想を書いた。もちろん龍生のメモへの返事も。
その次の日には、新しい一冊に、羽那も同じように自分はここが好きだと書いてあとがきの前に挟んだ。
本を通していると、何だか龍生の事をたくさん知っている気になってきた。
電車で会っているのは毎日朝の20分位しか無いのに。
そうすると不思議な事で、本屋で選ぶときも龍生なら、どれを選ぶかなぁ~なんて考えてしまっている自分がいて、羽那はじっくりと選ぶようになった。
本以外は、何が好き?
休日は何してる?
クラブはしてるのかな?
―――――――………私の事をどう思ってる?
気がつけば、本の貸し借りだけじゃ………。
羽那の気持ちには足りてないっていう事実。
落ち着いて本を読みたいからじゃなくて、あなたに会いたくて早い電車に乗ってるの。
だけど、そんな事は伝えられそうにない。
だから、今日もいつものように本を交換する。
あとがきを探すのを我慢して一ページずつ文字を追う。
それで余韻のあるままに、メモを読むとどんどん気持ちは大きくなる。
時には同じだと思ったり、そういう視点もあるのかと感心したり。交換する本の数が少しずつ増える。
学校が休みの日が憂鬱だなんて、おかしな気持ちに塞ぎこみそうになる。
「ふらふら歩いてたら、会えないかな……」
例えば、大型書店とか。何となく龍生も時間が出来たら出掛けそうな気がして。
よしっ!
と、自分なりの精一杯のおしゃれをして
「行ってきます!」
「あら、羽那。出掛けるの?」
「うん」
「何かおめかししちゃって。本屋じゃないの?」
「本屋」
母は鋭いなぁ、なんて思いながらスニーカーを履いて駅へとホップするみたいな気持ちで電車に乗り、大型書店のある星霜駅へと着いた。
ふと手に取ったのは、普段なら選ばないような純愛もの。
(こんなの……私、買っちゃうのかな)
気がつくとその本を手に、レジへと向かっていた。
本屋の袋を手に店を出て、少し歩くと
「笹木 羽那」
名前を呼んでいるのは聞き覚えのある声だ。
「ひぇ」
まさかまさかまさかの出合いだ。
「ひぇ、って何だよ」
振り向くと、もしかしたら会えるかな、なんて期待していた人の姿があった。
「よ、よくわかったね。こんな所で会ったのに」
「たまたま、同じ店にいた」
「やっぱりここに来るんだ」
「何だよ?まさか俺がここに来るの期待してたとか?」
「そ、そんな事言ってないから……」
言い当てられるなんて、はずかし過ぎるから。
「今日も買った?」
「うん。いっぱいありすぎて、迷ったけど」
「俺も。最近は前まで気にならない本まで気になり出したから」
おんなじだ、と。
羽那は、ささいな事にさえ、心の中できゃぁと叫び声をあげていた。
足の長さからしたら、歩く速度は違うはずなのに、羽那の横に龍生は歩いてる。
つまりは、速度を合わせてくれてるんだ。
ぶっきらぼうな振る舞いなのに、他人に合わせる優しさに気づいたらニヤニヤが止まらない。
「よっぽど楽しそうな本買えたんだな。めっちゃにやついて、まぬけな顔だぞ。それ」
「そうかも、楽しみ!」
今は何を言われたって、嬉しいんだから。
買った本は『睡恋―suiren―』。
主人公の結子は、ずっと幼なじみの真の事が好き。
なのに、いつも可愛げなくまるで母親とか姉のように振る舞ってしまう。今の関係を壊したくなくて、恋する気持ちを眠らせようとする不器用なタイプだ。真に気持ちを伝えるまで、思い悩んだり、前向きになったりする結子の気持ちに、今の羽那の気持ちは揺さぶられ最後には泣けてしまった。
『今の私は、結子ととても重なる。私はまだ眠らせていた方がいいのかな』
本の感想を書いた後にそんな一文を書いてあとがきの前のページに挟んだ。
その本を渡した時、龍生が渡して来たのも同じ睡恋だった。同じ本を交換したのに何も言えなかった。そして龍生も言わなかった。
羽那は緊張していた。思わせぶりなメモを書いてしまったから。そして、龍生も緊張しているみたいだった。二人の空気がまるで力を持ったみたい。それでなんと無くただ隣に座って、電車の外の景色を見ていた。
そして、教室ですぐに本を取り出した。
今回だけは、すぐさまあとがきの前にあるはずのメモを探してしまった。
『俺なら、気持ちを眠らせたくないな』
感想はその一言。
同じ本。同じページ、龍生ももしかしたら、羽那の本のここを見ているかも知れない。
「あれ、どうしたの?」
登校してきた縫が止まったままの羽那を気にした。
「ううん、何にも」
羽那は本をリュックに入れた。
(結局……どうなのよ~!)
駄目だと、より悩ませてくる一文だった。
睡恋の内容がぐるぐると渦巻いて、じたばたと暴れたくなる。
次の日、まだ何も書けない羽那は読めもしない本を開いていた。龍生の睡恋。
乗ってきた龍生に気づいたけど、おはよと声だけかけて、隣に座る龍生が同じく本を開くのに気づいた。
一度、意識しだすとなかなか軽口のきっかけがつかめない。
そんな自分を情けなく叱りつけたい日々が続いた。週末の金曜日。
雲乃坂駅から電車に乗った羽那は、後から乗ってきた龍生に気がついた。両開きの扉の両側に立った。
まもなく、龍生が降りる駅が近づいて何か喋らないとと、焦る。
「……なぁ」
声と共に渡されたのは羽那の睡恋。
「これ」
これまでに無いくらい、日数をかけて返された本。
そこに何て書いてあるのか、考えるだけで鼓動が跳ね上がる。
「明日、星霜駅の東口に11時な」
「えっ……」
雨水路駅に到着するアナウンスが流れる。
「あと、りゅうせいじゃなくて、たつきだから」
「それ……」
何時の間違いを正してるんだ、と思わず呻きそうになる。
立ち去る背中を見送ると、
「何だったの、今の」
そう言いつつ、込み上げるような頬の赤みが押さえられない。
そんな羽那の様子を、軽く振りかえって確認して微笑んだ気がした。
『星霜駅の東口に11時』
慌てて渡された羽那の睡恋のあとがきの前のページには
『好きだ』
の一言が書かれていた。
これを書くのに、ほとんど一週間もかかったなんて顔を赤らめながらクスクスと、笑ってしまった。
明日は羽那も龍生の睡恋を持っていこう。
書く言葉はようやく決まった。
『私も龍生くんが好き』
次の日の、11時。
互いのアドレスを交換なんてしていないけど、待ち合わせの不安は全くなかった。
そしてそれは、星霜駅について歩いた先に羽那を見つけた龍生と目が合う。
「今来たの?龍生くん」
「そう」
歩き出しながら差し出された手の指先をそっと握った。
「ね、どこにいく?」
「とりあえず本屋」
「そこから、なんだ」
「他に思い付かない」
そう聞いて、羽那は自分もだと笑えてしまう。
「あっ、これ先に渡すね」
龍生は彼の睡恋をぱらりとめくって、そして閉じるとリュックに仕舞った。軽く目の下とか首辺りが赤いのはきっと気のせいじゃない。
「あれさ、永遠の庭。なんとなく今なら分かりそうな気もしてした」
羽那はそう言った。
つまりはこういう、何気ない幸せ。
「そっか」
「そうだよ」
こういう何気ない日々が、ずっと続きますように、と。
龍生と、羽那は今同じ名前のない道を歩き出している。
「わからなくもないかな」
今日も、羽那は恋してる。
出会った時からずっと、毎日。