第5話 おでこトカゲちゃんと予想外の懇願
追放先であるルツェルンに到着してから一週間が経った。
話で聞いていた以上に農家が多かったり、王都よりも空気が澄んでいたり、暮らしている人々の心に余裕があったりと、驚くことはたくさんあった。その中でも一番驚いたことと言えば――
「朝日を見て目が痛くない……!」
「それが普通です。ナトリさんは今までが不健康すぎたんですよ。今日もたくさん緑を見て目を労わってあげてください」
「はい」
――しっかり睡眠を取ると、朝日で目が痛まないということだ。
聖女だったころは、朝日を見てから寝ることなどしょっちゅうだった。相当身体を酷使していたんだな、と今なら分かる。これからは大事にしてあげよう。
大きく息を吸い込むと、早朝特有のひんやりとした空気で肺がいっぱいになる。ナトリはこの感覚が好きだった。
背後には三角屋根の二階建て木造家屋――ズゥシャンの診療所がある。素材の色をそのまま活かし、ペンキなどで色を足してもいないシンプルな外観。まだ若いズゥシャンには渋すぎる気もするが、真面目な彼の内面を表しているようにも思える。
これは初日に話してくれたことだが、ここは元々宿だったらしい。オーナーが店を畳むとのことで建物ごと譲ってもらい、改修して今の姿になったそうだ。それを知ると少し広すぎることにも納得がいく。
「もう少し日を浴びたら朝ごはんにしましょうか。手伝っていただけますか?」
「もちろんです先生!」
鶏の声と共に起きて、身支度をして、ズゥシャンと一緒に朝日を浴びる――ルツェルンに来てからの日課だ。朝日を浴びている時は二人で並んで庭に咲いている植物を見たり、その日の仕事の流れを聞いたりと様々である。
……なんていうか、すごいゆっくり時間が流れてる気がする。こんなこと、聖女の時じゃ考えられなかっただろうな。
そう思っていると、少し離れた場所からよく通る声が聞こえた。
「あれ? 先生と元聖女ちゃんじゃないか。朝から仲がいいねぇ」
声の方へ顔を向けると、四十代半ばくらいに見える大柄の女性が手を振っている。
「ルマさん、おはようございます!」
「はい、おはようねぇ」
にかっと笑い挨拶を返してくれる彼女の名はルマ・サリバン。ルツェルンにある雑貨屋の奥さんだ。大きな身長に薄ピンクのエプロン、短めの赤毛はクセが強く、側頭部からは牛の遺伝子を持つ種族――牛人の特徴である角が生えている。
「朝早くからお疲れ様です。配達ですか?」
「違うよ、散歩してるだけ。そしたらあんたたちの姿が見えたから声かけちまったのさ。嫌だねぇ、歳食うと若者に話かけたくなってしょうがないよ」
「あはは、わたしでよければいつでも話しかけてください」
「そりゃ嬉しいねぇ! んじゃ、そうなった時は先生に許可を取らないとだね。大事な助手をお借りしますって」
わはは、と身体同様の大きな声で豪快に笑うルマ。ナトリはまだ数回しか彼女と話したことはないが、言葉の節々から溢れ出る面倒見の良さや竹を割ったような人柄を好ましく思っていた。
何より、元聖女という厄介な前歴をあだ名のように軽く呼んでくれるから助かる。しかし、そう思っているのはナトリだけ。
「ルマおばさん、彼女の名前は『ナトリ』さんだと紹介したでしょう。なぜ前の役職で呼ぶのですか」
ズゥシャンは呼び方に不満があるようだった。咎めるような声音だ。
「なにもあたしだってこの子の名前を忘れてるわけじゃないさ。ただねぇ、名前より前職のインパクトがすごいんだよ。別に悪口言うわけでもなし、可愛いあだ名みたいなもんじゃないか」
「ですが、彼女の――」
「あーあーもー、相変わらず生真面目な『おでこトカゲちゃん』だねぇ」
「おでッ⁉」
たしかに彼の前髪は中央で分けられているため、白くてきれいな額がよく見えている。そのネーミングセンスに納得してしまい、思わずナトリは頷いてしまった。
一方、抗議していたズゥシャンは、ルマの発した「おでこトカゲちゃん」という呼ばれ方に言葉を失っている。その様子を見たルマは笑いながらナトリに近づいた。
「バカが付くほど真面目だけど、根はいい子だからさ。愛想尽かさないで一緒にいてやってよ。ようやく街のみんなも安心できたんだから、おでこトカゲちゃんにも春が来たってね」
「はは……。愛想尽かされるとしたら被用者であるわたしの方だと思いますけどね……」
何を謙遜してんだい、とでも言うようにルマは肘でナトリの腹を小突いた。それを見ていたズゥシャンは頬を赤く染めて口を開く。
「か、からかうのもいい加減にしてください! 次に届ける薬膳弁当の中身、全部辛くしますよ!」
「あちゃ~、可愛い怒り方されちゃったわ。それじゃあたしは行くよ。またね元聖女ちゃん」
「あ、はい! お気をつけて!」
手を振りながら去って行くルマを二人で見つめた。嵐のような人だったな、なんて思っていると、何かを打ち付けるような軽い音が足元から鳴っている。
――ぺちーんッ! ぺちーんッ!
「あの、先生。尻尾が……」
「え、うぁッ⁉」
先ほどの音は、無意識に尾が石畳に打ち付けられたことで発生していた。それに気付いたズゥシャンはすぐさま己の尾を掴む。
「し、失礼しました……」
「いえ、尻尾がないわたしからすると目の保養ですよ」
「貴方までからかわないでください……」
重そうなほど太く、髪と同じ黒鳶色の鱗に覆われたズゥシャンの尾。光沢のあるそれは毎日見ても飽きないほどに美しい。ナトリは、一昨日の朝ごはんの時にズゥシャンが話してくれたことを思い出す。
――僕の種族は蜥蜴人といって、トカゲの遺伝子を持っています。東に位置する大陸で繁栄した種族ですので、この国では珍しいかもしれませんね。
あの日、リラックスした気持ちを表すようにゆっくりと動く尾を凝視していたナトリに、ズゥシャンはそう言ってはにかんだ。そんな彼は今、尾を抱きしめるように持ち、頬の熱が早く引くように深呼吸を繰り返している。
うーん、おでこトカゲちゃんか。ちょっと……いやだいぶ可愛い!
ズゥシャンには言わないが、案外似合っているのかもしれない。
心の中で「おでこトカゲちゃん」という呼び名の可愛さを反芻する朝だった。
◇◇◇◇◇
この一週間で、一日の仕事の流れが少し分かった気がする。
早朝から仕込んだ食材を使って午前中に薬膳料理を作り、それを弁当箱に詰め込んで昼ごろに配り始める。ズゥシャン本人が弁当を配達する姿には驚いたが、患者に手渡しするからこそ声のトーンや顔色で不調が分かりやすくなるのだという。
午後は診療がメインだ。空いた時間は事務仕事に充て、依頼があれば訪問もする。
「――そういえば」
今日は診療が早く終わり、事務仕事がメインの日だった。持っていたカルテを木製のテーブルに置いたズゥシャンは何かを思い出したように口を開く。
「医療服の着心地はどうでしょうか? 確認したのでサイズは問題ないと思いますが、生地が肌に合わないなどありませんか?」
そう言われて自分の姿を見る。今のナトリは王都にいたころのような修道服ではなく、ライトグレーの半袖医療用ウェアを身に纏っていた。その下に着ている黒いインナーは伸縮性があり、裾に余裕があるパンツもゆったりとしていて履きやすい。
「お気遣いありがとうございます。サイズもぴったりで、着心地も最高です」
「それはよかった。実は、僕の服も同じ店から仕入れたんです。ですのでお揃いのようになってしまうかもしれませんが、その点はご容赦いただけると助かります」
「年頃の思春期女子じゃあるまいし、そんなこと気にしませんよ」
ズゥシャンの言う通り、彼も似たような恰好をしていた。違う点といえば色がチャコールグレーなことと、インナーがノースリーブであるため、肘から下の部分が露出しているくらいだろう。
「それにしてもこの服、伸縮性があっていいですよね。このままブリッジとかもできそうです」
「急にやらないでくださいね……。でも、ふふっ、言いたいことはわかりますよ」
このような談笑もずいぶん増えた。
以前からは想像できないほどのどかな時間、正直言うとまだ慣れない。
「あ、外の洗濯物取り込んじゃいますね。今日は天気もいいししっかり乾いたと思うので」
「ありがとうございます、とても助かります」
慣れないといえば、ナトリはこの声にも慣れていなかった。普段は別に何とも思わないのだが、お礼を言う時の優しい声音は別だ。なんというか、そわそわしてしまう。
しかも彼はどんな些細なことにでもお礼を言うのだ。物を取っただけで、洗濯物を取り込むだけで、それこそ彼が作ってくれたご飯においしいと言うだけで――大きなつり目を細めて、嬉しそうに微笑む。
その顔を思い出しながら洗濯物が干してある庭に出ようとした時、ひとりでに診療所の扉が開かれた。そこには、三十代前半に見える金髪の男性が立っている。俯いているため表情は分からないが、ぶつぶつと何か喋っていた。
「えっと……こんにちは、診療希望の方でしょうか?」
「…………ぎだ。ぜったい……だ。そうに決まってる……」
「え?」
――ずるっ。ずるっ。
足を引きずる不気味な音と共に、その男はナトリに近づいてくる。そして、彼女の肩を掴み――
「――詐欺だぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ‼」
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ‼」
「――ナトリさん⁉ 何事ですか⁉ ってアントおじさん⁉」
大声をあげた彼は、ナトリの悲鳴を聞いてすぐに駆けつけてくれたズゥシャンの手によって力ずくで黙らされた。
◇◇◇◇◇
「大変失礼しました。ナトリさん、こちらはアントおじさん。診療所の常連です。アントおじさん、この方はナトリさん。僕の助手です」
「助手さん、さっきは失礼したね。ご紹介いただいたアント・エンガーデンです。行商人だからだいたいルツェルンにいないんだけど家はこの街にあるんだ。よければ驚かせたお詫びに今度遊びに来てよ。娘も喜ぶ」
「ナトリ・グレイといいます。お詫びなんて気にしないください、むしろこちらこそ失礼な態度を取ってしまい申し訳ございませんでした……!」
詐欺だ、と大声をあげた男性――アントとは、この診療所ができてすぐのころからの付き合いだそうだ。そんな方に初手悲鳴とは、やらかしてしまったにもほどがある。
申し訳なさからテーブルを挟んで頭を下げ続けるナトリの前に、湯気を立てた茉莉花茶が置かれた。ズゥシャンが淹れてくれたものだ。アントの前にも同様に置かれている。
「それで――」
ナトリの隣に腰かけたズゥシャンは、茉莉花茶を一口飲んでから口を開いた。
「詐欺、というのはどういうことですか? アントおじさんが騙されたのですか?」
「いや、被害にあったのは僕じゃない。僕の可愛い愛娘……ガントが、ガントが、うッ、うぅぅ……」
思い出しただけで泣きだすほどに辛いことのようだ。詐欺にあったのであれば早めに対処するに越したことはないのだが、この状態の本人を急かすわけにもいかない。ナトリとズゥシャンは顔を見合わせてアントの言葉を待った。
「…………はぁ、取り乱して申し訳ない」
「ゆっくりで構いません、何があったか教えてください。この街に来たばかりのころ、ガントおねいさんにはお世話になりました。僕にできることなら必ず力になります」
「ぽっと出の分際ですが、わたしにも手伝わせてください」
薬膳師という仕事の範疇を超えている気もするが、ズゥシャンだったら話を聞いて力になってくれるから頼ろうと思ったのだろう。彼が築き上げたこの信頼を崩すわけにはいかない。
「あぁ、ありがとう二人とも」
優しそうな垂れ目をもっと垂れさせてアントは微笑んだ。そして彼は茉莉花茶で唇を濡らしてから話を始める。
「僕の娘――ガントはこの街で針子をしていてね、僕が行商でいない間も家を守ってくれているんだ。素直でいい子なんだよ。それが昨日、長かった行商の仕事を終えて帰ったら――」
「…………帰ったら?」
「――『家を出て行く』って言い始めたんだ」
一瞬、思考が停止する。次いで、ナトリとズゥシャンの頭には同じ言葉が浮かんでいた。――だから何だ?
そう思っていると、またもやアントはわっと泣き始める。
「あんなこと言う子じゃなかったんだよ! 理由を聞いてもはぐらかされるし、家には娘が普段選ばないような花が飾ってあるし! あんなの……絶対悪い男に騙されてるに決まってる! 詐欺だよ! うちの娘は可愛いからね! だが僕の言うことなんか聞いちゃくれない! ……でもね、だからこそ、僕はここに来たんだ」
そう言ったアントは勢いよく立ち上がり、挟んだテーブルの上から距離を縮めてきた。急な至近距離にナトリもズゥシャンも驚いてしまう。
「――どうか‼ 娘を唆したどこぞの馬の骨を特定してはくれないか‼ この通りだ‼」
テーブルに額を擦りつけるアントを見て、困ったようにズゥシャンの尾がうねっている。それに気づいたのは、隣に座るナトリだけだった。