千駄ヶ谷の庭に、影ひとつ
第1話
千駄ヶ谷の植木屋の庭は、いつ訪れてもどこか懐かしく、心がすっと静かになる場所だった。
都会のざわめきが遠くにかすみ、木々の葉擦れや、小鳥の声だけが、ふわりと耳に届いてくる。
まるで、時間がゆっくりと溶けていくような、不思議な静けさがあった。
沖田総司は、縁側に腰を下ろし、初夏の光をぼんやりと浴びていた。
陽だまりは柔らかく、肌に触れる風は、まるで誰かの手のひらのようにやさしかった。
静かな咳が、喉の奥から時折こぼれる。
彼の身体は、結核という名の病に、静かに、確実に蝕まれていた。
それでも、総司の顔には不思議なほど穏やかな笑みが浮かんでいた。
かつて剣を握り、激動の時代を駆け抜けていた青年が、今は草花を愛で、
小鳥の声に耳を傾ける日々を過ごしている――その対比はあまりにも静かで、そして少し、切なかった。
この庭の主である老夫婦は、七十を越えてなお腰の曲がらぬ元気者で、
総司のことをまるで実の息子のように大事に思ってくれていた。
温かい味噌汁、手間暇かけた煮物、欠かさず運ばれる薬。
そんな日々の小さなやさしさに、総司は何度となく、こみ上げるものを感じていた。
けれど、どこか、ぽっかりと心の奥に影があるのも事実だった。
遠く離れた戦地の仲間たちのこと。
もう二度と会えぬかもしれない友のこと。
それは、植木鉢の底にこびりついた雨の名残のように、ふとした拍子に疼いた。
――その日も、いつものように縁側で目を閉じていた午後のことだった。
ふいに、足元に小さなあたたかさが触れた。
ゆっくりと目を開けると、そこにいたのは一匹の黒猫だった。
陽に透けるような艶やかな毛並み。
ちょこんと座り、こちらをじっと見上げる瞳は、どこか人間じみた知恵の色を帯びている。
「……おや、お客さんかい?」
総司は声を出さずに微笑んで、そっと手を差し出してみた。
猫は少しだけ戸惑うように鼻をひくつかせ、それから、おそるおそる掌に舌を触れた。
その舌の温かさに、総司の胸のどこかが、ほろりとほどけた。
「ふふ、驚かないんだな……」
そう呟くと、猫は「にゃあ」と小さく鳴いて、するりと膝の上に飛び乗った。
くるりと丸まり、すぐに目を閉じる。
その様子があまりに自然で、まるで「ここは自分の居場所」とでも言わんばかりだった。
総司はしばらくの間、猫のぬくもりを感じながら、じっと動かなかった。
ほんの少し前まで、冷たく感じていた胸の奥が、静かに温まっていくようだった。
「そうだな……名前、いるよな。今日から、お前は『クロ』だ」
クロはその名前が気に入ったのか、ふにゃ、と甘えた声をもらした。
それ以来、クロはいつも総司のそばにいた。
総司が庭を歩けば、後ろをとことこついてくる。
縁側でひなたぼっこをすれば、膝の上を当然のように占領する。
夜、咳で目覚めたときも、いつの間にか脇にいて、じっと寄り添っている。
言葉こそ交わせないけれど、クロの存在は不思議と総司の心を和らげてくれた。
ただそこにいてくれるだけで、ほんの少し、世界が優しくなった気がした。
「……まったく、お前は不思議なやつだよ」
そう呟いたとき、クロは眠ったまま、ぴくりと耳を動かした。
その姿があまりに愛おしくて、総司はふと、笑みをこぼす。
庭にそよぐ風が、木々を優しくゆらし、葉と葉のあいだから淡い光がこぼれていた。
総司とクロの新しい日々が、静かに、けれど確かに始まっていた。
大好きな沖田さんの命日近くなので筆をとりました。こんな感じだったらいいなぁを詰め込んで……。
目に止まられた方の心に何が残ったら幸いです。