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 やっと内定を貰った会社だった。世間はいわゆる就職氷河期と言われる時代で、六大学の一つのH大学に通っていた川原にとっても状況は変わらなかった。

 元々、旅行関係への就職を希望していた川原は、最大手は四社、中堅三社に加え、商社、広告業などにも一次のエントリーシートを送っていた。エントリーシートで落とされた企業も多く、二次の面接まで進んだものは半分ほど、三次面接まで進んだものは一社しかなかった。尤も、大手広告代理店のエントリーシートにおいては、貼り付ける写真が『あなたが一番輝いて笑っている写真』というお題付きで、居酒屋でアルバイトしていた川原は何とそこに酒の席で微笑んでいる写真を張り付けるくらい、常識が無かったのだから当たり前だ。要するに、舐めていたのだ。

 そんな就職活動を二ヶ月ほどで後悔することになる。周囲の(有友人がようやく一社から内定を貰い始めた頃、川原は全落ちが確定していたのだ。

「もしもし、木梨? どうよ、就活は」

 地元も比較的近く、同じ学部ということもあり仲良くなった友人にすがるように電話をした。

「俺、単位足りなくてさ。留年なんだよね。川原、苦戦中? 」

 どう考えても留年の方が気が重いはずなのに、明るく笑って、いや、半分小ばかにしたような口調で木梨が茶化してきた。

「単位くらいちゃんと取っておけよ。まぁ、苦戦は苦戦だけど、ちょっと本腰入れてみるかな」

「とりあえず頑張れよ。何なら来年一緒に就活しようぜ」

 来年も就活なんてやってられるか! 木梨のブラックジョークに心の声が漏れそうになるのを堪えながら、飲み会の約束をして電話を切った。かなり強がりに聞こえたかもしれない。

「やばいな。こりゃ」

 ポツリと呟いてキャンパスを後にした。


自宅に着くと真っ先に部屋のゴミ箱を漁った。帰りの電車の中で、自分なりにこれまでの失敗の反省とこれからの対策を練っていた。

とにかく、これまでに企業から送られてきたダイレクトメールをもう一度洗い直そう。希望職種ではないからと目もくれなかった企業を調べてみよう。ダイレクトメール、どこに置いたっけかな?

 部屋にはあまり入るな、と普段から母親に話していたせいか、目もくれられなかったダイレクトメール達がゴミ箱の奥底から二〇通以上掘り出すことができた。一社一社、どんな職種があるのか時間をかけて調べ、新たに五社に希望を出すことにした川原は、つい何時間か前の謙虚さも忘れて湧き出てくる根拠の無い自信に酔いしれていた。

 一週間も経たないうちに三社から連絡があり、そのうち一社は早々にSPI試験を受けてほしい、とのことだった。その企業は、路線バスや商事事業を含め多岐に渡る事業を展開しており、川原の希望する観光事業も展開していた。訪問する日時を確認し丁寧に電話を切ると、すぐに携帯電話の短縮ダイヤルを押す。

「もっしもーし! 」

 電話口から聞こえる陽気な応答は機嫌のいい証拠だ。就職活動の第二幕というか新局面に何の根拠も無い自信が湧いてきていた川原にとって、良子の陽気な返答が心地良かった。

 良子は通う大学は違うが付き合って三年になる彼女で、既に保険会社から内定を貰っていた。残りの大学生活を楽しんでいるようで、未だ最終面接にも進めない川原にとっては少し引け目を感じるところもあり、良子のはじけっぷりに多少のイラつきを感じることもあった。

「就活、再出発だよ。さっき連絡あって、来週にSPI受けてくることになった。何か、そこはいけそうなんだよねー」

「おぉー。いいじゃん。出身大学はいいとこなんだから、最後にはなんとかなると思うけどね。ってか、これまで全滅っていうのが、よっぽど大学生活で楽をしていたんじゃないの?って感じ。はははっ」

 三年も付き合っていると忖度など一切しなくなるのだ。気にしていることを平気でズカズカと耳に突き刺してくる。

「まぁ、確かに楽はしていたけどね。これからが本気モードよ。で、前祝いと言うことでご飯食べに行こうよ」

「おっけ。じゃ、七時に駅前で」

 良子の電話の向こうで、男女がきゃっきゃと騒いでいるのが聞こえる。就活勝ち組なのだろう。就職は勝ち負けじゃない、と言い聞かせながらも電話を切る一瞬で天国と地獄を垣間見たような気分で通話終了ボタンを押した。


 早々に興味を示してくれたK社は、都内のど真ん中にあった。最寄り駅は東京駅。何度か降りたことのある八重洲口を降り、今にも泣きだしそうな曇天の中、本社ビルへと向かっていると、明らかにリクルートスーツと分かる何人かが前後にいたり、何人もすれ違ったりしていく。もちろん、自分もスーツが似合っていない明らかに就活中の大学生臭をプンプン撒き散らしているのだろうな、と自嘲しているうちにK社前に到着した。玄関から中を覗くと、銅像のようなものがこちらを睨んでいる。覗いている間に近寄りすぎて自動ドアが開いてしまった。心の準備がまだ出来ていない。が、受付らしきところにいる守衛さんがこちらをにこやかに見ている。

「おはようございます。H大学の川原と申します。人事課の小島様にお取次ぎお願いいたします」

 元気よく、ハキハキと。心掛けたが早口だったかもしれない。内線電話で一言二言話す様子が見える。

「エレベーターで三階に上がってください。三階で降りて、右側に行けば人事課ですよ」

 優しそうな守衛さんに頭を下げ、エレベーターを待つ間、隣に鎮座する銅像を横目で見ながら落ち着きを取り戻そうとしていた。

 幸いにもエレベーターは三階に到着するまでは川原一人だけだった。二階に停まって誰か乗って来たらどうしよう、その人が偉い人だったらどうしよう。良い香りのするOLさんだったら余計緊張しちゃうな。息の詰まる空間にいる数秒の間にそんなことが頭を駆け巡っていた。

 三階に着いてドアが開くと、多くの「大人」がせわしなく動いていた。守衛さんに教えられた通り右に進み、カウンターのあるところで近くの「大人」に声を掛ける。

「すいません。おはようございます。H大学の川原です。人事課の小島様はいらっしゃいますでしょうか? 」

「おはようございます。小島ですね。少々お待ちください」

 女性の「大人」が優しく微笑みながら応対してくれた。もうそれだけで舞い上がりそうな心を押さえ、失礼にならない程度に周りを見渡した。

「おはようございます。小島です。ようこそいらっしゃいました。やっぱり緊張しちゃいますよね。こちらへどうぞ」

 どうやら、緊張すまいと振舞っていたつもりが、かなり挙動不審に周囲を見渡していたらしい。急に恥ずかしくなって汗が噴き出てきた。

 通された席は窓際の簡易的に間仕切りされた打ち合わせスペースで、つい五分前に玄関を覗いていた姿が良く見える席だった。恥ずかしさで体温が上がるのを感じながら、小島さんの指示を待って着席する。

「小島です。一昨年に入社したので、川原さんが入社すると二期上になります。まぁ、堅苦しいことは抜きにしましょう。そちら側の気持ちも十分に分かるので。緊張するよね。もう何回も受けているかもしれないけど、これからSPIを受けてもらいます。正直、これで自分のことが分かるのか、って感じだよね。大きな声じゃ言えないけど、何で自分が人事課なのかも未だに分からないし。ま、決まりなので四十分間でお願いします。もし早めに終わったら声かけてください」

 矢継ぎ早に話しながらSPIの用紙をテーブルに置き、

「何か質問ある? っていうか、聞きたいことだらけだよね」

とぎこちない笑顔を向けてくる。「あぁ、この人も緊張しているんだ。そりゃそうだよな。初対面だし」と納得。相手も緊張していることが分かると、自分も少し緊張が和らいできているのが分かる。ついさっきまで汗をかくほど上がっていた体温はすっかり下がったようだ。

「いえ、今のところ大丈夫です。ありがとうございます」

「じゃ、今から四十分で始めて下さい」

 SPIはこれまで受けてきたものと似たようなものだったので、比較的悩むこともなく時間前に鉛筆を置いていた。小島さんに終わったことを報告しようと目で動きを追っていたが、終了時刻まであと十五分あるため、デスクでパソコンと向き合っている。ジッと見つめると視線を感じるもの、と何かで聞いたことがあるが、本当なのだな、と実感した。小島さんがふいに振り返ってこちらを見てくれた。軽く会釈をするような仕草を見せるとこちらへ近づいてきた。

「終わった? 」

 はい、と短く返事をしてSPIの用紙を渡した。小島さんはそのまま目の前に座り、一通りSPIに目を通す。

「まぁ、見ても俺は分からないんだけどね。とりあえず、自己紹介を簡単にお願いします」

 面接が始まった。不意を突かれた感じだった。

「川原信弘と申します。H大学経営学部です」

 簡単すぎたろうか。用意していた応えはあったが、続きが出てこなかった。小島さんは特に気にするでもなく続ける。

「一応、私も仕事なので月並みなことを聞きます。志望動機を簡単に教えてください」

「はい。御社が多角的に様々な分野で事業をされていることに興味があり、自己成長していく上ではこれ以上ない環境と考えたからです。私は観光事業に興味があり、大学でも観光系のゼミに所属していました。ですので、特に御社の観光事業に強い興味があります」

「もし入社しても観光に配属されるとは限りませんが、その場合どうされますか? 」

「御社への入社希望動機は観光業があるからだけではありません。様々な分野での事業展開に強く興味を持っています。ですので、観光部門だけではなく、多くの分野で活躍できる自分を想像していますし、そうした自己成長を遂げたいと考えています」

 小島さんはその後も二~三つほどそれらしい質問をし、川原もそれらしい回答で応えて面接は終了した。

 そのまま少し待つように指示され挙動不審にならないよう気を付けながら社内を見回していると、金縁の大きめのメガネをかけた男性が近づいてくる。

 「人事課係長の大山です。今日はお疲れさまでした。また次回、面接に来ていただく案内を近日中にするので、待っていてください。今日はこれで終わりです」

 苦しそうに話すしゃべり方が独特な人だったが、優しそうな印象を受けた川原は、今日のお礼を告げてエレベーターに向かった。幸いエレベーターは三階で止まっており、ボタン押すとすぐに扉が開いたので、見送りに来てくれた大山さんと小島さんと気まずい空気にならずに済んだ。

 K社を出るとちょうどお昼の時間だったこともあり、駅は昼食を求めたスーツの大人で一杯だった。川原も空腹ではあったが、一刻も早く家に帰りたかった。どっと沸き上がってくる疲れを布団にくるまって癒したかったのだ。

 クタクタになって自宅に辿り着き、途中で買ったハンバーガーを胃に流し込むと、得も言われぬ布団の暖かさに包まれて眠りについた。


二次面接の連絡は思ったより早かった。部課長クラスの面接も無難に乗り越え、役員面接の三次面接(最終面接)まで進むことができた。役員面接は、いわゆる「圧迫」面接で、二~三人の希望者に対して、副社長、専務取締役が二人、常務取締役、の四人が面接する形だった。中でも、二人いる専務取締役の一人が強烈に攻め込んでくる。隣の希望者が陥落したのを横目で見て、次は自分か、と腹を括る。何を応えたのかも記憶が曖昧なまま面接は終わっていた。控室の空気はどんよりと淀んでおり、生ぬるささえ感じた。皆無言のまましばらくすると、小島さんと大山さんが談笑しながら入ってきた。

「皆様、今日までお疲れさまでした。合否は一週間以内に連絡をします。今日はゆっくり休んでください。本日は以上です」

 大山さんの短い挨拶が終わると皆もゆっくりと立ち上がり帰り支度を始めたが、一部の希望者が小島さんと話しているのが聞こえる。

「どうだった? 誰にやられた? 」

「鮫島専務です。皆やられたと思います。専務怖いですよー」

「マジか。鮫島専務って総務担当だから俺の直属上司なんだよね。確かに怖いよね」

 何回かの面接を通してなのか、大学の後輩なのか、親しげに話しているところを見ると、彼はアドバンテージを持っているのだろうな、と羨望の眼差しをチラッと向けて、二人に挨拶をしてK社を出た。ゴミ箱を漁って就職活動をやり直してから、最終面接に進んだのはK社だけだった。やり切ったのか、まだ余力はあったのか、その答えは一週間以内に出る。

「薄手のコートを着てくれば良かったな」

秋もかなり深まっていた。


 

 四月。川原はK社系列ホテルの大広間で、社長と演台を挟んで立っていた。新入社員代表として決意表明を述べるためだ。

 K社からの連絡は意外と早かった。電話で内定を告げられ、年明けまでは特に何もなく、本当に内定なのか不安になるほどだった。年明けの一月下旬に内定者が集合する機会があり、その時に代表をやるように命じられたのだ。もともと文章を書くことに自信はあったのだが、人前では緊張するタイプの川原は戸惑いこそあったが初仕事と思って引き受けたのだ。

 入社式は滞りなく進み、その日は各部署の説明会を聞いて夕方早めに終業したので、同期で飲みに行くこととなった。同期と初めて色々と話す機会は本当に楽しく、様々な情報を得ることができた。

 同期の大学のこと、K社の部署のこと、創業家のこと、この後に控える自衛隊研修のことなどなど、話は尽きなかった。皆、川原のことを「総代」と呼び、照れ臭くはあったが悪い気分ではなかった。小島さんも皆に対して同じような感じの対応らしく、少し安心したのだが、同期が皆、名だたる大学ばかりの出身で驚きを隠せなかった。後日、帰宅が同じ方面ということもあり、小島さんと酒を飲みに行く機会があり、その時に内定の裏話を聞かせてもらった。K社の現社長がH大学出身であり、川原の応募までH大学の内定者がおらず、何としてもH大学出身者を入社させるという特命があったらしい。勝ち取った内定ではなく、貰った内定だったことにほんの少し落胆したが、それ以上に何ともタイミングの良い時に応募したものだという自分の幸運さに驚いた。


 四月の半ば頃、いよいよ自衛隊研修のために早朝から本社に集合した大卒新入社員は、皆緊張の面持ちの中に、旅行気分の高揚感を隠し切れなかった。バスで出発し、途中休憩を一回挟んで到着した先は、陸上自衛隊富士駐屯地。その中でも戦車教導隊というところで二泊三日、過ごすことになっていた。

到着してすぐに研修は始まった。最初こそ教官と担当助教の紹介で和やかムードだったが、すぐにそのムードは壊される。班分けされるとすぐに部屋に行って戦闘服と半長靴に着替えるように言われる。いや、命令される。三分以内に中庭に整列、と。一秒でも遅れると腕立て伏せ。そしてやり直し。今度は、上着はワイシャツ、ズボンは戦闘服、靴は半長靴の訳がわからない組み合わせ。二分以内。それでもやはり遅れる者がいる。連帯責任でまた腕立て伏せ。このやりとりが五回くらい続いただろうか。ようやく時間内に整列ができると、縦列を組んで運動場へ向かう。自衛隊独自の掛け声を掛けながら一糸乱れずの行進を要求される。運動場へ着くと教官と助教から五〇メートルほど離れたところに整列し、自己紹介をする。大声を張り上げても「聞こえない。やり直し」で半数が喉を枯らしてしまった。その後も連帯責任の名のもと体力を根こそぎ削られる。

風呂へ行くのも掛け声を掛けながら縦列行進。風呂は一〇分程度。食事は必要ないほど大盛り。食べ切らなければならない。やっと就寝したのも束の間、早朝四時にサイレンと共に起こされ、五分以内にベッドメイクをして戦闘服半長靴で中庭に整列するよう指示が下る。もちろん間に合わない。朝の四時から腕立て伏せ。上着は戦闘服、ズボンは寝間着、靴は半長靴で再集合の指示。もう訳が分からない恰好を見て、笑いを堪えられない者もいる。「笑うな! 」と怒号が飛び、腕立て伏せ。朝っぱらからこのやり取りが何回か続いた後、今日の任務が下される。富士山麓にクマが出没しているため、討伐に向かう、という任務。縦列になり、絶対に中身を見るなと言われているとんでもなく重いリュックサックを一人だけ背負い、掛け声を掛けながら、時には走って富士山を登っていく。重いリュックサックは交代で背負っていく。途中、「敵襲! 」の声。全員が側溝に潜り身を隠す。目的地に辿り着いた時の握り飯の美味さは忘れられない。許しが出てリュックの中身を見ると、戦車のキャタピラの一部が入っていた。

クマ討伐から戻ると、休む暇もなく運動場で筋トレや長距離走。この辺りで脱落して休む者も何人か出ていた。夕方には座学。眠気が誘われる座学終盤に助教が駆け込んでくる。

「超大型の台風が宿舎を直撃した! 直ちに戻れ! 」

 直ちに、なのに縦列を組んで掛け声を掛けながら小走りで宿舎へ向かうと、ボロボロでめくれ上がったビニール傘をさした助教が待っていた。

「直ちに部屋を確認! ベッドメイクの後、一〇分後に集合! 」

 部屋に入るとベッドが倒され、しっちゃかめっちゃかな状態になっていた。もちろん間に合わず、何回か服装を替えて集合した時は、上着は戦闘服、ズボンはスーツのスラックス、靴は半長靴、手に風呂桶とお風呂用品という間抜けな姿。完全に遊ばれている。そんなこんなで風呂桶を持って縦列を組んで掛け声高らかに浴場へ。宿舎に帰ると皆、倒れ込むようにベッドに潜り込むのだった。

 

最終日も快晴。早々と朝食を済ませ(もちろん縦列行進、吐くほどの大盛り)、ジャージで集合するように指示が下る。班ごとに縦列小走りで運動場へ。

「また筋トレと大声か」

嫌な予感が全員の頭に過っていたが、任務はそれを超えていた。一周四〇〇メートルほどのグラウンドを二周。ほんの少しのインターバルをおいてまた二周。この繰り返し。ゆっくり走ろうものなら助教から容赦ない叱咤が飛ぶ。

海抜八三〇メートルでの単純走は、早くも川原達の肺を握りつぶそうとしていた。加えて脚は、この二日間の激務による疲労を思い出させるように、膝が徐々に軋みをあげてくる。一人、二人と脱落者が出始めると、「自分もそろそろ脱落してもいいんじゃないか」という考えが湧き上がってくる。しかし、逆に「この一周が終わったら倒れ込もう」とそれを励みにしている自分もいた。

四分の一ほどが脱落した頃だろうか。川原の左膝に激痛が走った。中学生時代に部活で痛めた左膝痛が再発したようだ。歩くのもままならなくなり、その場で座り込んでしまう。教官から怒号が飛ぶ。何とか立ち上がり、左足を引き摺りながらその周回を終えてリタイアした川原は、その場で大の字になり、肩を大きく揺らした。富士の澄んだ空気が、握りつぶされていた川原の肺を少しずつ膨らませた。


自衛隊研修はその日の昼までだった。肺と心臓が落ち着きを取り戻して体を起こし、周囲を見渡すと人事課の大山係長と小島さんがグラウンドの入口に立って、満足げな笑顔を皆に向けていた。もうすぐ研修が終わるのだ。気づけば単純走は全員が終わり、最後まで粘った者が天を仰いでいる。

「班ごとに助教の前に集合! 」

教官の指示が響き渡る。まだ疲れが癒えておらず肩で息をしている者、足を引き摺る者、早々にリタイアし軽やかに小走りする者。助教の前に集まり次の指令を待つ。

「まぁ、みんな整列しなくていいから、周りに集まって座ろう」

 これまでに聞いたことのない優しい口調で話す助教に、川原達は動かずに警戒していた。

「いいから集まって座れ」

 照れくさそうに笑う助教を囲んで皆が座り始める。

「みんな、三日間お疲れ様。よく頑張った。皆さんに謝らなければならないことがある。ここにいる研修生で一番年齢が上なのは誰ですか? 」

「私です」

 中途採用の入間が手を挙げる。彼は四十五歳での参加であり、2日目のクマ討伐の富士登山時に、不整脈が出てしまい、そこから体力的な指令は休んでいた。入間の年齢を聞いて驚いた助教は、

「じゃあ、一番若い人は? 」

 専門学校卒の二十歳の新入社員達が恐る恐る手を挙げる。

「おぉ、同じ歳じゃん! 」

 助教の言葉の意味が皆よく分からず、全員の頭の上にクエスチョンマークが点灯した。

「俺、二十歳なんです。つまり、この中で一番年下です。この中に交じったら、俺が一番ペーペー。仕事とはいえこの三日間、生意気なことを言ってすいませんでした! 」

 その場にいた全員の顔に活力のようなものが漲っていくのが分かった。腹を抱えて笑う者、してやられたと苦笑いをする者、おいおい年下じゃん、と早くも茶々を入れる者。

「でもね、皆さんのこれからの仕事は、年齢で決まるものではありませんよね。年下が上司になるかもしれないし、年上に指示を出さなければいけないこともあるかもしれない。見た目はもちろん、年齢で判断するんじゃなくて、人として付き合うことをこの研修で学んでくれたらと思います。俺も勉強になりました。皆さん、ありがとうございました」

「はい! ありがとうございました! 」

結局、最後には助教と研修生になってしまっていた。と、

「でも、助教、この三日間は俺らを人として見た指令じゃないよなぁ」

 誰かがボソっと言う。

「すいませんでした! 」

 助教の土下座で全員に笑顔がこぼれた。


 バスの中は異様な興奮が充満していた。やっと終わった安堵感と一回り人間が大きくなったという勘違いが、寝食と困難を共にして本当の仲間となった二十数名を舞い上がらせていた。大山から差し入れされた缶ビールは、まさに五臓六腑に沁み渡る美味さだった。このアルコールが効いたのか、バスの心地よい揺れに誘われて、出発から三十分もすると、車内に聞こえるのは寝息だけになっていた。

 バスがK社付近に到着したのは午後四時を少し回った頃だった。大山係長が挨拶をして解散となった川原達は、この勢いをまだ味わっていたかったからだろう。打ち上げと称して自分に褒美をあげることにした。

「荷物を預けて一七〇〇(ヒトナナマルマル)に北海道(居酒屋)に集合! 散れ! 」

 覚えたての自衛隊用語でいったん解散、再集合の号令を掛ける。

乾杯も話題も自衛隊用語が飛び交う。当たり前だがその日は皆、酔いが回るのが早い。それなのに誰も帰ろうとしない。

 夜十時を回った頃にようやく中締めとなるが、川原を含めた数名は二次会へ。明日が休日であることをいいことに、気が付くと終電時刻をとうに過ぎていた。

 若いというのはそれだけで武器になるものだ。時には狂気じみた怖さも持っている。その日、終電も無く人気のない深夜の東京を意気揚々と歩くスーツ姿のバカモノ達は、K社近くのガード下のちょっとした休憩スペースにあるベンチで野宿したのだ。

 眩しさと雑踏で目が覚めた数名は、気怠さと羞恥の中、言葉少なげに家路へ散っていった。



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