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水びたしの足あと

 二歳年上の姉が海で死んだ日からずっと、私の後ろを水びたしの足あとがついてくる。

 死んだというのは、言葉遊びだが、正確とはいえない。

 行方不明になって、そのまま見つかっていないのだ。

 地上での話なら、もしかするとどこかで生きていることもあり得るかもしれないが、姉が消えたのは海だ。まず間違いなく、生きてはいない。

 両親は当然、苦しみ悲しみ、一年以上は全く諦めきれない様子だった。自慢の姉、幼くも賢く美しい姉だったからだ。だけど、状況と時間、そして周囲の声が両親に現実を認めさせた。

 私はといえば、姉が死んでしばらく放っておかれたようなものだ。周囲の大人、積極的に支えてくれる親類縁者は最初のうちは、仕方ないね少し我慢してね貴方だって寂しくて辛いよね、などと親切に扱ってくれた。

 時が経ち、客観的に姉の生存が絶望視されてなお、両親が私を放置するのをみて、彼ら彼女らは、両親を諭し始める。生きてそばにいる娘さんを蔑ろにしてはいけない。この子はこんなにも頑張っているよ?と。

 両親に、ある日突然泣きながら謝られた時、既に私は姉を過去のものとしていた。幸運なことに、支えてくれる大人がたくさんいたし、だから特に両親を憎むとか、寂しくて辛かった、なんてこともなかった。


 そんなことより、後ろをついてくる水びたしの足あとが気になっていたから。


 足音ではなく、足あと。

 びしょ濡れのまま歩き回っているかのような、水びたしの足あとが、結構な頻度で私の後ろをついてくるのだ。

 最初は当然怖かった。すぐに考えたのは、死んだ姉の幽霊がやってきたと思ったからだ。

 そのびしょ濡れの足あとは、屋外屋内を問わず現れる。現実的に水が存在していて、しかもどうやら海水なのだ。

 一度、家の廊下にできた足あとを雑巾でぬぐいとって、匂いを嗅いで確かめた。たぶん、海水、だと思う。

 けれど、不思議なことに私以外の第三者が足あとに気付くことはない。

 まず、必ず私ひとりで歩いていると現れる。誰かといるときや、人混みでは現れない。

 そして、出現後に、というか、私が「足あとがあると確認した後」、第三者が現れると、びしょ濡れのその足あとは、跡形もなく消えてしまうのだ。

 初めの頃は怖かった。だから怯えて、周りの大人に訴えたが、現場に連れていっても消えてしまうので、嘘だと判断されてしまった。幸い、怒られたりバカにされたりすることはなかった。なにしろ、姉を失ったばかりの小さな女の子の言うことだ。両親には蔑ろにされ、寂しさからかまってほしくてついている嘘。冷静な大人のひとりが、精神的なダメージで医療が必要な状態かもと現実的な心配をして、医者につれていかれた。そこでも、医療者は優しく親切に対応してくれた。私を取り巻く環境が、突然海の事故で姉を失った妹という私の状況が、周囲の大人たちに落ち着いた対応をとらせた。

 そして、周囲に人がいれば、水びたしの足あとが私の後ろをついてくることはない。

 結果、私は足あとの存在を平常心で観察できるようになってしまった。信じてはくれなくとも、じっくり話を聞き、バカにしなかった周りの素晴らしい大人たちには、感謝してもしたりない。

 私は、半年ほどで、ついてくる水びたしの足あとに慣れてしまった。

 ついてきて、水びたしにする以外のことをしないからだ。放っておけば消える。

 私は、姉を失い悲嘆にくれる両親を横目に、親切な大人たちから最大限のサポートを受けて日常を取り戻した。

 水びたしの足あとがついてくる!と泣き騒いでいた少女が、自分達の助けでどんどん自立していく様は大人たちの感動を誘ったようだ。

 必死に勉強したのも、明るく振る舞っていたのも、自分のためだったのだが、子どもが立ち直ろうと前を向いてひたむきに頑張る健気な姿にみえたのだろう。周囲は、私を褒めそやした。

 そして、両親が姉の死を受け入れ、私のことをようやく見た時、私は既に成長し、周りから称賛される自慢の娘へと変わっていた。失われた姉のように優秀な娘に。

 姉がいなくなった直後は、変なことを言って精神を乱していたが、そんなのは当然だし、些末なこと。今は、現実を受け入れ、ひとりきりで立ち直った、とても良い子。

 その後の私の人生は、順風満帆といって過言ではないだろう。事故や大病のような悪いライフイベントは起きず、大学進学、そして就職。私は多少のつまずきや困難はあれど、社会的なキャリアを着実に積み重ねて、現在に至る。


 今日は取引先の製薬会社社長宅の優雅なお茶会に招かれた。天然記念物クラスの原始林が残る山脈を背負う田舎ではあるが、かなり発展していて社会問題になるような限界集落にはほど遠い活気がある町だ。「理想の素敵な田舎」とでもいえばいいのか。バス一本で、大きな川を越えれば、開発がガンガン進む地域に早変わりする。製薬会社の本社はそこにあり、町の発展の中心のひとつだ。

 大豪邸の周りは、森と田畑と、古くから続く名家のお屋敷、古くから続く普通の家、あるいは真新しい家が混在していて、田畑に関わる農家も古くから受け継いでいる者もいれば、開発が進む側の地域から通勤してきて借りた土地を耕す者までいろいろだ。新しい家に住む者は、多くが開発中の地域の会社に通勤しているらしい。

 古いものと新しいものが、行き来しながら同時に存在する不思議な場所だ。

 だからだったのかもしれない。


「いらないからって、ここにテキトーに捨てないでね」


 緑豊かな大豪邸の優雅なお茶会を終え、帰途につこうとしていた夕暮れ時。

 私はコンビニで、ちょっとした日用品を買って、直帰する予定だった。買い物を終えて、車の横で飲み慣れた缶コーヒーで、香り高いお紅茶の香りを塗り潰し、社交用の表情をほぐしていた私は、驚いて声の主を見た。

 声の主はランドセルは背負っていないが、小学校低学年くらいの男の子だった。まっすぐに私の、後ろを見ている。

 闇のように真っ黒な両目ははっきりと、私の後ろをついてくる水びたしの足あとに固定されていた。

「…きみ、みえるの?」

「おねえさんは、うまくみないフリをしてるね」

 男の子の背後は暮れゆく赤い空。顔色は逆光で暗く沈んでいるのに、なぜかその両目が圧倒的に黒い。この場で一番暗い黒に吸い込まれそうになる。

「ねえ、いらないからって、ここにテキトーに捨てないでね」

 さっきと同じ言葉を、私の後ろに投げかける。

 私は数十年、後ろをずっとついてくる水びたしの足あとを無視してきたし、誰も指摘する人はいなかった。初めての出来事に、指先が冷たくなる。

「おねえさんはずっと受取拒否してるんだしさ。自分で引き込んだんだし、欲しくて拾ったんだから、自分で処分しないとダメだよ」

 小学生にしては、口が達者というか、嗜めるような、大人びた口調で男の子は言った。

 少しの間。

「あー…。でも、うん、そんな義理ないから…うーん」

 会話、したのだろうか。男の子は小首をかしげて、腕組みした。そして、真っ黒な両目を初めて私に向けた。

「おねえさんはさ、いらないよね? お姉ちゃんのこと」

 私は缶コーヒーをぐっと握りしめた。返事より先に男の子は言う。


「だから、イルカの空気抜いたんだもんね」


 そう。

 そのとおり。

 あの日。海で、浮き輪というか、イルカのかたちの浮く遊具にそれぞれ乗って遊んでいた私と姉。一応二人とも、子供用のライフジャケットは着ていたし、同い年ぐらいの子どもから大人までキャッキャッと楽しむ遊泳オーケイのちゃんとした海水浴場。梯子のような背の高い椅子に座ったライフセーバーもいたはずだ。唯一責められるとすれば、両親のどちらも、一緒に海に入っていなかったことだろう。そうしていたら、もしかしたら、防げていたのかも。


 先にそのイタズラをしたのは姉の方だ。私のブルーのイルカの浮き輪の空気栓をあけたのだ。当然空気が抜けていく。慌てる私。それを見て笑う姉。ライフジャケットがあるからいきなり溺れ死ぬことはないはずだが、全体重を預けていたイルカが沈みはじめて、私は恐慌に陥った。同時に怒りも込み上げた。

 姉は、いわゆる影のいじめの主犯タイプだった。派手なことは周りを巧みに操ってやらせ、人のいないところで誤魔化せそうなことしか手を出さない。けっこうカワイイ顔をしていたし、それなりに頭も良かったから大人受けも良く、あのまま育てばきっと陰湿ないじめをたくさんしたんじゃないだろうか。既にしていたかも。

 一番近くにいる私は手頃なオモチャで、両親の見ていないところでつねられたり本を投げつけられたりと軽い暴力を受けていたし、友達の前でスカートをめくられたこともあった。だが、姉は絶対に両親や大人の前ではそういうことをしなかったので、知っているのは子どもたちだけだ。

 空気栓を抜いたのも、たとえ私が親に訴えても、手が当たっちゃってと誤魔化せる。周りの人は自分の遊びに夢中で見ていない。

 だから。

 私もやり返してやろう、とふと思い立ったのだ。

 私も、慌てながらも姉のピンクのイルカの空気栓を抜いた。姉は、バタバタして本気であわてふためく私を笑っていたから、イルカの空気が抜けていくことに気付いていないようだった。私はといえば、栓を抜いた後すぐに浜へと向かって足をバタバタさせ始めた。

 だから、姉を見たのはあのときが最後で、私は後ろなんか見なかった。

 私が這う這うの体で…実際はたいした距離はなかったようだが、浜へぺしゃんこになったブルーのイルカを引きずって上がっていくと、ビーチパラソルなどを設営していた両親が走りよってきた。

「お姉ちゃんは?」

 私は首を左右にふった。本当に、どうなっているのかわからなかったからだ。私は後ろを見なかったから。

 海を見た両親の顔がみるみる青ざめ、姉の名を叫びながら走り出すのを、私はぼんやり見送った。


 浜辺の騒然とした空気は覚えている。本当に、私にも真実は分からない。別に浮き輪の栓を抜かなくても、姉は海に消えたのかもしれない。成長してから、離岸流という現象を知ったが、浮き輪が無事でも、これによって姉は沖へとさらわれたのかもしれない。

 分からない。

 別に知りたくもない。

 分かるのは、姉の体が見つかっていないことだけだ。

「おねえさんはいらないし、お父さんとお母さんも……うん、おねえさんが立派に育ってるから、もういらないみたいだよ」

 男の子は、ごく普通の口調で、私の後ろの水びたしの足あとに向けて言う。

 へえ、両親は私が立派に育ったから、もう姉はいらないのかあ。

 などと、妙な感想を抱いていると、

「ごめん、おまたせー。アイスめっちゃ迷っちゃって」

 コンビニから中学生くらいの女の子が出てきた。半袖の白いシャツにリボン、ダークグレーのプリーツスカートという制服姿。長い黒髪をざっくりとした一本の三つ編みにまとめ、肩には通学かばん、手には二種類のアイス。

 姉弟だろうか? そっくりではないのだが、そこは男女や年齢差があるからで、顔立ちが与える印象に血縁を感じさせる。

「あ、ねえ、生ゴミって明日?」

「は? 生ゴミ? 生ゴミって、燃えるゴミ? 明日だよ。急になに?」

 選ばせるためかアイスを差し出す女の子に、男の子は唐突な質問をぶつける。目をぱちくりさせながらーーー夕日を映す彼女の瞳は、男の子と違って焦げ茶色だーーー答える。

「だってさ」

 男の子は、私の後ろに向かって言う。

「いらないんだよね?」

 逆光のままの男の子の両の瞳は、今この場でもっとも深い闇だった。

 私は、闇を、見返す。

 それで、男の子には伝わった。

「だって。明日捨てればいいよ」

 私の後ろをついてくる水びたしの足あとが、姉じゃないのは分かっていた。

 なんでって、足あとの形が人間のものじゃなかったからだ。

 そして今、男の子と足あとの主は、「姉」を「不要品」のごとくに扱っていて(実際、私はいらないし、両親もいらないらしいし)、明日の燃えるゴミの日に処分することが決まったらしい。

「怖い話してる?」

「うーん。まあ、そうかも?」

 女の子の方は、アイスを食べ始めていた。奇異な男の子の「ひとりごと」に全く動じていないので、日常的にあるのだろう。女の子の方は、見えも聞こえもしていないようだが、あっさり流している。

「オタクに優しい不良、みたいなジャンルあるじゃん」

「あるねえ。面白いのは面白いよね」

「あれの、ヒトじゃないバージョンでバッドエンド? みたいな? ヒロインの性格が愛されなかった感じ」

「アイス選んでたらめっちゃ怖い話展開してた。え、もう大丈夫? 明日、ゴミ捨て行って平気?」

「うん。なんにもないよ」

 男の子はもうひとつのアイスを受け取り、パッケージを開けつつ私に背を向けた。

 私はといえば、声をかけられたときから、ほとんど動けず棒立ちのまま。

「ばいばい、気をつけて帰ってね」

 日が沈み、暗闇が増す中、ふと思い立ったかのように男の子は振り向き、ニッコリ笑った。人工の明かりが次々ついて明るく照らされた彼の顔は、年相応に無邪気で無害そうな笑顔だった。男の子はすぐに女の子の隣へ並び、歩き去っていった。

 二人の姿が見えなくなって、完全に日が落ちて、コンビニの照明の下で、私は私の後ろを見た。

 水びたしの足あともまた、そこに立ち尽くしていたのだろう。けっこうな水たまりができていた。


 その日から、私の後ろを水びたしの足あとがついてくることは、ない。

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