土方の来訪、真夏の別れ
第7話
千駄ヶ谷の空は、溶けるような蒼さを湛えていた。
陽の光は容赦なく降り注ぎ、植木屋の庭の草木さえ、眩しげに葉を反らしている。
庭の隅では蝉が、途切れもなく声を張りあげていた。
その音が、静かな午後に降り続く蝉雨のように、総司の枕元を包んでいた。
縁側にさす陽射しが、床の間の欄間にまで伸びてくる。
熱を持った空気が、布団の上に重たくのしかかってくるようだった。
総司は静かに目を閉じていた。
その薄く色の抜けた睫毛に、汗が小さく光っている。
咳の発作がまたひとつ、胸の奥を焼くようにして抜けていった。
それでも彼は、耐えるようにただ、空を仰ぐような心持ちで呼吸を続けていた。
──そのとき。
庭の門が、ごくかすかにきしむ音を立てた。
「坊っちゃん、お客様ですよ」
主人の声が、どこか遠くから聞こえた気がした。
襖の向こう。
逆光の中に立っていたのは、遠く懐かしい影だった。
黒い羽織。厳しい目。
けれど、その目の奥には、どこか懐かしい光がかすかに揺れていた。
「……生きてたか」
土方歳三。
低く、まっすぐな声が、総司の胸に落ちる。
その声を聞いた瞬間、総司は喉の奥に何かを詰まらせたように、呼吸を止めた。
──会えて、嬉しかった。
けれど、それ以上に、別れの気配が濃く立ちこめていた。
土方は何も言わず、枕元に膝をつく。
総司は力ない手を伸ばし、その腕に触れた。
指先に伝わる硬さと体温。
それが、まだ彼が「ここにいる」という確かな証だった。
「……土方さん」
掠れた声は、あまりに細く、けれど真っ直ぐだった。
土方は頷き、ほんの少し、目を細めた。
二人の間を流れる沈黙は、寂しさではなく、静かな時間だった。
目に見えぬものを交わし合うように、言葉の代わりに思いを運んでいた。
外では、蝉の声がさらに熱を帯びる。
空気が少し、震えたようだった。
やがて、総司は胸に残していた問いをそっと零す。
「……先生は。近藤先生は……お元気で……」
土方の目が、一瞬だけ揺れた。
その揺れはすぐに隠され、代わりに穏やかな声が落ちる。
「戦の最中だ。だが、……まだ持ちこたえている」
たったそれだけの言葉に、総司はゆっくりと瞳を伏せた。
その瞼の裏に、あたたかな光が滲んでいく。
──信じたい。
そう思った。
足元では、黒猫のクロが静かに体を丸めていた。
日陰に潜り込むように、総司の足先にそっと寄り添っている。
土方がふとその存在に気づいた。
クロはじっと、土方を見つめていた。
その瞳は深く、漆黒の湖のようだった。
「……珍しい猫だな。お前によく懐いてる」
土方の声に、クロが「にゃあ」と小さく鳴く。
その響きは、どこか人の声にも似ていた。
土方は、その鳴き声に、心のどこかを掴まれる。
──そういえば、昔、こんな目をしたやつがいた。
よく笑い、よく語り、
そして、誰よりも先に、逝ってしまった者。
クロの瞳の奥に、その面影を見た気がした。
なぜだろう。
こんなにも静かなのに、胸が締めつけられる。
土方は何も言わずに、クロの頭を撫でた。
その毛並みは柔らかく、命のぬくもりが確かにあった。
クロは目を細めて、喉を鳴らした。
まるで、それでいい、と言っているかのように。
土方は、クロを見つめ、そっと頷いた。
それは、言葉のない約束だった。
総司の方へと目を戻す。
熱に浮かされながら、それでも微笑みを浮かべようとしている顔があった。
夏の光が、その頬を淡く照らしていた。
蝉の声がまた、空に溶けていく。
それが、真夏の午後に訪れた、静かな別れだった。