京の鬼
かつて、京の都の南に位置していた朱雀門。今は存在しないその門跡の傍。すでに丑の刻を回った深夜に、一人の女がたたずんでいた。
長く豊かな黒髪は結わずにそのまま、切れ長の瞳に収まった瞳は黒水晶のようで、陶磁の肌は闇夜に浮かぶほど白い。唇は対比するように血の色をしている。
化粧っ気の無い顔は、今生の者かと疑ってしまうほど美しかった。どこか浮世離れしていて、この場に置いては物の怪のたぐいにも見える。
反して、まとった着物はあまりにも派手だった。
華美というより、過美である。
目を引く鮮やかな緋色の衣。柄も華々しく、完全に着崩している。幾つもの装飾品もきらびやかで、酷く悪目立ちした。
女でありながら、これではちまたではやりの傾奇者である。
更に驚くことに、女は帯刀していた。
戦が世を満たしているこの時代、刀を持つのは戦に出る男達のみである。武家の女でも、持つのはせいぜい短刀止まりだ。女の武器と言えば、薙刀が通例である。それにしたって、武家の子女に限られる。
しかし、女は素知らぬ顔で長刀を帯びていた。
紅色の柄と鞘の、美しい刀である。今は女の手に握られており、白銀の刀身をさらしている。
抜き身の刀。女は先ほどまで、それを振るっていた。
しかし、刃が向けられていたのは人ではない。無論、このような刻限と場所で剣の修行も無いだろう。
ならば、何に対して彼女は戦っていたのか。
「だから言ったであろう? 私には勝てぬと」
女はころころと笑いながら、細めた目をもの言わぬそれに向けた。
やすりのような肌、人間の二倍はある体躯、岩を削り取ったような顔面、獣のような牙。
何より額から突き出た、二本のねじれた角。
鬼――だった。
―――
女の名は椿夢月と言う。
この時代に、姓を名乗る女などいるわけがない。姓は家を表す。家名を背負う男はいても、家名を背負う女はいないのである。にも関わらず、彼女は平然と姓を名乗っていた。
そんな彼女を、人は傲岸不遜だと評した。夢月にもその自覚はあったし、しかしそれを直す気は無かった。
傲岸不遜が、彼女の基本姿勢である。それに、周りの人間は――特に都の人間は、彼女を蔑みはしても罵ることは無かった。
それは、彼女の実績によるものだった。
彼女の生業は、鬼を狩ることである。
都ができて以来、この地は魔性の者がはびこるようになった。陰陽道にもとづいて造られた京の都だが、その構造は逆に魔を集めるという結果をもたらしたのである。
そんな都を守るために、夢月の一族は代々鬼を狩り続けてきた。
鬼は、人が負の感情に形を与えた想像の産物である。しかし、魔都とも呼ばれるここ京では、想像に肉付けされてしまう。
特に今の世のように、戦や病で乱れに乱れている時代は、不安や恐怖で鬼の数は増加するのである。
実際、夢月は連日連夜鬼を狩り続けていた。苦痛は感じないものの、やはりうんざりはする。
夢月の顔は、少し曇っていた。
「全く、世も末よ。かような数の鬼が出ようとは」
肉体は疲労していない。華奢な体躯の割に常人離れした体力を持つ夢月にとって、戦闘は散歩した際の消費と何ら変わらないのである。
しかし、精神面は幾らかまいっていた。
常に気を張り、敵を認識すれば斬る。言うはやすいが、実際は言葉ほど容易ではない。
夢月にとって、京の都は戦場にほかならなかった。
はぁ、と。
悩ましげにため息をつく夢月。漆喰で塗られ、深い赤の鼻緒を持つ下駄は一定の律動を崩さずに小気味よい足音を鳴らしている。
向かう先にも鬼がいる。そう思う夢月の心は降下の一途をたどっていた。
からん、ころん、という下駄にしては軽い音とは裏腹に、深夜の京は恐ろしいまでの静寂につつまれている。
夢月は視線を辺りに漂わせた。
日中ならばそれなりににぎわいを見せる京も、今は人一人、獣一匹としていない。
家々の戸や閉め切られており、外からでは中の様子はうかがえない。人がいるかどうかもあいまいだ。路傍にも、昼間なら転がっている乞食の影すら無い。
人間がいるはずなのに、これでは無人の都のようだ――と夢月は思った。
思ってすぐ、紅い唇に自嘲の笑みが浮かんだ。
「……何と馬鹿馬鹿しい」
確かにここは魔都だが、人の営みがある都である。
錯覚にとらわれるなど、らしくない。夢月は前髪をかき上げた。
「無人であれば、私は戦わん。雇い主のおらぬ都なんぞ護って、何とする。……そう思わぬか、鬼共よ」
夢月の足が止まった。
視線の先には、何も無い場所。かつてそこには、羅城門と呼ばれる門が建てられていた。
しかし、その羅城門はいわばいわく付きの門である。
かつてその門には、身寄りの無い死体――いわゆる無縁仏が捨てられていた。
老若男女、節操無く――最終的に、死体の処理に困った家族が親類の死体を捨てるようにもなった。
その門も、今は無い。度重なる災害で最終的に荒廃、倒壊してしまったのだ。
現在では何も無いその場所だが、本能的に何かを感じるのだろうか、この場所に近付く京の住民はいない。
鬼達を除いて。
夢月の言葉に反応したのではないだろうが、数十はいそうな鬼達は彼女を見た。
しばし呆然とした様子で夢月を見つめた後、一匹の鬼がずい、と前に出る。
聞き取りづらい、銅鑼のような声が放たれた。
「女……わざわざ喰われに来たか」
「喰われに? 違うな」
夢月は嘲笑を、自身ではなく鬼達に向け、刀の柄に手をやった。しかし、鬼達は身じろぎもしない。
今にも折れそうな、細身の女に何ができると思っているのかもしれない。彼らにとって、夢月は獲物でしかないのだ。
しかしこの場合、狩る側は鬼達ではなかった。
「喰らいに来たのだ」
鞘走りの音が響く。先ほど前に出た鬼は、緩慢な動きで腕を振り上げた。
しかし。
「っ……?」
鬼の目が見開かれる。
なぜなら――目の前の女が、いつの間にかいなかったから。
「まぁ、私は単なる比喩だが」
と。
鬼の背後から声がかかった。
鬼は驚いて振り向こうとする。だが、それは叶わなかった。
「っ、が……!?」
鬼の下半身から、上半身がすべり落ちた。遅れて、下半身が倒れる。
質量を伴った落下音が二つ、地面を揺らした。
「……ふむ。我ながらなかなかの居合い抜きよ」
夢月は満足げに頷いて倒した鬼を検分した。
「しかし、この鬼が大したことが無かったとも取れるが……さて」
夢月は一旦納めた刀を再び抜いた。
「おぬしらは――どうだ?」
刀の煌めきを見た瞬間、鬼達が咆哮を上げた。同胞を倒された恨みか、空気さえ破壊し尽さんばかりに。
しかし、夢月はそれで揺るぐほど、やわな女ではなかった。
ただ、艶然と微笑んだ。
微笑んだまま――動き出した。
動き出した、どころではない。
一方的な蹂躙の始まりだった。
夢月は体勢を低くし、緋の衣をはためかせて走る。狙うは手近の鬼二匹。
刀を下から上へ振り上げると、鬼の身体が縦割りにされる。返す手で隣の鬼が、今度は袈裟がけに斬られた。
返り血を避けながら後ろへ跳んだ夢月は、着地と共にその場で舞うように一回転する。白銀の閃光が走ると同時に、二匹の鬼が一緒くたに撫で斬りにされた。
今度は右に移動。一匹の鬼の目前まで迫り、跳躍する。呆けた鬼の首を斬り飛ばし、傾いだ肩を蹴って更に舞い上がった。
月明かりをあびて幾つもの装飾品が輝き、緋色の衣が漆黒の空に映える。その様は、天女のようでさえあった。
見とれる鬼の頭上に、夢月は落下する。体重を乗せた一撃は、鬼の身体を真っ二つにした。
ここまでで、ほんの十秒。たった十秒で、六匹の鬼が倒されていた。
歴戦の武将でさえ喰らってしまう鬼達が、いともたやすく。
「弱い」
夢月は一言そう言って、刀を肩にかついだ。
返り血は一切あびていない。そもそも一刻ほど前にも、一つ戦闘を終わらせてきている。だというのに、着物にはしみ一つ無かった。
着物に限った話ではない。
夢月の刀もまた、血が付いていなかった。血どころか、刃こぼれ一つ無い。
刀は所詮消耗品。十人斬れば刃こぼれを起こし、血と脂で斬れなくなり、最終的に折れるかまがる。
鬼が相手でも、それは同じだ。むしろ鬼を斬った方が消耗が早かろう。なまなかな武器では、傷一つ付くまい。妖刀でも無い限りは無理だ。
夢月の技量もあるだろう。しかしそれだけでは片付けれない威力である。
しかし鬼達にとっては、それら全てがどうでもよかった。
刀が正真正銘の妖刀であり、平安時代に造られた鬼を斬るための刀であり、代々夢月の家に受け継がれる伝来の刀であることなど、鬼達には関係無いのだ。
あるのは、同胞をあっさり斬り倒し、弱いと吐き捨てた女のみ。
女は、夢月は、ため息をつく。
本当に、悩ましげなため息を。
「人では相手にならぬ。鬼でももの足らぬ。ほんに――つまらぬ」
つまらぬから、疲れる――と、夢月は呟いた。
「とはいえ、放棄するわけにはいかぬ」
仕事だからな、と、夢月は笑った。
極上の笑みを浮かべる夢月は、天上に浮かぶ満月より美しく。
「さぁ、鬼共よ」
醜悪な鬼達より、恐ろしかった。
「続きを、始めようか」
もう咆哮は、上がらなかった。
―――
ふかり、と煙が漂う。
紫煙から上がる煙を目で追いながら、夢月は自らの屋敷の屋根で月見と洒落込んでいた。
服装は派手な着物のまま。
刀も帯びたまま。
装飾品は外しているが、傾奇者のような印象は変わらない。
しかし月を見上げる姿は、実に妖艶で儚げだった。
紅い羅宇の煙管をふかす様は、先ほど鬼達を完膚無きまでに斬り尽くした者とは思えない。ただの風変わりな麗人にしか見えなかった。
夢月は口から煙管を離し、そっと息をついた。
あぁ、と感嘆の声を上げて見上げるは、青白く輝く月。真円を描く月は、墨をぶちまけたような空に浮かび上がって見えた。
「ほんに京の月は、美しい」
夢月はうっとりと、酔ったかのようなしっとりとした声音で、そう呟いた。
―了―
初めましての方もそうでない方も、こんにちは、沙伊です。
『京の鬼』、お楽しみいただけたでしょうか。粗筋でも書いた通り、この作品は連載小説『HUNTER』の派生作品です。ですが、単品でも読める仕様となっています。
もともとは、大学で私が所属している文芸部の部誌に載せていた短編でした。それを一部修正して投稿させていただいております。と言っても、毛ほどの修正ですけど。
これをきっかけに、連載の方も見ていただければ幸いです。
では、また機会があれば。