1 プロローグ
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雲一つなかった。いや、眼を凝らせば一つくらいはあったのかもしれない。意志とは反対に湧き出る涙がレンズ代わりになって、近眼の私には良く見えたはずなのに。
「ふぅ…。」
大きく深呼吸をして冷静さを取り戻した。改めてメガネをかけて天を仰ぐ。こうした空を冬晴れというのだろうか。一二月の初旬とはいえ、日増しに着るものが一枚ずつ増えていくような時期なのに、目に飛び込んできたのは、透き通るような碧の中に浮かぶ真っ白い太陽から降り注ぐ、霧雨のような光の粒だった。
五分前、母が死んだ。
妻や子ども達がすすり泣く声を背にし、私は外へ出た。危篤状態の母に会うため、遠くからまさに今日、千葉へ向かっている従姉の真子に「もう急がなくていいよ」と電話をするためだ。落ち着け、と自分に言い聞かせてから、スマートフォンの履歴を見返し受話器のマークを押すと、思いのほか賑やかで陽気な呼び出し音が聞こえてきた。真子の母親は私の母の姉で、真子が小さい頃に病気で亡くなっている。そんな真子の母親代わりとして、遠いながらも気にかけていたのが私の母親の幸子だった。その母親のように接していた叔母がたった今、亡くなったことを知らせる直前の曲としてはあまりにも不釣り合いな気がして、さっきまでの沈痛ムードが少し緩み、落ち着きを取り戻した。
「もしもし」
若干強張ったような真子の小さい声は、あるいは新幹線のデッキに出られずに座席で応答したのかもしれない。
「真子ちゃん? 康樹だけど、ついさっき、母が亡くなりました。だから、急がないで、気を付けてゆっくり来て大丈夫だよ」
「……、そっか。間に合わなかったかぁ。わかった。ありがとう。とにかく、すぐに向かうね」
電話を切って空を見上げ、この後やらなければいけないことを頭の中でザックリと整理した。
「まずは会社の皆に電話して午後イチで集まってもらって、亡くなったことを伝えたら取引先への連絡と葬儀のお手伝いをお願いして、たぶん、お手伝いは社員だけじゃ足りないから俺の友人にもお願いしよう。所属団体にも連絡しなきゃ。それから—―」ブツブツと呟きながら、母が待つ病室に戻った。ひとしきり悲しんだ後なのか、少し空気が軽くなっているような気がしたが、父が葬儀屋への連絡のために入れ替わりで部屋を出ていったこともその要因の一つだろう。
それにしても、私もやけに冷静でいられるものだ。父が葬儀の段取りで多忙になるから、自分がやらなければいけないことが次々と浮かんでくる。以前、飼っている犬が老衰で亡くなった時も、私は涙を流さずに冷静でいた。妻には「親兄弟が亡くなっても冷静で泣かなそう」と言われたものだ。とは言え、母が亡くなる直前は、さすがに私も涙を流した。すぐに冷静さを取り戻すあたりが、事務的で私らしいな、と自分で皮肉ってみる。
母と父のことを父の妹である公美にお願いして、妻と子ども達にも家に帰るよう伝えて、私は病院を出た。
時刻は十二時三十分を指していた。何か腹に入れておいたほうがいいなと思い、事務所に帰る道すがらラーメン屋に入ってサッと麺を胃袋に流し込み、事務所に到着したのは一三時五分を少し過ぎたところだった。
父の小里秀幸は千葉県の流山市で建設業の会社を営んでおり、私も手伝って十四年が経っていた。一応、専務取締役ではあったが、仕事内容は一般従業員と何ら変わりはない。母はここで長年経理を担当してきた。元来、明るい性格で何しろ声が大きい。母が書いた「笑顔は人を呼び寄せる。笑顔は元気の源」という色紙は、今も事務室に飾られている。そんな陽気な母なので、取引先や訪問してきた作業員や営業にも評判が良かった。一番の古株でもある部長の沢渡は、母が病気でなかなか出社して来られない状況を特に心配していた。
会社に到着し二階の事務所に上がると、既にみんな揃っていた。
「お疲れ様です」
極力、普段通りの声色で皆に挨拶した。皆が立ち上がり、一斉に私の顔を見る。
「急な報告になりますが、かねてから病気療養中だった母が、先ほど亡くなりました」
冷静に、事務的に、端的に伝えると、部長の沢渡が多少の怒気を含めた声を発した。
「大丈夫だ、元気だ、って言っていたじゃない。そんないきなり――」
言葉尻は飲み込んでくれた。衰弱した姿を見られたくない、と母が思っていたことを、言葉にせずとも理解してくれていたのだろう。
「二週間ほど前から体調を崩し、病院で療養していましたが、早かったです。あれからたった二週間で亡くなりました。生前の厚いお付き合いに感謝します。ありがとうございました」
皆が頭を下げてくれた。
「早速ではありますが、やらなければいけないことがありますので、部長を筆頭に段取りをお願いします。まずは訃報の案内を作成して、取引先や各種団体に連絡してください。それと同時に、葬儀の日程はまだ決まっていませんが、通夜と告別式の二日間、皆さんにお手伝いをして頂きたいです。ですので、自分が抱えている現場の日程調整をお願いします。社長はしばらく出社できないので、何かあったら私に連絡ください。よろしくお願いいたします」
早口でそう伝えると、一番の年長者の福徳の「よし。やろう」の声掛けで、皆が一斉に動き始めた。