表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
13/14

13

13


 秋田で久しぶりに祭りを見てからも、母は諦めることなく治療に励んでいた。秋田での弱々しく立ち上がる姿が目に焼き付いていたが、それでもたまに車に乗って買い物をしたり、パソコンの代わりにタブレットを購入し、ネットサーフィンを楽しんだりしていた。

 この頃になると康樹の妻の詩織が会社の事務をほぼ全て担うようになり、引継ぎも詩織が分からないことなどを母が教える程度になっていた。

 ある日、事務所にちょっとした用があり、母が軽自動車を運転して来たことがあった。用事を済ませ、自宅への帰り道で自動車同士の接触事故を起こしてしまった。母から連絡を受けた父はすぐに事故現場へ向かい、保険屋もすぐに向かってくれた。幸い、相手にも母にも怪我は無く、お互いの車の側面に擦り傷が付く程度で済んでいた。保険で対応することになったので大きな問題になることは無かったが、帰ってからの母は自分の正当性を主張して聞かなかった。病気のせいで、治療のせいで判断の遅れや視野の狭さや集中力が削がれているかもしれないことを認めたくないのだろうし、それを理由に車の運転をやめろ、と周囲から言われることが嫌だったのかもしれない。それ以降、母が運転することが少しずつ減っていったような気がする。しかし、元来明るい性格で笑うことが一番健康に良い、笑うことが一番の営業だと信じていた母は、治療などで一時的にダウンしている時以外は、カツラを被って出掛けていることの方が多かった。

「まだまだ死なねぇ」

 銚子の良い時に病人扱いをすると口癖のように言い、笑う。だからこそと言う訳ではないが、秋田へ帰省した翌年の六月は、久し振りの社員旅行を計画することになった。一泊二日の旅程を私がコーディネートするのだが、これがなかなか難しい。母はこうした企画が大好きで、昔は社員旅行のコーディネートを嬉々としてやっていたことを思い出す。

まずは、長時間座っての移動は避けたい。大人数にはせず、統率の取れる程度の人数でいきたい。予算もある。

私が設定したのは宮城県の松島だ。大宮駅から仙台駅まで新幹線で一時間強。そこからバスをチャーターして松島まで約五〇分。途中、塩竃付近のカキ小屋でカキを飽きるまで食べて、ホテルでももちろん海鮮のコース。翌日は塩竃の市場に寄ってお土産や昼食というどっぷり海に浸かるプランだ。もちろん、東日本大震災から復興が少しずつ進んでいるとはいえ、まだまだ癒えぬ傷跡を目に焼き付けておくことも目的だ。

 旅行の参加者は父母、従業員三人、父母と仲の良い職人さん夫婦二組、私と詩織と子ども二人の総勢一三人。当日は皆張り切っていて、新幹線の中から宴会が始まる。

「あんまりうるさくすなよ」

 酒飲み達にそう言って顰めっ面をする母も張り切っているのが分かる。声の張り具合が違う。仙台駅に着いてからも酔っ払いよりも早くシャキシャキと歩いて、マイクロバスが待つ乗り合い所で運転士に挨拶をしている。

 カキ小屋は順番待ちで小一時間ほど待つことになったが、この蒸しガキが本当に美味い! 私自身、普段はそれほど好んで食べない牡蠣だが、食べ放題も手伝って三〇個近くは食べたのではないだろうか。皆も大満足のようで、次々と目の前のカキが無くなっていった。もちろん、酒も次々と胃袋に収まったのだが。

 この旅行中も、母は常に笑っていたように思う。大きく声を上げて笑っていたように思う。空も青く、晴れ渡っていたからそう感じたのかもしれない。


初夏を過ぎたあたりからの母は、寝て過ごすことが明らかに多くなった。車で出掛けることも無くなり、調子の良い時に父が小旅行などに連れて行っていた。父は会社を空けることが多くなり、母の送迎や癌に効くと言われている温泉などに時間を費やしていた。というのも、乳癌は除去したのだが、ここ最近で再発したらしく、他臓器にも転移が見られる病状となったからだ。

乳癌の再発率は初期のステージで除去した場合は結構低い。が、再発しているということは発見時に初期のステージではなかったのだろう。ステージⅢでも三〇~五〇%なので、二人に一人もしくは三人に一人の割合だ。もちろん、統計上のことなので一概には言えないが、あの時、既にステージはⅢ以上だったのかもしれない。

ある日、下着など父が買いづらい買い物を詩織が頼まれ、二人で届けに行くと、調子が良いのか起きてテーブルで何か書き物をしていた。時折、考えるような仕草を見せながら、薬や病の影響で薄くなっていく記憶を呼び起こしているようだった。

「下着とか買ってきたよ」

 不意の声掛けに驚いたような顔を見せ、

「ありがとう。今、何をしておかなければいけないか、書き出していたところ」

と、早々に答え合わせをされた。チラッとテーブルのメモ帳に目を移すと、保険、着物、葬儀などの項目が読み取れたが、詳細は読み取れなかった。腕や指の力が弱いのだろう。達筆な母の字が線として踊っていた。或いは視力もかなり弱まっていたのかもしれない。自宅に居る時は、最近はカツラもしないで坊主頭のままで過ごしている。頭が蒸れたり、チクチクしたりするのが我慢できないらしい。そんな風貌も手伝って、病状が重くなっているような気がした。

「ここ最近はお父さんが料理をしてらから、台所のどこに何があるかはわかってらと思うんだけど。まだ他の押入れとか、洋間のタンスとか、オライの物のことは分かってねからな」

 私は何だかそこに居ることから、話を続けることから、話を聞くことから一刻も早く逃げ出したい気持ちになり、母に背を向けそそくさと玄関に向かって歩き出した。

「じゃ、また何か買い物とか欲しい物あったら言って」

 後ろも振り向かずに、言い捨てるように伝えて玄関を出た。

 

八月のお盆休みには、私達家族は沖縄への旅行を計画していた。が、母の調子が気になる。絶賛夏休み中の子どもらが『ばばちゃん』のところに遊びに行ったのを迎えに行った際、それとなく旅行の件を話すと

「心配すんな。まだ死なね」

 ばかにするな、とでも言いたげに力の籠った声が返ってきた。自分のせいで何かを諦めることが心底嫌だったのだろう。孫達に病気が重いことを悟られるのも嫌なのだ。もし入院していても、きっと、行ってこいと言っただろう。

 暑さもまだかなり残っている初秋、子ども達二人の運動会があった。その日は日差しも強く、三〇度近い気温もあり、母にはかなりきつい条件下だったのだが、毎年見ている楽しみの一つということもあり、父に連れられて見に来ていた。場所取りして取った席は日陰が全く無かったのだが、私達が用意した簡易的な折り畳みイスに座って、つばの広い帽子を深々と被り、首には日焼け防止のスカーフを巻いて準備万端だ。地黒の母は肌が色白ではないことにコンプレックスを持っていて、昔から日焼けを特に嫌い、気を付けていた。反対に父は色白な方で、日焼けをするとすぐに真っ赤に腫れあがり、見るからに痛そうだったことを覚えている。

 侑太と結衣は特に足が速いわけではなく、選抜のリレーなどには出なかったが、徒競走やダンスなどの一挙手一投足をじっと眺めていた。特に五、六年生男子による騎馬戦は声を出して応援していた。侑太は少しぽっちゃり体形で背が大きい方だったため当然の如く先頭の騎馬役だったが、いち早く見つけた母は、座っていたイスから時々腰を浮かせて大声を響かせていた。

 母の中では最後に見る孫たちの雄姿だったのだろう。孫たちをじっと見つめる眼差しと声や笑顔は、私達にとっても最後の破顔だったのかもしれない。


 ようやく暑さも去り、肌寒さを感じる秋頃、父が私達に提案してきた。

「来月の初めに連休を作って、近くの温泉に皆で行かないか? 俺一人だとさすがに女風呂に入ってお母さんを温泉に入れるなんてできないから、詩織ちゃんに手伝ってもらうことになるけど」

 私達も了承し、近場で温泉、しかも癌に良いとされる温泉を探して計画を立てることにした。宿の予約を考えるとあまり時間が無い。ラジウム温泉に的を絞り、宿や食事、温泉はもちろん、渋滞予想なども考慮して二、三ピックアップし、父に決めてもらうことにした。

 一週間ほど経ち、父にどうするのかを尋ねると、思いもよらない言葉が返ってきた。

「お母さんの調子がちょっと悪くてさ。今、起き上がるのもトイレも一人で行けない状態なんだよ。病院からは入院を勧められているんだけど、お母さんがどうしても入院したくない、って聞かなくて」

「それなら仕方ないな。買い物とか何かあるなら言って」

私はそう話すのが精いっぱいだった。

その日の帰宅後、私と詩織は母の様子を見舞いに尋ねると、父の言う通り横になって布団を被っていた。以前に調べていた癌細胞に効くとされている缶水素水一ケースを近くに置く。

「これ、効くらしいから飲んでみて」

「ありがとう。詩織ちゃんもごめんね。色々迷惑かけてしまって」

これまでにない弱々しい声で母は言葉を絞り出す。ようやく身体を起こし、深い溜息を一回ついた後、今にも泣き出しそうな声で不調を訴える。

「何をするにも身体がだるくて。トイレに行きたくても起きられねことがあるからオムツを履いてらよ。お父さんには迷惑かけるけど体調良い時もあるから入院はしたくね。だから社長があんまり会社行けないかもだけど、康樹、頼むな。詩織ちゃんも迷惑かけるけど色々手伝ってけれ」

 絞り出す声は弱かったが、奥に潜む意思は強く感じた。しかし、手足は痩せ細り、頬も少しこけ、薄い体になってしまっている。食べ物の味が分からず、無味無臭なのは治療中から話していたことだが、それにも拍車がかかり、何を食べてもゴムを噛んでいるようで食べたくないらしい。ゼリーやスポーツドリンクを買ってきて欲しいと頼まれる。

 これまで目を背け、見ないようにしてきた事実に向き合い、本当の意味で覚悟を決めなければいけない時が目の前まで迫って来ていた。


 それから二週間ほど、母はほとんどを布団の上で過ごし、トイレに行く時は父が介助して連れて行っていた。調子の良い時はあるにはあるらしいのだが、以前のように起き上がって何かをすることはできず、ただ、気分が良いというだけのように感じる。

 一一月も下旬に差し掛かろうとする頃、母が入院することを決断した。父への負担を考えてのことだろう。もしかしたら痛みが出てきて耐えられなかったのかもしれない。

それよりも何よりも、ぎりぎりまで自宅に居たいと願った一番の理由は、入院したらもう、この家には帰って来られないことを母は知っていたからだ。いつもの場所に座って、いつものテレビを見て、いつも通りに食卓を囲む。そしてもうすぐやってくる年末年始には長女の未沙家族、長男の康樹家族に父の叔母も加わり、去年までのように賑やかに皆勢ぞろいで新年を迎えることが、もうできないことを知っていたのだ。

「今日、お母さんを入院させることにするよ」

 会社で朝礼後、従業員が現場へと出て行った頃合いを見て父が言った。入院とは、つまり、緩和ケア病棟のことだ。午後に手続きをするため、そのまま今日は会社には戻らない。従業員の皆にも、まだ多くは伝えなくて良い、と付け加えられる。

 その日、父が帰ってきたのは夜になってからだった。恐怖と不安の最中にいる母に時間一杯まで寄り添っていたのだろう。

翌日からの父も元気が無かった。出社して事務処理をして、すぐに病棟へと向かっていた。夕方に一度戻ってきて、諸々の段取りや処理を済ませ、また病棟へ向かう。たまに叔母がやってきて付き添いを交代してくれていたので、その時間を使って仕事の打ち合わせなどを済ませていた。

私と詩織も顔を出すようにしていた。緩和ケア病棟に入ってからの母は、ほんの一週間前とは比べものにならないほど衰弱していた。

鼻での呼吸が難しいのか、口をあんぐりと開けたままになっているので、口の中が乾いて仕方がないらしい。話をしようにも唇や舌が乾燥していて上手くしゃべることができない。濡れたガーゼで湿らせてやると少し話しやすそうに声を出す。が、口をあまり動かすことができず、しっかりと聞きながら想像しないと何を言っているのかが分からない。話好きのおしゃべりという印象が強い母だが、そんな状態になっていた。たったの一週間で。

病棟に最初に見舞いに行った日の夜、私は侑太と結衣をリビングに座らせ、ゆっくりと分かりやすいように切り出した。

「侑太、結衣。ばばちゃんが病気なのは知っているよな」

二人とも静かに頷く。

「今、入院しているんでしょ? いつ帰ってくるの? 」

小学五年生の侑太は、母の病気が重いかもしれないことを薄々感じていたのかもしれない。待ちきれない様子で聞いてくる。

「うん。ばばちゃんね。家に帰って来られないかもしれない。『がん』って病気、知っている? なかなか治りづらい病気なんだけど、ばばちゃんの病気はその『がん』なんだ」

 二人とも黙って聞いている。

「で、そのがんが今、すごく進んじゃって病気が重くなっちゃっている状態。わかる? 」

 揃えたように頷いた後に結衣が口を開く。

「ばばちゃん、治らないの? 」

「もう治らないかな。ひょっとしたら結衣が四年生になるのも、ばばちゃんは見られないかもしれない。もちろん、侑太が卒業するのは見られないと思う。もっと言えば、今度のお正月を一緒に過ごせないかもしれない。意味、わかる? 」

 結衣が静かに頷くのと同時に侑太が応える。

「死んじゃうってこと? 」

 今度は私が静かに頷いた。

「そう。一ケ月後かもしれないし、明日かもしれない。ばばちゃんが死んじゃう覚悟って言っても分からないだろうけど、もうすぐいなくなることは覚えておいて。その時は学校に迎えに行くから、急いで用意して来てな。以上、寝る! 」

 二人とも実感が湧かないのか、「はーい」と比較的暢気な声で寝室へ向かった。実感が湧かないのは二人だけではない。詩織も、自分もだ。母がもうすぐ死ぬ。話せなくなる。触れられなくなる。会えなくなることに、悲しみや焦燥感がほとんど、無い。

 子ども達に言い聞かせているつもりで、自分自身を諭していたのかもしれない。


 母が入院してから二~三日後に、詩織に促されて見舞いに向かった。詩織は早めに仕事を切り上げて先に訪れていた。母に顔を見せ、

「どう? 調子は。何か食べたいものとかある? 」

と、普段通り尋ねる。母は首を横に振り、

「冷蔵庫にいっぱい入っている」

と声を絞り出す。口や舌を上手く動かせないので、その一言を理解するのに何回も聞き返してしまう。詩織はその聞き取りが上手く、母が何と言ったのかを通訳してくれる。

 少しの間、雑談をしていると携帯電話が鳴る。現場からだ。

「ごめん。現場行かなきゃ。また来るよ」

そう言って病室を出ようとする私に、母が何か話し掛けてきた。

「オアエウォギオルエレ」

「ん? 何? 」

「おわえうぉぎおるけお」

「『おまえもきをつけろ』だって」

詩織が通訳する。母も少し頷いている。

「うん。分かった。じゃ、また今度」

 病室を出て現場を向かう途中、母の絞り出した声がヘビーローテ―ションで頭を巡っていた。はっきりとしたいつもの母の明るい声で「お前も気を付けろ」と。

「気を付けるのはもっと昔の自分だろうよ」

 呟くと同時に視界がブレてくる。右手で目を擦り、深呼吸をして現場へ向かった。

 週末になると叔母や子ども達も含めて総勢六名で病室を訪れた。久しぶりに孫たちの顔を見て手を繋いだ母は、表情からはもう読み取れなかったが、嬉しそうに声を出していた。

「聞き取りづらいけど、『まだ死にたくない、まだ死にたくない』ってはっきり言うんだよ。『当たり前だ。まだ死んでもらっちゃ困る』って返すんだけどさ」

 父が少し冗談めいて母に目を遣りながら話すと、母も頷いている。入院する少し前から、父は母のことを『幸子』と名前で呼んでいた。私や姉の未沙が生まれる前はお互い名前で呼んでいたのだろう。私達からしてみれば少し恥ずかしさもあったが、「おい」とか「お母さん」と呼ぶ父に対し、

「オラ、オメの母親じゃね」

とでも言ったのだろう。

 固形物が喉を通らなくなってしまった母に

「幸子、ヨーグルト食べるか」

と介抱している姿に、新鮮な年季を感じる。

 入院から一週間もすると、母の容体はさらに悪化していた。ほとんど話すこともできず、唸ることと眼球を動かしたり、手を少し動かしたりできる程度まで衰弱してしまっていた。

 会社の人には内緒に、という約束だったので従業員には元気だと伝えることしかできなかったが、明るく声高に笑う姿しか知らない授業員にこの姿は見せられないし、母は絶対に嫌がることが分かっていた。父はこの頃になると、ほぼ病院で母の傍に居たのだが、入院から二週間目の半ば過ぎ頃、私の携帯に父から着信があった。嫌な予感を抱えつつも電話に出る。

「さっき、医者と話をしたんだけど、お母さん、かなり危険な状態らしい。俺はこれから一旦家に戻って着替えとか持ってまた病院に行くから。まぁ、今すぐどうこうってわけじゃないけど、お前も時間がある時は顔を出して。もしもの時はすぐに電話するから、出られるような態勢をとっておいてくれ」

 いよいよか、という緊張のような何かが脳天からつま先までを、痺れのようにゆっくりと撫でていく。詩織にも伝え、その日、仕事終わりに顔を出すことにした。

 病室には父がいた。母の傍らに座ってテレビを見ていたが、音声が聞き取れないほど音量が小さく、たぶん、父もテレビは見ていなかったのだろう。母は口をあんぐりと開け、苦しそうに呼吸していた。心なしか呼吸が浅く、小さいような気がする。寝ているのか、呼びかけても反応は無い。薄目は開けているように見えるので微睡の最中かとも思ったが、とても母のものとは思えない手を触っても、力がまるで入っていないのが分かる。

「担当のお医者さん曰く、呼吸が不定期で浅くて、これ以上呼吸の間隔が開いてくると危険なんだって。でも、反応はしないけど、意識朦朧の中でもちゃんと声は聞こえているんだってさ」

 父が意外にも穏やかに、母には聞こえないように説明してくれた。いつどうなるか分からないから準備をしておいてくれ、と再度聞いたところで病室を出た。

 今のこれが現実。これまでできるだけ見ないようにしてきた現実。それでも尚、母がもうすぐいなくなることへの実感が無い。どれだけ甘えているのか。その時の私にはそれが、分からなかった。


 それから二日後。金曜日の朝一〇時少し前頃に父から着信が入る。危篤状態。詩織や子ども達を連れて今すぐ病棟に来い、と。

 私は詩織にすぐに電話をし、小学校へ向かう。詩織はそのまま直接病棟へ向かった。その日の小学校はマラソン大会というイベントの日。校庭を何週かした後、学校の外周を何周かしてゴールだ。外周とはいえ学校の外を走るため、お手伝いの保護者の方も既に持ち場にスタンバイしている状態だったので、焦った様子で学校に来た作業服の男を見て少し警戒していたかもしれない。

 子ども達は外で準備体操をしていたらしいが、詩織が連絡を入れておいてくれたお陰で、私が学校に到着してから二~三分で二人と合流。先生に挨拶をして車に乗り込む。どの道を行ったら一番早いのか、距離が短いルートか、混まないルートか。いくつかある病棟までのルートを頭に思い浮かべ、瞬時にシミュレートしようとするが、頭がうまく回らない。本能的に一番距離が短いルートを選んでいた。が、普段は少ししか混まないルートのはずが、この日に限ってかなり混んでいる。途中からルート変更しようにも、その場所までも辿り着けていない。その間、詩織からも父からも着信が入る。ブルートゥースで飛ばしたイヤホンから父の焦った声が聞こえる。

「まだか? 今どこだ? 」

「今、駅前のところ。いつもより混んでいて。あと二〇分くらいかな」

「とにかく急いでくれ。もう皆揃っているから」

 右折のタイミングは十分にあるはずなのになかなか右折しない十数台前の車にイライラしながら電話を切る。子ども達二人も静かに不安気に前を見て座っている。

 病棟に到着したのは電話を受けてから一時間を過ぎた頃だった。病棟には叔母や姉の未沙、姪の姿もあり、ベッドを囲んでいた。母は呼吸器の向こうで必死に空気を吸い込もうとしていた。間に合った。

「呼吸の間隔が長く不安定で、非常に浅いです。昏睡状態ではありますが、声は聞こえています。一分一秒を大切にどうぞお声がけしてあげてください」

 状態を確認に来た医師が私達に促す。

「幸子! 皆集まったぞ。皆周りにいるぞ。康樹も来たし、未沙も孫ちゃん達もいるぞ。幸子! 皆が見守っているよ」

 父の呼び掛けが悲痛に聞こえる。近くにいた未沙が声を掛ける。

「お母さん、今までありがとう。よく頑張って来たね。いつも心配掛けてきてごめんね。本当にありがとう」

 涙ながらに母の手を握り、耳元で何度もありがとうと伝えていた。叔母に促されて私も母の枕元に立つ。骨の感触しかない母の肩に手を掛ける。

「母さん、ありがとうね。これまで、色々、本当にありがとう」

これだけ言うのが精一杯だった。涙が溢れ、嗚咽しそうになる。詩織も叔母も泣きながら声を掛けている。孫達三人も枕元に集まり、ばばちゃんありがとう、と声を掛ける。子ども達も泣いていた。

息を吸い込み、吐き出さない時間が長いと、皆が一斉に声を掛ける。すると、じっくりと空気を味わっていたかのようにゆっくりと吐き出す。

この遣り取りを数回繰り返しただろうか。母が一際大きく息を吸い込んだ。なかなか吐き出さない。皆が呼び掛ける。反応が無い。心電図モニターからは一音しか聞こえない。何度も呼び掛ける。何度も。

諦めたような父の表情がその場の全員を納得させた。医師を呼び、確認をしてもらう。脈、瞳孔などを確認し時計を見る。午前一一時四六分。医師は私達を見回し、母との別れが来たことを告げた。

もう母と話すことができない、温かい母に触れることはできない。私を喪失感が襲っていた。私だけではないだろう。皆涙を流し、嗚咽していた。

母の死から数分後、一番辛く泣きたいはずの父が、今日来る予定の従姉の真子に連絡をすること、会社の人達に伝えて通夜葬儀の準備を手伝ってもらうようお願いすることなどを私に伝えた。すぐに病棟の外に出て真子に連絡を取る。真子への連絡のあと、明日、以前在籍した会社の同期二人と久し振りに酒を飲む約束していたことを思い出し、行けなくなったことを伝えようとしたが、電話が繋がらない。もう一人の方へ連絡しても繋がらない。相変わらずだな、と思いながら留守番電話にメッセージを残すことにした。

「もしもし、小里です。急な報告ですが、先ほど、母が亡くなりまして、明日の飲み会、行けません。段取りしてくれた川原には申し訳ないけど、また落ち着いたら飲もう。志方にも電話したけど繋がらなかったので、よろしく伝えておいてください」

 いきなり同期の母の死を告げられて動揺する川原の姿が目に浮かぶ。もう一度青い空を見上げて、母に会いに病室に戻った。

叔母、詩織、未沙も自宅での準備に関し父から伝えられ、母の死から数十分で全員が現実に戻ることになった。身近すぎる人の死を、誰も強く実感できていなかったのかもしれない。

「もう少しここにいれば? 」

 母も天井からそう思って見ていたような気がする。


通夜葬儀は十日後に決定した。火葬場がひどく混んでいるらしく、なかなか予約が取れなかったらしい。母と同時期に亡くなった人がたくさんいるということは、母もあの世への道すがら心強いだろう。

大変なのは一〇日間の亡骸の扱いだ。腐敗しないようにドライアイスは多めに、そして小まめに交換しなければならない。皮膚も劣化が早いらしく、時間が経ってしまうと化粧を直すのも皮膚が破れないように細心の注意が必要だそうだ。

一週間以上も母の亡骸と一つ屋根の下に過ごした。当たり前だが、温かさは一切なく凍っているように冷たい。そして、硬い。だが、一切、恐怖を感じない。色黒の母が青白く化粧された顔を見ていられるタイムリミットが近づいていた。

通夜当日。従業員も全員が手伝いに来てくれた。駐車場も比較的大きな葬祭場だったのだが、通夜が始まると大勢の人が弔問に訪れてくれた。父は市内の団体にいくつか入っていることもあり、その仲間や、これまで良くしてくれていたお客様も来てくれていた。加えて、私の所属する団体の先輩や後輩も合わさり、駐車場待ちの車で付近が大渋滞を起こしてしまった。全く関係なく渋滞に巻き込まれた方たちには大変申し訳ないが、本当にありがたいことで、母の元気な笑い声や明るい笑顔が大好きで救われたという方も多くいらっしゃった。

通夜の弔問の列もかなり減り、一段落した頃、私の幼馴染の俊也が焼香に来てくれた。こうした場が不慣れなのか、焼香をした後、通夜振舞の席へ行かずに親族席の一番後ろにストンと腰を下ろした。親族一同、キョトンだったが、皆、彼を知っているので何事も無かったように焼香は続いた。俊也はそのまま弔問客がいなくなるまで私達と一緒にいて、親族と共に通夜振舞の食事をし、片道二時間の帰路についた。明日とか手伝うことがあったら言ってくれ、と私に伝えて。母は生前、俊也を含めた私の友人や同僚、同期にも家族のように接していた。父も叔母も、俊也君は家族みたいなものだからあの席に座って見送って貰えて嬉しいよ、と歓迎すると照れくさそうにお礼を言う俊也が、この日を笑顔のある通夜にしてくれた。

葬儀は通夜ほどではなかったが、駐車場は満車になる程度の人数が、母の最後の見送りに集まっていただいた。昨夜のような多忙さは無く、しめやかに葬儀が進行していく。喪主挨拶が終われば、いよいよお別れ、出棺である。

「本日は亡き妻幸子の葬儀に、通夜を含めて本当に多くの方にご臨席賜り、心より御礼申し上げます」

 喪主の父が挨拶を始める。私は遺影を持って父の横に立つ。叔母と姉から、喪主挨拶で父が話せなくなったら、お前が何とかしろ、と言われていた。

「妻は、明るい人でした。笑顔を大事にしていて、大きな声で笑っていることが多い人でした。私が会社でムスッとしていることがあると妻は、笑顔笑顔、と笑うように良く言われました。笑顔は人を呼び寄せる、笑顔は元気の源だ、と。妻に言われて笑顔でいるように心掛けてはいました。でも、今だけは、今日だけは泣かせてください。妻には怒られるかもしれません。でも、今日泣いて、明日から笑って過ごせるよう、皆様のご指導ご鞭撻をお願い申し上げまして、喪主挨拶とさせて頂きます」

 父は途中から恥ずかしげもなく大粒の涙を流して、胸の前に持った位牌をしっかりと両手で握り、時折声を詰まらせながら挨拶をやり遂げた。私も笑顔の母の遺影をしっかりと棟に掲げ、涙を堪えていた。

 大勢に見守られて母が出棺していく。遠回りだが、会社、自宅とルートを取ってから霊柩車は火葬場へと進む。もう、母の顔を見ることができるのは、ほんの数回しかない。母が到着する頃には、参列してくれる親族は既に到着していて、建物の入り口付近で母を待っていた。

 奥の間に通され、いよいよ、母に会える最後の時がやってくる。一人一人母に声を掛ける。鼻を啜る声があちこちから聞こえる。私も母の顔を見て、ありがとう、と小さく呟いた。

 やがて棺は火葬の扉前に移動。扉が開かれ、母は小さな穴の中に入ってしまった。

“ちょっと待って、もう一回だけ顔を見せてください”

 そう叫びたい気持ちを堪えるしかない。もう、見ることもできない。冷たくて硬くても、触れることもできない。もっと感謝の気持ちを伝えれば良かった。もっと母と向き合えば良かった。

 もっと。

 会食に向かう途中、トイレに行く振りをして私は外に出た。見上げた空には碧しかなかった。白い煙が笑っているようにゆらゆらと昇っていき、碧に沁み込んでいった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ