第7話 頑固者たちのコイントス
ズゥシャンの診療所に着いたころには、しっかりと日が落ちていた。
一つも埋まっていない患者用ベッドにアントを無理やり寝かせ、ナトリたちは診察室の隣にあるリビングに移動する。重たい空気の中、先に言葉を発したのはズゥシャンだった。
「……お疲れ様でした、ナトリさん」
「先生もお疲れ様です……」
椅子に腰かけた二人はぐったりとしている。身体的な疲れというより、精神面でのダメージが大きかった。
ズゥシャンは眉根を寄せて額に手を当てる。
「色々言いたいこともあると思いますが、まずは明日の動きについて話しましょう。……僕はチョリスという男性に絞って調査を続けたいと思っています。幸い、明日は休診日ですので朝から活動できますし、街の方々に彼がどんな行動をしているのか聞いてみようかと」
「わかりました、わたしも――」
「――いえ、ナトリさんはここにいてください」
「は――え?」
口を開けたまま固まってしまう。もしかして、何かミスを犯してしまっただろうか。
そんなナトリを見たズゥシャンは大きく首を振った。
「ナトリさんが何かしたとかではないです! そこはご安心ください! ただ……」
言いにくそうに言葉を切った彼はナトリから目を逸らす。
「……従業員の休みを返上させて業務外のことを手伝わせる雇用主って、最悪じゃないですか」
「…………え、理由それだけですか?」
「……それだけ?」
思わず口にしてしまった言葉に、ズゥシャンはぴくりと反応する。
「全然『それだけ』という内容ではないです。今日だって貴方は僕の立場を思って同行してくれたのだと思いますが、本当は断ってもよかったんですからね。……何はともあれ、明日は休んでいただきます」
「……失礼ながら、承諾できません。ガントさんの状況を知ってしまったからには何もせずにいられませんし、街の人に聞いて回るなら人手は多い方がいいでしょう?」
「ですが、それでは貴方の休む時間がなくなります。医療に関わる身としてそれは……」
ズゥシャンはナトリのことを思って言ってくれている。それは分かっているつもりだ。しかし休む時間がなくなるのは彼も同じこと。ならば少しでも人手を増やして、お互い休む時間を捻出した方がいいのではないか。……それに、今さら仲間外れにされるのは寂しい。
「先生の言い分はわかりました。……ではこうしましょう」
そう言うと、ナトリは医療ウェアのポケットに右手を突っ込んだ。出した手には一枚のコインが握られている。
「コイントスで決めませんか? 裏表を当てた方が勝ち、一回勝負です。先生が勝ったら、わたしはおとなしく部屋にいます。わたしが勝ったら、何を言われようとついて行きます。……どうです? この勝負、乗りますか?」
わざと挑発的に笑ってみせる。さぁ、どう出るか。
ナトリの提案にぽかんとしたズゥシャンだったが、すぐに口を固く引き結び、朝焼け色の瞳でまっすぐ見つめ返してくる。こんな時に気づくことではないが、彼の瞳孔が縦長であることに初めて気づいた。
「……いいでしょう、受けて立ちます!」
◇◇◇◇◇
「あぁあのプリン頭の人ね、最近街に来たらしいよ。あ、最近って言っても聖女ちゃんより前だよ? たしかアントさんと同じで行商人じゃなかったっけ。やらなきゃいけない仕事が片付くまではルツェルンにとどまるって聞いたよ」
「……なるほど、教えてくださってありがとうございます! あ、あと『元』です。『元聖女』」
「あれ? そうだっけ? これは悪いことしたね、気を付けるよ」
「気にしないでください、それじゃあわたしはこれで!」
そう言って情報をくれた精肉店の店主に頭を下げる。そしてすぐその場を後にし、ズゥシャンが待っている路地裏に向かった。
「お待たせしました。聞いた話だとチョリスさんは行商人のようで……って先生、尻尾が……」
ぺちーんッ! ぺちーんッ! とズゥシャンの尾は不満そうに地面を叩いている。通常のトカゲがここまで感情を表す生き物なのかは知らないが、彼のこの行動は可愛いと思ってしまう。
「なぜ皆さん『元聖女』と呼びたがるのでしょう。ナトリさんだと紹介したはずですが」
「多分、ルマさんも言ってたように前の職が強すぎるのかと。それに皆さんあだ名感覚で呼んでくれるので、わたしとしてはありがたいんですよ。正直もっと後ろ指さされる覚悟してましたから」
ナトリの言葉を聞いて、ズゥシャンの尾の動きが止まる。本心を探るような目を向けて来るが、嘘偽りなくこれがナトリの本心だった。
自分の前歴のせいでズゥシャンにも被害が及ぶよりずっといい。それにナトリには確信があった。ルツェルンに住む全員がどれだけ彼女を元聖女と呼ぼうと、ズゥシャンだけは名前で呼んでくれるだろうと。自分の恩人である彼が名を呼んでくれるならそれで十分だ。
「話は戻りますが、店主さん曰くチョリスさんは行商人で、仕事が終わるまではこの街にとどまるそうです。ガントさんが家を出るって言いだしたのも、仕事を終えたチョリスさんについて行くためかもしれませんね」
「ええ。それにしても、中心部の方々が思いのほか彼について知っていたことが驚きです」
ズゥシャンの言う通り、街の人はチョリスについてよく知っていた。
彼は行商人のため様々な土地を渡り歩いており、今回ルツェルンに来たのも仕事の一環だったらしい。街の中心部にある宿で生活おり、夕飯はだいたい外食で済ませる。派手な見た目だが、挨拶もきちんとするし高齢者の方からは好印象だそうだ。
この情報だけ見ると、ガントを騙しているという線は薄いように思える。もしも本当に詐欺師だった場合、一般人に泊まっている宿がバレるようなヘマはしないだろう。
「――ナトリさん」
巡らせていた思考を止めてズゥシャンを見る。
「僕はこれからチョリスさんが泊まっているという宿に行ってみようと思います。運が良ければ、夕食のため外出する彼に会えるかもしれませんし。ナトリさんはそろそろ日が暮れてきますので引き上げ――」
「――ませんよ。昨日コイントスで決めたでしょう?」
「ぐっ……」
ナトリの返事を聞いて彼は苦い顔をする。
昨日の出来事、ズゥシャンと行ったコイントスの結果はナトリの勝利で終わった。つまり、「何を言われようとついて行ける」ことになったのだ。
「少なくとも、先生と同じくらいは粘らせてください。帰るときは一緒に帰りましょう」
ズゥシャンはまだ納得していないような顔をしていたが、息を吐いただけで何も言わなかった。
チョリスが泊まっているという宿はそこまで大きくはないが、清潔感のある小洒落たものだった。石造りの外壁には魚の絵が描いてあり、入口には綺麗な文字で宿泊料金を記した紙が貼ってある。値段も良心的なようだ。
ナトリたちは宿の陰に隠れて、チョリスが現れるのを待っていた。しかし出てくる気配は一切なく、ただ時間だけが過ぎていく。もうすっかり日が暮れていた。
ナトリはズゥシャンに目を向ける。どんな者も見逃さないとでも言うように宿の入口を観察していた。
……この真面目さが、街の人に好かれる理由だろうなぁ。
聞き込みをしていた時を思い出す。ルマ以外にも「おでこトカゲちゃん」と呼ばれ、年配の方にとても可愛がられていた。しかし、ただ可愛がられているだけではなく、情報がほしいと言えば彼らはしぶる様子もなく親切に教えてくれた。
きっと孫のように思っているのと同時に、彼のことを信頼し頼りにしているのだろう。狙ってなれる立場じゃない、ズゥシャンの人柄がそうさせているのだ。
……わたしより若いのにすごい立派だ。もし親だったら摩擦で髪が消えるほど撫でると思う。
そう思っていると、宿の入口が内側から開き、見覚えのあるプリン頭が現れる。間違いない、チョリスだ。
「出てきましたね」
「そうですね……あの、先生。まずわたしが先に接触を図ってもいいでしょうか?」
「……危険なので駄目です、と言いたいところですが、何か理由があるのでしょう? なぜです?」
難色を示すズゥシャンだが、一応理由は聞いてくれるようだ。
「彼がもし本当にガントさんを騙していた場合、自分を疑っている人に対してとても敏感なはずです。なので、急に二人で押しかけるよりは女性一人の方が警戒されないと思うんです」
「たしかに、ナトリさんの言う通りですが……」
言葉が切れる。今、色々なことを頭の中で考えているのだろう。綺麗な顔が険しくなってしまっていた。
整った顔立ちのためか冷淡に見えるが、実際は表情がよく変わる素直な子だ。そんな彼は数秒の後に口を開いた。
「…………わかりました。ですが、絶対に危険なことはしないと約束してください。まずいと思ったらすぐに僕も出ますので。いいですね?」
「はい、約束します」
「……こういう時は聞き分けがいいんですから」
彼の言葉に思わず笑ってしまう。まるで母親のようだ。
「よし、では行ってきます!」
「行ってらっしゃい……お気をつけて」
心配そうなズゥシャンを視界に捉えながら、チョリスに向かって一歩踏み出す。
警戒されないように、軽いテンションの女だと思われるように……!
「――ねぇ、そこの金髪のおにいさーん!」
「んぉ? もしかして俺ちゃんに声かけてる感じ?」
「そうそう! おにいさん、この辺じゃ見ない顔だね! どっから来たの?」
「え~? なになに? おねえさん俺ちゃんに興味ある系な?」
「――んッ⁉ あぁ、そうなんだ~! もう興味津々!」
まさか興味があるのかと聞かれるとは思っていなかった。一瞬慌てた声が出てしまうがどうにか立て直す。
「マジ⁉ 嬉しいこと言ってくれんじゃん~! なんでも聞いてちょ! もうぜ~んぶ教えちゃうよ~? だからもうちょいこっち来てくんね?」
そう言ってチョリスはナトリの方に手を伸ばしてきた。それに気付いた途端、少しの恐怖感と嫌悪感に襲われる。
……落ち着け、ここに立つって決めたのはわたしだ。引くな、度胸を見せろナトリ!
己を奮い立たせ、意識して口角を上げた。その瞬間――
「――触れるのはご遠慮ください。彼女は僕の身内です」
――目の前に飛び出た青年の、苛立ちを含んだような声が鼓膜を揺らした。
「せ、先生⁉ なんで……」
ナトリからはズゥシャンの背中しか見えていないため、彼が今どんな顔をしているのかは分からない。しかし、なんとなく怒っている気がした。尾も高く持ち上がっている。
「……え~っと~?」
緊張した空気が流れる中、チョリスが気まずそうに言葉を発する。
「勘違いさせちゃったならマジごめんだけどぉ、不埒なこと考えてたわけじゃなくて、おねえさんが犬のオトシモノ踏まないようにって感じだった系な……?」
「……え」
ナトリとズゥシャンは二人揃って足元に目を向ける。
――そこには犬の糞があった。
チョリスは言葉を濁してくれたが、誰がどう見ても犬の糞だった。
そしてそれは、ズゥシャンの靴によって見事に潰されている。
「あ……」
か細くなってしまったズゥシャンの声が、やけに静かなその場に響いた。