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海の家でわちゃわちゃ動いているのが見えたのか、まだ予定していた昼食時間まで三〇分以上あるのに、少しずつ参加者が戻ってきた。期待を一杯に詰めたバケツには、まあまあの収穫が見える。皆、午後からの大漁への期待で顔がホクホクだ。
「少し早いですが、天気も良く暑いので、休憩も兼ねて戻ってきた方たちから昼食にしましょう」
川原はぽつりぽつりと戻ってくる参加者達に声を掛けながら、吉田と二人で弁当を配って回った。
半分くらい戻ってきたあたりで一号車に乗っていた五~六歳の男の子とお母さんが休憩に帰ってきた。
「お疲れ様です。暑くなってきましたね。ゆっくり休憩してください」
と弁当を二つ男の子に渡すと、ありがとう、とにっこり笑って席に着いた。
参加者全員が昼食を始めたのは一二時を一五分ほど過ぎた頃だった。早くに休憩を始めた人はとっくに食べ終わって、寝転んだり、化粧を直したり、思い思いに過ごしている。解放された窓から入る潮風が気持ちいい。
「お兄ちゃん、これあげる」
ふいに背中から声を掛けられ首だけで振り返ると、一号車に乗っている先ほどの男の子が飴を手に握っていた。
「ありがとう! 」
飴を受け取り、少し先に座っているお母さんにも軽く会釈をした。男の子は川原の横に座り、飴を食べるのを待っている。
「ねぇねぇ。夏と冬、どっちが好き? 」
「うーん。夏かなぁ。でも冬もクリスマスとかお正月とか、楽しいこと一杯あるよね」
「僕も夏!だってね、一杯出掛けるから。じゃあ、好きな動物って何? 」
「動物かぁ。(しばらく考えて)ペンギンかな」
「ペンギン、僕も好き!かわいい! 」
そんなやり取りをしばらく続けていると、お母さんが男の子の帽子を持って近寄ってきた。
「そろそろ、貝取りに行こうか? 」
「行く!」
男の子は勢いよく立ち上がり、サンダルを履いたと思ったら一目散に海岸へ走っていった。
「お相手ありがとうございます。疲れているのにごめんなさいね」
お母さんはそう言って申し訳なさそうに眉を顰める。
「いえいえ、そんなことないです。癒されました」
川原は恐縮して返事をしたが、午後に向けてやる気が湧いてきていることは確かだった。
バスが潮の香りを満載にして出発したのは、午後の三時を少し回った頃だった。あとは海ほたるに休憩で寄って、朝に出発したバスターミナルに帰れば任務終了。お客様も、五月にしては気温の高い炎天下に長時間いたことで疲れているのだろう。ほとんどが目をつぶっている。川原も瞼が重かったが、添乗員が寝るわけにはいかない。睡魔と戦っている時に携帯電話が鳴った。
「川原さん、起きていますか? 私も寝そうだったんで、電話しちゃいました」
吉田とこの後のスケジュールを確認し、海ほたるで眠気覚ましの一服をしよう、と約束して電話を切る。
バスは順調に海ほたるに到着し、お土産を買うことも考慮して長めに休憩時間を取ることを伝えると、お客様は眠そうな目をこすりながら降車し、深呼吸をして歩いて行った。
川原も海の見えるデッキで灰皿を探すと、吉田が既に一服目を終えようとしているところだった。
「川原さん、遅かったですね」
灰皿に煙草を揉み消し、2本目を口に咥えながら疲れた顔を見せた。
「えぇ。寝ている方が多くて、全員降りるまでに結構かかっちゃいました」
ようやく一服目を始めた川原は、深呼吸するように煙を大きく吸い込んだ。ほんのりと潮風の味がした。
「あとはバスターミナルまでの一時間だけですね。どうでした?初添乗は」
「こんなに大変だとは思ってなかったです。吉田さんに色々助けてもらってこの疲れですからね。一人だったら今頃バスで爆睡していますよ」
「私も初めての時は緊張して、何もしゃべれなかったんですよ。お客様へのスケジュール案内とか、もう、マイクを通しても声が小さ過ぎたみたいで、聞こえませーん、って何度も言われていました。その点、川原さん凄いですよ。何かお客様と打ち解けているような雰囲気がありましたよ、一号車は。三号車のガイドさんも言っていました」
おべっかと分かってはいても嬉しいものだ。二本目の煙草がやけに旨く感じる。
小一時間ほどの休憩を終えてバスに戻ると、ほとんどが着席しており、あと二~三名を待つだけだった。その参加者も時間通りに戻ってきて、バスは定刻通りに出発した。
「あと一時間ほどでバスはターミナルに到着いたします。拙い添乗で皆さまを困惑させてしまったかもしれませんが、何卒ご容赦ください。是非また弊社バスツアーをご利用頂き、楽しいひと時をお過ごし頂けたら幸いです。本日はありがとうございました」
最後のマイクアナウンスを終え、アンケート用紙を配布して座席に着き、大きく息を吐く。何だかいきなり疲れが押し寄せたようだった。
多少の渋滞はあったものの、バスターミナルには予定時刻の一〇分後に到着した。アンケート用紙を回収しながら、降車していくお客様一人一人にお礼の挨拶をしながら見送っていると、すっかり仲良くなった飴の男の子が降りてきた。
「お兄ちゃん、ありがとう」
大きな声でお礼を言われた川原は微笑みながら返した。
「ありがとう。また遊びに来てね」
「本当にありがとうございました。楽しかったです」
母親も満足してくれたようで、疲れは見えるものの笑顔で挨拶してくれた。
川原は誰もいなくなった車内を最後部座席から順に点検し、忘れ物などがないことを確かめ、運転士と吉田達に挨拶をして解散すると、足早に駅へ向かった。
ゴールデンウィークも明け、本社に出社した川原は、初添乗について先輩社員の愛あるいじりを受けながら談笑していた。
「これ、いいね。こういうの嬉しいよね」
アンケート用紙を眺めていた係長の飯野が、川原に向かって一枚のアンケート用紙をヒラヒラしている。川原はそのアンケート用紙を受け取り、目を通した。ゴールデンウィーク期間にアンケートを全て読むこともできたのだが、川原はすっかり忘れており、添乗の翌日は泥のように眠っていたのだ。
アンケートの最後の方にはこう書いてあった。
『質問:添乗員は分かりやすい説明と適切な案内ができていましたか? 』
『答:とても親切でまじめな印象を受けました。小さい子どもを連れていたので心配なこともあったのですが、息子と一緒に遊んでくれたりお話をしてくれたり、色々助かりました。ありがとうございました』
『質問:また弊社バスツアーをご利用したいと思いますか? 』
『答:ぜひ利用したいです。またいつか、今回の添乗員さんの成長した姿にお会いできるのを楽しみにしています』
あの男の子とお母さんだ。確信してそう思った。体中に熱が入ってくる。胸のあたりが苦しいような熱いような不思議な感覚だ。何だか大声を出したいような、思い切りガッツポーズをしたいような、とにかく身体を動かしたい衝動に駆られた。
「嬉しいですね、素直に」
全ての衝動を押し殺して、そう言うのが精いっぱいだった。
「やるじゃん」
バンッと川原の背中を叩く音が響くと、隣に座っていた年下の先輩女性社員はニヤリとした。
無我夢中でとりあえずこなすことができた初添乗に、川原は社会人としての確かな第一歩を感じていた。




