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政略結婚で嫁いだ先の冷たい旦那様が記憶を失くしたら、毎日「愛してる」と言ってくるのですが

作者: 夢見叶
掲載日:2026/02/13

 初夜に、夫はこう言った。


「君を愛することはない」


 ——あれから三年。


 私、セレナ・クレイヴンは、相変わらず夫の顔をほとんど見ない生活を送っていた。


 侯爵家の奥方として不自由はない。広い屋敷、優秀な使用人、美しい庭園。けれど夫——レイモンド・クレイヴン侯爵は、朝早くに騎士団へ出かけ、夜遅くに帰宅する。食事も寝室も別。私たちは同じ屋根の下に暮らしながら、他人のように過ごしていた。


 それでいい、と思っていた。


 政略結婚なのだから。愛がないのは、最初から分かっていたこと。


 だから——。


「旦那様が、落馬なさいました」


 使用人からの報告を聞いた時、私の心臓は大きく跳ねた。


 ◇


 医師の話では、命に別状はないが、記憶に障害が残る可能性があるという。


 私は夫の寝室の傍らで、彼が目覚めるのを待った。三年間、ほとんど入ったことのない部屋だった。質素で、飾り気がなくて、夫らしい部屋だと思った。


 ——私は、夫のことを何も知らない。


 そんなことを考えていた時、夫の瞼がゆっくりと開いた。


「……セレナ?」


 彼の声は、いつもより柔らかかった。私は驚いて椅子から腰を浮かせた。


「旦那様、お気づきになられましたか。医師を呼んで参ります」


「待ってくれ」


 彼の手が、私の手首を掴んだ。


 ——え?


 三年間、夫に触れられたことなど一度もなかった。驚いて固まる私を、彼は不思議そうに見上げた。


「……なぜ、そんな顔をしている」


「いえ、その……旦那様、お身体の具合は」


「頭が少し重いが、問題ない」


 彼は身を起こし、私の顔をじっと見つめた。その目は、いつもの冷たい光ではなく、どこか温かみを帯びていた。


「セレナ」


「は、はい」


「ずっと傍にいてくれたのか」


「……はい」


「そうか」


 彼は、微かに笑った。


 ——笑った?


 三年間、夫の笑顔を見たことがなかった。私は言葉を失い、ただ彼を見つめ返すことしかできなかった。


「ありがとう」


 その言葉が、胸に刺さった。


 ◇


 翌日から、夫の様子は明らかにおかしかった。


「セレナ、一緒に朝食をとろう」


「……はい?」


「三年も一緒に暮らしているのに、妻と朝食を共にしないなど、おかしいだろう」


 おかしいのは、貴方の方だ。


 私は戸惑いながらも、夫と同じ食卓についた。三年間で初めてのことだった。


「今日は何をして過ごす予定だ?」


「えっと……庭の薬草の手入れを」


「薬草?」


「はい。母から教わった薬草学を、少し」


「そうか。君は薬草に詳しいのか」


 夫は興味深そうに頷いた。そんなこと、三年間一度も聞いてくれなかったのに。


「……旦那様」


「なんだ」


「記憶は、どこまで戻られたのですか」


 私の問いに、夫は少し考える素振りを見せた。


「騎士団での記憶はほぼある。屋敷のことも、使用人の顔も覚えている。ただ……」


「ただ?」


「君との記憶が、ぼんやりしている」


 なるほど、と私は納得した。


 夫にとって、私との記憶など「ぼんやり」で当然だ。なにせ、三年間ほとんど関わっていないのだから。


「無理もありません。私と旦那様は、あまり……」


「だが、一つだけ確かなことがある」


 夫が、私の手を取った。


「私は君を愛している」


 ——は?


 私は椅子から転げ落ちそうになった。


「ちょ、旦那様……!?」


「なぜ驚く」


「い、いえ、その……っ」


 私は顔が熱くなるのを感じた。三年間、一度も言われなかった言葉。それがこんなにもあっさりと、彼の口から出てきたことに、心臓が追いつかない。


「旦那様、記憶が混乱されているのでは……」


「そうかもしれない」


 夫は淡々と言った。


「だが、君を見ていると、胸が苦しくなる。これは愛ではないのか?」


 私は答えられなかった。


 ◇


 それから、夫の行動は日に日にエスカレートしていった。


「セレナ、散歩に行こう」


「セレナ、今日は早く帰る」


「セレナ、この花は好きか?」


 毎日、毎日、私の名前を呼ぶ。一緒に食事をし、庭を歩き、時には本を読み聞かせてくれた。


「旦那様、お仕事は……」


「騎士団には、妻の看病で休むと伝えてある」


「私は元気です!」


「君が元気でも、私が君と離れたくない」


 ——この人は、本当に記憶喪失なのだろうか。


 いや、間違いなくそうだ。でなければ、こんな言葉を私に向けるはずがない。


 夜、一人になった寝室で、私は天井を見つめた。


 これは、偽りの幸福だ。


 記憶が戻れば、夫は元の冷たい人に戻る。「愛してる」なんて言葉は、きっと二度と聞けない。


 分かっている。分かっているのに——。


 どうして、こんなに胸が苦しいのだろう。


 ◇


 一週間が過ぎた頃、事件は起きた。


 夫の書斎を掃除していた時、一冊の帳面が床に落ちた。


 ——押し花帳?


 開いてみると、そこには見覚えのある花が並んでいた。


 白い小花。庭の隅に咲く、私の好きな花だ。


 ページをめくると、日付と共に短い文章が添えられていた。


『三月十五日。今日、妻が庭で白い花を摘んでいた。名前を調べたところ、スノードロップというらしい。』


『四月二日。妻は毎朝、スノードロップの様子を見に行く。よほど好きなのだろう。』


『五月八日。今年のスノードロップは見事だった。妻の笑顔も。』


 私は、息が止まりそうになった。


 この帳面は、三年分あった。


 三年間、夫は——私を、見ていた?


「……何を、読んでいる」


 振り返ると、夫が立っていた。


 その表情は、いつもの穏やかなものではなかった。どこか、焦っているような、困っているような——。


「旦那様、これは……」


「……見られたか」


 夫は深いため息をついた。


「記憶は、いつ戻ったの?」


 私の問いに、夫は観念したように肩を落とした。


「……三日目だ」


「三日目!?」


「目覚めた翌日には、ほぼ全て思い出していた」


 つまり、この一週間の「愛してる」は——。


「演技、だったのですか」


「違う」


 夫は強い口調で否定した。


「演技ではない。私は本当に——」


 言葉が途切れる。夫は苦しそうに眉を寄せた。


「……記憶がない振りをしていたのは本当だ。だが、言葉は全て本心だった」


「どういう、ことですか」


「三年前、君に『愛さない』と言った」


 夫の声が、低くなる。


「あの言葉を、ずっと後悔していた。だが、今更どう接していいか分からなかった。君は私を避けているように見えたし、私も……臆病だった」


 私は、言葉を失った。


「記憶を失ったことにすれば、やり直せると思った。浅はかな考えだと分かっている。だが——」


 夫が、一歩近づいた。


「この一週間で確信した。私は君を愛している。三年前から、ずっと」


 その言葉が、胸に染み込んでいく。


「旦那様……」


「レイモンドと呼んでくれ」


「……レイモンド様」


「『様』はいらない」


「……レイモンド」


 呼んだ瞬間、夫の——レイモンドの表情が、ふわりと緩んだ。


「もう一度、言ってくれ」


「……レイモンド」


「もう一度」


「何度言わせるのですか……っ」


 笑いながら抗議する私を、レイモンドが抱きしめた。


「すまなかった。三年間、寂しい思いをさせた」


「……私も」


「君も?」


「私も、臆病でした。話しかける勇気がなくて」


 レイモンドの腕に、少しだけ力がこもった。


「では、これからは——」


「はい」


「毎日、君の名前を呼んでいいか」


「……はい」


「毎日、愛していると言っていいか」


「それは、少し恥ずかしいです」


「駄目だ。言う。毎日言う」


 強引な言葉に、私は笑ってしまった。


 この人は、本当に不器用だ。


 三年間、ずっと私のことを見ていたのに、一度も話しかけられなかったなんて。


 ——でも、私も同じだ。


 だから、お似合いなのかもしれない。


「ねえ、レイモンド」


「なんだ」


「私も、ずっと貴方のことが好きでした」


 レイモンドの身体が、一瞬固まった。


「……本当か」


「本当です。初夜に『愛さない』と言われて、諦めていただけで」


「……私は、なんて馬鹿なことを」


「馬鹿ですね」


「否定しないのか」


「事実ですから」


 レイモンドが、困ったように笑う。


「これから、取り返す。三年分の愛情を、全て」


「……楽しみにしています」


 窓の外では、スノードロップが風に揺れていた。


 三年間のすれ違いが、ようやく終わる。


 これは偽りの幸福ではない。


 私たちの、本当の始まりだ。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました!


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