エピローグ
エピローグ
母の眠る霊園には、先に私の祖父が眠っている。母の死から二年後、祖母も亡くなり、三人が眠っていることになる。墓石は父と生前の祖父が建立したものだが、墓石に刻む墓碑は私が考えたものだ。そこには『薫修』と刻まれている。
『香気が衣服に移りしみこんで、ついにはその衣服自身が香気を出すに至るように、体や言葉、心のはたらきが心に残す影響作用をいう』
薫修を調べるとこんな説明がある。こと母だけに関して言えば、笑うことや笑顔や明るい大きな声が、きっと周囲の人にも影響を与えてきたことだろう。私自身、周囲の人達に良い香気を与えることができて、死しても尚、その人達の中で香気が続いて欲しいと願ってこの言葉を選んだ。
いずれ入るであろうこの墓に、毎月、母の月命日に線香をあげに来てもう八年になる。
母の葬儀も一段落し、忌中の年越しを迎える私達は、例年通り、姉と姪、私達家族、叔母が父の家に集まった。当たり前だが、そこに母だけがいない。ご馳走を並べて騒いで、ということは無かったが、皆で食事をして母の遺影や位牌をバックに写真を撮るなど、皆がそれぞれ母の死を受け入れて前に進んでいたように感じた。
毎年、皆が集まった時の恒例となりつつあるのがカラオケだ。今回は父以外の数名で行くことになった。私と叔母は、毎年ここでカラオケ点数対決をしている。今年も私が勝利し、ハイボールを啜っているうちに順番が回ってきた。選曲に迷ったが、昔から歌っている『涙そうそう』を歌うことにした。母が好きだった曲でもある。別に母を意識して選んだわけではない。沖縄の曲は昔から好きで、『島唄』などは得意とする歌でもある。
前奏からヤバかった。意識していないのに早くも胸に込み上げるものがある。歌い出すがAメロを歌いきる前に涙が溢れてきて、大号泣。歌えなくなってしまった。
「泣け泣け。お前は通夜からずっと泣いてなかったもんな。今泣け」
叔母がマイクを取り、代わりに歌い出す。結局、曲が終わるまでグズグズと泣いてしまった。
侑太と結衣は少し不思議そうに私を見ていたが、大人だって泣くことがあるんだ、という勉強をしたと思ってもらいたい。
母の死から二年と少し。結衣が小学校の卒業を迎えた。式の衣装は、大半が中学校の制服で、ドレスやスーツ、袴の子も数名見掛けた。結衣は袴を選んだ。七五三の時にばばちゃんに買ってもらった着物を仕立て直し、袴は私の友人の呉服屋からレンタルした。動きづらいしトイレも大変だよ、と結衣に確認したが、どうしても袴が良いと言って聞かなかった。
最初は照れくさそうにしていた結衣だが、壇上で卒業証書を授与された彼女は、大きな声で返事をし、凛としていた。きっと、母も空から見ていることだろうと、外の青空を見て思う。奇しくもこの日は、生きていたら七一歳になる母の誕生日だったのだから。
結衣も中学生になり、生意気の盛りを迎えていた。ある時、詩織と言い合いの喧嘩になった際、死ね、と連呼したことがあった。中学校では普通に何の気なしに皆が使っているのだろう。
私は母の言葉を思い出していた。
「今日、結衣に注意したら怒ってさ。死ねって言われたよ。言われなくてももうすぐ死ぬよ、って言い返したかったけど。でも、死ぬことがすぐ近くに来たような感じがして、凄く嫌だったな。傷ついた。その後涙が出てきたよ」
もう、自分が長く生きられないと知っていた頃の話だ。私は結衣を呼んでゆっくりと話す。もう結衣が知っても、自分で処理できるはずだ。
「結衣、ばばちゃんが生きていた頃、ばばちゃんと遊んでいるときに怒られてさ、死ね、ってばばちゃんに言ったことあるでしょ? ばばちゃんはさ、その時、もう自分がもうすぐ死ぬ、結衣達の顔が見られなくなる、ってことを知っていたんだ。言われなくても、嫌でももうすぐ死ぬよ、って思ったらしいんだけど、凄く傷ついて悲しかったんだってさ。誰だっていつ死ぬかなんて分からない。結衣だって明日死ぬかもしれない。死ねって言ったお母さんが、明日死んじゃうかもしれない。ばばちゃんみたいに傷つく人もいるよ。だから、死ね、なんて言葉は使っちゃいけない。死ねって言葉は、言った人も言われた人も悲しくなる言葉だからね」
結衣は黙って聞いていたが、一言だけ言って部屋に戻っていった。
「だって知らなかったんだもん」
その後、結衣は部屋から出てこなかった。ドアの外から様子を伺うと、布団にくるまってすすり泣いているようだ。泣いているということは、心に刺さった証拠だ。私は結衣の成長に今でも母が関わっているようで少し嬉しかった。
似たようなことを私も言われたことがある。母が私と詩織に癌であることを告げた時だ。私は少しの動揺を隠したかったのか、何の気なしに「今のステージは? 」と聞いた。
母が亡くなった後に父から聞いた話だが、あの時、母は既にステージⅢ相当だったらしく、私にいきなりステージを聞かれたことがショックだったらしい。ステージが進んでいたら何なのか、と。
そうだったのか。ごめん。と謝る相手はもういない。相手を思い遣って、とっさに声を掛けることは本当に難しい。あの時はきっと、何かを言わなくても、ただ母の言葉に耳を傾けるだけで良かったのかもしれない、と少しの後悔がこびり付いている。
母の死から八年と少し。侑太は二〇歳になり、結衣は一八歳になろうとしていた。父は喜寿を迎え、叔母は昨年に古希を向かえている。父が喜寿ということは、母も生きていれば喜寿。私はまとめてお祝いの席を設けることにした。
侑太は一八〇cmを優に超えるほど身長が伸び、成人式ではスーツをビシッと決め、式典に向かう前にばばちゃんの仏壇へ見せに行くような素直な青年に育ってくれている。結衣もあれ以来、乱暴すぎる言葉は少なくなっている。
祝いの席は、父の誕生日付近で設定したのだが、私にはその誕生日に渡したいプレゼントがあった。
父は若い頃、電気屋で働いていた経験があり、その影響なのか、当時流行っていた八mmカメラを持っていた。フィルムも何本かあり、私や姉が小さい頃の映像が残っている。もちろん、無声だ。昔は親族が揃った時に襖などに投影して良く見たものだ。私や姉が写っているということは、もちろん母も写っている。叔母も、祖父も祖母も。今ではフィルムが傷み、映写機が故障していることもあり、見ることができなくなって久しい。
私はこのフィルムをいつでも見ることができるDVDに焼き直してプレゼントにしたかった。専門業者に依頼し、一〇本前後のフィルムが二枚のDVDに収まった。これをお祝いの席で飲み食いした後に、父の家のリビングルームで上映。皆、久し振りに見る映像だ。侑太と結衣は初めて見る映像だ。
そこには二、三歳の姉がいた。乳児の私がいた。今の侑太と同じ歳くらいの叔母がいた。今の私よりも少し年上の祖母も、祖父もいた。そして、笑顔の母がいた。
母のおなかが膨らんでいる映像もあった。私はその頃、確かに母の胎内にいた。今、私がいて侑太、結衣がいる。
命は紡がれていく。
走り回る姉を追いかけ、泣いている康樹をあやす母は、笑っていた。音も無いカラーでもないセピア色の映像なのに、一目でわかる快晴の空の下、母の懐かしい笑い声が聞こえてきた。




