政略結婚で嫁いだ先の冷たい旦那様が記憶を失くしたら、毎日「愛してる」と言ってくるのですが
初夜に、夫はこう言った。
「君を愛することはない」
——あれから三年。
私、セレナ・クレイヴンは、相変わらず夫の顔をほとんど見ない生活を送っていた。
侯爵家の奥方として不自由はない。広い屋敷、優秀な使用人、美しい庭園。けれど夫——レイモンド・クレイヴン侯爵は、朝早くに騎士団へ出かけ、夜遅くに帰宅する。食事も寝室も別。私たちは同じ屋根の下に暮らしながら、他人のように過ごしていた。
それでいい、と思っていた。
政略結婚なのだから。愛がないのは、最初から分かっていたこと。
だから——。
「旦那様が、落馬なさいました」
使用人からの報告を聞いた時、私の心臓は大きく跳ねた。
◇
医師の話では、命に別状はないが、記憶に障害が残る可能性があるという。
私は夫の寝室の傍らで、彼が目覚めるのを待った。三年間、ほとんど入ったことのない部屋だった。質素で、飾り気がなくて、夫らしい部屋だと思った。
——私は、夫のことを何も知らない。
そんなことを考えていた時、夫の瞼がゆっくりと開いた。
「……セレナ?」
彼の声は、いつもより柔らかかった。私は驚いて椅子から腰を浮かせた。
「旦那様、お気づきになられましたか。医師を呼んで参ります」
「待ってくれ」
彼の手が、私の手首を掴んだ。
——え?
三年間、夫に触れられたことなど一度もなかった。驚いて固まる私を、彼は不思議そうに見上げた。
「……なぜ、そんな顔をしている」
「いえ、その……旦那様、お身体の具合は」
「頭が少し重いが、問題ない」
彼は身を起こし、私の顔をじっと見つめた。その目は、いつもの冷たい光ではなく、どこか温かみを帯びていた。
「セレナ」
「は、はい」
「ずっと傍にいてくれたのか」
「……はい」
「そうか」
彼は、微かに笑った。
——笑った?
三年間、夫の笑顔を見たことがなかった。私は言葉を失い、ただ彼を見つめ返すことしかできなかった。
「ありがとう」
その言葉が、胸に刺さった。
◇
翌日から、夫の様子は明らかにおかしかった。
「セレナ、一緒に朝食をとろう」
「……はい?」
「三年も一緒に暮らしているのに、妻と朝食を共にしないなど、おかしいだろう」
おかしいのは、貴方の方だ。
私は戸惑いながらも、夫と同じ食卓についた。三年間で初めてのことだった。
「今日は何をして過ごす予定だ?」
「えっと……庭の薬草の手入れを」
「薬草?」
「はい。母から教わった薬草学を、少し」
「そうか。君は薬草に詳しいのか」
夫は興味深そうに頷いた。そんなこと、三年間一度も聞いてくれなかったのに。
「……旦那様」
「なんだ」
「記憶は、どこまで戻られたのですか」
私の問いに、夫は少し考える素振りを見せた。
「騎士団での記憶はほぼある。屋敷のことも、使用人の顔も覚えている。ただ……」
「ただ?」
「君との記憶が、ぼんやりしている」
なるほど、と私は納得した。
夫にとって、私との記憶など「ぼんやり」で当然だ。なにせ、三年間ほとんど関わっていないのだから。
「無理もありません。私と旦那様は、あまり……」
「だが、一つだけ確かなことがある」
夫が、私の手を取った。
「私は君を愛している」
——は?
私は椅子から転げ落ちそうになった。
「ちょ、旦那様……!?」
「なぜ驚く」
「い、いえ、その……っ」
私は顔が熱くなるのを感じた。三年間、一度も言われなかった言葉。それがこんなにもあっさりと、彼の口から出てきたことに、心臓が追いつかない。
「旦那様、記憶が混乱されているのでは……」
「そうかもしれない」
夫は淡々と言った。
「だが、君を見ていると、胸が苦しくなる。これは愛ではないのか?」
私は答えられなかった。
◇
それから、夫の行動は日に日にエスカレートしていった。
「セレナ、散歩に行こう」
「セレナ、今日は早く帰る」
「セレナ、この花は好きか?」
毎日、毎日、私の名前を呼ぶ。一緒に食事をし、庭を歩き、時には本を読み聞かせてくれた。
「旦那様、お仕事は……」
「騎士団には、妻の看病で休むと伝えてある」
「私は元気です!」
「君が元気でも、私が君と離れたくない」
——この人は、本当に記憶喪失なのだろうか。
いや、間違いなくそうだ。でなければ、こんな言葉を私に向けるはずがない。
夜、一人になった寝室で、私は天井を見つめた。
これは、偽りの幸福だ。
記憶が戻れば、夫は元の冷たい人に戻る。「愛してる」なんて言葉は、きっと二度と聞けない。
分かっている。分かっているのに——。
どうして、こんなに胸が苦しいのだろう。
◇
一週間が過ぎた頃、事件は起きた。
夫の書斎を掃除していた時、一冊の帳面が床に落ちた。
——押し花帳?
開いてみると、そこには見覚えのある花が並んでいた。
白い小花。庭の隅に咲く、私の好きな花だ。
ページをめくると、日付と共に短い文章が添えられていた。
『三月十五日。今日、妻が庭で白い花を摘んでいた。名前を調べたところ、スノードロップというらしい。』
『四月二日。妻は毎朝、スノードロップの様子を見に行く。よほど好きなのだろう。』
『五月八日。今年のスノードロップは見事だった。妻の笑顔も。』
私は、息が止まりそうになった。
この帳面は、三年分あった。
三年間、夫は——私を、見ていた?
「……何を、読んでいる」
振り返ると、夫が立っていた。
その表情は、いつもの穏やかなものではなかった。どこか、焦っているような、困っているような——。
「旦那様、これは……」
「……見られたか」
夫は深いため息をついた。
「記憶は、いつ戻ったの?」
私の問いに、夫は観念したように肩を落とした。
「……三日目だ」
「三日目!?」
「目覚めた翌日には、ほぼ全て思い出していた」
つまり、この一週間の「愛してる」は——。
「演技、だったのですか」
「違う」
夫は強い口調で否定した。
「演技ではない。私は本当に——」
言葉が途切れる。夫は苦しそうに眉を寄せた。
「……記憶がない振りをしていたのは本当だ。だが、言葉は全て本心だった」
「どういう、ことですか」
「三年前、君に『愛さない』と言った」
夫の声が、低くなる。
「あの言葉を、ずっと後悔していた。だが、今更どう接していいか分からなかった。君は私を避けているように見えたし、私も……臆病だった」
私は、言葉を失った。
「記憶を失ったことにすれば、やり直せると思った。浅はかな考えだと分かっている。だが——」
夫が、一歩近づいた。
「この一週間で確信した。私は君を愛している。三年前から、ずっと」
その言葉が、胸に染み込んでいく。
「旦那様……」
「レイモンドと呼んでくれ」
「……レイモンド様」
「『様』はいらない」
「……レイモンド」
呼んだ瞬間、夫の——レイモンドの表情が、ふわりと緩んだ。
「もう一度、言ってくれ」
「……レイモンド」
「もう一度」
「何度言わせるのですか……っ」
笑いながら抗議する私を、レイモンドが抱きしめた。
「すまなかった。三年間、寂しい思いをさせた」
「……私も」
「君も?」
「私も、臆病でした。話しかける勇気がなくて」
レイモンドの腕に、少しだけ力がこもった。
「では、これからは——」
「はい」
「毎日、君の名前を呼んでいいか」
「……はい」
「毎日、愛していると言っていいか」
「それは、少し恥ずかしいです」
「駄目だ。言う。毎日言う」
強引な言葉に、私は笑ってしまった。
この人は、本当に不器用だ。
三年間、ずっと私のことを見ていたのに、一度も話しかけられなかったなんて。
——でも、私も同じだ。
だから、お似合いなのかもしれない。
「ねえ、レイモンド」
「なんだ」
「私も、ずっと貴方のことが好きでした」
レイモンドの身体が、一瞬固まった。
「……本当か」
「本当です。初夜に『愛さない』と言われて、諦めていただけで」
「……私は、なんて馬鹿なことを」
「馬鹿ですね」
「否定しないのか」
「事実ですから」
レイモンドが、困ったように笑う。
「これから、取り返す。三年分の愛情を、全て」
「……楽しみにしています」
窓の外では、スノードロップが風に揺れていた。
三年間のすれ違いが、ようやく終わる。
これは偽りの幸福ではない。
私たちの、本当の始まりだ。
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