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事故

 伯母さまから、たまには一緒に散歩しよう、と誘われたのは、わたしがここに来てちょうどひと月ほどが経った日のことだった。

「マーヤってば、ここに来てからずっと花の世話に夢中なんですもの。ちょっと寂しかったのよ」

 伯母さまは恨めしそうにそう言う。

「ごめんなさい、伯母さま。でも、お花のお世話をするのはとても楽しかったわ。こんなに立派なお庭は見たことがなくてよ。これ全部、伯父さまのコレクションなんでしょう?」

「ほとんどね。ランスロットは植物が好きな人だったの。旅先で気に入った花を見つけてきては買ってくる人だったわ。おかげで庭じゅうが買ってきた花で覆いつくされてしまって……いまでは手入れするのもちょっとした一苦労よ」

 伯母さまが笑うので、わたしもつられて笑ってしまった。

「でも、そのおかげでわたしは素晴らしい庭園を楽しめているわ」

「まあ。その点はね。でも、お世話するのは大変よ。それはマーヤも痛いほどにわかったんじゃないかしら」

「ええ。痛いほどに、ね」

 ほんとそう。あちこち歩き回ったせいで、もう、毎日筋肉痛だ。

「マーヤもお疲れ様。大変だったでしょう。朝早くからありがとうね」

「ううん。わたしが好きでやっていることだから」

 毎朝早くに起きて花のお世話をするのは大変だけれど、こうやって感謝されるのは悪い気はしない。それに、あの植物たちは、伯父さまの忘れ形見でもあるから。

「ねえ。花のお世話もいいけれど、たまには、伯母さまと散歩しない? ここに来てからというもの、あなたってば、ずっと忙しそうで……せっかくゆっくりお話しできると思ったのに全然叶わないのですもの。

――はい、決定! いまから散歩の時間ね! ほら、行くわよ!」

 半ば強引に腕を引かれて、庭に出た。


 広い庭。

 改めて見ても広い。わかっていたつもりだけれど、お世話のことを脇に置いておいて、ひとつの『鑑賞物』として見るそれはまたいつもとは違ったものがあった。

 美しい花。見事に手入れされた植木。

 一面に広がる景色は色鮮やかで、空気さえ美味しく、どこか心穏やかにさせてくれる。それも、すべてスウドがこれまで一所懸命に世話を焼いてくれていたおかげだろう。


「美しい庭ね」

「ありがとう。自慢の庭なのよ」

 スウドが管理する庭。伯父さまと伯母さまが作り上げた大切な庭。わたしも、この庭を心から誇りに思う。

 ぐるりと見渡すと、視界の端に、ひときわ大きな木が見えた。

 わたしの背よりも、伯母さまの背よりもずっと高い。ひょっとしてスウドよりも大きいんじゃないかしら? いや、屋敷を囲う鉄製の柵よりも大きいかもしれない。それぐらい立派な木だった。

「ねえ、伯母さま、あれは何?」

「ああ。あれはね……ニレの木よ」

「ニレの木?」

 伯母が言葉を続けるよりも先に、わたしは、そのニレの木に向かって駆け出していた。

 もっと近くで見たい。広大な屋敷を空の上から見守るくらいに大きな木。あの木の上から、この広い庭を見下ろせたらどんなにいいだろう。あの木に登ってみようか? 木登りなんてしたことないけれど。生まれて初めての木登りが、あのニレの木になるというのもなかなかのものじゃないかしら。

 木の根元に駆け寄ったわたしは、小さな身体を精一杯に広げて抱きついた。不慣れながらに懸命に登っていると、左手の先が、一本のしっかりした枝の根元に触れる。うん。これならわたしが乗っても大丈夫そうだ。

「よいしょ……っと」

 身体をぐっと持ち上げて枝の上に腰かける。そこから見下ろす景色は、圧巻だった。

 何もかもが小さく見えて、一瞬にして、自分がこの世のすべてを手にしたような不思議な感覚になる。伯母さまの姿も、足元の遥か下のほうで小さくなっていた。

「ああ、マーヤ……危ないわ、降りていらっしゃい。ああ、どうしましょう。もし、あの子の身に何かあったら!」

 伯母さまは血相を変えて叫んでいたけれど、気にしなかった。

「平気よ。しっかりつかまっているもの」

 大体、伯母さまは心配しすぎなのだ。わたしは大丈夫なのに。こんな小さなことまでうるさく言うなんて、まるで孤児院時代の院長先生みたい!!

 ……さて。

 伯母さまのことは置いておいて、もう一度、壮大な景色に目をやる。

 やっぱり素晴らしい。高いところから見える景色がこれほどまでに爽快なんて、わたしは知らなかった。

 目線がいつもより高いところにあって、見える景色も違う。それは、遠い昔、誰かに抱っこされて『高い高い』をされたときの感覚とよく似ていた。

 朧げながらに覚えている。懐かしい景色。わたしはその人の『高い高い』が大好きで、いつも、抱っこをねだってばかりいた。



 忘れもしない。あの人は……。



 そのときだった。

 わたしの視界がぐらりと揺れた。


「マーヤ……!」


 伯母さまの叫び声が響く。

 それが手を滑らせたのだと気づいたときには、既に、わたしの身体は急速な勢いで落下し、今にも硬い地面の上に叩きつけられようとしていた。


(やだ。怖い……!)


 わたしは死を覚悟した。さよなら。短い人生だったけど、幸せだったわ。

 エリオット叔父さまがいて、テオがいて、孤児院のみんなも優しくて、最後に、ミッチェル伯母さまにも会えた。そうよ。それで十分じゃない……?


「う……うぅ……マーヤ……わたしのマーヤ……」

「おばさま?」

 硬いと思っていた地面の上は、思ったよりも柔らかくて。違う、これは地面じゃない、伯母さまの身体の上だ。

 いち早く危険を察した伯母さまが、落っこちるわたしの真下にやってきて下敷きになってくれたのだ。

「……伯母さま。しっかりして、伯母さま。いや、死んじゃいやよ。わたしを守るために死ぬなんて、そんなの嫌!」

 優しい伯母さま。いつだってわたしのことを考えてくれた伯母さま。こんなことで死ぬなんて悲しすぎる。死ぬとしたら、自分の不注意で滑り落ちたわたしのほうなのに。

「マーヤ……だいじょうぶ……わたしは大丈夫だから……ね、そんな顔しないの。女の子は笑うのよ」

 大丈夫、平気だ、と笑う伯母さまが痛々しすぎて見ていられなかった。わたしのせい。なのに、足はすくんで思うように動かない。


 やだ。

 誰か来て。そして伯母さまを助けて!!


 わたしの頭の中に、真っ先に浮かんだのは、スウドの顔だった。

 厳しくて、取り付く島もないスウド。だけど、たったひとりでこのお屋敷の雑務をこなしていて。本当は、伯母さまのことが誰よりも大好きで。実りのない恋だと嘲笑ったこともあったけど、いまは撤回する。

 お願い、スウド、伯母さまを助けて……!!


「奥様!!」


 わたしの願いが通じたのか、スウドは血相を変えて飛んできた。


「奥様、どうかお気を確かに。いま、ローレンス先生を呼びにやります――マーガレット、マーガレットはどこですか! 至急、ローレンス先生を呼んでください! マーガレット!」

 お医者さまが到着するまでのあいだ、スウドは、ずっと伯母さまのそばにいた。片時も目を離さずに。わたしには目もくれなかった。

 まもなくして、お医者さまを呼びに行ったマーガレットが若い男の人と少女を連れて戻ってくる。たぶん、この男の人がローレンス先生なのだろう。スウドと二人、伯母さまを抱えて部屋に運んで行った。

 少女は、ローレンスの助手で、看護婦だった。名はアリサという。

 アリサはわたしに、安心させるように微笑みかけるとそっとささやいた。

「大丈夫よ。先生がいま、伯母さまを診てくれていますからね。あなたもお部屋に戻りましょう。怪我の手当をしてあげるわ」

 アリサがわたしの頬を指差す。そこには、うっすらとだけれど、目立たない傷ができていた。どうも、落ちたときに木の表面の尖った部分に触れて擦りむいてしまったらしい。

 自分の部屋に戻り、アリサの手当を受ける。幸い、わたしの怪我は軽い擦り傷で済んだ。ちょっと痛いけれど、じきに良くなるだろう。

 だけど、伯母さまは……。

「伯母さまは、大丈夫なのよね。生きているのよね」

「落ち着いて、マーヤ」

「これが落ち着いていられるわけないわ! だって……だって、伯母さまは……わたしのせいで……」

 そうよ。わたしが木に登ったまま、ぼうっとしていなければ。手を滑らせていなかったら。

 伯母さまは怪我をせずに済んだ。

 わたしだって、かすり傷ひとつ、しなかったかもしれないのだ。

「大丈夫よ、ローレンス先生は必ず治してくれるわ。とても腕のいい先生だもの」

「だけど……、だけど!」

 伯母さまの無事を、この目で見届けるまでは信じられなかった。もしも、伯母さまの身に何かあったら。

「……失礼します。少しよろしいですか」

「はい?」

 見計らったように、ノックの音が聞こえた。この声はスウド?

「お嬢様、お怪我のほうはだいぶよろしいみたいですね。まったくいいご身分だ。奥様は()()()()に遭ったというのに」

 あんな目……?

「伯母さま、どうかしたの? まさか、助からなかったとか……」

「いいえ。奥様はご健在ですよ」

「なら、どうして……?」

「奥様は、両の足に重い障害を負われました。どうも、あなたをかばって倒れたときの、打ちどころが悪かったようです。ローレンス先生の話では、この先も車椅子を手放すことはできないだろう、ともおっしゃっていましたっけね」

 車椅子。伯母さまが。わたしの……、わたしをかばったせいで。

「だから、私は初めから反対だったんですよ。あの女の娘を引き取るなんてね。まあロクなことにはならないだろうとは思っていましたが、その代償が車椅子生活とは、さすがに重すぎますよ」

 わたしを見る、スウドの目は冷たく険しかった。

「どうしてまた、木に登ろうなどという馬鹿げたことをしようと思ったのです? あなたが木登りなんてしようと思わなければ――そして、うっかり手を滑らせたりしなければ――もしかしたら、奥様はいまもご無事だったかもしれないのに。一生治らないほどの大怪我を負うこともなかったかもしれないのに」

 あなたのせいです、とスウドは、はっきり言った。

「あなたが悪いんです。あなたのような悪い子を、私は見たことがありません」

 悪い子。わたしは悪い子……。

 当然だ。

 わたしは、伯母さまにとって取り返しのつかないほどの怪我を負わせてしまった張本人なのだから。

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