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 初めての添乗を経験し、二度と経験したくない自衛隊を経験し、初めての野宿も経験した川原は、立派な中堅社員になっていた。適度に仕事をし、適度にサボり、サラリーマン生活の典型を体現しているようだったが、悪く言えばマンネリを感じていた。

 長年付き合ってきた彼女との関係も少し似たような感覚が芽生えてきてしまっていた。というのも、一〇年以上付き合っていて、しかもお互い三〇歳を過ぎていることもあり、どうしてもあの二文字がちらついてしまうのだ。彼女も何となく匂わせてくる節もある。川原も理解しているのだが、今のこのモラトリアムというか、のほほんとした期間をもう少し続けていたいのも本音だった。都合よく言えば、きっかけを欲していた。

 観光の仕事は相変わらずで、今では添乗指導やツアーの企画立案、交渉なども任せられ、後輩からもいわゆる「デキる先輩」として一目置かれるようになっていた。そんな川原が昨年、観光部を挙げて取り組むツアープロジェクトの一員に加わることになった。川原の勤める会社では、サッカースタジアムまでのバス送迎も請け負っており、シーズン中はそれなりに売り上げの核となっていたのだが、運行は営業エリアのサッカーチームのホームゲームがある時に限られていた。それを、アウェイでのゲームの時もホームタウンからアウェイの会場まで、一〇台以上をチャーターして送迎しよう、というのだ。

 もちろん、近場のこともあれば東北や関西、中国地方まで陸路である限りカバーすることになる。バスの確保、運転士の確保はもちろん、休憩や宿泊も見据えた運行予定の作成、チームとの協力関係の構築、サポーターとの協議など、実現するまでに超えなければいけない壁は多かった。

 川原は主に、チームとの協力関係の構築を担当することになっていたが、持ち前のコミュニケーション力を発揮し、この一年間でしっかりと協力体制を構築し、求められていた以上の結果を出すことに成功していた。

 プロジェクトチームの確かな歩みもあり、計画が少し前倒しになることが決まったのは、今年の七月だった。一二月の初めにあるリーグ最終戦が、柏の葉にあるスタジアムでアウェイ開催されるのだが、そこで実験的にやってみよう、ということに役員会で決まったらしい。まだ五ヶ月前とはいえ、公告デザインや運航の調整、現地調査やルートの作成など、たった五ヶ月しかないというのがチームに共通する意識だ。

 今夏は久しぶりに彼女と旅行でも行こうかと思案していた川原に真っ先に浮かんできたのは、彼女の呆れた顔だ。

「もしもし。落ち着いて聞いて欲しいんだけどさ。あのさ、ちょっと夏、忙しくなりそうなんだよね。え? そうそう、例のプロジェクトのやつ。うん。それでさ……、うん、ごめん。代わりに年末にどこか行こうよ。考えておくからさ」

 ひとしきり謝り、不機嫌は収まったのだが、彼女のどこか諦めムードの立ち込める話しぶりだったことが気になる。こうしたキャンセルがここ何年かで何度もあったのだから仕方のないことだ。

「タイミング悪いなあ」

そう呟いて持っていた缶コーヒーを飲み干し、デスクに戻った。ブラックコーヒーの苦みが自分を責めているようで、それが却って心地よく、贖罪気分を盛り上げてくれた。


瞬きをする間に五ヶ月間は過ぎ、翌週にはいよいよ実行というところまで来ていた。幸い、彼女もあれから機嫌を直してくれて、これまで通り(と思っているのは川原だけかもしれないが)の関係が続いていた。

川原は十数台のバスを束ねる添乗委のリーダーを務めることになっていた。事前に全添乗員と顔合わせをし、準備万端で来週末の本番を迎えるだけとなっていたのだが、不安要素が一つだけあった。天候だ。こればかりは人知でどうにかできることではない。サッカーの試合はかなりの雨でも開催されるのだが、あまりに雨脚が強いとキャンセルが続出することが容易に予想される。二~三台の運行では普段のバス観光と全く差異が無い。プロジェクトの実験施行には程遠いのだ。

現状の一週間予報では木曜日の夜から雨が降り出し、金曜日は一日中雨天。土曜日の夕方過ぎまで降り続ける予報が出ている。試合はデーゲームで午後二時にキックオフ。終了は午後四時頃。

「てるてる坊主、てる坊主、土曜日天気にしておくれ」

無意識に声が出ていた。隣のデスクの若手社員が驚いたような顔で川原を見ている。

「川原さん、かわいいところあるじゃないっすか」

「三浦、お前って晴れ男? だとしたら土曜日、出勤してくれ! 」

両手を合わせて赤らんだ顔を隠した。

「いや、雨男です」

「観光に従事していて雨男を自負する男、か」

「雨が悪い天気だって誰が決めたんですか? 雨には雨の楽しみ方がありますよ。サッカーだって、雨が降ったら何が起こるか分からない度が格段に上がるかもしれないじゃないですか」

 なるほど。後輩に納得させられてしまった。その時その瞬間を楽しまなければいけないな。そう考えながら、土曜日に雨マークの無いサイトを探していた。


 運命の日、というのは大袈裟かもしれない。が、大きな一歩であることは間違いない。

 午前六時。空からは大粒の雨が水たまりに無数の波紋を広げている。その一つ一つの波紋がやけに美しく、皮肉に嘲笑っているかのように見える。川原は覚悟を決めていた。濡れる準備を整え、午前七時に勢いよく玄関を飛び出す。気のせいか、波紋の数が少なくなっているように見えたが、そんなことはもうどうでもいい。できることを精一杯やるだけだ。

 受付開始は午前九時。川原は一度会社に立ち寄り、プロジェクトのここまでの過程を収めた資料を眺めていた。彼女との旅行をキャンセルしたところから始まったこのプロジェクトの過程では、小さなキャンセルは片手では収まらないほどドタキャンを重ねていた。

「参ったな」

苦笑いの中でポツリと呟く。なんだか猛烈に彼女に逢いたくなってきてしまった。

照明器具のジリジリという音と遠く給湯室にある冷蔵庫のブーンという音が入り混じって聞こえる。窓のブラインドを上げて雨のその上を見る。川原は、決めた。

「今日、この添乗が上手くいったら、結婚の話をしよう」

 指輪を用意していないことなど、もはやどうでも良かった。腹の底が沸々と熱くなってきている。会社を飛び出し、待ち合わせ場所に早足で向かう。川原に降り注ぐ雨は、蒸発するかのごとく飛び散っていた。

 集合場所に到着したのは午前八時三〇分を少し回ったところだった。バスは既に到着しており、数名の補助添乗員も半数は到着していた。バスの運転士全員に声を掛け、補助添乗員が全員集合するのを待ちミーティングを開始。予定通りに九時に受付を開始した。天候は弱雨だが、傘を差さなければすぐにずぶ濡れになってしまう程度。もう、天候に期待はできない。否、しないことに決めている。

 ありがたいことに、チームが優勝争いをしてくれていることもあり、キャンセルは数名しかいなかった。受付を開始してから三〇分ほどで全乗客が揃い、優勝への熱気と気合が停車しているバスの中に充満していて爆発しそうなほどだ。

 早めの出発をしても良いのだが、到着が早すぎると現地での交通誘導や他の車両とのタイムスケジュールが重なり、現地スタッフに迷惑を掛けることになりかねない。予定時刻の前後一五分程度くらいの到着が丁度良い。

 出発時刻丁度にバスが出発。千葉県の柏市にあるスタジアムまで約二時間の旅が始まった。

 運行は順調だった。時折強い雨になりつつも、大きな渋滞は起きておらず、このまま進めば予定時刻よりも一〇分ほど早く到着できそうだ。向かう方向の空をフロントガラスから覗き込む。

「向こうの空は少し明るく見えますね」

 運転士が不安を和らげるような口調で川原に話す。

「そうですね。気持ち、雨も弱まっているような」

 願うような気持で返すが、乗客の誰かが口ずさみ始めたチームのチャント(応援歌)が大合唱となって、運転士には聞こえていないようだ。

「何だか晴れるような気がしてきました! 」

 チャントに揉み消されないような大声で運転士に話すと、ニヤリとしながら親指を上げた。

 バスは途中、予定に無いトイレ休憩を一〇分ほど挟んだが、予定よりも五分早く柏インターチェンジを通過。ここからスタジアムまでは一〇分ほどだ。

「さすがですね」

 不意に運転士から声を掛けられる。何事かと運転士を見ると、顎でフロントガラスの方を見ろ、と身振りしている。目を向けると光が踊っていた。この後の段取りや後続車の確認連絡などで、外を見る余裕が無かった。国道の「がんセンター入口」交差点を右折する頃には、雲もほとんど無くなりすっきりとした青空が広がっていた。乗客も到着が近いことを知っているのか、降車の準備を始めている。あと五分ほどで到着する旨のアナウンスと、到着後の案内を済ませたところで赤信号につかまる。改めて晴天と周囲を見直す。濡れた路面は湯気が立ち、乾き始めている。散歩しているゴールデンレトリーバーは笑みを湛えながら水たまりを歩いている。空を眺めて電話している作業員は、この後の工事が可能であることを誰かに伝えているのだろう。マイナスが全てプラスになったような感覚を川原は久しぶりに味わっていた。

 川原の乗る一号車のバスがスタジアムに到着し乗客が降車を始めると、後続のバスも続々と到着、降車していく。とにかくスムーズかつ安全にバスを移動させなければならない。一号車の最後の乗客が降車し、バス移動の段取りに入る頃には、川原はこの事業の大成功を確信していた。最後のバスが到着し、バス待機所への案内もスムーズに完了。川原の心は見上げた空のように澄み切っていた。

胸の内ポケットに入れた携帯電話を取出し彼女の番号を検索する。名前を見つけると間髪入れずに通話ボタンを押した。留守番電話やメールの着信が何件も入っていたが、この気持ちを少しでも早く伝えたい。

「もしもし。うん、うん。こっちも晴れたよ。あとは帰るだけ。うん。今日さ、夜、会おうよ。うん。八時くらいかな。大丈夫? うん。ありがとう。じゃ、またあとで」

 少し冷たいが爽やかな風が、興奮で火照った川原の頬を撫でる。

「がんばれ。これからが本番だ」

 自分に言い聞かせる。スタジアムから聞こえる大きな応援と太鼓のリズムが、川原の背中も押していた。


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