第五十八話 花冠
西暦二千百三十年、十二月六日(水)。
フィアナ財団CEO、フィネガスが「期待しているぞ」と念じていた頃、その想いを寄せられている当人、名取耀平は――寝ていた。
現在時刻は午後一時。所謂「真っ昼間」。
耀平は、いつものようにムラマサの腹の中で寛いでいた。その最中、読書中に寝落ちしてしまったのだ。
耀平は疲れていた。
格上ばかりと戦って、三連続大金星。元気そうに見えても、心身はそれなりに疲弊している。その事実は、ムラマサも何となく察していた。だからこそ、耀平が眠って以降、何も言わず、何もせず、そのまま放置している。
耀平も第二の家で就寝できて、それなりに慰労されている。
人が心休まるとき、潜在意識が本音をぶち撒ける。
耀平の脳内に、封印されたはずの過去の記憶が、夢となって閃いた。
それは六年前の過去の出来事。そのとき、耀平は初めて雨淋の心に触れた。
西暦二千百二十四年、五月某日。
劉雨淋が名取家にやってきてから、一箇月ほど経った。その間、名取家の面々(耀平、耀介、リオン)は、積極的に雨淋と関わろうとしている。
しかしながら、耀平達の努力は雨淋には届かない。
そもそも、これまでの雨淋の境遇は常軌を逸している。実験動物として生まれて以降、真面な人間として扱われていなかった。その為、雨淋に真面な自我が無かった。
雨淋は、一日の殆どを宛がわれた自室に籠って過ごしていた。耀平達の入室を拒まないことだけが唯一の救いだった。
尤も、顔を合わせたところで何も始まらない。誰も雨淋と真面なコミュニケーションは取れなかった。
当時の雨淋を見た者は、誰もが「人形では?」と疑念を覚えた。
普段の雨淋は、何をするでもなく、座ったまま茫洋と空中を見詰めている。耀平達が近付いても、全くの無反応だ。
何を話し掛けても、頷くか、首を振るだけ。余りに喋らないので、誰もが雨淋の声を忘れてしまいそうになっていた。
この日も、雨淋は部屋の隅に腰を下ろし、脚を投げ出した状態で茫洋と前を見詰めていた。
雨淋の視界には、部屋の様子が映っていた。その中に、同い年の男子の顔が飛び込んできた。
その男子の名前は名取耀平。その情報は、雨淋の脳内にも有った。しかし、「有る」というだけだ。特別な感情も何もない。
雨淋は、茫洋と耀平を見詰めていた。その虚ろな瞳に映った耀平の顔には恥ずかしげなハニカミの笑みが浮かんでいた。
耀平は左手で頭書きながら雨淋の前に腰を下ろした。
このとき、耀平は珍しく正座していた。普段の耀平ならば胡坐を掻いている。
耀平的に、畏まりたい気分だった。その理由が、耀平の右手に握られていた。
「えっと、その。これ――作ったんだけども」
耀平は右手を突き出して、雨淋に「これ」を見せた。
雨淋の視界に、白と緑の輪が映った。
それは――シロツメクサで編んだ花冠。
以前、耀平はリオンに「女子の喜びそうなもの」と尋ねたことが有った。
そのとき聞いた得た回答の一つが花冠だった。リオンには「それを推したい理由」が有った。
嘗て、リオンの誕生日に、耀平がリオンに花冠を作ってプレゼントしたことが有った。
当時の記憶を想起して、リオンは陶然とした表情を浮かべた。
「耀平の花冠。とても綺麗だったわ」
リオンは、耀平に向かって「アレなら雨淋の心も動かせる」と全力で保証した。それを、耀平は本気で信じた。
その結果が、現況だった。
耀平は「これ、良かったら」と言って、雨淋の眼前に花冠を突き出した。自信は有った。会心の出来栄えだった。これがリオンなら、直ぐ様頭に付けて踊り出したところだ。
しかしながら、雨淋はリオンのようにチョロくはない。全くの無反応だった。
えぇ? これで駄目なの?
耀平の心が折れ掛けた。耀平の顔から笑みが消え掛けた。しかし、未だ耀平には切り札が有った。
「一寸――ごめんね」
耀平は両手で花冠を掴み、それを雨淋の頭上に掲げた。それを雨淋の頭に下ろした。その間、雨淋は動かない。
耀平は雨淋の頭に花冠を掛けた。その事実を直感するや否や、耀平は花冠とは別に用意していた手鏡を右手で掴んだ。続け様に、雨淋の前に鏡を翳した。
鏡の中に「花冠を被ったモンゴロイド系の小学三年生女子の顔」が映っている。
雨淋は、相変わらずの無表情ではあった。しかし、花冠の効果でお姫様っぽく見えている。少なくとも、耀平はそのように直感した。心中でガッツ石松ポーズを決めていた。
ところが、肝心のお姫様の方はというと――
「…………」
やはり、反応は無い。
耀平は、暫く雨淋の様子を見ていた。しかし、雨淋は茫洋と鏡を見詰めているだけ。その事実を目の当たりにして、耀平の顔が強張った。
リオン婆ちゃん。この作戦、失敗かも?
耀平の目に涙が浮かんだ。喉下まで溜息が込み上げた。
耀平には他の策は無い。耀平の脳内では、タイミングを見計らって退出するという一事だけが閃いていた。
耀平は、引き続き雨淋しいの様子を窺っている。しかし、それは退出の機会を得たいが故の行為だった。
その間、雨淋は無表情の人形状態である。今直ぐ耀平が退出しても、何も思わないだろう。その可能性は、耀平の脳内にも閃いていた。
耀平は右手に持っていた手鏡を下ろし――掛けた。それが途中で止まった。何故ならば、耀平の視界に全く予想外の光景が映っていたからだ。
耀平の視界に映った雨淋の瞳が「ウルウル」と擬音が見えるほど潤み出した。それに併せて、雨淋の小さな体がプルプル震え出した。その様子を目の当たりにして、耀平の目が一杯に開いた。
何が何だか分からないんだけど? これ、拙いやつじゃないかな?
耀平が雨淋を泣かせた。その可能性を想像するほどに、耀平の額にジワリと汗が滲んだ。
その直後、雨淋しいの口から声が漏れた。
「うぅ……うぅ……」
唸り声。それを聞いて、耀平は「雨淋が怒っている」と直感した。そちらの方が、耀平的にはマシだった。
しかし、事態は耀平にとって最悪の展開を迎える。
雨淋の唸り声は嗚咽だった。
雨淋の右目から涙が一滴零れた。それを皮切りに、両目から止めどなく涙が溢れていく。
「うぅ……うっ……ううぅ……」
雨淋は、静かに泣いた。その様子を目の当たりにして、耀平の顔から血の気が引いた。
やばいっ!? 俺が泣かせたっ? どどどどうしよう?
耀平の脳内に、逃亡という選択肢が閃いた。今ならば、他の家の者に気取られることもなく逃げることができる。雨淋が告げ口する可能性も低い。今ならば、罪を咎められない。
逃亡を想像した瞬間、耀平の腰が浮いた。続け様に前屈して――
「ごめんなさい」
耀平は、雨淋に向かって土下座した。
耀平は逃げずに謝った。この場に耀介やリオンがいたならば、「偉いぞ」と褒めている。
果たして、雨淋は如何なる反応をするのか? その答えは、言葉ではなく態度で示された。
雨淋は、屈んだ耀平の頭と背中に覆い被さった。耀平の背中に顔を埋めながら、大声を上げた。
「うわああああああああっ!」
雨淋の泣いた。人間らしい感情の爆発――慟哭だ。
この日、雨淋は生まれて初めて感情を露にした。この出来事が起こって以降、雨淋は少しずつ感情を表すようになった。
一箇月ほど過ぎた頃、雨淋は笑うようになっていた。自分から頻繁に話し掛けるようにもなった。
雨淋は、嘗ての「人形」から、明るく快活な「人間」へと変貌した。




