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ローザ

 ロンドンの下町。


 薄暗い通りを入って行ったところにある、古びた酒場に、その女はいた。

 男たちの下卑た笑い声。お世辞にも治安がいいとは言えない店だったが、女は嫌な顔ひとつせずに働いていた。働き者の美しい娘、まるで泥水の中に咲いた一輪のバラのようだと彼は思った。


「お兄さん、いらっしゃい。ご注文は何にします?」

「ではビールをいただこうか」

 女はローザと名乗った。美しい名だ。まさしくその美貌にふさわしい。彼は一目で恋に落ちた。

 そして、それは、ローザも同じだった。

 この店には、彼のような若い男は他にいなかったから。彼ほどのハンサムな男もいなかった。身なりも下町の男にしては整いすぎていたし、たとえるなら、そう……どこかの田舎の、品のいい貴族の男のように見えた。

 だから、彼が伯爵の息子だとわかったときには、拍子抜けした。と同時に、自分は彼のそばにいていい存在ではないと、直感的に判断した。これ以上そばにいたら、きっと彼のことを好きになりすぎてしまう。実らない恋とわかっていてそばに居続けるのは辛かった。

 でも彼は、そんなローザの身体ごと抱きしめて言った。

「ぼくは君を愛している、どうしようもないほどに。いま、君を失ったら、ぼくは死んでしまう。どうかそばにいてほしい」

 駆け落ちしよう、と彼は言った。地位も名誉もいらない、ほしいのは君だけだと。

「もちろんよ、ポール。あたしもあなたを愛しているわ」

 実を言うと、このとき、ローザのお腹の中には、新しい命が宿っていた。

 だが、妊娠を告げた次の日、彼女のそばにポールの姿はなかった。捨てられた? いいえ、ポールはそんな人じゃない。彼は必ず戻ってくる。


――だって、あの人は、どうしようもないほどにあたしを愛しているんだもの


 そう信じて、ローザはひとり待ち続けた。いや、正確にはふたり、お腹の子どもと一緒に。



***


「ローザ?」

 女主人ミッチェル・キャトレイは、やってきた女を見て思わず目を疑った。随分前に家を出て行ったはずの妹が、まさか、この期に及んで姉の婚家を訪ねてくるとは。

 驚いたのはそれだけではなかった。

「どこに行っていたのかと思ったら、子どもがいるですって?」

 そのとき()()()()()に見えた妹の腹の中には、既に赤ん坊がいるというのだ。相手は旅先で知り合った貴族の男だった。だが、その男は、妊娠を告げた途端に、いなくなっていたのだという。

「あなたは捨てられたのよ。身重の女なんて面倒なだけだって、利用価値のない女だって、きっとそう思われたんだわ」

「そんなことないわ!」

 不安げな姉の言葉を、ローザはぴしゃりと否定した。

「ポールはそんな人間じゃない……そんなことができる人間じゃないもの……姉さんは彼のことを何ひとつ知りもしないくせに。わかったように言わないで!」

「ポール――その男はポールと言うのね?」

「そうよ、ポール・ハイド。イングランド中部のハザセッジ村に住む、オルテンシア伯爵の息子よ」

 相手も貴族の息子となれば、尚の事、妊娠の事実を認めるなんてできなかっただろう。貴族出身の男女が旅の道連れに出会って恋をして、正式な婚姻も終える前に子どもを宿す。世間体が悪いとかの問題じゃない、これはお互いの倫理観にも影響してくる話だ。

「堕ろしなさい。それで何もかもなかったことにするのよ」

 子どもさえいなくなれば、妊娠の事実も、捨てられたという過去も何もかもなかったことにできる。悲しいことだが、それしか方法はなかった。

「この子を殺せって言うの!? ポールの子どもかもしれないこの子を?」

「しかたがないでしょう。それしか方法はないのよ」

「そんなことできないわ。できるはずがない。ポールの子を殺すなんて……あたしとポールの子……ポールだって、そんなの望むわけがないわ……」

「もう、あの男のことは忘れなさい。それが一番いいのよ」

 ミッチェルとしては、それが、妹のことを想った最善の策のはずだった。妹がこれ以上傷つかないようにするためには、きっとこのほうがいいのだと。何もかも忘れて。広いこの世界には、ポール以外にも男は五万といるのだから。

「……姉さんはいつもそうよ。あたしのことを何もわかってくれない。わかっている()()をして、ちっとも寄り添おうとしない。あたしがどんな思いでここまで来たか、姉さん、考えたことある? あるはずないわよね――姉さんはそういう人間だもの! いッつも高みの見物で、あたしのこと陰で馬鹿にしているんだ……面倒ばかり起こしては、厄介事しか持ち込まない、不出来な妹だってね!!」

「わたしは……あなたのためを思って……!」

 ローザは頑なに産むと言って聞かなかった。

 ミッチェルはそんな妹を心配したけれど、追い出すことはしなかった。他に頼るところもない妹が、ここを出て行って何になるだろう? 幸いにも、夫ランスロットは協力的だった。ひとりで産む決意をした義理の妹を、精一杯に支えようとしてくれた。ローザがその好意に気付いていたかは別として。


 公爵邸で過ごすうちに、ローザは、不思議と屋敷での暮らしに馴染んでいった。女中たちともそれなりにうまくやっていたし、医者の経過観察も上々。このまま、ポールのことは忘れて、ここで穏やかに暮らしてくれればいいと、ミッチェルはそう思っていた。

 心身ともにボロボロの状態で訪ねてきた日の頃よりも、ローザは、目に見えて明るくなっていった。女中たちとは他愛もない話で毎日盛り上がり、ミッチェルがチョコレートチップクッキーを焼いた日には、決まってキッチンにやってきてこう言った。

「この匂い、あたしの好物のチョコレートチップクッキー! さすが、姉さんはわかってるわね!」

 そして、クッキーを1枚、口に放り込んで去っていく。毎度のことながら呆れた妹だとは思うが、嫌な気はしなかった。それが少しでも妹の慰めになるのなら、何枚だって焼こうと思った。

 だが、そんなミッチェルのことを、甘やかしすぎだとスウドは言う。

「義姉さんは優しすぎるんです。あの女の傍若無人な振る舞いを見ましたか、既に我が物顔で屋敷を歩き回ってますよ。このお屋敷の主人は兄さんで、女主人は他でもないあなただというのに。あなたはもっと強気に行くべきです――この家の女主人が誰であるか、あの女にはっきり、わからせてやったらいいんですよ!」

「そうは言うけれどね、スウド……わたしはこう思うのよ。あの子には支えてやる人間が必要だって。本当は、あの子だって、逃げ出したくなるくらいに不安なはずだわ。けど生きてる。頑張って耐えてる。だったら、わたしたちも、それに応えてやるべきでしょう? わたしはあの子の、たったひとりの肉親であり、姉なんですもの」

 スウドはそれ以上何も言わなかったが、彼が義理の姉を心配しているというのはミッチェルにもわかっていた。それもわかった上で、ミッチェルは言った。

「ありがとう、スウド。でも、わたしは大丈夫よ」

 いつもは顔色ひとつ変えることのないスウドが、そのとき、ほんの少しだけ顔を赤らめたのは気のせいだろうか? 彼女にはわからなかった。


 月日が経ち、ローザのお腹は、日に日に大きくなっていった。

 ミッチェルもランスロットも心配でしかたがなかったが、もちろんそんなこと口にできるはずもない。ローザの不安を助長させるだけだと、余計なことは言わずに見守っていた。

 あれほど煙たがっていたはずのスウドも、ミッチェルの目があるからなのか、彼女に対して口うるさく言うことはない。それともローザのことを気にかける余裕でもできたとか? だとしたら嬉しいのだけど。


 そして――いよいよ迎えた出産の日。

 ローザの出産のために用意された客人向けの部屋で、公爵家お抱えの医者に取り上げられてマーヤは生まれた。

 待ちに待ったこの瞬間に、ミッチェルもランスロットも、スウドでさえも、手を取り合って喜んだ。間違いなく全員が、この小さな赤ん坊を育てるのを楽しみにしていたと思う。

 それなのに、だ。

 次の日の朝。いつもの部屋に、ローザとマーヤの姿はなかった。机の上には、彼女の書き残した置手紙だけ。


 それもたった一文、


『いままでありがとう。 ローザ』


 出て行ったとわかったときの、絶望はどれほどのものだったことか!!

 なぜ出て行こうとしたのかはわからない。けど、探そうと思った。

 世間知らずのローザが、生まれたばかりの赤ん坊を連れて、たったふたりだけで生きていけるとは思えないのだから。



***


 姉の家を出て行ったローザは、生まれたばかりの赤子を抱えて、ふたたび、酒場に戻ってきていた。

 給仕の合間に赤ん坊の世話をして、仕事が終われば、真っ先に赤ん坊を抱く。酒臭い母親だと思われたかもしれないが、あのまま、姉の家で窮屈な暮らしを強いられるよりは、酒場で母娘ふたり暮らしていたほうが気が楽だった。うまくやっているように見えたとしたら、それは姉の幻想だ。女中たちはみな、ローザを腫物のように扱っていたし、なかでもスウドの視線は汚らわしいものを見るみたいに冷たかった。


 そんなある日のこと、ローザは高熱を出して店を休むはめになった。

 熱は2日経っても3日経っても下がってくれず、往診に来た医者は彼女を黒死病ペストだと診断した。ローザの症状は思った以上に長引いた。もう2週間も店を休んでいる。店の主人は彼女を解雇するほかなかった。働きたい人間はほかにいくらでもいる。ローザにできることは、一刻も早く病気を治すこと、そして新しい職を見つけることだった。

「ごめんね、マーヤ。母さんがペストになんて罹らなければ……」

 ローザはそれでも、赤ん坊の世話だけは怠らなかった。重い身体を持ち上げて。それだけでも辛いはずなのに、マーヤが泣いてぐずればすぐに飛んで行ってあやした。

 しかし、ローザの病気は一向に良くならず、むしろ、日に日に悪くなるばかりだった。

 そんなあるとき、寝床から立ち上がることもままならないくらい具合のひどい日があった。ローザは呼吸困難を訴え、誰か近所の人を呼ぼうとした。そして、ベッドからやっとの思いで這い出して手を伸ばしたところで――力尽きた。

 唯一の心残りはマーヤのことだ。あたしがいなくなって、あの子はどうしているだろう。ちゃんと面倒を見てくれる人がいるだろうか。あの子には、あたしのような思いはしてほしくない。孤独で、みじめで、死にたくなるような思いは。

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