第20話 気づいていることに、気づかれている
星も見えない暗闇の中、重たい足を引きずるようにして歩く。
大司教と別れた後、まるで亀のような歩みでナトリは王都医療機関を後にした。
宿舎まで大した距離でないはずなのに、一向に到着しないことに苛立ちを覚える。
脳裏をよぎるのは大司教の言葉。
――出発は明日の早朝。今日は早めに休むように。
……わたし、明日の早朝になったら王都中の人に処女ってバレるのかな。あ、もうバレてるのか。
もっと考えることがあるだろうに、こんなことしか思い浮かばない。ある意味現実逃避だろう。
はぁ、と息を吐き出す。どうしてこんなことになってしまったのか。
わたし、先生と一緒にご飯食べてるだけでよかったんだけどな。
それすら望みすぎだったのだろうか。もしかしたら前世に相当悪いことをしたのかしれない。
乾いた笑いがもれる。その瞬間、
「あ、ナトリさん。お疲れ様です」
今、一番聞きたくなくて、聞きたかった声がした。
どうにか笑顔を貼り付けて、彼に言葉を返す。
「先生もお疲れ様です。今お帰りですか?」
「はい。あの、宿舎までご一緒しても?」
「もちろんです」
ズゥシャンは嬉しそうに隣に並ぶ。尾がゆったりと左右に揺れていた。ちらり、と彼の顔に視線を向ければ、濃い疲労が窺える。
「疲れた顔してますね」
「え、あぁ、そうかもしれないです」
「やっぱり忙しいですか?」
「忙しい、というのも間違っていません。ただ今日は、少し人間関係に疲れてしまいまして」
「人間関係?」
ルツェルンで皆から可愛がられているズゥシャンだ。そんな彼でも人間関係で苦しむことがあるのか、と少し驚く。
「はい。王都医療機関には見回りや警備の騎士がたくさんいるでしょう? あの方々が苦手なんですよ、僕」
――元騎士見習いでしたので。
そう続いた言葉に面食らう。
「き、騎士だったんですか?」
「見習いです、騎士にもなれていません」
眉を下げ、彼は笑う。
「体力がなくて続けられなかったんです。入ってすぐに辞めてしまいました。きっと両親も幻滅したでしょうね。……でも、運よく極東出身の師匠に出会って、薬膳のことを教えてもらって。見習い時代から友人だったエルサンドロにもお世話になって、今の僕があります。一人だったら、とっくの昔に潰れてたんですよ」
ガントを尾行していた時、両親は自分に興味がないと言っていたのはこれが理由か。心の内で納得してしまう。
……そうか。この人は、色んな人に助けられてきたから、今色んな人を助けてるんだ。
そう結論に辿り着くと、不思議と口角が上がる。
「……どうしたんですか?」
「いえ、本当にがんばり続ける人だなぁ……と尊敬の念を抱いてました」
「……からかわないでください」
「からかってないです」
二人の足が同時に止まる。何か特別な理由があったわけじゃやない、宿舎に着いたからだ。
古いが広さはあるその建造物は、右が男性棟、左が女性棟となっている。一つになっているように見えるが、中は繋がっておらず、入口も別々だ。つまり、入り口前のここで別れなければならない。
でも、最後にこれだけは伝えておかなくては。
「初めて会った時にも言ったでしょう――先生の、生き方とか考え方が、わたしは好きなんです」
すると、ズゥシャンは何か言うように口を開いて、はぁ、と息を吐いた。
「貴方は、本当に……もう、」
そう言った彼はナトリの左手を取ると、自らの頬を擦り寄せる。
「――ッ⁉」
予想外の行為に肩が大きく跳ねてしまったが、嫌ではない。されるがままになっているナトリに、彼は優しく問いかけた。
「――気づいてますよね、僕の気持ち」
ぎくり、と身体が強張る。思い出すのは、親指の付け根を噛まれたあの時のこと。
記憶を吹き飛ばすように首をぶんぶん振る。
「いや、全く……!」
「…………本当に?」
――では、気づいてもらえるように伝えますね。
そう言った彼の瞳が、本当の朝焼けのように熱を帯びる。
目が、逸らせない。
「僕は、貴方のそばにいたい。貴方と一緒にご飯を食べていたい。食べたことがないものは食べさせてあげたい――貴方が見る景色の中いたい」
息が、浅くなる。
「もうご存じかもしれませんが、貴方の手を噛んだ行為。あれ、蜥蜴人の求愛行動なんですよ」
「…………あ」
言葉が、出てこない。
かわいそうなくらいに真っ赤な顔で固まってしまったナトリを、彼は笑うこともなくただ愛おしそうに見つめる。
「ナトリさん、僕は――」
「――ちょ、ちょっと待ってください!」
次に来る言葉が分かっているからこそ遮った。だって、この先を聞いたら駄目なのだ。もう、取り返しがつかなくなる。
「…………今日は、その、これくらいで勘弁してください」
どうにか絞り出した降参の言葉。それを聞いたズゥシャンは、目を細めて笑った。
「貴方がそう言うなら待ちます」
「……お手数をおかけします」
拘束されていた左手が解放される。指先まで真っ赤になって、小刻みに震えていた。
「……では、また明日。おやすみなさい」
「お、おやすみなさい……!」
なんてことのない挨拶。
しかしそれが、浮足立ってしまったナトリの心を静める。明日、彼女がズゥシャンに挨拶することはない。その時間はすでに王都を出発しているころだろうから。
ズゥシャンに噓をついてしまった。その事実が、やけに重くのしかかった。




