クロの秘密、その片鱗
第6話
風が、ひときわ強く吹いた夜だった。
総司の体は深く沈み、咳はひどく、呼吸のひとつひとつが小さな苦痛となって胸を締めつけていた。
熱に浮かされた意識は、夢と現の境目を溶かし、遠い記憶をやわらかく呼び起こす。
あの頃――
新選組の隊士たちとともに、剣を握り、駆け抜けた日々。
稽古の汗、任務の緊張、仲間の笑い声。
近藤先生の大きな背中、土方さんの厳しくも温かなまなざし。
宴の席で交わされた、何でもない言葉のひとつひとつが、今は宝石のように胸に浮かんだ。
そして、夢の中。
その懐かしい光景の中に、いつの間にかクロの姿があった。
総司が手入れする刀の横で、丸くなっているクロ。
隊士たちの間をすり抜け、まるでその場に当然のように存在しているクロ。
近藤先生の膝の上で、安らかな寝息を立てている――
それは夢の中の幻影だったのか。
それとも、ずっと昔の、本当の記憶の中に、彼はいたのだろうか。
「……クロ、お前は……」
掠れた声が唇からこぼれ落ちた。
枕元で静かに寄り添うクロが、そっと顔を近づけてくる。
その柔らかな体温が、熱に焼かれた総司の肌に触れ、少しだけ、息がしやすくなる。
クロの瞳が、まっすぐに総司を見つめていた。
その黒い深淵の奥に、総司は――懐かしい面影を見た気がした。
それは、総司の心の奥にずっと閉じ込めていた、ある若き剣士の姿だった。
幼い頃から剣を交わし、笑い合い、時に競い合いながら成長してきた友。
誰よりも誠実で、誰よりも優しい眼差しを持っていた青年。
そして――ある日、総司の目の前から、永遠に消えてしまった、大切な人。
> 「お前だけは、生きてくれ。
お前だけは、幸せになってくれ」
そう言って笑ったその横顔が、クロの瞳の奥に、確かに重なった。
――クロ、お前は…
過去から、いまへ。
命の境を越えて、自分のもとへ来てくれたのか。
ただそれだけのことが、総司の胸を静かに震わせた。
「お前は、俺に……生きろと、そう言ってくれてるのか」
そう問うた声に、クロは小さく「にゃあ」と鳴いた。
そして、そっと前足を総司の胸元に置く。
やさしく、何も強い力など持たないその仕草が、不思議と総司の心を支えてくれた。
言葉はない。けれど、伝わる。
その目が、仕草が、温もりが――
彼が、誰であっても。何者であっても。
いま、この時間を共にしてくれている事実だけが、かけがえのない贈り物だった。
季節は、静かに夏へと傾いていく。
セミの声が、まだ遠くに小さく響いている。
総司の体は少しずつ、まるで夕暮れのように色褪せていく。
けれどその心は、クロという温かな存在に包まれ、やわらかく満たされていた。
やがて来るものを、恐れてはいない。
なぜなら、その隣に、彼がいるから。
クロがなぜ戻ってきたのか。
そのすべての答えは、まだ霧の中にある。
けれど総司は、ただ感じていた。
自分が、生きてきたことの証として、クロはいてくれる。
たとえこの先、言葉も交わせず、形も消えゆくとしても――
この絆だけは、ずっと残り続ける。
そして、あの黒い瞳の奥に宿る小さな光が、
やがて真実を語る日が来ることも、彼はどこかで分かっていた。