11
11
志方がカーテン営業に転職して三年が過ぎようとしていた。数々の現場をこなし、いくつものピンチと修羅場も経験してきた。志方はすっかり中堅の営業マンとしての立ち位置を確立していた。
「今月の売り上げ一位は、西川。次が稲山—―」
月末の売り上げ会議で次々にと先輩達が呼ばれていく。志方はこの時間が一番の苦痛だった。最後に志方の名前が読み上げられると、人一倍小さくなっている志方に社長の赤森が続ける。
「志方、今月も目標ラインに届かなかったか。もう五ヶ月連続だなぁ。地道な営業がもうすぐ実るから、皆も協力体制で頼むぞ」
社長はこうしたことで決して怒らない。いや、怒っている時を見たことが無いかもしれない。以前、社長が言っていたことを思い出す。
「社長っていうのは皆の士気を高める存在じゃなきゃいけない。怒ることも必要かもしれないけど、それで委縮することだってある。何だよあいつ、何も知らないくせに、なんて嫌悪感を持つかもしれない。だったら俺は、怒らずに発破をかけるよ。会社の雰囲気を柔らかく、でも活気に満ちた社風を作るのは俺の役目だからね」
志方はえらく感動した覚えがある。自分もそうでなければならない。社風を作るのは社長だが、それを決定付けるのは自分達なのだ。そんな風に意気込んでいた時期があった。今、志方の頭は坊主頭をド金髪に染めた、営業職には不向きの方向最先端の姿をしていた。
「営業は印象付けてなんぼの正解だよ。根が真面目な志方は、真逆の金髪とピアスにしてみたら? そりゃ、お客様からしてみれば最初は、何コイツ? ってなるよ。でも、その時に丁寧にまじめに対応していれば、真面目なヤツなんだな、って印象が変わってくる。そうすれば、その時は売れなくてもそのお客様がカーテンを欲しいと思った時に、真っ先に志方の金髪が頭に浮かぶかもしれない。そういえば金髪のカーテン屋がいたよな、って。そうなりゃもう、勝ちよ」
金髪メッシュに髭を生やした社長の赤森が、半分冗談半分本気で志方に話したことを、そのまま実践していて一年近くになる。売り上げが落ちてきたのはこのせいなのだろうか、今は金髪の種を蒔いている時期で、もうすぐ発芽するのだろうか、志方は悩みに悩んでおり、会社に行くことが億劫になってしまう朝もあるほどだった。
それから二ヶ月が経っても状況は好転しなかった。年齢的にも一番下っ端の志方は、先輩達が何とか元気づけようと現場に連れ出してくれたり、自分の現場でのカーテンの営業を回してくれたりと気を遣ってもらっていたが、いいかげん志方にとってはそれさえも申し訳なく、そして余計なお世話だとさえも思うようになってしまった。
彼女もちょくちょく会いに来てくれたり、休みの日は出掛けたりしていたのだが、その時だけは嫌なことを忘れられたし、その優しさが身に染みて嬉しい。
「そんなに辛いなら辞めれば? 」
暗い顔をしていたのだろう。不意に声を掛けられた。
「仕事はこれだけじゃないし、このまま続けて健康を害したら元も子もないよ。鬱とかさ」
『鬱』という言葉を聞いてドキッとした。自分はならない、自分は大丈夫、自分はストレス発散できている、自分は違う、自分は……。
面と向かって鬱という言葉を聞いて、すぐ隣に暗闇が座っていて、ひんやりとした温度を発して少しずつ体温を奪われている気がした。
何年ぶりだろうか。いや、これまであったろうか。志方は両親に向けて手紙を書いていた。電話でもメールでも連絡手段はあったし、会おうと思えば車で二時間もあれば十分の距離なのだが、あえて手書きの手紙にした。
昔から言葉にするよりも文字にした方が自分を表現できると感じていた志方だったが、筆が全く進まない。書き出しから何を書いてよいのか見当がつかないのだ。拝啓でもない、お元気ですかでもない。かといっていきなり、悩んでいますでもない。書き出しに一時間以上は掛かっただろうか。結局、元気ですか、にした。
『元気ですか?こうして手紙を書くのは初めてかもしれませんね。何だか照れくさい気もしますが、文字の方が気持ちや考えを伝えやすいと思い、手紙を送ります。
転職して三年が経ちました。一人暮らしにも慣れ、仕事にも慣れてきたところですが、最近、少し悩んでいます。少しというか、かなりです。営業職の仕事は数字が全てということは重々承知していましたが、この数ヶ月間、ノルマを一度も達成できず、会社に迷惑ばかり掛けています。自分が情けなくなるのと同時に、自分には営業は向いていないんじゃないか、と考えています。ひょっとしたら自分は軽い鬱なんじゃないか、と思うことがあります。朝、起きると心が重く、就寝前も翌日のことを考えると体が重くなります。それでも会社には行って、営業回りをし、何とかノルマ達成を試みる毎日ですが、少しずつ体の重さが増してきているような感覚です。以前、連れて行った彼女とは、ほぼ毎週会っているので、本当に心の支えになってくれています。もちろん、結婚も考えています。ですが、今の仕事の状況や精神的状態で結婚することはできないし、このままノルマを達成できないかもしれないし、達成できたとしてもまたこうした状況になって精神的不安に陥るかもしれない。そう考えると、不安に不安が重なってしまい、ますます気分が滅入ってしまいます。自分がこんなに弱い人間だったと気づかされました。彼女ともこの状況を共有していますし、励ましてくれています。いっそのこと、今の職を離れ、少ない資金ですが二人でお店をやろう、とも話しています。逃げかもしれませんが、そのほうが精神的な安定が得られるのではないか、と。
長文となりましたが、現在の状況と今後の進む道について、報告としてこの手紙を送ります。
お体には気を付けて。』
書きながら感情が溢れてきて、途中から何を伝えたいのか、どうして欲しいのかが分からなくなっていた。読み返して誤字脱字や「てにをは」を確認すべきなのだが、恥ずかしくて読み返せない。むしろ、感情が籠ったこの文章のままが良いのだ、と言い聞かせて封筒に入れ、気分が変わらないうちにポストへと急いだ。春も終わりの頃、風に青い葉の匂いが微かに香る土曜日の昼下がりのことだった。
翌週の火曜日、仕事を終えて誰もいない部屋に帰り、コンビニ飯を温め、缶ビールと一緒に胃に流し込んでいると、携帯が鳴った。父からだった。
「手紙、読んだよ」
「あぁ、うん。今、そんな感じ」
「まぁ、営業が通る道だよな。とりあえず、今度の日曜日、そっち行くから。夕飯でも食べながら話そう」
「ん。わかった。何時ごろ? 」
「五時過ぎくらいだろうな」
「じゃあ、駅前のコインパーキングに停めて、着いたら電話して」
時間にして一分も掛からない電話だったが、テレビの音が全く耳に入らないほど、なぜか緊張していたことを、携帯電話を置いた左手がしっとりと汗ばんでいるのを見て認識した。緊張、否、集中と言った方が近いかもしれない。人生の岐路が日曜日にやってくる。
いつもの休日よりも早く目が覚めた。時計を見るとまだ午前八時だ。休みの日は一〇時近くまで布団の中にいることがほとんどだ。朝食用に買っておいた惣菜パンをかじり、牛乳と一緒に流し込む。父との約束の夕方まで何も用事は無く、テレビを眺めたり、本屋を覗いたり、パチンコをちょっとだけやったりして時間を過ごした。 そろそろかな、と一五分前くらいに駅前方面へ向かって歩き出したところで携帯電話に着信。父は到着して駅前で待っているとのこと。少し早歩きで駅前に向かうと、両手をポケットに突っ込んだ父が待っていた。
「おう。どうだ? 調子は」
最初の一言としてはごく普通なのだが、明らかに少し面食らったような顔をしていた。髭を生やし、金髪の坊主頭なのだから無理もない。
「近くでお店探しておいたから、そこ行こうよ」
父を先導して駅からさほど離れていない洋食屋に入った。
「何だ? その頭と髭は」
今の社長の考えや営業に対する今の考えをひとしきり伝えると、
「そんなもんかねぇ。俺には理解できないけどな。チャラチャラしている奴に仕事を頼みたくないけどね」
「いや、だから、その身なりがチャラチャラしている奴が真面目に仕事をしているからいいんだよ」
こっちもそこだけは譲れない、と言い返すが、お互いにその話を深堀するために話しているわけではないことを分かっていたので、案外すんなりと話題は変わっていった。
「手紙読んだけど、つらいか? 営業」
「まぁ。やっぱりノルマを達成できないと肩身が狭いしね。周りの先輩たちは皆達成しない月は無いくらいだし。ノルマさえ達成すればノルマを超えた分は歩合で貰えるから、売れば売るほど給料も貰えるんだけどさ。売っている先輩は毎月一〇〇万円以上貰っているみたい。まぁ、自分も今は種を蒔いている現状かもしれないし、これから売る上げが伸びるかもしれないし、とは言っても売れる保証は無いし、クリアしても継続しないと意味無いし。やる気はあるんだけどね――」
言葉がどんどん出てくる。言い訳なのか、愚痴なのか、辞めたいのか、格好つけたいのか、感情がごちゃ混ぜになっていた。父は黙ってうんうんと頷きながら聞いていた。
注文していた料理が運ばれてきて、ごゆっくりどうぞ、と店員が頭を下げると、親子で同時に会釈を返した。
「俺も昔、電気関係の営業をやっていたことがあったけど、大変だったなぁ」
父がナイフとフォークを手に料理に手を付けながら話し出した。「数字が全てだからな。俺の場合、その後、経理とか会計の方に行ったから、営業の経験は少なくてアドバイスはできないけどさ。違う意味で数字が全てになったけど。相手にするのが面と向かった人っていうのは、本当に難しいことだよ。十人十色って言うけど、その人その人に合わせた営業をしなくちゃいけない。でも、自分の営業の芯を持ってそれを崩しちゃいけない。確かに、向き不向きはあるかもしれない。でも、今、営業職をやっている以上、お客様にとってお前が営業に不向きだとかは関係ないことなんだよな。お前にとっては一人の客かもしれないけど、その人にとっては自分の希望を叶えてくれる人なんだからさ。多分、一人前になろうとしているんだよ、今。しっかりと一人のお客様に向き合って、ちゃんと自分の商品を勉強して、がっちりと自分のスタイルを決めるべきなんじゃないか? 売り上げに拘るのはそれからだと思うよ。そちらの社長さんも、そういうことを期待して、今は静観しているんじゃないかな」
見透かされているようで返す言葉もなかった。いっぱしの社会人になった気分で、自分の状況、心境を説明して理解してもらえると思っていた。頷きながら目の前の料理を、手を休めることなく口に運ぶだけだった。
話題は彼女の話や社長の話、ゴルフの話などの世間話に戻り、食事も終わる頃には一時間を少し回っていた。酒好きの父は一杯やいりながら話したかったろうが、この後二時間近い運転が待っている。次の日はお互い仕事だ。そろそろ帰ろうか、という時に父がついでのように口にした。
「本当に辛かったらうちに来たらいい。病気になられるよかずっとましだ。まぁ、うちに来て病気にならない保証は無いけどな」
父は地元で土木業を営んでおり、官公庁の仕事も請け負っていた。興味が無かったので知らないのだが、恐らく、小さな会社なのだろう。
父は結局、最後の一言が言いたかったのかもしれない。そう思うと、得体の知れない感情が湧いてきた。自分には次がある、という打算的な感情ではない。もちろん、転職を楽しみにするそれでもない。
父はこれまで子どもに関して深く入り込むことは無かった。そんな父が心配しているということが分かった。湧き上がる感情が温かかったのは、そのせいかもしれない。
誰もいない真っ暗なアパートへの帰路は、以外にも軽かった。
転機はすぐにやってきた。
前職の時の同期でもある友人から、彼女との結婚についての相談があるからもう一人の同期を呼んで三人で飲もう、という電話を切ったすぐ後だった。
その電話を受けた志方は、すぐに車に飛び乗り厚木へと向かっていた。父と食事をした翌週の出来事だった。
「もしもし、志方さんですか? 」
「はい。ご無沙汰しております。その節は大変申し訳ございませんでした」
見慣れたというより、見たくなかった番号からの着信に、志方は直立で返事をした。二年程前にカーテンの下地工事で大失敗をしてしまった厚木のお客様からだったからだ。「また何か、今頃になって不具合が出てしまったか? 」と当時の現場の様子が次々と頭の中を巡る。
「実は、子どもが来年小学生になるんですけど、子ども部屋にカーテンを付けようと思いまして。あの時はまだ子ども部屋は使わないからということで、カーテンは付けなかったから。今度カタログとか見せてもらえませんか? 」
鳩が豆鉄砲を喰らった顔、というのはこの時の顔なのだろうと、見てもいないのに分かった。
「え……、あ……、あの――」
頭の中を整理することができずに言葉が出てこない。
「お忙しいですよね。お時間あるときで構いませんので、ご連絡ください。そんなに急いではいませんので」
「いえ、ありがとうございます。今日この後はお時間ありますか? 」
体中に熱いものが充満してくる。
「すぐに向かいます! ありがとうございます! 」
携帯電話の通話終了ボタンを懇切丁寧に押し、車に飛び乗る。燦燦と降り注ぐ太陽光が、自分だけを照らしているのではないかと思うほどで、車のサンバイザーを降ろす。運転中も嬉しさ半分、不安半分の複雑な心境だった。もし契約できたとしても、次は絶対に失敗できない。そんなプレッシャーがあったからだ。
お客様との打ち合わせと現場調査は、たったの十五分程度と、拍子抜けするほどあっさりしていた。
打合せ冒頭に、その節は大変申し訳ございませんでした、と謝罪の言葉から始めると、過ぎたことだしもう気にしてないよ、と。昔のことに触れたのはそれだけだった。
打合せの最後に志方は勇気を出して聞いてみた。
「今回、なぜ私にご連絡を頂けたのでしょうか? むしろ、こういう場合、真っ先に除外されても仕方ない失敗でしたのに」
「あぁ、そうだね。カーテンが欲しいとなった時に、やっぱりあなたの顔が浮かんだよ。金髪で髭生やして、到底営業マンに見えないけどね。でも、あの時の失敗があったから、他のお店も探してみたんだ。いくつか回っていても、どうしてもあなたが浮かんでくる。それに、一度失敗しているから、もう大丈夫だろう、と」
お客様が少し意地悪そうに笑った。
「ありがとうございます。しっかり頑張ります! 」
精一杯、誠心誠意を込めてお礼を告げ、車に乗り込んだ。あの日あの夜、見上げた満点の空は、快晴の日本晴れとなって志方に染み入る。たった一つだけあった雲がハートの形をしているように見える。空からのエールも受けた志方の頭と心も、すっきりと晴れ渡っていた。
志方の営業が徐々に軌道に乗り始めた頃、大きなチャンスがやってきた。これまで幾度となく現場を回してくれていた先輩が、自分の請け負った壁紙貼替の工事のついでに軽く営業をかけたところ、カーテンの交換に乗り気になっているらしい。しかも、大学のキャンパス内の講義室やゼミの部屋など、部屋総数で言えば三〇部屋を超え、窓回り商品だと一〇〇以上の大規模案件だ。
先輩に元請の工務店へ連れて行ってもらい紹介を受け、打ち合わせを進めること十数回。内容がまとまり、受注に漕ぎつけることができた。このまま何事もなく終われば、今月こそノルマを超える。しかも大幅に。
志方の胸は躍っていた。同時に不安がちらつく。厚木の失敗を繰り返してはいけない、と何度も自戒し、何度も確認し、何度も段取りを見直すことで、心のバランスを保とうとしていた。
施工日当日。一〇〇以上の施工箇所ということもあり、一日では到底終わらない。今付いているカーテンとカーテンレールを撤去し、新たにブラインドやロールスクリーンを取り付けるためのブラケットを壁に取り付ける。上下左右のズレは許されない。取り付ける位置を出す「墨出し」の作業は慎重に行われるため、全ての窓に新しいロールスクリーンが取り付けられるまでに、職人を三人で回しても三日間は掛かる計算になる。講義の都合から昼過ぎから夜間近くまでの施工という約束になっていることも影響している。
どうやればスムーズか、どうやれば先生方や生徒達への影響が少ないか、あらかじめ考えて何度も反芻した計画を、現場へ向かう車の中でもグルグルと頭に巡らせていた。
昼前の高速道路を走らせ、職人達との待ち合わせ時間の三〇分以上前に到着する予定だ。首都高速三郷料金所を過ぎ、目指す柏が青看板で案内されている。時刻は予定よりも三〇分以上早く、正午少し前を刻んでいた。
前を走る大型観光バスで信号は見えなかったが、赤信号なのだろう。停車している左側には大きな建物があり、奥の方では作業服姿の男が晴天の空を見上げている。右にはコンビニがあり、寄って昼食を買おうか迷ったが、早く到着することを優先した。交差点から僅か五分。待ち合わせ場所に着いた志方は、先に担当者への挨拶を済ませ、工程表を眺めながら職人を待っていた。ほどなく、三人の職人が集合し、工程の再確認と作業場所の指示をする。ズボンに入れた携帯電話にメッセージの着信を知らせる振動があったが、アドレナリン全開の志方に気付く様子は全くない。
「さぁ、一丁やりますか! 」
午後一時、志方の掛け声が青空に染み渡っていった。




