第八話 登校準備
三次元の時間は不可逆である。楽しいことも、辛いことも、永遠には続かない。いつか終わりが来る。その縛りは、三次元に生きる耀平と雨淋にも作用する。
午前七時半。それが、シンデレラの魔法が解けるタイムリミット。二人が決めた早朝ジョギング終了時間だった。
日課であるが故に、二人の体も良く心得ている。脳内で別のことを考えていても、自然と脚は止まった。
二人同時に顔を上げた。すると、それぞれの視界に「白い巨塔の正面玄関」が映った。
耀平達はスタート地点(学園塔前)に戻ってきていた。時間配分は完璧だ。この後の予定に何ら支障は無い。尤も、直ぐに動き出せばという条件付きだが。
「「…………」」
耀平も、雨淋も、玄関を見詰めながら固まっていた。それぞれの脳内では次にやるべきことが閃いている。それでも――動かない。
もう少し、一緒にいたいかも。
耀平は雨淋を見た。すると、雨淋も耀平の方を向いていた。
「「…………」」
耀平と雨淋は、向かい合って見詰め合った。互いにとっては見慣れた顔だ。
しかし、どれだけ見詰めても、見飽きることは無い。
このまま、時間が止まれば良いのに。
耀平は永遠を望んだ。その直後、雨淋の顔に笑みが浮かんだ。
花が咲いたような、可憐な笑顔だった。しかし、それを見詰める耀平の胸に「錆びたナイフで切り付けられた」と錯覚する鈍い痛みが奔っていた。
その感覚は、残念ながら正鵠ど真ん中を射ていた。
耀平の視界の中で、雨淋の口が開いた。
「じゃ」
「うん」
雨淋は別れを告げた。耀平は即答で受け入れた。それを合図に、二人は同時に学園塔の方を向いて、同時に脚を踏み出した。
これで、明日の朝まで会えないのか。
耀平の胸中で錆びたナイフが暴れ回っていた。その痛みに耐えかねて、耀平は雨淋の方へと右手を伸ばした。
すると、雨淋から小さな左手が伸びて――耀平の右手を掴んだ。
ユーリンも、俺と同じ気持ち――なのかな?
耀平は雨淋の左手を握り返した。すると、雨淋もきつく握り返してきた。意外に握力が強い。それなりに痛い。しかし、耀平の顔には満足げな笑みが浮かんでいた。
そのまま、二人は手を繋いだまま学園塔の中に入った。
学園の玄関口――エントランスホールは、未だに無人のまま。耀平達も、移動中は無言のまま。
暫くの間、広間は静寂に包まれていた。耀平達がエレベーターの前に立ったところで、無機質な機械音声が響き渡った。
「お二人の学籍番号と名前をお願いします」
「J3M108。名取燿平」
「J3L108。劉雨淋」
耀平達が返事をすると、エレベーターの扉が現れた。中に入った後も、二人は手を繋いだままだった。
耀平達は、それぞれの手を固く握り合っていた。それこそ「二度と話さない」と言わんばかりに。しかし、残念ながら、離れる瞬間は存外早くに訪れた。
耀平達がいる円筒形の空間の中に機械音声が響き渡った。
「地下二階です」
地下二階。そこはツクモス学園生「女子寮」階層だ。雨淋の部屋は、この階層に有った。
耀平の部屋が有る男子寮階層は、地下三階である。
ここで、お別れか。
耀平と雨淋は、どちらともなく手を離していた。
「それじゃ」
「うん」
雨淋はエレベーターから降りた。その直後、エレベーターの扉が閉じた。
エレベーターは再び降下した。その最中、耀平はジッと右手を見詰めていた。
いつまで繋いでいられるんだろうな。
雨淋の進路は決定している。彼女の傍にいる為には、彼女と同じ成果が必要だ。
「最強戦――か」
ツクモス学園生最強決定戦。それは、世界中から集まった天才達の頂点を決めるイベントだ。
当然ながら、栄冠を頂く者は唯一人。それに挑める機会は、中高合わせた六年間だけ。その上、対戦相手の中には大会連覇の猛者(雨淋)も含まれている。
ユーリンの傍にいる為には、ユーリンに勝たなきゃ――な。
耀平は右手をギュッと強く握り締めた。その直後、エレベーターの扉が開いた。
地下三階層。
耀平は右拳を握り締めながら光の通路を突き進んだ。まるで定められた道を突き進むように、迷うこと無く自室まで戻ってきた。
耀平が部屋の前に立つと、即応でドアが開いた。
「ただいま」
耀平は帰宅の挨拶をした。耀平の部屋は個室だ。応える者は、当然いない。その事実は、耀平もよく理解していた。
耀平は挨拶するや否や、三和土で下履き(スニーカー)を脱いだ。そのままバスルームへと直行した。途中の脱衣所で服を脱ぎ、それを洗濯機に突っ込んだ。
「ぽちっとな」
朝の洗濯(二回目)。前時代の人類が見れば「勿体ない」と小言を言いたくなるところだろう。実際、初回を我慢すれば一度の洗濯で済んだ。
しかし、二十二世紀の地球にはツクモスが有る。それに関連する技術のお陰で、各家庭に供給される電気代は0円だ。水道代も、ツクモス学園塔では0円。
学園前に広がる太平洋と言う名の水源を活用し、それを無尽蔵の電力でろ過して使用している。
ライフラインの殆どが0円。その上、労働の義務も無い。前時代の人類からすれば、正に夢の生活といえるだろう。その恩恵を、耀平は存分に活用していた。
耀平は再びシャワーを浴びて汗を流した。その後、脱衣所の送風機で肌に付いた水分を除去。全裸のまま寝室兼居間に入った。
後は制服を着て、授業に必要なものを用意するだけ。
耀平は東壁の押し入れに移動した。扉を開けると、先ずは下段の箪笥から下着を取り出した。それを素早く身に付けた後、上段からツクモス学園生の制服(紺色のブレザーと同色のパンツ)を取り出した。
できれば、体操服のまま授業を受けたいところだけど。
制服の着用は、ツクモス学園の校則に明記されている。その事実を疎ましく思いながら、耀平は制服の袖に腕を通した。
「よし」
下着、制服、それら全て身に着けたところで、耀平は気合を入れた。続け様に、今度は居間の南側、ど真ん中辺りに移動した。
南壁には「勉強机」が有った。その机下に、学園指定の学生鞄が置かれていた。
鞄の中には、今日の授業に必要なものが入っている。それを手にすれば、「登校の準備」は完了する。そのはずだった。
ところが、耀平は学生鞄を無視した。
耀平は、何を思ったか、勉強机の引き出しに右手を掛けた。その取っ手には指を押し当てる箇所が有った。
指紋認証。耀平が右手の人差し指を当てると、引き出しの中から「カチャ」と開錠の音がした。
鍵の掛かった引き出しには、耀平にとって、命と同じくらい大事なものが入っていた。それを、耀平は恭しく取り上げた。
外観は、大きめの巾着袋。平ぺったく、丸く広がっている。その形状から、中に直系二十センチほどの円盤型の何かが入っていると推測できる。
耀平は巾着袋を学生鞄の中に突っ込んだ。
「よし」
これで耀平の登校準備が完了した。このまま教室で授業を受けることができる。
しかし、その前にやるべきこと、或いはやっておきたいことが有った。
お腹が――空いた。
朝食。育ち盛りの中学三年生にとって、朝食は大事な栄養源だ。二十二世紀を生きる全ての子ども達には、その権利と機会が完璧に保障されている。耀平も「本人の意思」以外で朝食を抜いた記憶は無い。
今日の耀平の脳内には、朝食を抜くという考えは全く無かった。
耀平は、自分に与えられた権利を実行すべく、必要なものを持って部屋を飛び出した。




