クロのまなざし
第2話
クロが植木屋に住み着いてからというもの、総司の暮らしは、まるで墨絵に淡い色が差すように、少しずつ変わりはじめた。
いつも傍にいるクロは、まるで総司の影のようだった。
朝、庭の片隅で弱った草花に水をやっていると、幹の陰からクロがそっと顔を覗かせる。
やがて足元にちょこんと座り、静かにその様子を見つめるその姿は、まるで庭仕事の相棒のようであった。
剪定ばさみを手に取れば、銀色の刃先をじっと見つめ、落ちた枝を小さな前足でちょいちょいと転がして遊ぶ。
どこか律儀で、まるでこの庭を守る番人のようでもあった。
縁側で書物を広げると、クロは音もなく膝の上に乗ってくる。
小さな身体がじんわりと温もりを伝え、総司の胸に広がる空虚をそっと埋めていく。
ページをめくる指先を見上げながら、クロはやがてゴロゴロと喉を鳴らし、穏やかな寝息を立てて眠りはじめる。
その呼吸の音が、張り詰めた総司の心の糸を少しずつほぐしていった。
クロは、総司の表情の翳りや、わずかな咳に、誰よりも敏感だった。
遠い目をしていると、心配そうに顔を覗き込み、そっと頬に頭を擦り寄せてくる。
掌を舐める仕草は、ただ甘えているというよりも、何かを感じ取り、寄り添おうとする意志すら宿しているようだった。
その深い瞳の奥には、ふとした瞬間、総司の心の奥底に眠る、誰かの面影が揺らめくことがあった。
それは、遠い過去に共に時を過ごした、懐かしく、そして二度と戻らない誰かの記憶の残光のようであった。
---
「お前は、俺の何をそんなに見ているんだ、クロ」
縁側でそう呟いた総司に、クロは「にゃあ」と短く鳴いて答えた。
そして、伸ばされた指に頭をぐいと擦りつける。
まるで何かを伝えようとするかのように。
「お前……ほんとうに猫か?」
微笑みながら総司がそう言うと、クロは静かに総司の顔を見つめ、ゆっくりと瞬きをした。
その瞬間、言葉にならない何かが、確かに二人のあいだに生まれた。
---
クロが来てから、総司の表情はやわらかくなっていた。
口元に微笑みが浮かぶことが増え、声にもどこか光が差すような明るさが宿るようになった。
食事もすすむようになり、庭仕事にもわずかに意欲が戻ってきた。
植木屋の老夫婦もその変化に気づいていた。
「クロが来てから、坊っちゃんの顔色がずいぶん良くなったねえ」
「ああ、あの猫は、坊っちゃんの守り猫だよ」
縁側から聞こえるその声は、庭の静けさに溶け込むように優しく響いた。
クロはいつしか、総司にとっても、老夫婦にとっても、かけがえのない家族となっていた。
---
だが、穏やかな日々の裏で、総司の身体は静かに、しかし確実に病に蝕まれていた。
その変化を、クロは誰よりも早く感じ取っていた。
夜、総司が横になり、苦しげに息をすると、クロは枕元から離れなかった。
小さな体をぴたりと寄せ、じっと動かずに寄り添い続けた。
その温もりだけが、総司を深い眠りへと導く、唯一の慰めであった。
クロは、ただの猫ではなかった。
彼の存在は、総司が「生きる」ということを、もう一度見つめなおすための、小さな光だった。
孤独を抱えたまま朽ちていくのではなく、今ある時を大切に過ごそうとする心が、クロの傍らで芽生えていったのだ。
クロの瞳に映る自分を見つめながら、総司は静かに、しかし確かに、生きていた。