第9話 元聖女のギャンブル
「悪いことは言わん。早めに帰った方がいいぞ」
入店した三人の鳥人を見ていたナトリの近くに寄りそう言った老いた兎人の男性は、面倒そうに顔をしかめた。
「あいつらは最近仕事だかなんだかでこの街に出入りしてる奴らだ。だいたいこのくらいの時間にここを訪れては気弱そうな奴を狙ってギャンブルを吹っ掛けたり、酒飲んでは店員に横柄な態度取ったりしてんだよ。……不幸にも、あんたたちが使ってる席はいつもあいつらが座ってたとこなんだ。変に絡まれたくなきゃすぐ帰んな」
「……ご忠告ありがとうございます。そうします」
兎人の男性は満足そうに頷くと会計場所に向かう。助言をしてくれた彼も巻き込まれたくないのだろう、もう帰るようだ。ここは彼の言うことを聞いた方がいい。
幸いガントによるジャーマンスープレックスはもう解かれており、アントたちも一段落ついた様子だ。先ほど聞いたことを皆にも共有して早めに退散しよう。ナトリがそう思った矢先のことだった。
「――え⁉ なにあの尻尾⁉ あんな鱗で覆われてるの見たことねぇ~!」
「うわほんとだ。なんか虫の遺伝子とか持ってんじゃね?」
「なんかってなんだよ、蛇とかか?」
「お前蛇しか知らねぇのかよ! 馬っ鹿だなぁ!」
彼らは大股でこちらに近づいてくる。しかも話題と視線の先はズゥシャンだ。
「へぇ~、鱗っつっても海洋人とかのとは違ぇんだな! あいつらのは下手すりゃ手切れるもん!」
「てか服装的に医者? まだガキなのにいい職ついてんな~」
「親の七光り的なやつじゃね?」
彼らの目は、ズゥシャンのことを値踏みするように頭からつま先まで行ったり来たりする。話していることだってとても失礼だ。ナトリの顔が嫌悪感で染まる。
それに気づいた様子もなく、彼らはズゥシャンを取り巻いた。その際にズゥシャンの隣にいたナトリは押しのけられてしまう。少しよろついた。
「なぁなぁ、お前種族は? やっぱ蛇? 尻尾触らせてくんね?」
「お断りします。それよりも、人を押しのける行為は思いもよらない事故に繋がる危険がありますのでやめてください」
子供のように嫌悪感が顔に出てしまったナトリとは正反対にズゥシャンはいつも通りだった。このようなことにも慣れているのか、苛立ちなど一切感じない表情をしている。
「ぶはッ! 超真面目ちゃんじゃん! 今時こんな奴いる? 絶滅危惧種だろ!」
「あ~、お利口そうで腹立つなぁ」
「お前金持ちと頭いい奴嫌いだもんな」
三者三様。男性たちは好き勝手話している。共通しているのは失礼である、ということくらいだ。
真面目だと言って吹き出した男は、何がそんなに面白いのか腹を抱えながらズゥシャンの肩を叩く。
「じゃああれだ! 迷惑料? ってやつ? この席さぁ、俺らの特等席なんだわ。今日はお前らが使ってんだろ? その迷惑料ってことで尻尾触らせてくれよ、お願い!」
「……もう一度言わないとわかりませんか? それに、迷惑料なら今僕が欲しいくらいですが」
その返答を聞いて、ズゥシャンを毛嫌いしている男が会話に混ざる。
「お前ほんとに腹立つな。どうせ親のおかげで医者やってけてんだろ? でかい顔すんなよ。それともなんだ、女の前だからイキってんのか? そこのドブネズミみたいな髪色の女、服装的にお前の助手かなんかだろ?」
「程度の低い挑発をするのは構いませんが、彼女を巻き込むのは控えてください。不愉快です」
ズゥシャンが眉根を寄せたその瞬間、尾を触りたい男性は気づかれないよう彼の背後に回り込み、太く重そうなその付け根に手を伸ばした。
「――隙ありッ‼」
「ひぅッ⁉」
もはや悲鳴に近いズゥシャンの声は店全体に響き渡った。ナトリも含め、皆息すら止まったように静まり返っている。アントが「詐欺師」と叫んで入店してから店内は聞き耳を立てた客ばかりで静かだったが、今はそれ以上だ。
こういう空気感の時にいいことが起きた試しはない。できるだけ早く店から出なくては。
そう思ったナトリはズゥシャンの方へ目を向ける。しかし、思わぬ光景を目にして身体が停止してしまう。耳まで真っ赤に染めて俯く可哀そうな青年の姿が視界に飛び込んできたからだ。羞恥に堪えるよう口は引き結ばれ、手は固く握り込まれている。
それを見たナトリの脳は「面倒ごとを避けるために店を出る」という選択肢を瞬時に削除した。ズゥシャンを背に隠すようにして男性たちの前に立つ。実際彼の方が背が高いので全く隠れていなかったが、今はただズゥシャンに向く視線を遮りたい一心だったのでそんなことにすら気づいていなかった。
「謝罪を要求します」
「はぁ?」
睨みつけそう言い放ったナトリに、男は心底分からなそうに片方の眉を上げる。
「急に出てきたと思ったらなんだよ。なんで俺が謝罪しなきゃいけないわけ?」
「彼が断わっていたにも関わらず、あなたはそれを無視して尻尾に触れました。つまりは迷惑料です、謝罪を求めます」
「……なんで俺が言うこと聞かなきゃなんねぇんだよ。なんでも自分の言う通りになるとでも思ってる? はッ、聖女様気取りですかぁ?」
「……言い分はわかりました。ではこうしましょう」
この言葉にズゥシャンは聞き覚えがあった。コイントスをした時の記憶が蘇る。なんとなくだが、何をしようとしているのか分かってしまった。
やめろという意味を込めてナトリの手を引こうとする。しかし、彼の手は空を掴んだだけだった。
「――賭けをしませんか? あなたが勝ったらここで飲み食いした代金は全部わたしが出します。その代わり、わたしが勝ったら彼への謝罪に加えてこの街での迷惑行為を控えてもらいます。どうです? たかが聖女気取りの女が相手、悪い話じゃないでしょう?」
ズゥシャンが引こうとした右手を胸元に当て、ナトリは挑発的な笑みを浮かべる。その顔には自分が負けるなど一切思っていないような自信が窺えた。
それが鳥人の男性の癇に障る。
いいだろう、受けてやる。男性は首を縦に振った。
酔った頭はろくに回っていなかったが、ただ目の前にいる女に勝負を吹っ掛けたことを後悔させたい。ただそれだけだった。
◇◇◇◇◇
ナトリは目の前のテーブルに広げられたカードを一枚手に取る。触り心地を確認し、裏返して再度確認。引っかかりや透け感もない、イカサマは無理だろう。まぁ店から借りたものだし、この一瞬で細工する方が難しいか。
それに、と周りに目を向ける。店にいる客たちが野次馬としてナトリたちを取り囲んでいた。これだけの人数がいて堂々とイカサマできるような精神は持ち合わせていないだろう。
ナトリの一番近くにはズゥシャンが不安と不満が入り混じった顔をして立っている。きっと勝手をしたから怒っているのだ。
申し訳ない気持ちはたしかにある。だが、今は目先のゲームが優先だ。
「ゲーム内容はバカラでいいだろ? プレイヤーとバンカーどっちが勝つか賭けるんじゃなくて、自分でやることになるけどな」
「いいですよ。カードの確認も終わりましたし、早く始めましょう」
ナトリが口角を上げると、不愉快そうに男性はカードをシャッフルし始める。
……バカラ、か。ちょっと久しぶりかも。
聞き慣れたシャッフル音を背景にルールを思い出す。
バカラとは、プレイヤーとバンカーという二種類の役職が存在し、異なる四つのマークごとに一から十三まであるカードを使用する。そしてプレイヤーとバンカーの二人に配られる二枚のカードの合計が九に近い方へ賭けた者が勝利だ。つまり、プレイヤーとバンカー、加えてどちらかに賭ける第三者が存在しなければできない。簡単に言えばそういうゲームである。
しかし今回は役を取っ払い、ナトリと鳥人の男性どちらかが九に近い数を出した方が勝利を得るという形だ。名はバカラとなっているが、通常よりも少ない人数で行われる簡略化されたバカラ風ゲームというところだろう。
「よし、シャッフルしたぞ。今回はディーラーもいねぇからな、自分で二枚選びな」
「レディファーストですか? 思ってたよりも紳士なんですね」
束になった合計五十二枚のカードがテーブルに置かれる。どれを選ぼうか、と右手を彷徨わせて、
「――そうだ。レディファーストのお礼にいいこと教えてあげます」
そう言ってナトリは金の瞳を細めた。
男性も見ている客たちも、急に何だと面食らう。そんなこと我関せずの姿勢でナトリは続けた。
「あなた、シャッフル苦手でしょ? 混ざりきってないですよ、これ」
「……は?」
「元々このカード、一から十三まできれいに並んで入ってましたよね? お店から借りた時に確認しました。それをあなたが雑に混ぜたから、どこかしら連番になってるんじゃないかな。例えば――」
束の下部分を指さす。
「――こことか?」
男性の顔が強張る。本当にそうなのか、と疑っているのだろう。このような顔の人たちを何人も見てきたことがある。
「連番だってわかったら引く場所も目星がつけやすいですね。……うん、それじゃあわたしはここと、五枚下のここから引きます」
迷うことなく、指さした下部分から二枚引き抜いた。それを自分の近くに置き、お次どうぞ、と手のひらで示す。
「……あ、あぁ」
男性はそう言って右手をカードの束に近づけたはいいが、右へ左へ上へ下へ、面白いくらいに迷っている。彼がちらり、とナトリの方へ目を向けると、彼女は笑顔を浮かべていた。
その顔を見ているとなぜか焦燥感に駆られ、さっさと選んでしまおうと束の上部分に触れる。
「――あれ、いいんです?」
その声は大きいものでなかったのに、やけに響いたように感じた。
「さっきいいこと教えたじゃないですか。ほら、この辺りきっと連番ですよ? いいんですか?」
ナトリは止まってしまった男性の指に触れる。びくり、と肩が跳ねた。
「指、細いですね。きれいですが、これでは五十枚以上もあるカードをシャッフルするのは大変でしょう? 指の隙間からこぼれてしまったり、上手く差し込めなかったりしません?」
嫌でも己の指をなぞる人間の手を目で追ってしまう。女性にしてはタコまみれでバランスの悪い指だ。手のひらだって固い。まるで何年も薬研を使い続けてきたような、そんな手だ。
「ごめんなさい、関係ない話でしたね。ゆっくり選んでください」
ぱっと手を離したナトリはそう言ってまた笑う。
それを見た鳥人の男性は己の脈が速くなるのを感じた。
貼り付けたような不自然なものじゃない、限りなく自然体で賭け事なんてしていないようなその表情、優雅な仕草、コインのような金の瞳、薄い唇から紡がれる不安をかき立てる言葉。
――この女の全てが、己の決断を揺さぶってくる。
……嘘だ、ハッタリに決まっている。今までだってバカラをやっていたが、連番になっていたことなんて一度もなかったはずだ。いや、同じ場所から二枚取っていたか? 駄目だ、覚えていない。目の前の女は「連番になってるかも」と言ったら迷う素振りすら見せずに抜き取った。まさか本当に? 連番になっていることがわかっていたからわざわざ「五枚下のここから」なんて宣言したのか? なら引いた数は二と七? そんなことが可能なのか? いやそもそもどうして自分が不利になるようなことを言うんだ、意味が分からない。
……駄目だ、このままでは永遠にカードを選べない。そう直感した鳥人の男性は思考を切り捨てるように頭を振った。
別に負けたって死ぬわけじゃない。なに焦ってるんだ、たかがお遊びの賭け事だろう?
男性はカードを二枚抜き取る。束の下部分に近い場所を選んだことは、きっと無意識だった。
「……よし、引いたぞ」
「お疲れ様です。カード二枚引くだけなのにずいぶん重労働そうでしたね」
「……さっさとオープンだ」
軽口を叩く余裕が男性にはなかった。バカラは通常カードオープン前が一番緊張する。なのに、なぜこの場面でこんな風に笑えるのか。
二人の指がカードの端をつまむ。
「――では、オープン!」
声高に言い放ったナトリの言葉を合図に、二人は同時にカードをめくった。
――鳥人の男性は二と四を引き「六」。ナトリは一と八を引き「九」。
最高の手札によって、この勝負はナトリの勝利で幕を下ろした。
それを理解した途端、取り囲んでいた客が湧き立つ。そんな中、ズゥシャンはバカラのルールを知らなかったためにどちらが勝ったのか分からずにいた。ナトリを見ると、タイミングよく彼女もズゥシャンの方に顔を向ける。そしてピースサインを送ってきたので、無事に勝てたのだと胸を撫でおろした。だがこの件は、安堵して「はい終わり」となっていい問題ではない。
ズゥシャンは眉根を寄せてナトリに問いかける。
「……絶対に危険なことはしない、と約束したはずでは?」
「あ、あはは……。でもほら! 無事勝てましたし! それに先生もわたしのこと守ろうとしてくれたじゃないですか! 勘違いでしたけども!」
勘違いという言葉で、糞を踏んだ時の話だと分かる。失敗談を持ち出されて恥ずかしい気持ちもあったが、この賭け事は本当に自分のためのものだったのかと改めて実感した。
彼女はたしかに怒っていた、とズゥシャンは思う。まだ短い期間だが一日中一緒にいるのだ。あんな挑発的なことを言う人でないことくらい分かっている。
ズゥシャンは一瞬何かを言おうとして飲み込んだ。
「………………ありがとうございます、僕のために怒ってくださって」
きっとよくない行為だったと今すぐにでも説教したいはずだ。それを飲み込んで、彼はまずお礼を言った。本当に素直でいい子だ。思わず笑みがこぼれる。ナトリのその笑みは賭け事をしていた時とは違う、眉を下げるような笑い方だった。
「――で、謝罪はいつまで待てばいいですか?」
ナトリは男性の方へ振り返る。その顔には苛立ちが滲んでいた。
呆然としていた鳥人の男性は、彼女の言葉にはっとするとすぐに席を立ち入口から外へと逃げて行ってしまう。もう二人もばつが悪そうな顔をしながら後を追った。
「あッ‼ この野郎、逃げんな‼」
「ナトリさん、もういいです」
「でも賭けに負けたのに約束守らないとかギャンブラーにあるまじき行為ですよ!」
「落ち着いてください、大丈夫ですから。それよりも……」
ズゥシャンは逃げて行った者たちなど目もくれず、カードの束をまじまじと眺める。
「これは、本当に連番になっていたのですか? 僕の目にはしっかりシャッフルできたように見えましたが……」
「あぁ、あれハッタリですよ?」
「え、ハッタリ?」
「はい、ハッタリ」
何でもないことのようにナトリは答える。
「多分連番じゃないと思います。あの人に言ったシャッフルが苦手っていうのも嘘ですからね、わたしが言ったことほぼ全部嘘です」
「……な、なぜそのような嘘を?」
「え? なぜって言われると悩みますけど……強いて言えば迷わせるためでしょうか」
顎に手を当て考え込んでいるような姿勢で続ける。
「バカラって運要素がほとんどなんですよ。だから戦略も何もないんですけど、比較的ギャンブルは平常心を崩した方が負けます。なので連番になってるとかハッタリかましてそれらしい理由を言えば、勝つ確率が上がるかな~と思いまして……」
そこまで言って口を噤む。
……待って。わたしもしかして今最低なこと言ったんじゃない? 相手を崩して勝率を上げるとか真面目な先生は嫌うのでは? どうしよう、解雇される⁉
おそるおそるズゥシャンの方へ視線を移す。彼は不快感を表すわけでもなく、ただただぽかんとしていた。まるで言語が理解できていない異国人のようだ。
そ、それはどういう感情の顔なの⁉ 信じられないわこの女って顔⁉
内心頭を抱えるナトリなど露知らず。二人の会話に聞き耳を立てていた客たちの中には、感嘆を漏らす者もいればさらに盛り上がる者もいる。
様々な形で湧き立つ中、アントの心配から始まったこの件は幕を閉じたのだった。