10
10
康樹はW大学を卒業後、一応大手と言われている企業で秘書室に配属されていた。良い先輩と良い上司、良い同期に恵まれ、順風満帆の社会人生活を送っていたのだが、二年ほど後に突然、人生の岐路に立つことになる。
仕事もある程度覚え、責任ある仕事も徐々に任され始めた康樹には、最近気になって仕方がないことがあった。何だか心が晴れないのだ。今いる会社は楽しいし、ここで一人前になろうという気概もある。しかし、今担当している仕事やこれから担当するだろう仕事も、康樹がやりたいと思っていた仕事ではなかった。それは、例え部署が変わったとしても同じことが言えることをこの二年間で気づいてしまったのだ。そのことが、康樹の心にうっすらと靄をかけてしまった。
加えて、任せられた仕事で結果を上手く出せず、自己嫌悪するようになっていた。否、自己嫌悪ならまだ良かったかもしれない。少しずつ自己憐憫するまで蝕まれ始めていた。同期にも同様の感情を持つ者が二人ほどいたが、酒を酌み交わしてはお互いの心情を吐露し、励ましあい、良い発散になっていた。そんな折、ゴールデンウィークで実家に戻った際に、父親から経営する建設会社の話を聞くことになる。
「建設業界は昔から三Kなんて言われて、若者には人気のない仕事なんだよな。でも、この業界が無ければ、家だって無いし道路も砂利道さえも無いかもしれない。下水だって無いんだから汚物なんてその辺に浮かんでいるかもね。臭いだろうなぁ。夢の国のディズニーランドだって、建設業者が造っているんだから、逆に夢も誇りもある仕事だと思うけどなぁ」
酒を飲みながら若い社員不足と人手不足を嘆いていた。父も秋田県出身なのだが、普通に話している時は母ほど訛りを感じない。父の建設会社で事務や経理をしている母も、話の最中に「そうだぞ」とか「やりがいあるぞ」とか挟んでくる。
「お前、やらないか? 」
父も五十代半ばで、そろそろ事業承継の問題も頭に浮かんでいるのだろう。
「いや、今の会社、楽しいし期待されているから。満員電車は嫌だけどね」
そう言って濁していた。職業を考え始める中学生くらいから、父の建設会社で働くなんてことは考えたことが無かった。自分はもっと大きい会社でバリバリのビジネスマンになる。そう思ってこれまでやってきたのだ。
実家から一人暮らしをしているアパートに帰り、缶ビールを開けて喉に流し込む。数日前の父の言葉が浮かんできて、康樹の心にじわじわと沁み込んでいく。缶ビールを飲み干す頃には、これまでかかっていた靄が泡のように消え去っていた。
五月の終わろうとしているある週末、その日は課長も不在で穏やかに時間が流れていた。もうすぐ終業時間になる頃合いに、意を決して康樹は主任の戸上を飲みに誘った。戸上も快諾し、終業時間の合図とともにそそくさと近くの居酒屋に向かった。戸上は聞き上手でもあるが話し上手な面もあり、酒が進むにつれてお互いに色々と話し込んでいた。一時間ほど経っただろうか。ふいに戸上が
「で、何か話があるんでしょ? 」
「あ、はい」
「辞めるの? 」
「!……と考えています」
「まぁ、理由を聞こうか。俺じゃないよね? ははは」
戸上は冗談交じりに相談に乗ってくれた。何か話があって、それが退職に関することであると察知している戸上の洞察力は凄いな、と感心しながらも、付きまとっていた靄と実家での出来事、心境の変化を伝えた。戸上は茶々を入れることもなく、時折顔を覆う仕草や頷きながら、真剣に耳を傾けてくれた。
一通り考えていることを話し終えると、戸上が口を開いた。
「小里の人生だから、辞めるのを引き留めはしない。本当なら先輩として引き留めるんだろうけどね。ただ、自分も上司として同じ道を歩いてきた先輩として、気にかけてやれなかったこともあるってことを思い知らされたよ。本当に申し訳ない」
そう言って戸上は頭を下げた。何だか涙が込み上げてきた。ここで泣いたら色々格好悪い。泣き上戸でもないし、戸上が泣かせているようにも見られてしまう。必死で堪えておしぼりで顔を拭いてごまかすが、戸上も貰い泣きしそうになっている。
「そんなことは無いです。本当に兄貴のように良くしてくれて感謝しかないです」
そう絞り出すのがやっとだった。戸上は落ち着きを取り戻し、半分ほど残っていたビールを一気に煽り、店員に追加のビールを二つ注文した。
「いつまでを想定している? 」
「七月末までを考えています。八月は引っ越しとかいろいろ準備の期間として、九月から実家の仕事に就こうと思います」
追加注文のビールが届き、飲みかけのビールを急いで飲み干し、店員さんに空ジョッキを手渡しながら答える。
「飯野係長は知っているの? 」
「いえ、戸上さんに最初に伝えなければと思いまして」
「分かった。飯野さんと古山課長には俺から話をしておくよ」
その日の飲み代は戸上がご馳走してくれた。改めての送別会はやらないだろうから、これくらいは先輩として恰好つけるよ、と。
初めての就職、初めての退職、そして初めての転職。緊張、不安、期待、罪悪感。康樹の体からはたくさんの感情が溢れ出しそうになっていた。
週明けの月曜日、夕方にはもう古山課長は康樹の退職希望について知っていた。戸上がすぐに話をしてくれたのだろう。終業時間を少し過ぎた頃に康樹の席へやってきた。
「これからを支える中核として期待していたから残念だけど仕方ないな。実家の仕事も頑張れよ」
ポンと肩を叩いて去って行った。近くにいた戸上が
「課長は小里が悩んでいるのを分かっていたみたいだな。次の人事異動で会社のシステムが分かるような部署に異動させるつもりだったらしい」
と古山課長の背中をちらっと見て小声で話してきた。戸上曰く、康樹の配属先に手を挙げた部署がいくつかあったらしいが、古山課長がどうしてもと言って聞かなかったらしい。康樹の担当案件も、スムーズに運ぶように陰で動いてくれていたこともあったらしい。
「ま、それだけ期待されていた、ってことだな」
ニヤリと笑って背中をポンポンと二回叩き、戸上は自分の席に戻っていった。
七月末日、お世話になった方々に挨拶をし、東京本社を後にすると、言いようのない寂しさに襲われる。が、すぐに準備期間の一ケ月間をどう過ごすかにすり替わっていた。引っ越しはもちろんだが、転居先は既に決めているし、あとは荷物を運びこむだけ。もともと部屋にはあまり荷物は無いから、軽トラック一台で事足りるだろう。荷造りと荷ほどきを含めても三~四日間といったところか。まだ二十七日間もある。
康樹は高校時代からの親友の吉村に連絡を取った。吉村は高校も同じ、高校のクラスも同じ、大学も同じW大学で、しかも学部も同じ。六ヶ月間ほど就職浪人をしていた時期もあったが、無事、大手の物流会社に就職し、今は福岡で勤務している。彼は後に東京本社に呼び戻された後、ベトナム支社への六年間の転勤を経て、大きく出世していくことになる。彼の素質や特性を見抜いてくれる良い企業に就職できたのだろう。
吉村は結婚していたが福岡へは単身赴任で、会社の寮に住んでいた。何人か泊まれるような造りらしく、三日間ほどお世話になることにした。
福岡の郷土料理を食べながら遅くまで酒を酌み交わし、高校時代から変わらぬバカ話に花を咲かせていると、康樹の中の覚悟とやる気が、新品同様に磨かれていくようだった。
荷ほどきが終わっていない千葉のアパートに戻り、住所変更などの手続きに追われながら初出社を迎えた。
幼い頃から康樹を知っている者もおり、皆優しく家族のように迎えてくれた。が、仕事は想像していた以上に厳しく、失敗の連続。これまでとは全くの畑違いなのだから当たり前である。
父との話し方や呼び方も気になってしまう。「社長」と呼ぶべきなのだが照れもあり、呼べない。丁寧語で話すべきなのだろうが、できない。いわゆる報連相も詳細を含めてしなければいけないのだが、できない。一言二言の短い文章のみ。他の社員からはそうした点で反感を買うこともあった。
母も経理兼事務として働いていたので、ほぼ毎日顔を合わせていたが、コミュニケーション不足についてはよく注意されていた。
「したしたと話さねば」
方言なのかよく分からない表現で注意されるが、それがまた癪に障る。
「分かっているよ! いいんだよ、必要なことは伝えているんだから! 」
しなければいけないことは分かっているから、強い口調で言い返すのが精一杯だった。
その頃に、以前勤めていた会社で出会った詩織という女性と結婚したのだが、会社も住んでいるところも生まれ育った地元の隣町ということもあり、友人と呼べる者が近くにいなかった。それも影響しているのか、康樹の付き合いの範囲は会社関連のみであり、非常に狭い世界と矮小な視野しか持っていなかった。
そんな時に転機が訪れる。
ある日、「明日の午後三時、お客さんが来るから予定空けといて」と父から指示を受けた。担当する工事案件と思っていたが、当日に現れたのはスーツを着込んだ小太りの男と、対照的にひょろりと細い男の二人。康樹はこの二人から、若者が集うとある市内団体の説明と入会の誘いを聞くことになる。その団体は、父も若い頃に設立に携わっており、康樹が父の会社に来たという情報を得て、当時の団体理事長達が勧誘に来たのだ。
父や母の勧めもあり、何より仲間が欲しかった康樹は、妻の出産後に入会することにした。
人前に出ることが苦手であがり症の康樹にとって、団体で半強制的に人前に出て話さなければいけない状況が良くあることが試練ではあったが、同年代の仲間と多くの先輩達に揉まれ、精神的にも成長できている自分を実感できるようになっていた。
元々、書類を作ることや文章を書くことが得意な方であった康樹は、団体で任された案件の企画書を絶賛され、入会の翌年には理事となり、その翌年には専務理事、そして副理事長と任命され、数年後には理事長も歴任することになる。そうした活動を通して、人前で話すときの極度の緊張はいつしか適度な緊張に代わり、仲間からの信頼が自分への自信になっていった。地域でも小中学校のPTA会長を務めるなど、積極的に関わりを持ち、康樹の世界は地域へと広がりを見せていた。こうした成長が父と母への態度にも少しずつ現れ始めるのはまだ少し先になるのだが。
康樹が父の建設会社に入社して三年ほど経った頃、館山へ社員旅行に行くこととなった。父、母、康樹、他従業員が二名に取引先の大工とその奥様、タイル屋とその奥様の総勢九名。十名乗りのハイエースをレンタルし、朝八時に出発。出発当初は雨でも降りそうな曇天だったが、ここでやはり母が言う。
「大丈夫。晴れっがら」
確かに、遠くの曇天の雲の向こうに白い部分があり、太陽があるらしき様相が見られるが、浮かんでいる低い雲はスチールウールタワシのように厚く密度が高そうに見える。
出発から二時間近く走っただろうか。急いで宿に行ってももったいない。木更津港あたりに寄ってみよう、ということになり、一行は木更津南インターチェンジで降り、木更津港近くのドライブインのようなところに立ち寄った。さすがはゴールデンウィーク。近くに見える潮干狩り場は、遠目から見ても人だらけだ。ドライブインもまだ十時過ぎ頃だというのにかなりの混雑具合だったが、浜焼きレストランは開店早々だったためか空いており、酒のつまみに海鮮を楽しもうと、既にほろ酔いの一行が吸い込まれていった。蛤、栄螺などの貝類を目の前で焼いて酒で流し込む。プンと鼻を抜ける磯の香りが、鼻腔から喉に、肺に染み渡っていく。
小一時間ほどだんだんと明るくなっていく海を眺めながら浜焼きを楽しみ、レストランを出る頃にはすっかり快晴になっていた。再出発の車中、母は自慢気に笑っていた。
ここからは高速道路を遣わずに海沿いの道を行くことにした。ゆっくりと車を走らせ、お昼休憩に予定していた富津のドライブインに到着。快晴に潮風が気持ち良い。各々で好きな海鮮定食を堪能。ここには温泉も併設されており、風呂好きのタイル屋は食事後に温泉に浸かり、湯気モウモウで車内に乗り込んできた。車内はタイル屋の湯気で全ての窓が曇り、五月上旬とはいえ海沿いで肌寒さが残る中、しばらくは窓を全開にして走らなければならなかった。
二時間近くの大休憩を経て、目的地の館山の民宿に到着したのは三時半頃。夕食の宴会まで二時間以上あるので、風呂に入ったり、付近を散策したり、各々が好きな時間を過ごしていた。
食事が美味しいと評判の民宿だけあって、海の幸がふんだんに使われた食卓は、海鮮があまり得意ではない康樹でも興奮を覚えるほどだった。潮の香り、酒の香り、そして秋田の母の実家にいるような仄かな線香の香り、畳の香りの中で、酔いが回った康樹は早々に床に就いてしまった。
翌朝、昨日の大宴会が嘘のように元気なおじさん達は、初めて白飯を食べたかのような勢いでご飯をかっこんでいる。その日はいくつか観光地を巡って帰路に着く予定で、心配されていた天候も問題なしの快晴。夕方六時頃には無事地元に到着し、旅行も解散となった。
康樹は不思議な感覚を覚えていた。この二日間で旅行を共にしたのは、会社の下請や職人であり、言ってみれば父の会社が仕事を出している側だ。しかし、そうした主従の関係とでもいうのだろうか、そんなことは一切感じない。一緒に陽気に酒を飲み、飯を食い、風呂に入る。こうしてできる信頼関係や自分自身を見てもらうことで、現場が上手く回っていくのだろう。以前の会社でも似たようなことはあった。先輩も後輩も仲良く、仕事終わりに酒を飲みに行ったり、外注している担当者を交えて食事をしたりすることもあった。しかし、どこか「彼は〇〇課だから」とか「あくまで外注企業だから」といったような、跨いでは通れない垣根のようなものを感じることがあった。康樹は今いる父の会社のこの企業風土を守りたいと感じ始めていた。
仕事にも慣れ、地元でも友人と呼べる仲間や人脈ができ始め、康樹の役職が専務取締役となった頃、連休を利用して家族で旅行に行く機会があった。転職前に康樹が勤めていた会社が、箱根にいくつかホテルを経営していたこともあり、当時の同期を頼ってホテルを安く段取りしてもらうことができた。
箱根のホテルは、入社当時に研修で一度だけ訪れたことがあり、古く仰々しささえ感じるほどの無秩序なデザインが詰め込まれた部屋であったが、なぜか落ち着きのある静けさを持っていた。宿泊料金はそんなに安くはならなかったのだが、本社勤務していた頃の康樹を部署は違いながらも可愛がってくれた先輩が出向で勤務していたこともあり、部屋にはフルーツの盛り合わせが準備されていたり、食事の時にもサービスがあったりと、二人の幼稚園児と同じくらいに両親も喜んでいたようだった。
今思えば、これが母親への最初で最後の親孝行だったのかもしれない。仕事には慣れてはきていたが、父のみならず事務を担当する母ともよく衝突していた。それは会社内のみならず、家でも、だ。大半の男性が経験し通過する道ではないだろうか。親と話したり、言うことを聞いたりすることが、気恥ずかしかったり面倒くさかったり反抗してみたり、大した理由なくイラついてしまう。それも親にだけ。康樹の場合、このトンネルが長かった。高校生から現在進行中なのである。もう、甘えの一言で済まされることではないが、甘えでしかないのだ。本人も頭では理解していたが、急に態度を変えることも格好悪いという意識が邪魔をしていた。
二日目の道中も、気を遣ってか、妻の詩織は両親とよく話しているが、康樹はあまり口を開かない。旅の雰囲気が悪くならない程度に話題に触れる。
「ムスッとしてないでちゃんと喋れ」
母からも何度か言われたが、言い返すと喧嘩になりそうなので「あぁ」とか「んー」でごまかす。本当にどうしようもない二十九歳なのだ。
箱根の名所と言われるところを観光して回り、アウトレットで買い物をして帰路についたのは夕方六時を過ぎていた。連休の最終日だったこともあり、東名高速道路は大渋滞していた。御殿場インターチェンジからしばらくは順調だったが、大和トンネル付近を先頭に秦野中井インターチェンジ付近まで約三十キロの渋滞に巻き込まれてしまう。自宅付近に帰ってからどこかで夕飯を、と考えていたが、これでは食事にありつくのが二十二時過ぎになってしまう。厚木ジャンクションを過ぎたあたりで、どこかのサービスエリアで休憩しながら食事にしようということになり、厚木から近い海老名サービスエリアまで我慢して渋滞を進んだ。
海老名サービスエリアに到着したのはもうすぐ八時になろうとしている頃だった。同じことを考えている旅行者が多いのだろう。海老名サービスエリアは元々大きくて人気のあるサービスエリアだが、想像を超えて車と人で賑わっていた。運転で凝り固まった腰を伸ばすべく、両手を広げて大きく空を仰ぐと、数多の優しい光が眼を癒してくれた。これも母の晴れ女効果なのだろうか。
サービスエリアでは、名物のメロンパンは売り切れだったが、順番待ちをして入ったレストランで食事をして帰路に着く時間には、渋滞もかなり緩和されてきていた。
自宅に到着したのは十時三十分頃だった。さすがに疲れが出たのか、いつもは元気な母も眠そうにしかめ面をしながら言葉少なげに帰って行った。今回の旅行中、ほぼいつも通りの母だったのだが、ほんの一瞬、伏せがちな目をすることがあったのが気になってはいたが、歩き回る旅程だったこともあり、少し余裕を持てば良かったと思う。両親も、もう、歳なのだ。
康樹も父になり、仲間と切磋琢磨して仕事にも自信がついてきた。両親との関係に大きな変化はないが、箱根への旅行以来、すこしずつ意識を変えるように努力をしてきていた。当たり前だが、会社内では父を社長と呼び、仕事上のコミュニケーションも取れるようになってきた。もちろん、まだまだ不足しているのだが。経理の母は何と呼べば良いのか分からず、結局、「母さん」で落ち着いている。
この頃になると、社長が引き受けていたいくつかの団体の理事などを、康樹が交代して引き継ぐことが多くなってきていた。父はそれら団体の会議が無くなってできた時間を、母とよく旅行に行ったりして過ごすようにもなっていた。
康樹の子どもも息子が小学校一年生、娘が幼稚園の年中組になり、ジジババからは結構甘やかされていた。長男の侑太が詩織のおなかにいる頃、父は二世帯住宅を新築し、康樹達はそれまでのアパートら新築戸建ての二階に住まいを移すことになった。二世帯住宅と言っても、玄関は二つ、建物内から一階と二階に行き来できず、お互いの部屋に行くには外に出なくてはいけない完全分離の二世帯住宅で、プライバシー保護や什器、浴室やキッチンなどの生活設備を共用しなくて済む造りになっている。その分、建築費用は嵩むのだが、母がこの点に関しては譲らなかったと聞いたこともある。ハード面でいわゆる嫁姑問題になることが嫌だったのだろう。お陰である程度はうまくやってきていると思っている。
息子の侑太は絵を書くことが好きで、良く鼻歌を歌いながら絵を書いているのを見かけていたのだが、小学校二年生の時に学校の課題で提出した絵が、県の子ども絵画展で銅賞を獲る快挙を成し遂げた。ジジババはそれはもう大喜びで、侑太自身も絵に自信がついたようだった。快挙は続く。五年生の夏に東北三大囃子と言われる秋田県鹿角市の花輪囃子や、母の実家である鹿角市毛馬内の毛馬内盆踊りを見に行ったのだが、学校の版画の課題でその時の花輪囃子の山車を製作した。それが、なんと子ども絵画展の主催者の賞に選ばれたのだ。大賞、準大賞に続く上位の賞である。額に入れてリビングに飾り、来客に自慢げに紹介する母に加え、なぜか母方の伯父が我がことのように喜んでいたのを覚えている。もう十分のはずが、まだ続く。今度は六年生。五年生の時に行った毛馬内盆踊りを、やはり版画の課題で題材としたのだが、これがとある企業主催の千葉県大会で準大賞に輝いた時には、本当に才能があるのではないかと考えてしまった。さらにその千葉県大会から関東の大会へ出品され、ここでも上位の賞を頂いてしまった。侑太はもう得意満面である。大学生となった今では、サッカー観戦とバスケットボールばかりで、絵画の才能など良き思い出である。もしあのまま絵画を続けていたら、ひょっとしたら芸大に行っていただろうか。早いうちに自ら茨の道を通らないように方向転換したものだ。
長女の結衣は、小学生の頃は生意気という言葉以外見つからないような、天邪鬼を体現したような子だった。結衣は特筆すべき特技は無く、これからの才能開花に期待したいところだが、あえて長所を挙げれば「陽気」なことかもしれない。家にいるときは大体歌っている。おかしなことをして笑わすこともある。高校生の今は、学校では「陰キャの陽キャ」らしい。責任感は強く、時間は必ず守る生真面目さは持っている。
二人に共通して言えることは、コミュニケーション能力が高いことだ。もちろん敵もいるが、仲間や友達がかなり多い。康樹も仲間が多い方だが、良い面を受け継いでくれたと内心で喜んでいる。外面だけかもしれないが。
その日は9月の終わりごろだった。暦上は秋になって1ケ月近く経つのに、残暑厳しい日だったように覚えている。長男の侑太は小学一年生、結衣は幼稚園の年中組になっていた。
いつも通り仕事を終えて自宅に帰り、晩酌のビールを飲み始めようとすると、インターホンの呼び出し音が鳴る。この呼び出し音は一階からだ。
「はい」
ビールのお預けを食らってやや不満そうに受話器を取る。
「康樹か? ちょっと話したいことがあるから、詩織ちゃんと二人で今から来てくれ」
受話器から父の声が聞こえた。旅行かなんかの話か、会社の話か、何だろうねと話しながら階段を降り、外に出て一階の玄関を開ける。
「お疲れさん。何? 」
康樹と詩織は畳のリビングの端の方に腰かけた。父と母が向き合うように座っていたが、何となく空気が重い。何か言われても感情的にならないように気をつけよう、と康樹は喧嘩にならないよう心の準備をした。
「詩織ちゃんまでわざわざごめんね」
意外にも母が切り出した。
「私、乳癌になっちゃった」
言うが早いか、母は大粒の涙をこぼした。父もうつむき気味に押し黙っている。
予想外の告知に康樹も詩織も、どう反応したら良いのか分からず、沈黙が続いた。ものの五秒程度だったと思うが、その沈黙に耐え切れずに康樹が声を出す。
「って言っても、ステージはどうなの?初期なんでしょ? 」
涙を堪えながら、しかしはっきりとした口調で母が話し始める。
「三年くらい前だったか、胸のあたりになんかしこりみたいなものがあるな、と思っていて。でも、姉ちゃんのこともあるから怖くてなかなか病院に行けなくて。最近になって、少し大きくなっているような気がして、お父さんに相談したんだ。したら、とにかく病院さ行ってみよう、って。で、この前二人して会社休んだ日があったべ? その時に行って来たんだ。細胞取って病理検査して悪性かどうか調べてもらって、この前、結果を聞きに行って来た。したら、癌だって」
癌だって、のところでまた涙が溢れていた。母は五人兄弟の末っ子で、兄弟の中で姉は一人だけだった。その姉は、二人の幼い子供を残し、乳癌で若くして鬼籍に入っていた。
「見たくねかもしれないけど、ちゃんと見せるな」
母は上着をたくし上げ、胸のどこにしこりがあり、どこに癌がいるのかを、指を指して説明した。父がようやく口を開く。
「癌ってことが分かっただけで、今、癌のステージがいくつかとかは分からない。ただ、癌のあるところがセンチネルリンパ節とかいうところに近いこともあって、そこに転移しないように早めに治療して手術したほうが良い、ってことだったよ」
「詩織ちゃんも気をつけてな。検診ちゃんと受けて」
少し落ち着きを取り戻した母がしみじみと言うと、父がそれに続く。
「というわけで、これから抗癌剤打ったり、何日間か入院したり、俺も付き添いで会社にいないことが多くなると思うから、よろしく頼むよ。詩織ちゃんも、できればお母さんを引き継いで会社に来てもらって、経理事務をやってもらえると助かるな」
分かったとだけ答え、侑太と結衣にはまだ言わないでおくことを確認して玄関を出た。
「明日も晴れだな」
こんな夜でも空には大きな月が雲に隠れることなく、二階の自宅までの十数メートルを照らしていた。
母の治療は、翌々週から早速始まった。今ある癌細胞を抗癌剤と放射線で叩き、小さくなったところを手術で取り除く、という段取りらしい。抗癌剤も放射線治療もかなり辛いものらしく、放射線治療を受けた数日間は、頭が痛く吐き気を伴ってフラフラする、とよく話していた。抗癌剤を打った数日間も吐き気に悩まされていた。腕は二~三倍に腫れあがり、伸縮性の無い生地の長袖の衣類などは、腕が通らないほどだった。
最初のうちは短期間入院して治療をしていたが、そのうち自宅から通院しながら治療できるようになると、何となくではあるが、母も緊張が解けた表情をしていたように思う。
抗癌剤と放射線治療の副作用は相当なものの様で、数日間は母から笑顔を奪っていた。笑顔どころか、普段はほぼ聞くことのない弱気な言動も聞くようになった。例えば、終活が終わっていない、孫たちの成人した姿は見られないだろう、家事をしたことが無いお父さんが一人になると心配だ、などなど。
「そうかいそうかい。じゃぁ、良くなって面倒見てくれ」
そのたびに父は母の代わりに笑って励ますのだ。そしてその度に、昔、風邪で寝込んだ時に父が作ったみそ汁の話が出てくる。父は料理など一切したことが無いので、みそ汁の作り方が良く分かっていなかった。当時はみそを秋田から送ってきてもらっていたこともあり、市販されているだし入りのみそではなかった。それを知らない父は、みそをお湯で溶いただけのみそ汁を母に飲ませたのだ。
「あんな不味いみそ汁は初めてだ」
そう言って顰めっ面をする母は、笑い話として懐かしむように度々(どころかしょっちゅう)話していた。
治療が進んでくると、他にも副作用が出てきた。通常の味付けの料理だと、薄味に感じるらしい。薄味というよりも、無味無臭らしいのだ。そうなると、料理を作るときに困ってしまう。味見をしようとも、味が分からないから調味ができない。結果、高血圧気味の父の食事も塩分過多になりがちだった。母はこれまで作ってきた料理を思い出し、味ではなく分量で調味していた。母にとっては薄味だったので、
「味の濃いものが食べたい。多くは要らないから、すごく美味しいものを少しだけ食べたい」
とよく漏らしていたが、病人に違いは無いので、母にとって薄味のものを仕方なく食べていた。たまに焼肉店に行くと、特上カルビを一人前食べて満足顔をしていた。
こうした治療が一年近く続いただろうか。ようやく手術日が決まった。母は片方の乳房が無くなることに不安感や絶望感のようなものを感じているようだったが、「生きる」とはそういうものだ、と無理やり納得しようとしている様子だった。我々としても生きてもらわなければ困る。何に困るのかと言われればすぐには出てこないが、とにかく、母が死ぬということの準備が圧倒的に不足している。
この頃は治療を受けながら会社でまだ事務作業を続けていたため、病気の詳細は伝えていなかった従業員にも事情を話し、長めの休暇を貰うことにし、その間は詩織が事務作業を手伝うことにしていた。
父は手術前日から休みを取ったが、私は手術当日に外せない仕事が入っており、詩織と子ども二人と共に、前日の夕方に顔を出した。母は空元気なのか、おどけたような表情をたまに見せると、「まだ死んでられね」と意気込みを見せた。
手術当時は案の定晴天だった。昼前からの手術だったので、昼食後には終わっていたのだろう。夕方前に父から電話があり、無事、手術が終わったことを聞いた。仕事を終えた後に様子を見に行こうか迷ったが、大仕事を終えて疲労が溜まっているであろう、と勝手に理由を付けて病院へは行かなかった。自宅に帰る途中、真っ赤に焼けた太陽が沈んでいく様に目を奪われる。いつにも増して大きく、空全体を朱に染めていた。
「うん。大丈夫だ」
何の根拠も無く、その景色を見て呟いた。
術後、退院してくると少しの自宅休養を経て、比較的すぐに仕事に復帰した母は、相変わらず大声で笑っていた。来社する下請さんや仕事仲間も、元気を貰える、と結構長い時間話していくこともあった。仕事が捗らない、と母は愚痴をこぼしていたが、そこには嬉しさがにじみ出ていたように感じる。
詩織は週に二回ほど手伝いに来ていて、少しずつ引き継ぎをしていた。回数は減ったものの、放射線治療と抗癌剤治療は二~三ヶ月に一回程度は受けており、やはり体調を崩すことが多かったので、その間、詩織が事務を担当する必要があったからだ。
これまでの治療で頭髪が抜けてしまっているため、鬘を被っていた母だが、それでも元来の性格なのか、あまり臆することなく外に出歩いていたような気がする。買い物や食事、特に旅行は、時間を見つけては父と良く出かけていた。
温泉が好きな二人は、車で行ける距離の温泉地に出かけることが多かった。父としては、温泉の効能や身体を温めることで、何らかの効果を期待していたのかもしれない。母は、多くの人が入る大浴場は少し気が引けるようだった。治療とはいえ、片方の乳房が無く、抉れた様になっている身体を見られた時に、ぎょっとした目で見られることがあるらしいのだ。家族風呂や貸し切りができる場合は、そちらを利用して旅行を楽しんでいた。
侑太が小学校五年生、結衣が三年生の時に、姉とその娘を加えた総勢八名で両親の生まれ故郷である秋田県に旅行へ行くことになった。鹿角市の花輪という町には、東北三大囃子と言われる「花輪囃子」という祭りがあり、毎年八月下旬に開催される。それを孫たちにどうしても見せたい、と常々思っていたそうで、ようやく実現を迎えた、ということになる。
鹿角市花輪は父の生まれ故郷であり、母はその隣町の毛馬内というところが生まれ故郷である。父の故郷ということは、八年前に亡くなった父方の祖父の実家があるということで、私もかなり久しぶりの訪問だった。
花輪囃子は絢爛豪華な山車にお囃子を奏でる奏者が十五人前後乗っていて、町ごとにお囃子が違っている。山車もそれぞれ町ごとで装飾が異なり、山車同士が出会うとぶつけあっての喧嘩になることもあるらしい。江戸中期には祭りの記録が残っており、それよりも古くから開催されてきたのだろう。
夕方、十の町内がそれぞれの山車を曳き、産土神である幸稲荷大神様への挨拶の後、全山車が駅前広場へ向かって動き出す。広場に続々と山車が集まってくる。会場のボルテージも徐々に上がっていく。山車を曳く者、お囃子を奏でる者、山車の屋根の上で勇壮に指揮する者。それぞれの興奮も最高潮に達し、声、音、光が一段と大きくなる。十台が広場に整列した様子は圧巻だ。身震いと鳥肌がたつ。私たちは予め桟敷席を予約しておいたので、目の前でじっくりと、音と光の融合を堪能できた。
母も若干疲れているように見えたが、山車の光で笑顔が浮かび上がっているのが見えた。同時に瞼に反射するものも見えた気がした。隣町とは言えこれだけの祭りだ。幼い頃から何度か見てきた光景であり、亡き父や母、兄や姉と見た思い出の情景なのかもしれない。
お囃子合戦の後、山車は駅前広場から各々の町へ曳かれていく。侑太と結衣は父方本家の計らいで、急遽、町へ戻ってきた山車を曳かせてもらうことができた。父の従兄弟が営む中華屋でラーメンを啜り、外に出ると、先ほどまでの喧騒が嘘のように町は静まり返っていた。時間は九時を少し回ったところだった。祭り当日とは言え、田舎の夜はこれが当たり前であり、過疎化の進む地域の現実に私でさえ一抹の寂しさを覚えるのだから、父と母の胸に去来している感情は計り知れないだろう。
翌日は、車で一時間ほどの鉱山史跡「マインランド尾去沢」へ。何度か来たことがあったが、相変わらず車や人はまばらだったが、鉱山見学コースの中は涼しく、避暑には最高である。昼過ぎに宿近くの道の駅へ寄り、お土産などを買い込む。一度宿に戻り、夕方に再度、バスにて花輪市内へ向かった。今夜の目的はお囃子ではなく、出店や郷土グルメだ。母は長旅と動き回ったせいで疲れたのか、宿で休むと言って横になっており、父もそれに付き添う形で宿に残った。
出店のメインとなる通りはかなりの人出でごった返していた。昨日の静けさや感じた寂し気な郷愁は何だったのだろうか。ひょっとしてここにいる九〇%は観光客なのか?
母からお小遣いを貰った子ども達三人の目は、昨日の山車よりも輝いている。ひとしきり出店や屋台を楽しんだ後、私達はお目当ての焼肉屋を目指したが、満席で入れず。付近の居酒屋に避難することとなる。まぁ、美味い酒を飲むことができればどこでも良い。居酒屋にも肉メニューはある。
帰路に着く頃には、道行く人々も結構減っていた。バスの時間までかなり待つので、タクシーを利用して宿に帰ると、母がまだ起きていて坊主頭で出迎えてくれた。出かける前よりは顔色も良くなり、食事も宿のレストランで摂ったらしい。宿の食事はきりたんぽ定食だったらしく、私が作った方が美味い、と皺を寄せて口の前で手を振った。確かに、母の作るきりたんぽ鍋は美味い。きりたんぽが鹿角市発祥の郷土料理ということもあるが、各家庭で具材や出汁の取り方も微妙に違うらしい。母の作るきりたんぽ鍋は、鶏ガラをじっくり煮込んで出汁を取るしょうゆベースのきりたんぽ鍋だった。子どもの頃は、出汁を取り終わった鶏ガラをもらってしゃぶるのが大好きで、タイミングを見計らっては母の傍で鶏ガラを待っていたものだ。
三日目は隣町の母の実家がある毛馬内へ。いつもそこにいて私達を出迎えてくれた母の兄は、数か月前に旅立ち、その娘(私の従姉)が出迎えてくれた。お仏壇に手を合わせ、お墓参りに向かい、その後、大湯という温泉街へ向かう。父と母にとってどんな思い出があったかを失念してしまったが、結婚式の会場だったか、顔合わせの会場だったらしい宿は、昔ながらの面影が随所に残されており、小さいながらも老舗旅館の風格があった。宿に到着して程無く、母の二番目の兄とその子ども、孫ら総勢九名がやってきた。今日、ここに泊まることを知っていて二番目の兄とその次男夫婦、孫らが同じく宿泊することになっていた。
私達も従兄弟や甥姪に久しぶりに再会できたことが嬉しく、皆で母を囲んで記念撮影をした。
「いい遺影ができた」
と上機嫌に冗談を言う母だったが、宿のラウンジスペースで兄に励まされている時は妹に戻ったのか、大粒の涙をこぼして何度も、ありがとう、と頷いていた。
夕食は母の三番目の兄夫婦、子ども夫婦を交えて総勢一五名ほどで毛馬内の居酒屋へ。三番目の兄は母と最も年齢が近いこともあり、幼少期はいつも一緒にいたらしく、母の得意の大声が店内に響き渡っていた。
私にとっても久しぶりの秋田県への里帰り旅行は怒涛の予定満載であっという間に過ぎ、四日目に帰路に着いた。土曜日の昼前に出発して、自宅到着は夜八時を回っていた。翌日は疲労を考えて日曜日にしておいたことが英断だったとつくづく思う。父も母も翌日は疲労でゴロゴロしていた。この四日間、雨の予報が一日だけあった。が、パラパラと気にならない程度の雨で済んだことが母のお陰だったのかどうかは定かではないが、瘦せ細った母の体が雨に濡れなかったことだけでも天に感謝したい気持ちだった。




